第二十三話 透明な怪物
蛇蛇蛇蛇蛇蛇蛇ぃぃぃ‼︎
森の至るところに蛇がいる。
視界に広がるのは、そう蛇に塗れた森だった。
長老と別れ『弱虫蛇の森』に入ってからというもの、おびただしい数の蛇とエンカウントするという憂き目を見ることになってしまった……。
歩を進めるたびに次々と目に入り込んでくる大小さまざまな蛇の一匹一匹が、害意を帯びた目を俺に向けてきている気がするのだが、長老から授かった『蛇避けの薬』を首や四肢に塗布したおかげか、蛇どもが直接危害を加えてくることはなかった。
そんな蛇の根城と言っても過言ではない鬱蒼と茂る森には、さまざまな種類の木々がひしめくように生えており、どうやら俗に混合樹林と呼ばれるタイプの森であるようだった。
たくさん蛇がいるということさえ除けば、一見どこにでもある森のようなのだが、森の奥へと進むにつれて、ある違和感が俺の中で徐々に肥大化していっていることにふいと気がついた。
そして、その肥え太ったもやもやを取り除くべく、頭を捻るうちに、その違和感の正体がなんであるかを知った。
それは鳥の鳴き声が、一切聞こえないということだった。
ほかにも森に入って二十分ほど歩いているのだが、モンスターを含め、蛇以外の生き物と遭遇することはなかった。
仮に蛇以外の生き物がこの森にいないのだとしたら、蛇たちはいったい何を食べて生きているのだろうか?
そんなことを考えながら足を運んでいると、不意にぐぅ〜と腹の虫が唸り声をあげた。
「腹減ったな〜」
そう呟き腹をさする。
そうして、思い出す。
この世界に来てから、一切何もパンの一欠片さえも口にしていないということを、異世界のグルメに舌鼓を打っていないということを、はたと思い出す。
「長老に何か食わせてもらえばよかったな〜。てか、長老なんか食わせろよ……。たく、気が効かねぇな……」
空腹で苛立った精神がガソリンとなり、一抹の後悔と長老への怨嗟を排気ガスみたいにぶち撒けながらずんずん歩みを進める。
そんなとき、ふと見た視線の先、木々の枝葉が幾重にも重なるそれらの隙間から『オロチ山』が出し抜けに姿を現す。
ずいぶんと近くまで来たようだ……。
もう少しで山の入り口が見えてくるはずだ……。
しかし、腹が減った……。
この感じだと、山をのぼる途中でぶっ倒れる可能性大だろうな……。
……確実に何か食わないとまずい。
空腹の気持ち悪さに堪える中で、不意にある視線に気がつく。
……蛇の視線だ。
俺の目と鼻の先で、俺を警戒するように睨み据える一匹の蛇と、バチンと視線がかちあった。
すると、その直後、じゅるりという涎を飲み込む音が周囲に響き渡る。
「蛇って食えるんだっけ? 首を落として、皮を剥げば食えるって動画で見たな……。そういえば……」
俺は蛇を見つめながら、そんなことをつらつらと述懐する。
一方、蛇は、蛇に睨まれた蛙のように固まっている。
今この瞬間、この場にいるのは、『人間』と『蛇』ではない。
そう、『捕食者』と『獲物』である。
やるなら今だ! と誰かが頭の中で叫んでいる。
そう思った瞬間、俺は蛇に飛びかかっていた。
身を屈めて、蛇の首根っこをしっかりと押さえる。
蛇の生命を手中に収めた瞬間、「食料確保‼︎」という歓喜を宿した雄叫びが口を突いて飛び出した。
そんな矢先、やにわに俺の高揚感に水を差すように、ブンという空気を切り裂く音を供にして俺の頭上を『何か』が通過した。
続いて、その『何か』が通過したことにより発生した風で、俺の黒髪が疾駆する馬の立て髪が如くなびく。
俺は蛇を鷲掴みにしたまま、瞬時に立ちあがると、周囲に視線を走らせる。
そうすると目に飛び込んできたのは、真っ二つになった木々の無惨な姿だった。
俺がもし身を屈めていなければ、この木々と同じ運命を辿っていたことは言うまでもなかった……。
脳裏に浮かんだおぞましい想像にありつこうとしたのか、背筋を寒気が、あたかも蛇のように這いあがってきた。
そんな折、恐怖や不安でいても立ってもいられなくなった俺は、「何が起きたんだ⁉︎ モンスターか⁉︎」と恐慌をきたしながら辺りをきょろきょろと見渡したのだが、あいにく四辺にはモンスターの影のようなものは見当たらなかった。
モンスターに攻撃されたのか? と思ったが、どうやらそうではないらしかった。
何が起きたのかわからない混乱の中で、なんとなく、素手に握られた俺の『お昼ご飯』に目を向ける。
苦しそうにする俺の『ランチ』を見て、ある考えが脳裏をよぎる。
「祟りか? 蛇を食べようと……したから……」
ゴクリと喉を鳴らし、冷や汗が頬を伝う。そして、瞬く間に、我に返る。
「でも、エルフたちは蛇を食ったり、皮を加工したりしてたらしいしな……。じゃあなんだ?」
小首を傾げながら、目を細めて俺の『昼飯』を繁々眺める。
そのとき、突然、虚空から腹に響くような低い声が、森の静謐な空気を引き裂いて、俺の耳朶へと到達する。
「そいつを……離す……だ。化け物……」
「は?」
出し抜けに鼓膜にさざ波を立てた言葉に、反射的に短く疑問の声をあげる。
「早く……その……手を……離す……だ」
再び低い声がぐるりに響く。
どうやら誰かが俺に話しかけているらしい……。
「だ、誰だ?」
俺が恐る恐る訊ねると、俺の問いかけを無視して、低い男の声で言葉が再び紡がれる。
「我らの……仲間を……邪竜さまの……眷属を……離すだ。化け物……」
邪竜さまの眷属? たしか『弱虫蛇の森』にいる蛇は、元々邪竜の眷属だったみたいな昔話を長老に無理矢理聞かされたような……されてないような……。
曖昧模糊とした記憶を手探りしながら、声のする方向を見据える。
しかし、そこには誰もいない……。
誰もいないはずだったのだが……そいつは何もない空間から、湧きあがるようにして忽然とその姿を現した。
「うわぁぁぁぁぁ‼︎ 出た‼︎」
突如として現れたのは、精悍な顔立ちをした大柄な男……。
手には、巨大なハルバードを携えている……。
唐突に現れた胡乱なその男に目を奪われた俺は、刹那的にある違和感に気がつく。
そう、男の下半身が蛇の尻尾のようになっているのだ。
いきなり現れた半男半蛇の怪物に目を瞬かせていると、驚愕する俺を気にも留めずといったふうに、怪物がその口を開く。
「その蛇を……離すだ!」
蛇と言われ、怪物に向けていた視線を、おもむろに自身の左手に握られた自身の『昼食』へと移動させる。
そうして、しずしずと視線を怪物に戻す。
それから、空腹のせいで霞がかかった脳をフルに働かせた結果、理解する……。
こいつは、そんなもっともらしいことを言って、俺を欺き、俺の『ご飯』を横取りするつもりなのだ、と……。
そして、空腹と疲労で精神に異常をきたしつつあった俺は、あろうことか怪物を蛇蝎を眺めるように見据えると、その怪物を挑発するような疑問をあけすけに言い放った。
「もしも俺が……嫌だと言ったら……どうする?」
俺の問いを聞いた怪物は眉間に皺を寄せると、ハルバードを両手で強く握り締めながら、口を開き、険のある口調で警告してきた。
「おいらの名は……ナーガ! 邪竜さまにお使えしている……ナーガ……だ! その薄汚い手を……今すぐ離すだ! さもねぇと……後悔することに……なる……だぞ!」
薄汚い……手?
その侮辱的な言葉を受けて、胸中に、さながら真夏の茹だる熱気のような感情が、濛々と立ち込める。
「ほう……さっきから聞いてれば……俺の手が……なんだって? それに……この蛇は……俺の血肉になるんだ……わかるか?」
沸々と身内の底から湧きあがる今までに感じたことのないような怒りの熱を、徐々に発散するように苛立ちながら切れ切れに言葉を迸らせる。
「薄汚い手と……言ったんだ……化け物。化け物は……知能が低いから……言葉がわからないだか? それから、そうは……させねぇ……。血肉になるのはお前……。お前を倒し……邪竜さまに……捧げるだ」
どこかたどたどしい癖のある喋り方でナーガと名乗った怪物が、露骨に挑発するように言葉を紡ぐ。
その言葉を受けて、脳内でブチンという何かがぶち切れる音が鳴り響く。
直後、怒りをぶち撒けるように言葉をその怪物へと吐きかける。
「お前って言いやがったな‼︎ 俺の名前はスサ——。いや、夜雲‼︎ 夜雲龍彦だ! 覚えておけ!」
なんだ? スサって? 自分の意思とは関係なく口から飛び出しかけた言葉に、思わず胸中で首を傾げる。
しかし、そんな疑問を振り払うように身体が勝手に、自分とは思えないスピードを出して動く。
頭ではわかっているが、身体が言うことを聞かない。
違和感が身体中を電流の如く駆け巡る。
エルフの村で一悶着起こしたときもそうだが、この世界に来て以来、確実に『何か』がおかしい……。
まるで自分じゃない誰かに身体を操られているみたいだ……。
心の奥にわだかまった違和感の正体を探ろうと試みるが、身体がナーガの間合いに入ったことで、その試みをなかば強引に終了させる。
いつの間にか握り締められた右の拳を、なんの躊躇もなく、ナーガの顔面へと突き出す。
ハルバードのようなリーチの長い武器は接近戦に弱い。
だからこそ、自身の怪力を活かした肉弾戦に持ち込むことで有利に立つ。
唐突に今までの自分では思いつかないような戦略的な考えが頭の中で芽吹き、もしかして異性界に来たことで、眠っていた戦闘の才能が開花し、無意識のうちに身体が独りでに動いたのか? という都合の良い考えが脳内に去来するが、その刹那、なぜか視界にナーガの後頭部が映る。
そうして、視界の端で何かが動き、右半身に衝撃が走る。
「ッ——」
その衝撃をもたらしたものの正体……それはナーガの尻尾の薙ぎ払いによる攻撃であった。
ナーガに一発お見舞いしようとした瞬間、ナーガはその巨体を高速で回転させ、後ろ回し蹴りを繰り出す要領で尻尾を振るったのだ。
さまざまな思考を巡らせていたことが仇となり、ガードもできずにナーガの硬い鱗で覆われた尻尾が、鈍器よろしく俺の身体に炸裂し、その結果、身体が真横に勢いよく吹っ飛ぶ。
それから、数十メートル飛んで太い大木に激突し、苔むしった森の大地にそのままずるずると滑り落ち、思わず全身に走った痛みに悶絶する。
そうして、俺は、痛みで意識を失いそうになりながらも、即座に立ちあがると、間髪入れずにその大木の陰に身を潜める。
そして、その陰からわずかに身体を覗かせ、指を突き出し、ナーガに向かって大声で叫ぶ。
「ウォーターバレット!」
するとすぐに、指先に小さな青白く輝く魔法陣が展開され、魔力の塊がナーガ目がけて射出される。
だが、ナーガの眼前に迫るそれは、あと一歩のところで掻き消される。
ナーガはハルバードを一陣の風を受けた風車が如く高速回転させることで、魔法の弾丸によるその攻撃を相殺したのである。
「な⁉︎」
堪らず驚きの声をあげた俺は、必死で続けざまに、二発、三発とウォーターバレットを射出するが、ナーガが同様の方法でそれらの攻撃を最も簡単に相殺していく……。
「今度は……こっちから……いくだ! 化け物!」
ナーガは大きな声を張りあげ、そう告げると、両手に握られたハルバードを強く握り込む。
と見る間に、握られたハルバードに絡みつくようにして、オーラのような淡い紫色の光が生じる。
その光は次第に輝きを増し、突如として妖怪変化が如く、まったく別の姿へと変貌を遂げる。
紫色の光を纏いキラキラと輝いていた鉄のハルバードが、瞬く間に、紅蓮の炎と漆黒の闇が複雑に混じりあったかのような、煉獄の業火を彷彿とさせる光を湛えた禍々しいハルバードへとその姿を変容させたのである。
その輝きに目を奪われ、心ならずも声を呑む。そうして、背筋を怖気のようなものが駆けあがり、全身が粟立つ。
「……やばい」
そう呟いた瞬間、ナーガが件のハルバードを真一文字に薙ぐ。
その刹那、禍々しく輝く魔法の斬撃が生じ、俺めがけて一直線に魔力の鋭いその塊が飛来する。
その暴力をまざまざ見せつけるかのような恐ろしい光景が目に飛び込んだ瞬間、真横にダイブするようにして這々の体で逃げ出すと、間一髪で、その斬撃を回避する。
それから、うつ伏せの身体を回転させ、仰向けになり上体を起こして、自分が隠れていた大木に目を向ける。
そうすると、大木は横に真っ二つに切断されており、切断された木の幹からはメラメラと魔法の赤と黒をないまぜにしたかのような炎が、踊るようにして揺めきながら生えていた。
あんなのくらったらひとたまりもない! 一旦引こう!
電撃的にそう考えた俺は、ナーガに背を向けて一目散に駆けるが、サンダルと足場の相性が悪いせいで上手く走ることができない。
一方で、俺の逃走を察知したのか、ナーガはそうはさせまい、と言わんばかりに、滑るように動くと、その巨体からは想像も及ばない速さで、木々の間を縫って、俺の正面に回り込み吠える。
「逃がさねぇど! 化け物!」
瞬時に目睫に立ちはだかったナーガを前にして、俺は思わず「チッ」と舌先を打ち鳴らす。
戦うしかないのか……。
先ほど、ナーガの攻撃を受けたことで、冷静さを取り戻しつつあった脳で考える。
武器が、武器が必要だ……。
そう胸中で呟き、思い出す『天の剣』の存在を……。
頭を捻るさなか、そんな俺を待つことなく、ナーガがハルバードを上段に構え叫ぶ。
「くだばれぇぇぇ‼︎ 化け物ぉぉぉ‼︎」
その裂帛の気合いを想起させる言葉を口火に、禍々しい光を湛えたハルバードが、俺の頭、目がけて振りおろされる。
空気を切り裂く音が鳴り、ついで不快な音が静かな森の空気を反古のように破る。
周囲に鳴り響いたのは、肉が裂け、血飛沫が飛び散る音……ではなく、ガキンという金属同士がぶつかる耳をつんざくような鋭い音であった……。
ナーガの目が、大きくぎょろりと見開かれる。
ナーガの濃いブルーの目に映じられたのは、水の魔力をその刀身に宿した一本の剣だった。
そして、その剣でハルバードを受け止めている俺を見据えながらナーガが嬉々として呟く。
「おもしれぇ……化け物だ」
その言葉を受けて、口を開く。
「さっきから化け物化け物って、化け物はてめぇだろうが‼︎」
俺はそう叫びながら、常人離れした自慢の膂力をもって、その禍々しい魔力を湛えたハルバードを弾き返すと、剣の切先をナーガへと向けて言い募る。
「この俺を怒らせたこと! 必ず後悔させてやる! 覚悟しろ! 化け物‼︎」
その腹立ち紛れに紡がれた挑発的な俺の言葉に、ナーガが笑み崩れながら返す。
「受けて……立つだ……。化け物‼︎」




