第四十五話 状態異常
「はぁー助かった」
麻痺に効くという薬をかけられ、即座にその状態異常から快癒した俺は、おもむろに起き直ると、安堵の溜め息混じりにそう零し、そっと胸を撫でおろそうとした。
ところが、突然、寝耳に水を入れるかのように、「おい、お前!」と頭上から怒ったような口ぶりで男の胴間声が響いてきた。
その声にギョッとして、びくりと肩を跳ねあげた俺は、声のした方向に電撃的に目を向け絶句した。
俺の視線の先、鉄格子の先には、鬼のように恐ろしい顔をした男がいて、怒ったように眉根を寄せていた。
その男の表情を目にして、ヤバイ! と思った俺は、まるで媚びへつらうかのように、その男に対して笑みを浮かべてみせた。
俺の頭にあったのは、目の前の恐ろしい顔の男の機嫌を損なわないように平静を装うという、ある種の生存戦略的な思惑だった。
がしかし、男から発せられるむせ返るような圧力を肌で感じた俺は、緊張からゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
と、まずい、と思った俺を尻目に、その唾を飲み込んだ音を合図に、その男——アメル・ザキオーニが些か眉を開いて、真剣な口調で言葉を口にしてきた。
「どうしてあんな馬鹿な真似をしたんだ?」
至って真面目な物腰で呈されたその疑問を受けて、俺は叱られた子どものようにうつむいてザキオーニから目を逸らすと、ポツリポツリと言い訳を口にした。
「その……つい…カッとなって……。あ、あと、鉄格子にそんな仕掛けがあるなんて知りませんでした……」
俺のその言い訳を聞いて、ザキオーニが釈然としないといった表情で質問を重ねる。
「それは本当か? 本当に鉄格子から電流が流れることを知らなかったのか?」
「は……はい」
ザキオーニの問いに、さながら主人の顔色を窺う飼い犬のような態度で、目を向けながら、自身の無知を肯定する言葉を返す。
ザキオーニは、その言葉を耳に入れると、腕組みをしながら、困ったように、数秒、うーんと瞑目する。
ほどなくして、ザキオーニは目を見開くと、再度、疑問を投げかけてきた。
「ふむ。ということは、他所から来たのか? よく見れば、見たことのない服装だな? どこの出身だ?」
出し抜けに、あまり訊かれたくないこと、特に出身地を訊ねられ、ギクリと面食らった俺は、取り繕った笑顔を面に貼っつけたまま、答える。
麻痺に効く薬をもらったという負い目から、嘘をつくことは心情的に憚られたので、すべて正直に答えることにした。できる限り曖昧な表現で……。
「東方の島国から来ました」
「東方の島国? 異国から来たのか?」
「はい……」
「そうかそうか……。では、どうやってここまで来たんだ?」
「幌馬車に乗って来ました」
「幌馬車か。なるほど。そうか」
嘘をつかずにザキオーニの質問に立て続けに答えていく中で、善人になったかのような清々しい気分になった俺の頭に、ふとある疑問がをよぎった。
「えっと……。その……ちょっといいですか?」
「ん? 何だ藪から棒に?」
「あの、その、俺はいったい何をしてしまったんでしょうか?」
訝しげな顔をしたザキオーニに、そうおずおず訊ねると、ザキオーニがその太い首をフクロウのように傾げて言った。
「それはどういう意味だ?」
どうやら俺の質問の意図を汲み取り損ねたらしい……。
そこで、どういうことかをつぶさに説明することにした。
「いや、そのあなたが衛兵で、俺がここに捕えられているということは、つまり俺が何かよからぬことをしたからだと思うんですが……」
ザキオーニは俺の説明を受けると、目を大きく見開き、納得したかのように左手のひらをポンと拳で打ってみせた。
「おお! そういうことか! お前が何を言っているのかようやく理解できたぞ!」
その言葉を聞いて、安堵した俺はこのまま質問を続行することに決めた。
「それで、俺はいったい何をやらかしたんですか?」
そうして、俺が質問を紡ぐと、ザキオーニが耳を疑うような答えを返してきた。
「うーんと、まず殺人だろ。それと火事場泥棒に、あとあれだスカート捲りだな」
自身の骨ばった太い指で、俺が犯したという罪を数え切ったザキオーニを前にして、「へ?」という言葉が俺の口を突いて飛び出す。
それから、口をぽかんと開けた俺にザキオーニが、水をぶっかけるように言葉をかける。
「何を呆けた顔をしている?」
その言葉を呼水に我に返った俺は、両手をブンブン振りながら、罪を否認する言葉を滔々と口に出して聞かせた。
「いやいやいやいや知らない知らない知らないそんなことしてないしてないしてない!」
必死に両の手を振り、口を動かし、身の潔白を主張する俺を見て、すかさずザキオーニが説き伏せるかのように言葉を浴びせる。
「何? この後に及んで往生際が悪いぞ! 観念しろ!」
その言葉を耳に入れ、心ならずも戦慄した俺は、鉄格子から手を伸ばし、牢屋の前に立つザキオーニのチュニックの裾の辺りを掴んで、涙ながらに自身の無実を主張した。
「信じてください。本当にしてないんです」
そうしたところ、唐突にザキオーニの強張っていた表情が緩み、とんでもないことを俺に向かって言ってきた。
「ああ知ってる。からかっただけだ」
そう言って、恐ろしい笑顔を満面に湛えるザキオーニを仰ぎながら、「な?」と言って、俺が目を剥くと、よほどそれがツボにはまったのか、ザキオーニが「ブフ」と噴飯するような声を漏らした。
その不快極まりない音が俺の耳を打った瞬間、ブチんと俺の堪忍袋の緒が千切れる音が脳裏に響き渡った。
その数瞬後、その音に猛追するかのように、ただちに立ちあがると、怒号を飛ばしながら、怒りに任せて、鉄格子を握り、力を込めて、牢屋から脱出を図ろうとした。
「『ブフ』じゃねぇよ! テメェェェ! 馬鹿にしやがって‼︎ オラァァァ‼︎」
怒髪天を衝いているであろう、そんな俺を見据えて、後ろにさがりつつ、ザキオーニが俺を制止するための言葉を口にする。
「ちょ、おま⁉︎ やめろ‼︎」
ザキオーニの制止の言葉をまるで跳ね除けるように、「うるせー‼︎」と大声を出したその刹那、またぞろ鉄格子に黄色に輝く文字が浮かびあがる。
そして、間髪入れずに全身を稲妻の如くまたしても強い衝撃が駆け抜ける。
「ぎゃあああああ‼︎」
一頻り喉と身体を震わせた俺は、もくもくと白い煙を全身からあげながら、もんどりを打つと、「し、痺れる」と言って、全身をピクピクと痙攣させた。
直後、覆轍を踏んだ俺を見て、呆れたかのような調子でザキオーニが声をかけてきた。
「たく、何してんだ? ちょっと、待ってろ。今、薬をかけてやる」
言うと、ザキオーニは、腰にさげていた皮袋から、オレンジ色の液体の入った小瓶を取り出し、蓋を外して、牢屋の中に手を伸ばして、その液体を小刻みに震える俺の身体に垂らしてくれた。
その液体が服に染み込み、皮膚に冷たい感覚を覚えたその瞬間、全身が橙色の光に包まれ、その生じた光が消えると同時に、俺を苦しめていた痺れが嘘みたいに掻き消えた。
「はぁー助かった」
苦しみから解放された俺は再び起き直ると、再度、同じセリフを口にして、目の前の鉄格子の向こう側に陣取るザキオーニを見据える。
視線がぶつかると、ザキオーニが先ほどまでの緩み切った態度を引き締め直し、臆面もなくこう言ってきた。「もう次はないからな」と。
その言葉を聞いて、お前がふざけたからこうなったんだろ! ということと、一連のザキオーニの行動を見て、どう考えても衛兵が犯罪者に取るような態度ではないよなぁー、ということを思った俺は、再びザキオーニに質問を投げ、自分が犯罪者なのかどうか、をはっきりさせようとした。
「わかりました。すみません。ところで、どうして俺はここにいるんですか?」
下手に出るかのように鹿爪らしい態度を無理矢理取り繕って、そう訊くと、今度はまともな回答がザキオーニから返ってきた。
「保護したんだ。商業組合前の往来で、怪我した人が気絶してるって通報を受けてな」
「怪我? それって……?」
困惑から思いがけず俺が呟くようにそう言うと、ザキオーニが左の人差し指を俺の顔に向けて言い放った。
「お前のことだ。怪我は、俺の同僚の治癒魔法の使い手に治してもらった。それで何があったんだ? 強盗にでも襲われたのか?」
「つまり、俺は何も悪いことはしてない……と?」
ザキオーニの言に、目を見張って、自身が白であることを確認するように反問すると、ザキオーニはこくりと大きく首肯して、「そうだ。事情聴取だけさせてもらったら、あとは自由の身だ。とにかく話を聞かせてくれ」と言った。
「は……はい。わかりました」
ザキオーニから躍り出た言葉を受けて、なんだかスッキリしない想いだったが、聞き取りが終了すれば、この狭い牢屋から出られる、と聞いて、しぶしぶその事情聴取とやらに応じることにした……。




