第五十五話 スライム
サバーンという派手な水音が俺の耳を打った。
その音は、頭から真っ逆様に落ち、俺の全身が井戸水の水面を叩いた音にほかならなかった。
水に総身を押し包まれ、水が隈なく、問答無用と言うふうに、身につけている学校の制服に染み込んでくる。
身を切るような冷たさの水と闇とが、心と全身に重くのしかかってくる。
前後不覚の目下、このままじゃまずい! そう直感した俺は、ジタバタ足をばたつかせ、慌てて方向転換を試みる。
その甲斐あって、一瞬後俺は「ぷはぁー‼︎」と水面から顔を出し大きく呼吸した。
右手で額に張りついた前髪を掻きあげ、左手で顔に張りついた水を拭う。
脚を交互に動かしつつ、上の空を仰ぎ見る。
サイクロプスの眼窩のような、はたまた満月のような丸い穴から、かすかに陽光が差し込んでいる。
果たして、俺は井戸の中にいるらしい。
井戸の中は薄暗くてよく見えないが、思いのほか広い……ようだ。
そして、足がつかないくらいの水深があるみたいだった。
と、そのとき、視線の先に、円の中に、月のうさぎよろしく、ひょっこりと黒いシルエットが浮かびあがる。
「夜雲〜! 大丈夫〜?」
逆光で表情こそ窺えないが、その鈴を転がしたような聞き覚えのある声から、井戸を覗き込んでいるシルエットの正体がメアであることがすぐにわかった。
「なんとか〜!」
俺はそう答えると、すかさず自身の身に何が起きたかを考えた。
井戸に背を向けていた俺……のブレザーの襟首を何者かが鷲掴みにして……ものすごい力で井戸の中に引きずり込んだ。
つまり、そうなると、俺を井戸の中に引きずり込んだ犯人も、井戸の中にいるということになる。
俺は、はっとして、首を巡らせ、周囲を透かして見た。
しかし、暗いせいで、俺をこんな目に合わせた犯人の輪郭すら掴めない。
そんな折、メアに炎魔法で井戸の内部を照らしてもらおう、と閃いたちょうどそのとき、何かが俺の右足に絡みついてきた。
「は?」
俺がそう発したその数瞬後、「ぎゃあ!」と発した俺の身体は、有無を言わさずまたぞろ水に押し包まれていた。
水の中で俺は堪らず恐慌をきたしたように絶叫し、身体を一心不乱に捩り、手足をばたつかせた。
が、右脚に絡みついたそいつは、じたばたする俺を押さえつけるかの如く、脚から腿、胴体にまで移動し、結句俺から身体の自由を奪ってしまった。
暗いこと、水の中にいることから目では確認できないが、その右脚に絡みついていた何かは、現在俺に簀巻きよろしく纏わりついているようだ。
そのために、俺の両腿の内側同士はピッタリ膠着し、両腕は左右の肋辺りに密着している。
つまり、先ほどのように水面に顔を出すことは叶わない……。
どうやら、その何かは、俺を窒息させるつもりらしい……。
ふとそう思ったとき、走馬灯さながら、不意に脳裏にメアの言葉がありありと蘇ってきた。
『ええと、たしか、生き物の、特に鹿とか猪とか、あと人間なんかの、大型哺乳類の汗のにおいとか、体温を感知して、忍び寄ってくるのよ』
『もちろん、捕食するために、水中に引きずり込んで、まずは獲物を窒息させるの』
『で、動かなくなった獲物を押し包んで、少しずつ、分解作用のある体液で溶かして、食事をするの』
そうして、俺はピンときた。
この身体に纏わりついて、簀巻きにするように、俺の身体の自由を奪っている何かの正体がスライムなのだ、と。
だが、気がついたはいいが、気がついたところで、このスライムと思しきクリーチャーの拘束が解けることはない。
自慢の膂力を活かして左右の腕を広げてみようとするが、可動域の限界まで腕を広げてみると、その纏わりついている身体は引きちぎれることなく、丈夫なゴムのように伸びて、諦めて俺が腕をおろすと、弛むことなく、元に戻って、再度俺の自由を奪った。
どうにかして、この拘束を解き、再び水面に顔を出さなければ、死んでしまう! と思ったそのとき、あることに気がついた。
どういうわけか、息がまったく苦しくないのだ。
全身を拘束されながら、俺は思わず首を傾げる。
膂力だけでなく、肺活量までもが常人離れしたのだろうか……剣の効果で……。
そう考えた折、ふいとしゃべる雲の言葉が、舞燈籠さながら、まざまざと念頭に去来してきた。
『この剣は『天の剣』。とある海神の所有物じゃ。能力は大きく分けて二つ。まず水のエンチャント。グリップを強く二回握り込むことで、刀身が水の魔力で覆われるのじゃ! 次に海神の力の一端を装備者に付与するという能力じゃ!』
『うーんと、そうじゃな、たしか……怪力、水上歩行、水中でも呼吸ができる、水に触れると微回復するとか、あと、低級から神話級までの水魔法の行使が可能とかだったと記憶しておるんじゃが……』
そうか、俺は、『天の剣』の効果で、水中でも息ができるから、まったく苦しくないんだ!
今の状況の因が腹落ちしたことで、いくらか冷静さを取り戻した俺は、水中で暫時思案する。
メア曰く、スライムは獲物を水中で溺死させたのちに、その獲物を完全に包み込んで、体液で溶かして吸収するのだと言う。
つまり、溺死することのない俺は、スライムに捕食される心配はない。
と言うわけで、俺の命が脅かされるということはないわけだから、焦眉の急は、呼吸を確保するために水面に顔を出すことではなくて、身体に纏わりついて、この身体の自由を奪ってる、スライムをどうにかしなければならないということになるのだろうが……どうしたものか……。
腕を可動域の限界まで押し広げると、スライムの身体は丈夫なゴムのように伸びるが、伸びるだけで、ゴムのように裂けたり、破れたりすることはない。
だから、何か鋭利なもので、たとえば鋏とかで切るしかない……そうだ!
再び、ピンときた俺は、すかさずイメージを膨らませる。
それは、胸部から『天の剣』が筍よろしく飛び出してるイメージだ。
と、その途端、ザクリという小気味のいい音を俺の聴覚がキャッチする。
瞬間、俺は身体を捩り、じたばた暴れ回り、またしても腕を可動域限界まで押し広げる。
そのとき、あたかも金縛りが解けたかのように、俺は身体の自由を取り戻した。
そのまま、頭頂部を上に向けると、勢いよく、イルカさながらに水面から飛び出し、水の上に着地する。
水面を大地のように踏み締められたことに、一瞬瞠目しつつも、なるほど、これも剣の効果か……と考えた俺は、すぐに意識を切り替え、視線を上空へと転じた。
見たところ、水面と井戸の口との距離は七メートルあるかないか。
たぶんいける、と思った俺は、かつて『オロチ村』近くの巨岩の上でバク宙したときのことを思い出していた。
刹那、俺は両足に力を込めて、真上に飛びあがり腕を限界まで伸ばす。
それから井戸の縁を両手で掴むと、自身の身体を引きあげ、草の蔓延る大地をごろごろと転がった。




