ひとりの女として・・・元原稿
(一)
暗闇の奥底から幻聴かと思えるような微かな声が聞こえ、やがてそれは次第に現実味を帯びて私の耳に届いてきた。そして、その声に反応したのか、私は深い眠りから揺り動かされるように目覚めた。ただ、寝過ぎた時のように頭が重く、神経の先がぴりぴりとする不快感がある。ぼうっとして意識がおぼつかないし、焦点もはっきりとは定まらず宙に浮いている。そんなぼんやりとした視界の中に浮かび上がった影が、ゆっくりと私に近づいてきた。そして、その影は、やさしい声で私に話しかけてきた。
「気がつきましたか?どう、私の顔が分かりますか?声は?」
白衣姿の中年男性が私の顔を覗き込むように覆い被さり、やつぎばやに聞いてきた。まだ、朦朧とした意識の中にいる私は咄嗟に声もでず、押し黙ったまま見つめ返していた。そんな戸惑いをみせる私を安心させるかのように、柔和な顔つきをしたその男性は軽く私に微笑んで見せた。目の前を塞いでいる顔を眺めながら、私はやっとの思いでくぐったような声を出した。
「ここはどこ?」
「あなたはね、昨日、交通事故に遭われて、この病院に搬送されてきたのですよ。でも、意識が戻ったことだし、もう大丈夫ですよ。よかったねぇ。」
医者は、そう話しかけながら脈を採り、カルテに何やら書き込むと私に顔を向け、満足げに肯いてみせた。
「事故?」
小さく呟いた私の声が聞こえなかったのか、医者はさらに話し続けた。
「ご家族の方が心配して昨日からずっと待っていらしたのですよ、あなたの意識が戻るのをね。あなたの顔を見たら安心なさるでしょう」
「家族、私の家族が来ているのですか?」
家族と聞いて私は気持ちが楽になり、靄付いていた神経が一瞬にしてはっきりとしてきた。
「もちろんですよ。なにしろ大事故でしたからね。警察からの連絡を受けて、すぐに飛んでこられましたよ。ちょっと待っていて下さいね。今、呼んできてもらうから」
医者は傍らにいた若い女性看護師に顔を向けると「鈴木さん、ご家族の方を呼んできてください」と、言った。看護師は「はい」と答え、即座に部屋から出て行った。それを見送るように顔を横に向けると、ピッピッという規則正しい音を発している機械が置いてあり、頭上から垂れている管は、私の腕に点滴をしているのだろうが、まだ、腕の感覚が曖昧でよくわからなかった。私が点滴の管に気をとられているとドアが静かに開き、先程出て行った看護師が、不安な面持ちの中年男女と若い男を伴って入ってきた。この人達は誰だろうと思いあぐねていると、女は私の顔を見るなり「亜矢」と叫び、私のベッドにもたれかかるようにして泣き崩れた。それは、堰を切ったような止めようもない泣き方で、私が口を挟む余地すらなかった。さらに傍らに立ち尽くしているメガネをかけた中年の男も、「ああ、よかった。亜矢。本当によかったなぁ」と肯き、細い黒ぶちのメガネをはずすと、涙をハンカチでぬぐっている。私は唖然としながらも、二人の後ろに立っている若い男の方に目を向けた。その青年は緊張したような硬い表情で私をじっと見つめ、小声で「亜矢」とだけ呟いた。
私は訳がわからず、まるでテレビドラマのワンシーンを見ているように、三人をかわるがわる眺めていた。事故に遭ったと聞かされた直後のことでもあったが、見知らぬ人達が現れてのこの状態に、狐につままれたようで言葉も出なかった。それでも暫くして落ち着きを取り戻した私は、ややかすれたような声を出した。
「すみませんが、どなたかとお間違いではありませんか。私は、あなた方がおっしゃっている亜矢ではありませんわ」
私は平静を取り戻した上で言ったつもりだったが、この一言で泣き崩れていた女は反射的に頭を上げ、驚愕したように顔を引きつらせた。そして、後ろにいる二人の男を振り返った。それから三人同時に狼狽の表情を浮かべて、医者を見た。私も不安になり、医者を見上げた。
医者は一瞬間を置き、やおら中年の男の肩に手をかけると、落ち着きはらった声を出した。
「お父さん、お母さん、お兄さん、事故のせいでお嬢さんの意識が混獨しているだけですよ。まあ、こういうことはよくあることだから、心配なさらなくても大丈夫です。まだ、事故のショックが抜けてないのでしょうね。しかし、無理もありませんよ、あんなに大きな事故に巻き込まれたのですから。ここであまり興奮させては、かえって混乱を招いて、回復を遅らせることにもなりかねません。しばらくの間、お嬢さんをそっとしてあげましよう」
待って、意識の混獨ってどういうことなの。お嬢さんって誰のことを指しているの。私がそれを聞こうと口に出す暇もなく、医者は私の頭をそっと触ると、まるで子供をなだめるような声で言った。
「心配いらないよ、後でまた来るからゆっくり休みなさいね」
「でも、私は」
言いかける私の言葉を遮るように医者は「さあ、皆さん出てくださいね」と、三人を追い立てるように部屋から出て行った。
病室にポツンと取り残された私は、たった今、目の前で繰り広げられたことを反芻してみた。しかし、どう考えても理解できない。心配いらないと言われても、余計心配になってくる。だいたい、あの人達は誰で、何しに来たのかしら。何の説明もなく、あの医者にはぐらかされたようで腹立たしくもあり、また私の中に漫然とした不安感が広がっていった。確か、あの医者は家族を呼ぶからと言ったはずだが、茂や子供達はどうしたのだろう。
私は自分の気持ちを静めるようと、ゆっくりと窓外に目を向けた。雲ひとつない冬晴れの澄んだ青空が、窓枠のキャンバスいっぱいに広がっている。たとえ四角く切り取られた空であっても、心を落ち着かせるには充分であった。軽く息を吐いてから首を戻し仰向けになると、白い網目模様の天井がパズルのように複雑に入り組んで見えた。
私が交通事故に遭ったと、あの医者は言っていた。私はそっと目を瞑り、ここに至るまでの記憶を辿ってみた。
確か、昨日の朝も今日のような冬晴れで抜けるような青空だった。私は夫や子供達を送り出すと同時に、洗濯物を干し始めた。干し終わると気持ちいい日和に誘われて、たまには気晴らしでもしようかと思い立ち、新宿へ行くことにした。それに、先週買ったばかりの黒のパンツを穿いてみるいい機会だったからだ。その上にお気に入りの黄緑色のセーターを合わせて、黒のロングコートといういでたちだった。
西武線の南大塚駅から乗り込むと車内はラッシュ時ほどではないにしろ、都内の大学に通う学生や私のように買い物目当ての主婦達がおしゃべりに夢中になり、結構混んでいた。西武新宿駅に降り立った私は真っ先に宝くじを十枚買った。何となく宝くじを都内で買うと当たる確立がいいような気がして、つい買ってしまうのだ。もっとも、販売枚数が多いから当たりが出るのであって、確率的には川越でも同じかもしれない。枚数をケチるところは当たりそうもないと思っているからだが、それでも、もしかしたらに、一縷の望みを託してみる。宝くじを買った私は、JR新宿駅の東口に向かってゆっくりと歩き出した。私は久し振りに新宿の活気溢れる人々のうねりに飲み込まれながら、Iデパートを目指して歩き始めた。Iデパートのレストランで昼食を済ませ、ぶらぶら歩きながら気に入ったチャコルグレーのセーターと、家族へのお土産にキャラメラソースのかかったお洒落なケーキを買った。デパートを出て西武新宿駅に向かって歩き始めたのは午後三時頃だった。夕食の支度が気になり、自然と足早になった。靖国通りに面した広い横断歩道の前はいつものように人が溢れ、信号が青に変わると同時に人々が一斉に渡り始めた。そして、私もその集団の中にいた。そうだ、車のブレーキ音を聞いたのは歩き出してまもなく、多分、私が歩道の真ん中あたりに差し掛かったときだったと思う。でも、それから以後の記憶は空白のままだった。それでも私は、事故のことを徐々に思い出すことで気持ちが少しずつ落ち着いてきた。交通事故に遭った、それは間違いないことだわ。
それにしても、今、何時頃だろう。この病院は何という病院だろう。私が事故に遭ったことを、家族にちゃんと連絡してあるのだろうか。事故なのだから、当然、警察が連絡しているはずだが。でも、夫の茂がまだ来ないなんてどうしたのかしら。次々と疑問だけが湧きあがるのだが生来の性格なのか、そのうち来るだろうと楽観していた。記憶が甦がえり本来の自分に戻ると、今度は先程、部屋に入ってきた人達のことが急に気になりだした。あの三人の男女はいったい誰なのか。三人して私のことをしきりに亜矢って呼んでいたが、その亜矢という人が私に似ているのだろうか。あの時の事故に巻き込まれた人なのか。でも、それにしてはおかしい。あの医者は二人のことを、お父さん、お母さんって呼んでいた。だが、あの二人はどう見ても私と同じ位の歳にしか見えない。いったい亜矢って誰だろう。私は、またしても疑問に振り回されつつ、睡魔に引き込まれるように眠ってしまった。点滴に入っている鎮静剤が効いてきたのだろう。
「目が覚めましたか。気分はいかがですか?」
気がつくと窓には薄いピンクのカーテンが引かれ、ベッドの上に取り付けられているスポットライトが、私の枕元周辺をぼうっと浮かび上がらせていた。私は「ええ、気分はいいわ」と言って軽く頷き、「今、何時頃ですか?」と、聞いた。意識がはっきりしてから見ると、顔を近づけ微笑んでいる看護師は、まだ幼さが抜けきれていない少女のようだった。
「夜の七時過ぎですよ。よく寝ていらっしゃいましたね。ご家族の方は、今日は安静にとのドクターからの指示で、また明日来るとおっしゃって帰られましたよ。食事は明日の朝食からになりますからね。何かありましたらナースコールを押して下さいね。心配なさらなくても大丈夫ですから」と、看護師はやさしく言い、手馴れた感じで体温を測り、点滴の袋を取り替えて出て行った。
あの看護師は家族が明日また来ると言っていたが、私が寝ている間に茂や子供達が来たのだろうか。それなら、せめて私が目覚めるまで、待ってくれてもいいのにと、茂や子供達に対して愚痴ってみた。それでも、まっ、明日になれば会えるからと思い直し、薄暗い病室の中を見回した。私の心音を伝えていた大きな機械は取り外されている。その代わりベッドの横には小さなテーブルが置かれ、その上に、可愛いらしい花篭とおにぎりのような三角形の赤い時計が置いてあった。
その時計の針は七時二十分を指している。しかし、私の視線は時計のガラスの上で止まり、そのまま凍りついた。三角形のガラスに映し出されていたのは若い女の顔、まるで恐ろしいものでも見たように引きつっている。体が小刻みに震えだし、心臓の鼓動も遠くで波打ち、声を上げることすらできない。瞬間、私の中で時間は凍りつき、ガラスに映し出された女の顔だけを見つめ続けた。
それから、思い出したように息を吐くと、ゆっくり考えた。この若い女は誰なのだろう。何故、ガラスに映っているのだろう。今、このガラスを見ているのは私。そして、この部屋にいるのも私だけ。でも、私じゃない。この女は私じゃない。私であるはずがない。私は四十八歳なのだ。しかも、顔だって違う。私はまだ、夢を見ているに違いないと固く目を閉じ、ひたすら夜が明けるのを待った。しかし、太陽の光が差し込んでも私は錯乱状態のままだった。
「先生、私は白崎亜矢ではありませんわ。この体も私ではありません。私は高原恭子です。本当に高原恭子なのです」
医者を前にして、私は半狂乱になりながらも何度同じことを訴えたかわからない。
「わかりましたよ。興奮なさらないで落ち着いてくださいね。いいですか。あなたは大きな事故に遭われたのですよ。一時的に記憶を失うのは、よくあることなのですからね。あなたのおっしゃる高原恭子さんは、ご存知の方なのですか。高原さんはあなたと一緒に事故に遭われ、お亡くなりました。たいへんお気の毒だと思いますよ。もし、あなたのご存知の方でしたら、きっと、ものすごいショックを受けられたのでしょうね。わかりますよ。そのショックが、あなたの記憶喪失に関わっているのかもしれませんね。しばらく時間はかかりますが、でも大丈夫、きっと、元のあなたに戻れますよ」と、其の度、医者はのんびりとした口調で、しかし、きっぱりと言った。
高原恭子が死んでいる。それは、私の体が変化したこと以上に私にショックを与えた。あまりのショックに気を失い倒れた私は、気がつくと自分のベッドに戻されていた。私が死んでいる事実と私が私でない事実。この不可解な現実から逃れられないのだということを、鏡の中の若い女が示している。それは、自分が人間であることすら疑いたくなるほど、私の思考の範囲を遥かに超越していた。
(二)
亜矢の兄である浩平が初めて顔を見せたのは、私が恭子の死を聞いてから数日後の昼過ぎだった。病室のドアをそっと開けると「亜矢、気分はどう?」と、何気ない調子を繕いながらも声はうわずり、その表情から緊張感が見て取れた。自分が兄だと判別できぬ妹に、どういうふうに声を掛けようか迷った末に、いつものようにと考え過ぎて力みが入ったのだろう。会社を途中で抜け出して来たのか濃紺の背広姿で、手に黒いコートを持っていた。私は無言で、自分の息子よりも若い浩平の顔をじっと見据えた。私にとって、この男は赤の他人でしかない。それなのに親しげに笑いかけてくる浩平に、私は亜矢ではないと突き放せないジレンマがあった。もちろん、その理由はこの体にある。
昨日も母と名乗る泰子が、亜矢の好物だったと思われるチョコクッキーを持って来て、色々と声を掛けてきたが、私は押し黙ったまま横たわり無視し続けた。肩を落とし、寂しげな表情で振り返りながら帰っていく泰子の姿に、後ろめたさを感じないわけでもなかったが、私は亜矢にはなれないのだと、かたくなに拒否していた。ひたすら自分の殻に閉じこもり、誰とも話さず窓外を眺めていた。唯一の慰めは窓から見える空が、あの日と変わらず青く澄み切っていたことだった。いつかあの日に戻れるのだと、澄んだ空が約束してくれているような気がしていた。
そんな私の不安定な精神状態を泰子から聞いていたのか、浩平はベッドの横に折たたんで立て掛けてあったパイプイスを開くと静かに腰を下ろし、私の顔を見ながらゆっくりとした口調で話し始めた。
「亜矢、辛いのだろう?そうだよね。自分が誰だか分からないって辛いよね。俺が亜矢に何かしてやれることがあればいいのだけど」
浩平の腫れ物に触るようなやさしい言葉が、返って私の中に鬱積していた感情のマグマを爆発させた。
「ないわ。何にもないのよ。何にもできないのよ、誰にもね。だから私のことはほっといて」
私は泣きながら声を荒げた。何も浩平のせいではないと分かりつつも、八つ当たりせずにはいられなかった。一度噴出したマグマは、涙と共に止めどなく溢れ出した。私はしばらくの間、布団に顔をうずめてすすり泣いた。こんな形で自分の気持ちを曝け出したことは今まであっただろうか、あまり記憶にはない。それだけ今までの生活がいかに平穏であり、普通だったということだろう。そして、これからもその普通の生活がずっと続くはずだったのに。浩平は黙ったまま辛抱強く、私の気持ちが落ち着くのを待っていた。
浩平に当たることで少し落ち着きを取り戻した私に、「そうだな、本当にそうかもしれないね。俺には今、亜矢が抱えている苦しみを代わりに背負ってやることはできないから。でも、いつでも亜矢のそばにいるから」浩平はそう言うと私の手をとった。
建設会社に勤めて二年目になる浩平は、本社の設計にいるとのことだが残業が多く、帰りはいつも遅いらしい。それでもこの日以来、足繁く見舞いに来ては私のそばに座り、とりとめのない話をしては帰って行った。そんな浩平のやさしさは、かたくなな私の心を少しずつ溶かしていった。そして、私は徐々に諦めという手段を用いて、亜矢を受け入れていった。
入院生活が二週間を過ぎた頃から個室を出て、時々、同じ階にあるデイルームに行くようになった。見舞い客が来たときなどに利用する場所で、丸いテーブルと椅子、それに隅に飲み物の自販機が置いてあるだけの、こじんまりとした殺風景な部屋だった。大部分の見舞客は二階にある喫茶ルームに行くのか、いつも数えるほどの人しかいなかった。私の怪我は全身打撲で全治十日との診断だが、体のほうは一週間もすると痛みもなく、動き回ることに何ら支障はなかった。むしろ精神的な要因が大部分を占めていた。治療も怪我より神経衰弱と記憶喪失のほうに重きをおかれていた。それでも私は浩平のお陰で徐々に落ち着きを取り戻していた。むろん、記憶が戻ることなど永久にないとわかっているのだが。
その日、私は夕食を終えるとデイルームに行った。面会時間はとうに過ぎており、部屋には誰もいなかった。缶コーヒーを買うと椅子に座り、窓ガラスに映る、私を見つめている亜矢をぼうっと眺めていた。すると、後ろで人の気配がしたので振り返ると、ひどく疲れた表情をした中年の女性が、スリッパを引きずるようにゆっくりと歩いてきた。こげ茶色のガウンを羽織ったその女性は、私を見て軽く会釈した。
「ここに掛けてもいいかしら?」
女性は、か細い声で聞いた。
「ええ、どうぞ」
私は隣の椅子を少し横に押しやるようにして言った。女性が「ありがとう」と言いながら椅子を引き寄せると、床を擦る微かな音が、ガランとした部屋ではやけに大きく響いた。
「よかったわ、あなたがいてくれて。一人で部屋にいるとね、あまりの静けさに、このまま時が止まってしまうんじゃないかって怖くなるのよ。変でしょう。きっと病気のせいで神経質になっているのでしょうけどね。あなた、どこか悪いの?健康そうに見えるけど」
女性はそう言ってから、自分の言ったことが可笑しいと小さく笑った。
「あら、私って馬鹿みたい。健康だったら好き好んで入院なんかしないわよねぇ。ごめんなさいね。ああ、いいのよ、言わなくても。おばさんはやぁねぇ、何でもずけずけ聞いちゃって。病気のことなんてあんまり言いたくないものね。これだから、若い人に嫌われちゃうのよね」
私は咄嗟に自分の病名が言えなかった。隠すこともないのだが、交通事故に遭い、記憶喪失になったと言うことには抵抗があった。それは、交通事故はともかく、記憶喪失について私自身認めることができないからだ。高原恭子としての記憶は、はっきりしている。私とって、亜矢としての記憶がないのが当たり前なのだから。もちろん、そんなことが言えるわけがないのは承知している。この人が言うように、今の私は若いのだから。私が戸惑い黙っていると、女性は伏し目になり話しを続けた。
「私はねぇ、癌なのよ。去年の検診で子宮癌が見つかってね、すぐに摘出したのだけど今年に入って再発してねぇ。もう、癌細胞が腹膜全体に広がっちゃてるって言われたわ。だから、きつい抗がん剤を使っているの。新薬らしいけれど、そのせいで髪も抜けちゃったのよね」
女性は極めて平静を保とうと微笑んで見せたが、その口元が歪んでいた。私は突然の告白に驚き、押し黙ったまま女性を見つめた。そう言われると、頭にネッカチーフを巻いている。
「でもね、人生そう簡単に諦めきれないのよね。藁にもすがるって、こんなことを言うんじゃないかしらねぇ。結婚して二十六年、仕事を続けながら三人の子供を育ててきたわ。今まで、がむしゃらに走ってきた人生なのよ。やっと子供の手が離れ、これから夫と二人で旅行をしたり、ずっとやりたかった陶芸を勉強したりして、のんびり暮らせると思っていた矢先、こんなことになっちゃってね。四十八歳じゃ死ぬには早すぎるでしょう?娘たちの結婚だって見届けたいし、出来れば孫だって抱きたい」
女性の声調がだんだんと湿ってきた。四十八歳、私と同じ歳だ。私は咽喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。今の私は同じじゃない。でも、本当の私はすでに死んでいる、早すぎるその歳で。生には常に死が付きまとう。誰でも頭では承知している事実が、いざ自分の目前に衝き付けられたら混乱し、尋常な精神ではいられないのではないだろうか。むろん年齢によって死の受け止め方が違うかもしれないし、それまでの生き方にもよるかもしれない。
私は、この女性に何か言うことなどできるのだろうか。たとえ、若い亜矢でなく恭子であったとしても、何も言うことはできない。彼女の痛み、苦しみは彼女自身の内にあり、私自身ではない。同情や慰めの言葉、ましてや励ましの言葉を連ねても、私は彼女に取って代わることは出来ないのだから。もし、出来ることがあるとすれば、浩平が私に示してくれたように話を聞き、そばに寄り添ってあげることだろう。
「ごめんなさいね、一人で愚痴ってばかりで。若いあなたまで暗くなっちゃうわよね、こんな話。でも、聞いてくれてありがとう。なんだか喋ったら気持ちが軽くなったわ。少し疲れたから、もう寝るわ。おやすみなさい」
女性は来たときと同じように、ゆっくりと歩き出した。
「私は六○二号室ですから、いつでもいらして下さい。おやすみなさい」
私は女性の後姿を追いかけるように声を掛けた。女性は振り返り、にっこりと頷いて立ち去った。
この女性との出会いは、亜矢として生きていく覚悟を私につけさせた。恭子としての私は死んでも亜矢として私は生きている。振り返るとガラスの中の亜矢は私に向けて、真剣な眼差しを投げかけてきた、あなたが亜矢なのだと。
「おはようございます。気分はいかがですか?」
いつもの看護師が朝食をのせたプレートを持って、にこやかな表情で入って来た。
「もう痛みもないし、気分もいいわ」
私は亜矢と呼ばれることを抵抗なく受け入れ、顔馴染みになった看護師に、微笑みを返す余裕さえでてきた。
「それはよかったわ。亜矢さんは若いからすぐに退院できると思うわ。ただ、その前にしっかり栄養とって体力をつけなくてはね。でも、スレンダーな体だから羨ましいわ。私なんか、すぐに太る性質だからいやになっちゃう。もっとも甘いものが大好きで、やめられないからしょうがないけど」と、屈託のない笑い声を残して看護師は出て行った。
私は起き上がりベッドの端に腰掛けると、運ばれてきた煮物と卵焼きの朝食を食べ始めた。私は食べながら、松村静子のことを考えていた。松村静子はデイルームで会った女性で、あれから二度会った。一度目は昼食後、散歩がてらに屋上まで行った帰りにデイルームを覗くと静子が椅子に腰掛け、首を傾げるようにして空を見上げていた。その表情は以前にも増して暗く、かなりやつれていた。そのときは少し世間話をしただけで、座っているのも疲れるからと静子は部屋に引き上げていった。二度目は一昨日の消灯間際だった。私が就寝に備えて歯を磨いていると、ドアが小さくノックされた。私はあわてて口をゆすぐと「どうぞ」と言った。静子はドアを細めに開けると「遅くに、ごめんなさいね。ちょっといいかしら?」と、消え入るような声を出した。
「もちろん、どうぞお入いり下さい。まだ遅いという時間ではありませんし、眠くないから大丈夫ですわ。だいたい九時消灯なんて早すぎると思いません?まあ、病院だからしょうがないけど。ああ、椅子は硬いからベッドに腰掛けませんか?」
私はあわてて掛け布団を丸めると足元に追いやった。静子は「気にしないで」と言い、ゆっくりとベッドの端に腰を下ろした。腰を丸めながら擦る動作が痛々しかった。
「そうよねぇ、九時から朝の六時までって夜がすごく長く感じるのよね。病院中が静まり返って、その中の澱んだ空気が重く沈んでいくような気になるの。きっと不安な気持ちって夜に増殖するのね。どんどん大きくなって息苦しくなっていくのよ。いてもたっても居られないようなそんな気分にさせられるわ。昼は昼でね、窓から外を見下ろすでしょう。そうすると、そこに道行く人達が歩いているの。ただ、それだけのことなのに、今の私には別世界の風景に映ってしまうのよ。あの人達に混じって忙しく動き回っていた頃が、ついこの間のような気がするし、ずっと昔のことのようでもあるわ。もう二度とあの中には戻れないんじゃないかって考えると、どうしようもなくなるの。なんで私がって自分の人生を呪ってみてもしょうがないことなのよね。でも、むなしいの、すべてがむなしい、何もかもが」
静子は私の前で初めて涙を見せ、肩を震わせながら泣いた。私は俯いて泣き続ける静子の横に座ると肩を抱きしめ、声を押し殺して泣いた。その涙には、静子の悲しみと恭子の死の悲しみが溶け合っていた。
あの夜から静子とは会っていなかった。静子の病状が気がかりではあったが、看護師に尋ねるのがはばかれた。看護師は患者のことをむやみに他人に喋ったりはしないだろうし、静子の病気が病気なだけに変に詮索しているようにとられても嫌だった。
母の泰子が来たのは昼前だった。細身の体を包んでいる淡い黄色のセーターが、娘の事故による疲れを呈している泰子の顔に、少しだけ華やいだ雰囲気を添えていた。亜矢のすらりとした体型は、そっくりそのまま母親譲りと言えるだろう。
「今、そこで野田先生にお会いしたのよ。そうしたら明日、退院してもいいとおっしゃったわ。三月三日の雛祭りはご自宅で祝ってくださいねって。よかったわねぇ。ただ、記憶が戻るにはまだ時間がかかるそうだけど、焦らなくてもいいとのことよ。でも、本当によかったわねぇ」
泰子は心底ほっとしたような表情を見せた。
「本当?嬉しいわぁ。実のところ、もう、病院には飽きあきしていたのよ。これで記憶が戻ってくれれば最高なのにねぇ」
私は自分でも白々しいほどの演技力で、泰子の言葉に同調してみせた。戻るはずがない亜矢の記憶。私はこの先、何もない白紙の世界に、足を踏み入れるような恐怖感に捕らわれていた。それは亜矢として生きていく決心に、少なからず揺さぶりをかけていた。
「先生に言われて改めて考えたけれど、雛祭りのお祝いなんて亜矢が中学生の頃からやってなかったわ。子供じゃないんだからって亜矢が嫌がったしね。だから、せいぜい桜餅を買って食べるくらいだったのよ」
「あら、私が嫌がっていたの?思い出せないけれど、きっと粋がっていたんだわ、雛祭りのお祝いなんて子供っぽいってね。ほら、中学生の頃って反抗期でしょう。でも、今考えるとご馳走を食べ損なったってことね」
私が笑いながら言うと、泰子は我が意を得たりというような顔で頷いて言った。
「それでね、考えたのだけど、今年は亜矢の快気祝いも兼ねて雛祭りのお祝いをするのはどうかしら。どう?」
「本当?嬉しいわ。ありがとう、お母さん。それじゃあ、今年はご馳走を食べ損なうことはないのね」
「それでね、雛祭りに詩織さんをお呼びしてはどうかしら。何度もお見舞いにいらしてくれたでしょう。亜矢の快気祝いも兼ねての雛祭りだから。もし、亜矢が疲れていないようなら」
何気ない調子の会話には、私と泰子のお互いに対する遠慮と不安が含まれていた。私を気遣いながら話す泰子には、記憶喪失の娘とどのように対峙すればいいのかとの不安が常につきまとっているようだった。
「詩織を?もちろん大賛成だわ。詩織と話していると、私って友達に恵まれていたのよねってつくづく思うわ。ただ、家族が一番だけれどね」
最後の一言は、亜矢の家族に対しての気遣い。きっと、これが本当の家族ではないということかもしれない。
坂井詩織は私の入院中見舞いに来てくれた、亜矢の中学時代からの親友だった。ただ、入院当初は、私の情緒が不安定との理由で面会謝絶になっていたらしく、初めて会ったのは二週間ほどしてからだった。小柄で童顔な詩織は、とても亜矢と同じ歳には見えなかった。私の記憶喪失について事前に泰子から聞いていたらしく、詩織のことが分からなくてもさほど驚かず、中学時代にさかのぼり亜矢と自分とのことなどを話して帰っていった。詩織はそれから頻繁に来ると、現在、亜矢と一緒に通っている大学のようすなどを、こと細かく報告してくれた。私は詩織の話を聞きながら、過去を思い出すのではなく亜矢の過去を必死に覚えようとしていた。青春がいっぱい詰まっていた亜矢の過去。その過去を私が背負い、未来へと繋げていく。これが、亜矢として生きるということなのだろう。私の身の回りを手際よく片付けている泰子の後ろ姿を漫然と眺めながら、改めて亜矢として生きていくことの意を決した。
「帰ったらすぐに、お雛様を出さなくてはねぇ。今年は何かと忙しかったから、まだ出してなかったのよ。ああ、それからお祝いの準備もあるし、大忙しだわ」
「お母さん、あまり無理しないでね。私の入院で疲れているのだから。そんなに大ご馳走じゃなくてもいいのよ。退院できるだけでも嬉しいんだから」
「大丈夫よ。お母さんだって亜矢が退院するのが嬉しいんだからね。そうそう退院のこと、お父さんが聞いたら大喜びよ。亜矢は、いつ退院するのかって、毎日のように聞いてくるんだから。それに浩平にも早く知らせなくてはね。亜矢のことが気になって、仕事が手に付かないなんて言うのよ。ねぇ亜矢、みんなで亜矢のこと待っているのよ」
「ありがとう、お母さん。それに、みんなにも心配かけちゃって」
「何言っているの。家族だから当たり前じゃない」
私にとっての家族。失われた家族と新しい家族。当たり前だと思っていた家族の風景が、ある日突然、全く違う景色を映し出す。
お父さんや浩平に連絡しなくては、いろいろ準備をしなくては、と言いながら、泰子は気ぜわしく帰って行った。
泰子が帰ってしばらくすると、野田医師が片手を白衣のポケットに突っ込み、にこにこしながら病室に入って来た。
「気分は、どうかな。うん、顔色はいいね。そうそう、お母さんから聞いただろう、明日、退院になったこと。もう、怪我のほうは完璧だよ。それに、気持ちのほうも大分落ち着いてきたようだからね。記憶のほうだって、家に帰れば直に戻るよ。しかし、焦ってはだめだよ。無理せず、のんびり構えてね」
私は、相変わらずのんびりとした口調で話す野田医師を見ながら、自分自身との葛藤に疲れ果てていた頃の私を思い返していた。どうしようもないと悟る前の私を。きっと、常にゆったりと構えてくれている野田医師にも救われていたのかも知れない。
「いろいろと、ありがとうございました。先生のおっしゃるとおり、家に帰ってからゆっくりと思い出すことにしますわ」
演技力の上達は、こんなときにも発揮されている。記憶喪失を直す手立てはあるかもしれないが、もともとない記憶を取り戻すことは不可能なのである。四十八歳の私が、二十歳の娘になった。自分の娘より年下の娘に。ありえない現実を、この人のよさそうな医者にいくら説明しても理解できるわけがない。いや、どんな名医をもってしてもわからないだろう。私自身、ただ、どうしょうもない現実に身を委ねるしかないという状態だった。
「何か困ったことがあったら、いつでもおいで。悩んで落ち込むと、記憶がなかなか戻りにくくなるからね」
「分かりましたわ」
私は、野田医師に笑顔で返答した。
野田医師が部屋から出て行くのを見送ってから、私は病室の窓辺にいすを引き寄せ、五階の窓枠に頬杖をつき、ぼんやりと外を眺めていた。この病院は新宿駅の西口から近いところにある。窓から見上げれば超高層ビル群が林立し、見下ろせば広い道路に車がひしめき合い、並行する歩道には、いつものように人々が行き交い、忙しそうに動き回っている。たった一ヶ月前、私もあの流れの中にいたはずなのに。人々の流れが交錯するように、私と亜矢の人生もここで交錯したのだった。
その日の夕方に浩平が来た。いつもは仕事が終わった夜、こっそりとやってくるのだが、まだ夕食前だった。
「どうしたの、こんなに早く来るなんて。また会社を抜け出して来たの?」
「ひどいなぁ、抜け出したなんて、人聞き悪いじゃないか。いやぁ、お母さんから電話を貰ったから早退したんだよ。明日、退院だって。よかったなぁ、亜矢」
浩平は心底嬉しそうに言い、椅子を引き寄せ座った。
「あら、早退までしなくても、明日から嫌でも一緒に暮らすのに」
私は憎まれ口をたたきながら、言葉とは裏腹に涙が溢れた。私を地獄のような日々から救ってくれたのは、妹思いの浩平にほかならないからだ。
「亜矢、あのとき約束しただろう。いつでも亜矢のそばにいるからって。何も心配はいらないよ」
「ありがとう、お兄さん」
私は泣き笑いの顔で、そう言うのが精一杯だった。浩平は、そんな私の頭をまるで子供にするようになぜ、肩をポンポンと叩いた。
「さあ、亜矢の元気な顔を見たことだし、これから帰ってお雛様を飾るとするよ」
「じぁ、その為に早退したの?」
「まあ、そんなところかな。お母さんが張り切っていたからね。それに、たまには早く帰らなくっちゃね、明るいうちに」
家で待っているよと言い残して浩平は帰っていった。
その日の夜中、私は廊下を気ぜわしく行き来する足音で目が覚めた。胸騒ぎがした私はベッドを降りて窓辺に行き、黒いビロードを敷き詰めたような夜空を見上げた。東京では珍しく多くの星がダイアモンドのごとき瞬きを放っていた。
「お母さぁん」若い娘の泣き叫ぶ声が廊下に響いたのは、それから間もなくだった。
(三)
「亜矢、詩織さんがいらしたわよ。部屋に上がってもらうわね」
泰子が階下から声をかけた。
「ええ、わかったわ」
私は返事をしながら、あわててガラステーブルの上に散乱していた雑誌類を部屋の隅に押しやり、ベッドカバーの端を直した。
亜矢の家は中央線の阿佐ヶ谷駅から歩いて十五分位の、閑静な住宅街の一角にあった。サーモンピンクを基調にした亜矢の部屋は二階にあり、庭に面した窓からは穏やかな冬の日差しが差し込んでいた。明るく華やかな部屋は、そのまま亜矢のもつ雰囲気を醸し出しているのだろう。
詩織は、ライトブルーのジャケットと小さな赤い紙袋を片手に持ち、来慣れた感じで部屋に入って来た。肩まで伸びた巻毛をかるく三つ編みにしていたので、童顔が一層幼く、可憐な少女のようだった。
「この前は雛祭りに来てくれてありがとう。家に戻ってきても何か緊張しちゃってね。まるで他人の家に来たみたいで。記憶がないせいかな。だから、雛祭りでわぁって盛り上がったでしょう。あれでだいぶ不安が消し飛んだわ。詩織のお陰よ」
私は、壁際に並べてあったカラフルなクッションの中から赤い色を選び、詩織に手渡しながら言った。
「そんなぁ、私の方こそ御馳走になって。雛祭りなんて子供の時以来だったから、久し振りに楽しかったわ。それに不安がることないわ。病院の先生も言ってたんでしょう、焦ることないって。亜矢は亜矢よ、大丈夫だって。ああ、それよりね、今日は亜矢にお土産を持って来たのよ」
詩織は赤いクッションの上に座ると紙袋を引き寄せ、中から一枚のCDを出した。
「私達はね、ピーズの大ファンなのよ。だからファンクラブにも入っているの。今までピーズのライブを見に、あっちこっち行ったわ。遠くは大阪まで駆けつけたのよ、すごいでしょう。まあ、追っかけって程じゃないけどね。これね、ピーズの最新CDよ。今度のジャケットもかっこいいと思わない?ああ、お金はいいのよ。プレゼントなんだから」
私は詩織が手渡したCDを見つめた。ピーズのことは私もよく知っていた。娘の眞理が大好きだった歌手だから。やはり、眞理もファンクラブに入り、ライブごとによく出かけていた。会いたい、今すぐにでも会いたい、茂や祐太や眞理に。しかし、この体では会えない。私はふたたび、どうしょうもないジレンマに苛まれ、CDを手に溢れる涙を止められなかった。
「どうしたの、大丈夫?ごめんね、私が無理に思い出させるような物を持ってきて」
詩織は私が急に泣き出したことに驚き、おろおろとして私の肩を抱いた。私は詩織の腕の中に崩れ、ひとしきり泣いた。泣きながら私は、亜矢として生きることの難しさを思い知った。簡単に恭子の過去を消し去ることなどできるはずもなかったのだ。
「詩織、ごめんね。急に泣いたりして驚かせちゃったわね。今の私って、亜矢なのに亜矢を知らないでしょう。だからいつも、何か、もやもやとした不安な気持ちを抱えているって感じなの。そんな不安をどうすることもできなくて、自分で自分を持て余しているって感じだわ。でも、詩織の胸で思いっきり泣いたから大丈夫、もう、落ち着いたわ。ありがとう」
私は詩織から離れドレッサーの前に座ると、涙でくしゃくしゃになった顔をティシュで拭いた。その鏡は、涙に濡れた亜矢の美しい顔を映し出している。
「ところで私、気になっていたことがあるの。ほら大学ことなのだけど、もうすぐ始まるでしょう。それに友達のことも。でも、ちょっと変な気持ちよね、自分のことを他人に聞くなんて。ひょっとして私に彼氏もいたりなんかして」
私は泣いたことへのバツの悪さを隠すようにおどけて言いながら、青いクッションに腰を下ろした。そして、詩織が何か言いかけた時、ドアがノックされた。
「亜矢、コーヒーを入れてきたわ」と言いながら、泰子がお盆にコーヒーと亜矢の好物だというチョコレートケーキをのせて入って来た。
「詩織さん、この間はありがとう。久し振りに楽しい雛祭りができたわ。亜矢だって元気になったし、あなたのおかげですよ。ねぇ、亜矢」
泰子はコーヒーとケーキをテーブルに置きながら詩織を見、そして私の方を振り返った。泰子は、私と詩織が自然に話していることがとても嬉しそうだった。娘が少しずつ、娘に戻っていると思っているのかもしれない。
「ええ、詩織には感謝しているわ。もちろん、お母さん達にもね。後は早く記憶が戻るといいんだけど」
私は最後の語尾を濁らせながら、コーヒーに生クリームを入れかけたがやめにした。甘いケーキにはブラックのほうが合うだろう。詩織は私が記憶の戻らぬことに焦りを感じていると思ってか、笑いながら「大丈夫よ、何たって可愛い親友がついているのだから。私に任せなさいって」と、大袈裟に胸をたたいて見せた。
「本当、心強いお友達がいて亜矢は幸せだわ。では、ゆっくりしていってくださいね。詩織さん」
そう言いながら泰子は部屋から出ていった。それを見送ったあと、詩織は声のトーンを少し落とした。
「亜矢、実はあなたに話そうか、それとも、もう少ししてからにしようかって、ちょっと迷っていたことがあるの。何を聞いても大丈夫?」
詩織は意味深な言い回しをしながら私の顔色を窺っていた。私はすぐに察しが付いたが、自分から口に出すのを少しためらった。亜矢という娘に恋人がいた。美しい亜矢に恋人がいても別に驚くようなことではなく、むしろ当たり前のことなのかもしれない。ただ、これまでは亜矢の存在そのものに意識が集中していた。しかし、亜矢の過去を受け入れざる得ない状況になるのは、必然的だったはずなのだ。家族がいて友達がいて恋人がいる。亜矢の二十年を築いてきた人間関係がそこにある。私は意を決したように頷いてから言った。
「ひょっとして当たり?彼氏がいるのかってこと」
「ええ、ショックだった?」
「いいえ、ただ、自分のことがわからないのに、恋人がいるって言われてもね。ちょっと戸惑ってしまうわ」
「そうよねぇ。ごめん。まだ言い出すべきじゃなかったわ」
「そんなことないわ。彼氏のこと言い出したのは私だし。それに自分のことだもの、何でも知っておきたいのよ。むしろ、詩織に気を使わせちゃったね。で、彼氏ってどんな人?」
私は他人事のように言い放つと、コーヒーを一口飲んだ。ブラックコーヒーが苦味を伴いながら喉の奥を湿らせていった。
「亜矢と彼は高校の時から付き合っていたの。名前は、島村和人。彼は私たちと同級で、クラブも同じテニス部だったのよ。今は慶早大学の医学部に通っているわ。背は高いし、いい男だし、それに何といってもやさしい人よ。もちろん亜矢には特にね。亜矢たちは本当にお似合いのカップルだわ。どう、安心したでしょう」
やはりというべきか亜矢には恋人がいた。そのこと事態は驚くことでもない。美人の亜矢なら当然とも言える。まるで絵に描いたような理想的なカップルだ。しかし、今の私には単に気の重い事実でしかない。
「そうね、ただ、急に彼氏がいたと聞かされても何か実感がわかないわ。もっとも、初めは家族に対しても実感がわかなかったけど。でも、その島村さんって入院中に一度も私のところに来てくれたことがないわ。やさしい人なんでしょう。それなのにお見舞いに来てくれないなんて」
私は会ったこともない島村に対し、多少批難めいたような口調になった。それは無意識のうちに亜矢の彼氏を否定したい自分がいたからだろう。
私は少し冷めてしまったコーヒーを一口飲み、チョコレートケーキを食べ始めた。詩織は私の口調がきつく聞こえたのか少し慌て、間をおくようにコーヒーを飲んだ。
「あら、それは亜矢の誤解なのよ。島村君は亜矢が事故にあったと聞いて、いの一番に駆けつけたんだから。ただ、最初は亜矢が意識不明だったでしょう。そして、その後は記憶喪失だからって面会を断られたのよ。ほら、私も最初の一週間は断られたでしょう。もちろん亜矢のご両親は、島村君と亜矢が付き合っていることは承知しているのよ。それどころか島村君のことを、とても気に入ってたから大賛成だったしね。でも、亜矢の気持ちが不安定だから、落ち着くまで会うのを待って欲しいと、島村君に頼んでたのよ。きっと、ご両親にしてみれば女友達の私ならともかく、彼氏である島村君が、亜矢の前に急に現れたら混乱するんじゃないかって心配したんだと思うわ。島村君だって医者の卵なんだから、第一に亜矢の気持ちを考えたのよ。だから、島村君のことは誤解しないで。彼だって、今すぐにでも亜矢に会いたいと思っているんだから。実は私ね、白状しちゃうと島村君から頼まれているの。亜矢の気持ちが落ち着いたら、僕のことを伝えてくれって」
詩織はここまで一気に喋ると、ふぅと軽く息をついた。詩織は島村から頼まれていた伝言をいつ言うべきかずっと考えていたので、肩の荷が軽くなったような気分だった。やおらケーキ皿に手を伸ばすと、美味しそうにケーキをほおばった。
詩織が帰った後、私はベッドに体を投げ出し、亜矢の彼氏である島村という男のことをいろいろと想像していた。そして、何気なく壁に取り付けてある白い本棚に目がいくと、むっくりと起き上がり、きちんと整頓されている赤い縞模様のアルバムの中から一冊抜き出すと、またベッドに戻って腰掛けた。
退院後、この部屋に入って一週間。きれいに片付いていた亜矢の私物を触ることに躊躇いがあった。それは、亜矢を受け入れることへの躊躇いでもあった。しかし、島村の出現で、私にとって重要な人物が、どんな男か見たくなった。私はアルバムを一ページづつ、丁寧にめくっていった。そのアルバムの中から、島村という男を見つけ出すことは容易であった。亜矢が同じ男性と腕を組んでいる写真が多数見つかったからだ。甘えるように島村の肩にもたれ、指でピースして笑っている亜矢の幸せそうな顔を、私は複雑な思いで見つめた。恋をして幸せ絶頂であったであろう二十歳の娘が、突然、理不尽な死を迎える。そして、四十八歳の女もまた、数奇な運命にさらされている。
私はアルバムを本棚に戻し、ベッドの上に仰向けになった。白い天井の隅のしみが、亜矢が流した涙のあとのように見えて切なくなった。
「今日、詩織さんが来たんだって?」
リビングのソファに深々と座り、コーヒーカップを両手で包み込むようにして飲んでいる私に、遅い夕食をとっていた浩平が聞いてきた。俊治と泰子は、和室でテレビを見ている。
「ええ、私が大好きだったというピーズのCDを持ってきてくれたの。でも、ちょっと変な感じよね。私のことを私より友達がというか、まわりの人達が知っていて、当の本人は何もわからないんですもの。もちろん、記憶喪失だからしょうがないとわかっているのだけど。でも、時々ふっと、ものすごく恐くなることがあるのよ。自分が相手をどう思っていたかわからないことも恐怖だけど、相手が自分のことをどう思っていたのかわからないほうが、もっと恐怖じゃないかって」
「何かあったのか?」
「何かっていうか」
私はちょっと言葉を区切り、少し考えてから言った。
「お兄さんは島村和人さんのこと、知っているんでしょう?私が付き合っていた人らしいんだけど」
今度は、浩平のほうが間を取った。
「ああ、そりゃ知ってるよ。亜矢が高校の頃から付き合っている男だからね。それに、よく来ていたからね。でも、そのこと、詩織さんが言ったのか?」
浩平は箸を止めて、心配そうな顔で私の方を振り返った。最後の語尾が、詩織を咎めるような口調に聞こえたので、私は自然と詩織を弁護するようなかたちになった。
「ええ、でも誤解しないでね。私のほうから聞いたのよ。もし、私に彼氏がいたなら教えてほしいって。だって、自分のことを何でも知っておきたいし、知らなくてはいけないと思うの。特に、付き合っていた人がいたなら尚更ね。むろん、記憶が戻るのが一番だけど」
「亜矢、亜矢は退院してからまだ一週間しかたっていないんだから、焦っちゃだめだぞ。病院の先生にも言われたんだろう。亜矢の人生は、この先まだまだ長いんだから。今度のことだって過ぎてみりゃ、ほんの一時のことだよ。それに、記憶がなくても、亜矢は間違いなく俺の妹なんだからな」
浩平の最後の言葉は、私を安心させてくれた。気負わなくてもいいんだぞって、私を包んでくれているように聞こえたから。病院で打ちのめされていた私を救ってくれたのも、いつでも亜矢のそばにいるからという、浩平の言葉であった。実際には兄がいなかった私だが、兄と妹の関係ってこんなにあったかいんだとしみじみ感じていた。
「浩平、飯が済んだらたまにはやらないか。明日は休みなんだろう?」
和室でテレビを見ていた俊治がリビングのドアからぬうっと顔を出し、指を前に差し出す仕草をしてみせた。
「お父さん、まだ懲りないんですか。無駄な抵抗だと思うけどなぁ」
「何、言ってるんだ。今まではともかく、今日は本気だぞ。覚悟しろよ」
「まあ、しょうがないなぁ。たまには親孝行でもするかな」
私がきょとんとした顔で二人を見比べていると、浩平は笑いながら「将棋だよ。お父さんは俺に負け続けているから勝ちたくて躍起になってるのさ。頭脳プレーで俺を負かすのは無理だと思うけど」と言うと、急いで食事を終わらせた。
その後、和室で俊治対浩平の一局が始まった。俊治の応援はもちろん泰子で、私は必然的に浩平の応援にまわった。
「亜矢、お父さんのほうに付いたら、好きな洋服でも何でも買ってやるぞ」
俊治は久々の息子との一局に上機嫌だった。
「お父さん、買収はよくないよ。もっとも、応援が多けりゃ勝つってもんじゃないけどねぇ。亜矢はどうする?」
これまた、機嫌よく浩平が返す。
「そうねぇ、お兄さんに付くって言ったけど、洋服もかなり魅力よねぇ。どうしようかな」と、私も笑いながら答えると、すかさず泰子が「お父さん、私も欲しい洋服があったのよ。うれしいぃ。亜矢のおかげだわ」と、澄まして言う。
勝敗の結果は、頭脳プレーには自信満々の浩平に軍配があがったが、退院して一週間、家族の団欒に一役かった将棋対決だった。
私の家族。茂や祐太、眞理。長年培ってきた家族の絆があの一瞬で失われ、新しい家族の絆が生まれた。家族の団欒の風景は変わらず、そこにいる家族が入れ変わった。その夜、夢の中に現れた家族は新旧入り乱れ、その中で混乱している私の姿が妙に生々しく感じられた。
(四)
私は、四月一日エイプリルフールの日、阿佐ヶ谷駅前の道を右に入ったところにある喫茶店『夢幻』のテーブルを挟んで、島村と向き合って座っていた。エイプリルフールだということは会うまで意識していなかったが、私の存在そのものが嘘といえなくもない。
この店は初めて浩平に連れて来られた時から、その落ち着いた雰囲気と美味しいモカコーヒーが気に入り、その後、何度か一人でも入ったことがあった。私にとって初対面である島村は、亜矢のアルバムに写っていた島村よりも、少しきつい印象を受けた。もっともアルバムの写真には、愛する亜矢を抱きしめて笑っている島村が写っていたのだから、その表情もやさしいのだろう。しかし、目の前にいる島村は緊張した面持ちで、私を凝視している。男性にしては柔らかい輪郭を描いている顔、奥二重の涼しげな目。その両目から自然な流れですっきりとした鼻へと続く。歌舞伎役者を思わせる瓜実顔に、医者の卵としての知性が加味されている。なるほど詩織の言うとおり、美人の亜矢にお似合いの彼氏だと、私は他人事のように眺めていた。亜矢は島村のどんなところに惹かれていたのだろうか。彼の容姿も惹かれたことの一因だと思うが、それだけではないだろう。初めて会った島村の性格まではまだわからないが。
詩織を介して私に会いたいと島村が言ってきたのは、三月も末の頃だった。
「まだ時間が欲しいなら無理して会わなくてもいいのよ。島村君だって、亜矢の気持ちが落ち着いてきてからでもいいと言ってるから」と、詩織が遠慮がちに聞いてきた。
私は詩織から、亜矢の彼氏の存在を聞かされて以来、いやでも島村のことが脳裏から離れなかった。私にとっては赤の他人である島村だが、亜矢の恋人であることは間違いないのだ。どんな男性か、会いたいような会いたくないような複雑な気分。ただ、このもやもやとした気分をいつまでも引きずっている自分自身がいやだった。この気持ちに決着をつけるには、亜矢の過去の一部である島村と向き合うしかないと覚悟を決め、今日を迎えた。
「亜矢に会ったら言いたいことがたくさんあったけど、どういうふうに言えばいいのか正直戸惑っているんだ。僕にとって亜矢と会えなかった二ヶ月が、どんなに辛く寂しかったか。でも、今日やっと会えてとても嬉しいよ。もう、体の方はいいの?」
島村はぎこちなく言いながらも落着かないのか、両手の置き場を探すようにテーブルの上で泳がせていた。
「ええ、ありがとう。体の方はもういいの。ただ、まだ記憶が戻らなくて。ごめんなさいね。あなたのことも思い出せないのよ。今の私には、家族のことも、友達のことも、そう、過去のすべてが思い出せないでいるわ。だから正直、あなたに今日会うのも怖かったの。あなたが私を、そして私があなたをどんなふうに思っていたのか。そして、あなたとの付き合いがどんなふうだったのか。そうね、扉を開けたらその先がなにもない。足が竦んで一歩が出ない、そんな感じなの」と、素直に答えた。
そして、島村の視線を痛く感じながら、モカコーヒーをゆっくりと口に含んだ。こげ茶色の液体が体のすみずみまで浸透し、私の張り詰めた神経を少しずつ和らげてくれた。私は今日、島村に会う事を承諾したと詩織に伝えたときは、自分の気持ちに整理をつけ、亜矢の過去を引き継いでいく決心をしたと自分を納得させていたが、いざ会ってみるとかなり緊張していたらしい。
「亜矢の記憶喪失のことは、ご両親や詩織からいろいろと聞いてたよ。自分自身がわからない亜矢の苦しみを何とかしてあげたいと、医学書を読みあさっていろいろと調べてみたんだが、亜矢の場合は外科的な原因は考えられないみたいだ。と、なると後は心因性となるんだが。この心因性記憶喪失というのが以外と厄介で、何かのきっかけで簡単に思い出すこともあるし、何年もかかる場合もある。だから僕も僕なりに結論を出してみたよ。僕とのことだけでなく、すべての過去を性急に思い出すことはないと思う。亜矢が思い出そうと思えば思うほど自分を追い詰め、かえって心を閉ざしてしまうからね。だから、僕とのことも詩織と同じように友達として付き合ってくれないか。亜矢が僕との過去が白紙ならば、僕も同じように亜矢との付き合いを白紙に戻すよ。いつか思い出せればいいし、また思い出せなくても出会った頃に戻ればいい。何も無理することはないから。どう?」
「ええ、わかったわ、ありがとう。でも、あなたは本当に友達として私と付き合えるの?私はひょっとしたら無意識のうちに、あなたを傷つけてしまうことがあるかもしれないわ。」
「それは、心配しなくてもいいよ。もしも、昔の僕たちに戻れなくても、僕は一生亜矢の友達でいるから。亜矢がいてくれる。僕にとってはそれだけで充分だよ。そうだ、今度、詩織や雄司を誘ってどこかに行こうか。岡雄司のことは、詩織から聞いてる?僕の中学からの親友なんだけど。高校では同じテニス部で、よく四人で遊びに行ったんだよ」
「岡雄司?いいえ聞いたことがないわ。私の過去については、家族も詩織もすごく気を使っているの。それとなく私の幼い頃の写真を見せたり、食べ物の好みを言ったりするけれど。特に男性のことについては、デリケートなことだからって神経を使っているんだと思うわ。きっと私がショックをおこして、最初の頃のようにパニックになるんじゃないかってね。だから男友達の名前を聞いたのは島村君が初めてよ。ところで、その岡雄司という彼とも私は一緒に遊んでたんなら、当然知ってたのよねぇ」
私が考える仕草をしたのは、その岡雄司が亜矢のアルバムに写っているはずだと思ったからだ。もっとも、アルバムから探し出したとしても、私の記憶にはない男性には違いない。こうやって亜矢の友達を知るたびに、相手の気持ちを詮索しなくてはならないことに気が重かった。その岡雄司が亜矢をどう思っていたのだろうと。
「ごめん、やっと会えたうれしさで、知らず知らずのうちに君を追い詰めてしまったのかな。今の亜矢にとって僕自身が初対面の男なんだよね。雄司のことを急に聞いても無理だよね。彼のことはそのうち話すよ」
島村は、私が押し黙ってしまったことで、自分を責めるような言い方をした。
「いいえ、そうじゃないわ。島村君のせいじゃないのよ。気にしないで。そうねぇ、みんなに会って、お喋りするのも楽しそうだわ。私も岡君に会ってみたいし。そのうち詩織とも話してみるわ」
「本当?でも、無理しないでいいよ。雄司にだって、会おうと思えばいつだって会えるんだから」
「ううん、無理じゃないわ。もう、退院して一ヶ月でしょう。なかなか記憶は戻らないけど、私もそろそろ自分の生活を考えなくてはって思ってるの。いつまでも家に閉じこもってるわけいかないしね。それに、いろんな人達と会ったほうが記憶が戻るかもしれないしね」
「亜矢がそう考えてくれるなら楽しみにしてるよ。それに、雄司も亜矢のこと、とっても心配しているからね」
それからは島村と当たり障りのない話をした後、また会う事を約束して喫茶店を出た。
私は吉祥寺の家に帰るという島村を阿佐ヶ谷駅まで送り、自宅に向かって中杉通りをぶらぶらと歩きだした。四月に入ったとはいえ、冷たい風が、通りを挟んで立ち並ぶケヤキの木々を揺らしていた。私は、今まで会っていた島村との会話を思い返しながら歩いていたせいか、もう少しのところで自転車と衝突しそうになった。そこで、中杉通りから一本横道にそれた所にあった小さな喫茶店に入った。亜矢の彼氏である島村に会ったことで、私の気持ちが少し高揚していたことと、このまま家に戻り、母の泰子と顔を合わせるのが少し苦痛に思えたからだった。泰子は今日、島村に会っていることを知っている。玄関先でさりげなく送り出した泰子だが、私が島村と会ってどうなるか、内心気が気ではなかっただろう。だから家に帰るまでのあいだに、私の気持ちを整理する時間が欲しかったのである。十人ぐらいで満席になる小さな喫茶店は、平日の、しかも中半端な時間帯のせいか客はひとりもいなかった。私は壁にへばりつくように置かれたソファに腰を下ろし、ホットミルクティを注文した。あったかいミルクティは、私の心をときほぐすかのように、ゆっくりと喉もとを過ぎていった。私は目を閉じて、ついさっきまで会っていた島村の表情や言葉などを思い返してみた。その物腰や言葉の端端に感じられる育ちの良さ、亜矢に対する愛情の深さ、親たちも交際を認めていただけあって申し分ない青年だった。私はいつしか二十歳の娘の目ではなく、娘を持つ母親として島村を見ていた。きっと亜矢も島村のことを深く愛していたのだろう。ひょっとすると、精神的だけでなく肉体的にも結ばれていたかもしれない。しかし、今の私は亜矢ではない。亜矢の気持ちを想像することはできても、私の心を亜矢と入れ替えることはできない。そして、いまさら運命の悪戯を呪っても、高原恭子の肉体が死滅し、亜矢の魂が消滅した事実を変えることはできない。恭子である私が、亜矢の肉体と共存していくしか残された道はないのだろう。私なりに新しい亜矢になっていく。新しい亜矢になり、新しい亜矢の過去を作っていく。ミルクティは私を癒すように甘く心に沁みていった。
「亜矢、いいか?」
その夜、浩平が私の部屋に入ってきた。浩平は、妹の部屋でありながら他人の部屋に入るような、遠慮じみた感覚を味わった。
「ええ、どうぞ」
「今日、島村君に会ったんだって?」
「お母さんに聞いたの?なんか言ってた?」
「別に。ただ、ちょっと心配してたんじゃないかな」
「そう。でも、私は大丈夫だから」
「そうだよな。別にどうってことじゃないよね。ただ」
浩平は、そう言いながら私の心情を推し量るように覗き込んだ。
「ただ、何?」
「いや、何でもないよ。でも、今は島村君のこと、あんまり深く考えないほうがいいよ、ゆっくりでいいんだからね」
その言葉は妹を思うあまりなのか、それとも島村に対して軽い嫉妬が含まれていたような気がした。
(五)
ある土曜日、母方の叔母が見舞いに来ることになった。泰子の長姉に当たる人で、横浜に住んでいる濱田幸代だ。その日、俊治は珍しく朝早く起きてきた。一流商社の部長ともなると毎晩遅く、接待のない土日は泰子に起されるまで布団の中にもぐっているが多い。
「あなた、どうしたの?まだ七時前よ」
「いや、ただ目が覚めたんだよ。それに今日は義姉さんが来るんだろう?」
「そうだけど、お姉さんが来るのは午後なのよ。もっと、ゆっくり寝てらしたら」
泰子は、起しもしない俊治が朝早くキッチンに顔を出したのに驚き、あわてて朝食の支度にかかった。私は私で初対面となる叔母がどんな人なのか少し気になり、いつもより早く目が覚めてしまった。白色の薄手のセーターとこげ茶のジャンパースカートに着替えてからキッチンに行くと、俊治は早々とダイニングテーブルの椅子に座り新聞を読んでいた。
「お父さん、おはよう。今日は土曜なのに、どうしてこんなに早いの?」
私は新聞の上から出ている俊治のロマンスグレーの頭を見ながら聞いた。五十三歳の俊治は顔の色艶がよく、頭さえ黒く染めれば、歳よりずっと若く見えるのにと常々思っていた。しかし、部長としての風格はロマンスグレーのほうがあるかもしれない。細い黒縁メガネをはずすと、がっしりとした風貌に似合わず可愛い目をしている。
「おはよう。なんだ、お母さんも亜矢も、私が少し早く起きたことがそんなに珍しいのかな」
俊治は読んでいた新聞をたたんでテーブルの上に置くと、私達の方に目を向けた。泰子は、ほら見なさいとばかりに俊治を見ながら、サラダやスクランブルエッグ、トーストをのせた皿をテーブルの各自の前に置いていった。
「当たり前だわ。いつもは私がいくら起しても、なかなか起きてくれないのに。雨でも降らなきゃいいけれど。あっ、ちょっと亜矢、みんなにコーヒーを注いで頂戴」
「ええ、わかったわ。でもお母さんのいう通りよねぇ。確か天気予報は晴れなんだけど」
私は泰子に調子を合わせながら、ドリップコーヒーを二人のカップに注ぎ、自分のカップにはコーヒーと牛乳を半々に入れ、レンジであたためた。私はこのところ、カフェオレにはまっている。以前はブラックしか飲まなかったのにと自分でも不思議に思っていた。ひょっとすると亜矢が好きだったのか。
「まったく二人して。そうだ浩平はどうした。まだ寝てるのか?」と、分が悪いと思った俊治は、話題の鉾先を浩平に向けた。
「浩平は、あなたに似て朝は苦手みたいよ。とくに昨夜は付き合いで飲んだとかで午前様だったわ。今日は二日酔いじゃないかしら」
泰子は、二階に寝ている浩平を見上げるように天井に目を向けた。浩平は俊治におとらず、いつも帰りが遅い。残業はもちろんだが、それ以上に付き合いが大変そうで、泰子は浩平の体を気にかけていた。俊治はやぶ蛇だったと思ったのか、あわてて話題を義姉の幸代にもっていった。
「ところで、義姉さんは義兄さんと来るんだろう。阿佐ヶ谷駅に着く時間がわかれば車で迎えに行くから、後で電話して聞いてごらん」
「そうね、お姉さん達もそのほうが助かると思うわ」
泰子は食事が終わると幸代に電話をかけるため、サイドボードの上に置いてある電話の前にイスを引き寄せた。長話になることを予知していたのか、後で会うにもかかわらず、泰子は長々と話をしていた。
泰子は幸代との長電話が終わると、リビングのソファに移り、新聞の続きを読んでいる俊治に、「今日、義兄さんは友達と一泊の予定で、山梨のほうに釣りに行くらしいの。だから、行けないのでよろしくとのことよ。それから、お姉さんは午後二時頃阿佐ヶ谷に着くらしいの。新宿から乗る時に電話するから、よろしくお願いしますと言ってたわ」と、伝えた。
浩平が起きてきたのは昼近かった。私が泰子と一緒に昼食を作っていると、パジャマ姿でぼさぼさ頭の浩平がリビングに入って来た。父親似のがっしりとした体格に、泰子からもらった切れ長の目が凛々しく感じられる。
「横浜の叔母さんが来るんだって。亜矢、覚悟しとけよ。うるさいぞ」
昨夜の飲み疲れが顔に出ている浩平は、そう言いながらコッブに注いだ水を飲みほした。
「なんですか、その顔は。それにもうお昼ですよ。早く顔を洗って着替えてきなさい。お姉さんじゃなくても言いたくなるようなことをしているのよ、あなたは」
泰子は浩平を軽く睨んでから、庭に出ていた俊冶を見た。誰に似たのかしらと言いたげな表情だった。
俊治の車からフルーツの籠を抱えて、叔母の幸代が降りたのは二時半近かった。泰子は三人姉妹の末っ子で、幸代は長女だ。五十歳半ば過ぎの幸代は、かなりふくよかな体型をしており、スレンダーの泰子とは対照的だが、切れ長の目やぽっちゃりとした唇が泰子とよく似ていた。
「病院に行かなくてごめんなさいね。でも、思ってたよりも亜矢が元気そうで安心したわ。あんな大事故だったから心配してたのよ。」
太った体をゆするようにして座敷に入った幸代は、私の顔をまじまじと見つめながら機関銃のごとく一気に喋り始めた。なるほど浩平の忠告は当たっている。
「体のほうはもういいの。そう、よかったわね。あのね、記憶喪失のことなら気にすることないわよ。そうそう、前に事故で記憶を失った人のことをテレビでやってたけど、ちょっとしたことがキッカケで思い出すことがあるらしいわ。亜矢はまだまだ若いし。私なんかこの頃、物を取りに二階に上がっていって、何を取りに来たかすぐに忘れる始末よ。まったく嫌になっちゃうわ。だから平気、平気。それより、まずは体が大切よ。たくさん食べて体力つけなきゃ。そういえば亜矢、ちょっと痩せたんじゃない?」
歳による物忘れと記憶喪失を、ごっちゃにして話す幸代のふっくらとした横顔を見ながら、私は同じ姉妹でも性格は大分違うようだと思っていた。
「いいえ、たぶん前と変らないと思いますわ。今日は遠くから来ていただき、ありがとうございました。まだ、記憶喪失が直らないので叔母さまのことが分からないの。申し訳ありません」
私は畳に手をついて頭を下げた。内心、こんなに改まった挨拶をするのは久し振りだと思っていた。
「あらあら、そんな他人行儀な挨拶しないでよ。いいのよ、いつも通りで。ああ、そうか、いつも通りって言っても、今の亜矢にとって私は初対面の人になるのよね」
幸代は記憶喪失の姪を、痛々しそうな表情で見つめた。
「お姉さん、亜矢を傷つけるような言い方をしないでちょうだい。いちばん苦しんでいるのは亜矢なんだから」
ちょうど、お茶と羊羹をお盆にのせて座敷に入って来た泰子は、幸代をたしなめるように語尾を強めて言った。
「お義姉さんは、そんな意味で言ったんじゃないよ。それに亜矢は泰子がそんなに心配するほど軟じゃない、大丈夫だよ。ねえ亜矢」
車を車庫に入れて座敷に入って来た俊治は、姉妹の間をとりもつように割り込んだ。幸代はバツが悪そうな顔で私を見ている。
「亜矢、ごめんね。私はいつも一言多いって主人に言われるの。でも、悪気はないのよ」
「私なら平気ですわ。むしろ叔母さまのように、ごく普通に話してもらえる方がうれしいし。私ね、記憶を取り戻すことに躍起になるのを止めようと思ってるの。そのことだけを考えていると暗くなるでしょう。叔母さまがおっしゃった通り、何かのキッカケを待つことにしているの。それまでは新しい記憶を作っていくことにするわ。詩織もそのほうがいいって賛成してくれたし。お父さんやお母さんには、いろいろと心配かけちゃうけど。でもまあ、私としてはまわりの人達や物が、すべてが新鮮に感じられるのがちょっとうれしいかなって」
私は、笑いながら幸代を見た。実際、幸代との初対面の緊張感をやわらげてくれたのは、幸代の大らかな性格だった。母親だからか性格なのか、泰子は常に私に対して気を使っている。そのことが、亜矢でないことを言えない私をよけいに辛くさせているところがある。泰子の辛さが手に取るようにわかるだけに、どうしょうもない思いに駆られることもあるのだ。
「ところで、今日義兄さんは、一泊で釣りなんでしょう。だったら義姉さんもゆっくり泊まっていけるんでしょう。貰い物の美味い酒があるんですよ。酒のつまみは僕が作りますよ。とっておきの肴があるんだから」
俊冶は座卓の前にどっかりと腰を下ろし上機嫌で言った。
夕食は、俊治のお手製の肴も加わって賑やかだった。お酒の入った幸代は、いつにも増して饒舌になった。
「ところで、浩平は彼女が出来たの。今の時代、彼女の一人や二人いてもおかしくないわよ。何たって浩平は、いい男なんだから」
幸代は横に座っている浩平の端正のとれた横顔を覗き込んでいる。浩平は、やっぱり言い出したかと思っているような表情で、笑いながら聞き流していた。
「お姉さん、浩平は毎晩遅くて彼女が出来る暇なんかないわ。やれ残業だ、付き合いだってね。そうよねぇ、浩平」
頬をうっすらと赤く染めた泰子が浩平の代わりに答えている。泰子も姉と飲んで気がゆるんでいたせいか、浩平に寄りかかるような言い方だった。私はそれを聞きながら、ふっと、泰子がまだ見ぬ浩平の彼女に嫉妬しているのではと感じた。
(六)
新宿の歌舞伎町にある新宿スカイ劇場前は、若者達であふれていた。若手人気俳優のロバート・ロンド主演のアクション映画『アクセス』が今日封切りのせいもあるのだろうが、そうでなくてもこのあたりは常に若者達がたむろっていた。これといった目的もなく座り込んでいる男たちが、歩いている女の子に気軽に声をかけまくり、黒いスーツに身を包んだホストとおぼしき男が、これまた女の子に微笑みかけている。歌舞伎町には獲物を狙う甘い罠が、そこかしこに巧妙に張り巡らせている。そして、その危険な匂いを察知しながらも、その手中に堕ちてしまう女の子達がいる。私は気軽に誘いに乗ずる若い女の子達の際どさを、娘を持つ母親の目線で追っていた。そのとき、後ろから肩をたたかれ、一瞬びくりと体を硬直させた。
「ごめん、待ったぁ」
振り返ると、満面笑みをたたえた詩織の顔があった。ジョーゼットのふんわりしたモスグリーンのスカートと細かいフリルのついた白いブラウスが、詩織をより一層女の子らしく見せていた。ただ、その胸元からのぞく小さな長方形の厳ついペンダントが、不釣合いのような気がした。
「ううん、私も今来たところよ。やっぱり土曜日のせいか混んでるわね」
私は周りに目を配りながら言った。亜矢として初めてきた新宿に、以前とは違う印象を感じていた。新宿は数ヶ月前の新宿なのに、私は数ヶ月前の私じゃない。
「そうね。こんなに混んでると彼らを見つけるのは大変だわ。島村君に電話してみるわ」
詩織は人込みから少し離れると、バックから携帯を取り出してかけた。恭子のときの携帯は、もちろん手元にはない。その代わり、可愛いストラップが付いている亜矢の携帯はあるのだが、電源を切ったまま机の引き出しに仕舞ったままだった。誰からかかってきても、私には分からない人であり、顔が見えず声だけの相手と話すのは、余計に神経が疲れそうだからだ。
話終わった詩織は、携帯をしまいながら、私に手招きをしている。
「島村君達、混んでるから端のほうにいるんだって」
詩織は腕を私の腕に絡めると、映画館の端に連れて行った。島村は私達に手を振りながら「ここだよ」と声を上げた。隣に島村と同じ位の背丈の男が、やや照れたような笑顔で立っていた。
「よぉ、久し振り」
その男は私の肩をポンと叩いて、なれなれしく言った。もちろん私は、今日亜矢の仲間である岡雄司に会う事は承知していたが、咄嗟に声がでなかった。
「おい、雄司、急にそんなふうに言ったら、亜矢が困るじゃないか」
島岡が岡の肘をつついて言う。
「そうよ、亜矢がびっくりするじゃない。亜矢、大丈夫?」
詩織は、私の肩を抱くようにして言った。まるで悪いオオカミから守るように、岡を睨み付けている。
「ごめん、ついついいつもの調子で言っちゃって。ああ、俺、岡雄司って言うんだ。でもさぁ、なんか変な感じだよね、今さら亜矢に自己紹介するなんて。あっ、でも、亜矢のことちゃんと分かっているから」
岡はあわてて言ってから、バツの悪そうな顔を見せた。
「ごめんじゃないわよ、まったく。ぜんぜん分かってないじゃない。亜矢、気にしないでね。雄司って人はいいんだけど、デリカぁシーに欠けるのよね」
詩織は一層語気を強めた。
「大丈夫よ、詩織。岡さん、私のほうこそ、ごめんなさい。なかなか思い出せなくて。でも、思い出せなくても岡さんのこと、もう覚えたわ」
「岡さんかぁ、やっぱり変な感じだよなぁ。いつもは、亜矢に雄司って偉そうに言われてから。でもまあ、ちょっと新鮮かな、岡さんって言われるのも」
岡は、頭を掻きながら、ちょっと照れてみせた。
「そうなんだ。私、あなたのこと、雄司って言ってたのね」
「そうだよ、俺達はみんなそれぞれ名前で呼び合ってたから」
「亜矢、無理することないからね。呼び方なんて問題じゃないんだから。僕達が友達だっていうことに変わりないんだからね」
島岡は私を気遣うように言った。
私は笑いながら「ええ、でも呼び方も慣れよね。わかったわ。これからは偉そうに呼び捨てすることにするわ。ねっ、雄司」と言った。
「さあ、いつまでもこんなところで話し込んでちゃ映画が始まっちゃうわ」
詩織の一言で私達は映画館の中に入った。
『アクセス』は、みんなが私を気遣い、私の見たい映画に決めようと言い出したので、恭子としての私が好きだったアクション映画にしたのでだが、だいぶ経ってから詩織に聞かされたところ、亜矢はラブストーリーが好きだったらしい。
「ああ、腹へったぁ」
映画を見終わって外へ出るなり言い出したのは雄司だった。
「あら、昼食後にハンバーガーやフライドポテトを食べてたのは誰かしら」
詩織はあきれたような声で雄司を振り返った。
「あれは単なる食後のデザートだよ。なぁ、和人」
「まっ、おまえの大食いは昔からだから驚かないけど、医者の卵である僕としては、君の食いすぎは将来的には問題だと思うよ」
「ほら、ごらんなさい。だいたい雄司は食べ過ぎなのよ。小学生じゃあるまいし、育ち盛りは過ぎたんだからね」
詩織も最強の援軍を得たとばかりに雄司につっこむ。
「何言ってるんだ。二人とも長年付き合ってる割には認識不足だぞ。俺の場合は常に頭脳が成長し続けてるんだ。外見ではなかなかわからないが。ほら、能ある鷹は爪を隠すって言うだろう」
「なるほどねぇ、わからないのは外見だけじゃなく、爪を隠しっぱなしだからだわ」
「やだなぁ、詩織はまだ俺に対する認識が甘いよ。和人ならわかるだろ、親友としてさぁ」
雄司は男同士の友情を期待するように和人を見た。
「そうだなぁ。俺が分かるのは、この頃雄司の腹が少し出てきたことくらいかなぁ」
私は三人の掛け合い的な会話を聞いて吹き出してしまった。
「ほら、お前達のおかげで俺の印象が悪くなったじゃないか。亜矢、思い出したら俺が実にいい男だったかわかるぞ。あっ、でも焦らせてるわけじゃないからな」
「雄司のことなら思い出さなくてもわかる気がするわ」
「それって、俺が単細胞だってこと遠回しにいってないかぁ」
雄司とは初対面であったが、気軽に名前で呼べるようなさっぱりした性格だったし、名前で呼び合うことで彼らに仲間入りできたような気がした。雄司も長身の和人と同じくらいの背丈だが、小学生の頃から習っていたという剣道のせいか、がっしりとした肩幅で和人よりも男っぽい印象だった。
時間は四時半を少し過ぎていたが、新宿の街にとってはまだまだ昼の顔である。夜の顔に染まるのは闇のカーテンが降りてからになる。
「四時半かぁ、飲むにはちと早が、居酒屋なら料理も色々あるだろうし、なんたって雄司が餓死しないで済みそうだからね。どっかいいとこ知ってる?」
和人は腕時計を見ながら周囲を見回している。
「それじゃあ、私の知ってるお店にいかない。豆腐料理専門の居酒屋だけど、もう開いていると思うわ。そこの湯葉チャーハンは最高なんだから」と詩織が言い出した。
「湯葉チャーハンか。うまそうだなぁ。聞いただけで腹の虫が鳴いてるよ。亜矢はどう」
雄司はすぐにでも食べなきゃ死にそうな声を上げた。
「そうね、じぁ、雄司が倒れる前に行きましょう」と同意しながら、その言い方があまりにも切羽詰まっていたのが可笑しかった。
私達は歌舞伎町から西口に向い、ガード下をくぐりぬけると青梅街道に沿ってぶらぶらと歩いて行った。詩織推奨の居酒屋は、横道に少しそれた所のビルの地下にあった。『ほのか』という居酒屋は名前の通り、店全体にのほほんとした家庭的な空気が流れていた。私達が入った時間が早かったので他に客がいなかったせいかもしれない。私達は、座敷の一角を陣取るとまずはビールを注文した。
ビールが運ばれてくると和人は「亜矢とこうしてまた四人で出かけられるようになったことに乾杯しよう」と言い、グラスを上げた。
「乾杯」
4人はグラスを軽く合わせてからビールを喉に流し込んだ。喉元を過ぎる冷たいビールの感触が、私の中心に沁みていくようで心地よかった。ただ、亜矢を演じている私は、亜矢が飲めるのか分からなかったので、一口飲んでから「おいしいわ。でも、私って飲めたのかしら」と、隣に座っている和人に確かめてみた。
「そんなに強くはなかったけど、亜矢のお父さんやお兄さんはかなり飲むから遺伝的には強いんじゃないの。大丈夫だよ、今日は亜矢が倒れても僕が責任もって送るから」
その眼差しを痛いほど感じながら、この和人の思いに答えられるのだろうかと考えていた。きっと、亜矢を好きで好きでたまらないほど愛していたに違いない。そして亜矢もまた。
「心強いよね、亜矢。何たってお医者さんの卵がそばに付いているんだもの。じぁあ、今日はじぁんじぁん飲んで男性陣に介抱してもらおうかな。」
コップを半分ほどあけていた詩織は残りを一気に飲み干した。童顔の詩織だがお酒はかなり強いらしい。
「そうね、じぁ私も頑張って飲もうかな」
私は恭子としてもそんなに強くはなかったが、酔うと陽気になるたちである。
「今日は女性陣が危ないぞ。おい和人、こりゃお守りをさせられる前に、こっちが酔いつぶれるしかないな。何たってかなり重そうだからな」
雄司は、私と詩織をかわるがわる見て笑った。運ばれてくる料理とビールの大部分は、次から次へとお腹がすいたと喚く雄司の胃袋に消えていった。私と詩織は、雄司がかなりのハイピッチで皿やコップを空にするのを感心したり驚いたりしていた。私の中に芽生えた仲間意識と少しのお酒が気持ちを酔わせ心を軽くした。
「大学の方はどうするの。もう始まってるんだろう」
お腹が落着いてきた雄司は、それでも焼き鳥の串を手から離さず私に聞いた。
「ええ、本当はすぐにでも復学したいんだけど、記憶とともに膨大な知識まで真っ白で。仕方ないから一年休学することにしたわ。これからは詩織先生に教わりながら復学に向けて頑張るわ。どうぞよろしく」
余計なことを言ってと雄司を軽く睨んでいた詩織は、私がさらりと言ってのけたので安心したのか「まかせなさい。詩織大先生に」と言い、また私達は顔を見合わせて笑い転げた。事故から数ヶ月、私にやっと心許せる仲間が出来たようで嬉しかった。
阿佐ヶ谷と吉祥寺に帰る私と和人が中央線、田端に住む詩織と雄司は山手線なので、それぞれ新宿駅で別れた。
和人は大丈夫だからと言う私を家まで送ってくれた。
「今日は、ありがとう。とても楽しかったわ。仲間っていいわね。私も一生懸命頑張って早く復学できるようにするわ」
「ありがとうだなんて。僕達だって充分楽しんだよ。また四人で出掛けようよ。そうだ、たまにはドライブもいいんじゃない。気候もいいし。それともディズニーランドがいいかなぁ」
和人はお酒のせいか少しはしゃぐような言い方をした。恋人である亜矢との時間を少しでも取り戻したいと思っている和人の気持ち。それが痛いほどわりながら、亜矢の気持ちになりきれない自分が歯痒かった。私は和人を愛することができるだろうか。
その夜ベッドに横になった私は、酔いも手伝って茂に抱かれる夢を見た。
(七)
私が初めて詩織の家を訪れたのは六月に入ってまもなくだった。来年の復学に向け図書館漬けになっていた私は、詩織の誘いに応じる機会がなかなか持てなかった。図書館は多量の蔵書が無言の圧力をかけ、勉強せずにはいられぬよう煽ってくる場所である。もっとも、図書館という空間に身を置くだけで、勉強したとの錯覚を私に与え、自己満足している部分もある。
その日は、空一面どんよりと重い梅雨空に占拠されていたが、雨はかろうじて思いとどまっていた。詩織とは午前十一時に山手線の田端駅で待ち合わせている。私はおみやげにと、昨日必死で焼き上げたクッキーの箱を落とさぬよう、慎重に階段を降りた。改札を出た途端、「亜矢」と手を上げて詩織が近づいてきた。ジーパンにピンクのTシャツを着た詩織の隣に、やはりジーパンをはいた雄司が、両手をポケットに突っ込んで立っていた。
「ごめん、待ったぁ。あれっ、雄司も一緒だったの」
私は、雄司がここにいることに驚き、二人の顔を交互に見比べた。
「よおっ、なんか久し振りだな。元気だったか」
雄司はあの時と変らず、屈託のない笑顔を浮かべている。
「ええ、何とか。でも頭の中は数式と英文がごっちゃになってるわ。そうか、詩織と雄司の家は近かったんだっけ。でも雄司とは映画のとき以来よね」
「ああ、今日亜矢が来るって聞いたから、すべてのスケジュールをキャンセルして馳せ参じたんだぜ」
「それはどうもどうも、感激だわぁ。私のために貴重な時間を割いていただいて」
「だろう、そうだついでに和人にも声かけりゃよかったかなぁ。そうすりゃ四人そろったのに」
「何言ってるの。どうせ雄司は暇もてあましてたんでしょ。和人は誰かと違って勉強が忙しいのよ。ねえ、亜矢」
詩織はぴしゃりとした物言いながら雄司を見る目はやさしい。
「そうらしいわ、三年になると一般から専門になるらしくって。私も和人とはあれから何度か会っただけなのよ」
私は詩織の家への道すがら、ここのところ、仙人のごとく図書館にこもっていた生活を二人に報告した。詩織の家は、田端駅から歩いて十分と便利な場所にあった。雄司の家は、さらに十分くらい歩くらしい。詩織の部屋は、こげ茶の四角いテーブルに茶系のカーテンと全体的に落ち着いた感じで、詩織のイメージとはだいぶ異なっていたが私好みであった。
「詩織の部屋は、もっとパステルカラーの可愛いらしい感じかと思ってたわ。でも、落ち着いた感じでとてもいいわね」
「驚いたぁ。亜矢はいつも詩織らしくない暗い部屋だって言ってたのよ。あっ、ごめん。変なこと言って」
「あらっ、いいのよ、気にしないで。私ってそんなこと言ってたんだ。でも、今の私には初めて見るような部屋だけど、とても素敵だと思うわ。何となく落ち着くし、しっかり者の詩織らしいわよ。ねえ、雄司」
雄司はすでにベッドの端に腰掛けて、まるで自分の部屋にいるように寛ろいでいた。
「そうだなぁ、あんまり気にしたことないけど。昔からこんなだったしなぁ」
雄司はあらためて部屋を見回した。そうだ、詩織と雄司は小学校からの幼ななじみなんだわ。そういえば、みんなで映画を見に行ったときも、二人は恋人同士かもしれないなって感じることがあったけど。たとえそうであっても幼いころからの付き合いだから、恋人としての意識がないのかも知れない。和人も、そして亜矢だって当然この部屋には来たことがあるはず。四人で共有してきた時間の中に自分がいないことに少しだけ疎外感を感じた。
「ところで、今年の夏休みはどうする」
こげ茶と薄茶の格子模様の座布団に座り、壁に貼られたピーズのポスターに顔を向けて考えていた私は、雄司の声に我にかえった。いつのまにか雄司はベッドから降りて私の隣に座っている。詩織はお茶を入れに行き、部屋には私と雄司だけだった。私の顔を覗き込むような雄司のしぐさに一瞬たじろぎながら、「そうかぁ、もう夏休みの時期なのね。まだ何も。それに私には夏休みもどころか、ずっと休みが続いているようなものだもの。でも、いいわねぇ、私も早く夏休みの有難さがわかる学生生活に戻りたいわ。それには、まず勉強を思い出さなきゃねぇ」
詩織と雄司のことを考えていた私は、雄司の視線を意識したことに焦りながら言った。亜矢は和人の恋人なんだし、雄司は和人の親友なんだから、亜矢のことを好きになるなんて、そんなことないわ。私は一瞬の誤解を自分自身で否定した。
「ところで、雄司は何か考えてるの」
「いや、まだだよ。去年は、高校の部活の連中と沖縄に行ったんだけど。もちろん、亜矢や和人や詩織も一緒に総勢十名で。いやぁ、とても楽しかったよ」
「沖縄かぁ、いいなあ、せっかく行ったのに思い出せないなんて損したみたいだわ」
「えっ、あっ、ごめん」
雄司は、あわてて謝った。
「あら、いいのよ、気にしないで。その時のことは、思い出したときのお楽しみにするわ。それより今年はどこ行くのかしら」
私と雄司が夏休みについて話しているところへ、詩織がアイスコーヒーやお菓子をのせた盆を持って部屋に入って来た。
「何の話」
詩織は飲み物などをテーブルに置きながら言った。私は、一瞬でも雄司の気持ちを誤解したことを、詩織に後ろめたさを感じた。
「ああ、夏休みの話をしてたんだ。ほら、去年は部活の連中と沖縄に行っただろう。みんなで、わいわいやって結構楽しかったよな。だから、今年はどうするのかなぁって思ってね」
「そうねぇ、私は何も考えていないけど。亜矢だって、いろいろ大変だったし。亜矢は和人から何か聞いてるの」
「いいえ、和人も勉強が大変らしいし。私もあれから何度か勉強を教わったくらいで。何しろ、和人は試験が終わらなければ遊びどころじゃないかもね」
和人は、あれから二度ほど家に来て私に勉強を教えてくれた。礼儀正しい和人は泰子好みの男性らしく、事故前はしょっちゅう来ていたみたいだが、私を気遣うのと大学が忙しくなったせいか前ほど頻繁ではなくなったらしい。泰子好みの理由のひとつには、病院長の息子で、将来が約束されていることが大きく占めていた。私も和人のやさしさに触れ、最高の恋人だろうと思っている。ただ、何かが違う。いや、何かが違うのではなく根本的に違うのは、私が亜矢ではないことだった。夏休みの計画は尻切れトンボのようになり、それからは三人でピーズについてなどたわいない話をしながら過ごした。
帰りは、駅に用事があるという雄司と一緒に詩織の家を出た。
「亜矢、ちょっとだけ俺に付き合ってくれないか。話したいことがあるんだ」
「ええ、いいけど」
その後、雄司は考え込むように無口なって歩いていた。駅前にあるこぎれいな喫茶店は、時間帯のせいなのか比較的すいていた。私達は押し黙ったまま隅のテーブルに腰をおろした。雄司は、頼んだ紅茶が運ばれてくると一口飲み、意を決したように話し出した。
「亜矢には絶対言うまいって思ってたんだけど、顔見たらどうしても伝えたくなったんだ。和人は俺の親友だし、亜矢とのことだって今まで大賛成だった。亜矢は美人で明るくて、そこにいるだけで華やぐ大輪の花だ。もちろん、俺だって友達として亜矢のこと好きだった。ただ、事故のあとの亜矢は、容姿は変わらなく美人だけど何かが違うんだ。よくわからないけど前の亜矢になかった何か。俺はまったく見知らぬ女性に出会った気がしている。そして、俺は、その見知らぬ亜矢にどんどん惹かれていく自分の気持ちを止められないでいる。もちろん、亜矢が親友の、そう、和人の恋人だってことは百も承知だ。でも、この気持ちに嘘はつけない。こんなことを言ったら亜矢を苦しめるだけだと分っていても、どうしても伝えておきたかったんだ。ごめん亜矢」
雄司は一気に話し終わると、すっきりした顔つきで、ふたたび紅茶を飲んだ。自分の気持ちに真っ直ぐな雄司らしい告白ではあったが、私は胸の鼓動を押さえるのに必死で返す言葉が見付からなかった。
私は帰りの電車の中で、雄司の言葉を反芻していた。あまりに突然で何を言われたのか、いや、突然ではないかもしれない。あの部屋であの視線を感じた時に、雄司の気持ちをすでにうすうす感じていた。今までは、亜矢の恋人として和人のことしか考えていなかった。ましてや雄司については和人の親友であり、私達の仲間だという意識しかなかった。ただ、私自身は、和人より雄司のほうが気楽に話せる相手であることは確かだった。でも、それは恋とか愛とかいうのとは少し違っていた。むしろ、雄司と詩織は恋人同士としてお似合いではと思っていたぐらいだ。雄司の告白は、亜矢の体に慣れてきた私にひとつの質問状を投げかけてきた。亜矢の、今の亜矢である私の気持ちはどうなのかと。電車の揺れは、そのまま私の心の揺れだった。
(八)
「どうしたんだ。なんか悩み事か」
リビングのソファに身を沈め、視線を庭の木々に泳がせていると、後から浩平が心配そうに声をかけてきた。雄司の突然の告白から一週間が過ぎていた。あの後、詩織から映画に誘われたが、頭痛を理由に断ってしまった。雄司に対しての自分の気持ちも、和人に対しての気持ちもわからない私は、中途半端な気持ちを持て余していた。今までは亜矢になりきることだけを考えてきたような気がする。恭子であった私だったら、どんなふうに考えるのだろう。夫の茂以外の男性を愛するなんて考えもしないことだった。しかも、二人の男性の狭間で悩むなんて。本当のところ、詩織は雄司のことをどう思っているのだろう。単なる幼なじみなのだろうか。
「いいえ、何でもないわ。もう、夏よねぇ。早いなぁって思っていたのよ。ところで今日は休みなの。月曜日なのに」
私は我に帰り、振り返ってパジャマ姿の浩平を見た。母の泰子は、近所の友達と三泊四日で北海道旅行に出かけて行った。このところ泰子は、私のことや浩平の恋人のことで気が休まる暇がなかったのだろう。しかし、記憶はともかく、私が詩織達と出かけたりしていることに安心しているのだろうから、悩みはむしろ浩平のことにありそうだった。母親としての悩みはわらなくもない。いや、亜矢の気持ち以上にわるかもしれない。私は泰子を送り出すと、ゆっくりと時間をかけて朝食を食べた。浩平が起きて来たのは、十時過ぎだった。
「ああ、昨日は日曜出勤したからね。何しろ土曜から大変だったよ。現場がばたついて。設計ミスだろうなんて言われてさ」
「あら、お兄さんが設計したビルなの」
「まさか、まだ、この俺に設計を任せるはずないさ。それに、原因は設計ミスじゃなくて現場の単純ミスさ。おかげでこの俺まで狩り出されたよ」
浩平は疲れた顔で、どっかりとソファに腰を下ろした。私にとって、この家で一番気楽に話せるのは浩平だった。兄妹というのは何も意識せずに話せるという気楽さがあった。初めの頃は、浩平のしぐさに祐太の面影を重ねて、胸が締め付けられることもあったが、今は亜矢の兄として接することに慣れてきた。
「ねぇ、お兄さん、ちょっと聞いてもいい」
「なにを」
「お兄さん恋人はいるの」
私は和人や雄司について、浩平の意見を聞いてみたい衝動にかられた。和人に対する気持ちも分らない状況で、雄司の告白を受けて私は少し混乱していた。詩織のこともある。詩織の気持ちを聞きたくもあるし怖くもある。詩織が雄司を愛しているかどうかということよりも、雄司の気持ちを知ったときの詩織が、ショックを受けるのではないかということが怖いのだ。和人や雄司より詩織を失うことが怖い。
「なんだぁ、いきなり」
浩平は妹の突飛な質問に一瞬狼狽の表情を浮かべたが、私は自分のことに精一杯でそれを読み取る余裕がなかった。
「わかった、恋の悩みだな。しかし、俺はもてるけれど今のところ特定の彼女はいないな。なかなかひとりに絞りきれなくてなぁ。」
浩平は、いつもの浩平に戻っている。確かに浩平の瓢瓢とした性格は、女性にもてるに違いない。
「あら、聞かなければよかったわ。そうね、お兄さんに女心の機微を理解してほしいと期待するのは無理よねぇ」
私は浩平を軽く睨んでから笑った。たとえ和人達のことを浩平に相談したとしても、結局のところ私が考えるしかないことなのだ。浩平にしても、妹の恋人の悩みを聞かされてもどうしょうもないだろう。私自身どうしょうもないのだから。
「ところで、今日から三日間、おふくろはいないんだろう。食事はどうするんだ。まさか、亜矢が作るんじゃないだろうね。女心の機微はわからなくても、女の怖さはわかるからな。食い物で反撃する気だな。わかったよ、何でも相談にのるから、飯だけは美味い物食わせろよ」
浩平は私の前のソファに座りなおし、真剣な目を向けた。私は戸惑いながらも、和人の気持ちを完全に受け入れられない自分と雄司からの告白を浩平に話した。
「亜矢、おまえは、記憶を無くした。これは、どうしょうもない事実だ。そうだろう。むろん、この先、思い出すことはあるだろう。しかし、現時点では事実だろう。確かに亜矢は和人君と仲が良かった。そりゃ亜矢の心の中までわかるわけではないが、少なくとも傍からは仲良く見えた。しかし、今の亜矢はいままでの亜矢ではない。記憶がないということは白紙なんだ。亜矢の心も白紙なんだよ。無理して昔の亜矢を意識することはないんじゃないかな。和人君のことにしても雄司君のことにしても、過去は関係ないと思うよ。現在の、そう今の亜矢の気持ちで考えればいいんじゃないか。記憶を失うことは大変なことだ。俺にも理解できないぐらい辛いことだと思ってるよ。和人君や雄司君のことをすぐに結論を出す必要はないんじゃないか。もし、解決する手立てがあるとしたら、それは時間だと思う。亜矢の気持ちも時間が解決してくれるさ」
「ありがとう、お兄さんに話してよかったわ。心が少し軽くなったし。確かに今の私には、恋人のことを考える余裕はないわ。だから、しばらくは友達でいてほしいと思ってるわ。じゃあ、お礼に今晩は腕によりをかけて御馳走を作るわね」
「あんまり張り切らなくてもいいからね。食べられる物なら」
「もうぉ、失礼ね」
浩平に話したことで、私の気持ちも楽になった。私の気持ちを素直に言えるのは浩平だけかもしれない。兄だからか、浩平だからか、そんな思いが私の中をふっとよぎった。
(九)
夏服を買いたいという詩織の買物に付き合って代官山に行った。前に映画の誘いを雄司の件で断っているので、ちょっと気詰まりだった。むろん、雄司の告白については詩織に言ってないが、それだけに詩織に対して後ろめたさもあった。駅前の賑わいを通り抜け、なだらかな坂を上がっていくと、いかにもという高級住宅が立ち並ぶ一角に、小さな洒落た店があった。お洒落な洋服の間に、可愛い小物が並んでいる。
「ねえ、見て見て、この洋服可愛いわねぇ。あら、このバックもいいわ」
詩織は、一枚一枚手にとっては嘆声を上げていた。七月に入ったこの時期には、もう夏物バーゲンが始まっていた。季節の先取りは、年々早まっているような気がする。夏には秋の、秋には冬の、そうやって忙しなく時間に追われていくのだろうか。もっとゆったりと季節を楽しむ余裕をなんてことを思うのは、私の中の亜矢でなく恭子だろうか。
「ほんと、そのピンクのワンピース、詩織にピッタリだと思うわ。ねぇ、試着してみたら」
「ええ、じゃあ着てみるわ」
私は詩織が試着室に消えている間に、薄茶のブラウスを見つけた。胸の部分がレース仕立てになっている、少し大人びた服だった。亜矢のクロークに入っている華やかな洋服とは、かなり違う服だった。この頃は亜矢の服も部屋も少しずつ、私らしくなってきた。それは、私が亜矢になるのではなく、亜矢が私になってきたからだろう。
「どう、似合うかしら」
ピンクのワンピースを着た詩織は、女の子らしい詩織のイメージにぴったりだった。
「うん、よく似合うわ。袖の黒のステッチが効いてると思うし」私は詩織をほめてから、「ねぇ、これどうかしら」
私は、手に取っていた薄茶のブラウスを体に当ててみた。
「ええ、落ち着いた感じでいいと思うわ。亜矢は今まで華やか色合いが多かったけど、亜矢には、そういった色もよく似合うわ」
詩織はピンクのワンピースを、そして私は薄茶のブラウスを買ってから、昼食にフランス料理のレストランに入った。広い通りに面した店はゆったりとして、店内はオーナーの趣味らしいアジアンテイストにまとめられていた。一般的なフランス料理店とは少し趣を異としている。ランチコースを注文してから、詩織は私の顔をまじまじと見つめ、意を決したように話し出した。
「ねぇ、亜矢、言うべきか迷っていたんだけど、実は雄司から聞かされたの。亜矢のことを傷つけたこと、雄司はとても後悔してるのよ。自分の気持ちに嘘はないけど、今の亜矢には言うべきじゃなかったと。私も雄司の告白には驚いたけど、確かに今の亜矢に言うのは酷だって言ったのよ。ましてや和人と雄司は親友なんだし、亜矢を悩ませるだけだって」
私は、詩織が雄司の告白について知っていることに驚いた。詩織と雄司は恋人同士じゃないかと前から感じていたから。雄司が詩織に言ったということは、二人は単に幼なじみの関係ということだろうか。
「実は、私は雄司と詩織が恋人同士だと思っていたから、まさか、ああいうことを言われるとは思ってもいなかったのよ。ねぇ、詩織は雄司のこと、どう思ってるの」
「ああ。誤解しないでね。私と雄司は小学校からの幼なじみでしょう。確かに雄司とは気楽に話せる男友達だけど、愛とか恋とかそういう感情じゃないことだけは確かよ。そうね、しいて言うなら兄妹みたいな感情かな。だから、もしも、もしもよ、今の亜矢が和人より雄司の方が好きなら、私のことはぜんぜん気にしないでね。」
詩織の言い方は無理している様子もない。
「それなら、ちょっと安心したわ。私は詩織のことが心配だったから。ただ、和人と雄司のことは、今の私には友達以上には考えられないの。だから、今までのように仲間同士として付き合いたいのよ。こんなふうに考えるのは無理なのかしら」
私は、せっかく得られた友達を失うのが怖かった。これから先、人を愛することがあるかもしれない。でも、今は恋人よりも友達の方が大切に思えた。
「大丈夫よ、雄司だって後悔してるんだし、親友ともめたいと思っているわけじゃないんだから。亜矢が今まで通り仲間として付き合えるんなら、それが一番いいと思うわ。じゃあ、雄司のことはこれでおしまい。それでさぁ、夏休みどうするの。何か予定あるの」
「いいえ、まだ何も。でも、今から宿を探してもどこもいっぱいじゃないの」
「じぁ、奥の手で和人に頼もうよ。別荘を少しだけ貸してって」
私は浩平に話したことで雄司のことは気分が楽になっていたが、詩織のことだけが気がかりだったので、今日、詩織の気持ちを聞いてほっとした。あとは浩平の言うとおり、時間に任せるしかない。詩織の提案に従って、別荘の件は私から和人に頼むことになった。
レストランを出ると横に公園があり、犬の溜まり場らしく色々な犬を連れた人達で賑わっていた。ラブラドールもいれば、ダックスフンドやチワワもいる。大小さまざまな犬達は喧嘩もせずに遊んでいる。高原の家でも犬を飼っていた。一才になる雑種の『モモ』である。モモは、全身真っ黒の短い毛で覆われ、目の上に丸い薄茶の毛が、まるで公家のように丸く生えている。体格が大きい割には臆病でよく吼えるので、ご近所の手前非常に気を使っていた。亜矢になる覚悟を決めた時から恭子を忘れようと努力してきたが、恭子の生活を思い出させる場面によく出くわすのは、無意識のうちに私が恭子を忘れないように、私が私に発信しているのかもしれない。駅に戻る道すがら、詩織はさっき買ったピンクのワンピースに似合いそうなサンダルを買ったが、私は気に入った薄茶のブラウスで充分満足だった。
(十)
うだるような暑さから、その日が始まった。7月も半ばを過ぎ、各大学が夏休みに入ったのを期に、明後日から詩織達と和人の軽井沢の別荘に行くことになっていた。その前に、私は勉強と避暑を兼ねて図書館に行こうと、部屋で身支度を整えていた。
「あら、この暑いのに出掛けるの」
部屋に入ってきた泰子は元気がなく、小さくため息をつきながらベッドの端に腰をおろした。
「ええ、こうも暑いから避暑を兼ねて図書館に行こうと思ってね。あそこは一日いても文句は言われないし、クーラーも効いてるから快適だしね。でも、お母さん、どうかしたの。何か元気がないみたいだけど」
私はレポート等を入れているトートバッグを足元に置いて、泰子の隣に腰掛けた。
「ねぇ、亜矢、浩平から何か聞いてない」
「聞くって、何のこと」
「浩平の彼女のことなんだけど」
「いいえ、別に何も聞いてないわ。お兄さんに恋人がいたの」
「はっきりしたわけじゃないけど。それがね、ここのところ浩平のようすがちょっと変なのよ。学生時代は、女友達なんて平気で連れて来てたのよ。それなのに何かコソコソしてるのよ。浩平だって男だもの、彼女がいてもおかしいとは思わないけど。この前、浩平の携帯にかけてきたのは女性じゃないかと思うの。それが何か、なだめているような困ったようなそんな話し方だし。普通のお嬢さんならいいんだけど、もしかしたら変な女の人と関わりをもって、困っているんじゃないかと。あるいは、妊娠させてしまったとか。じゃなければ堂々と家に連れてきて紹介するんじゃない」
「でも、その相手の人が恋人かどうかわったわけじゃないし、仮に、もしそうだとしても喧嘩ぐらいはすると思うわ。お母さんに紹介するのは結婚を意識してからじゃないの。大丈夫よ、お兄さんはしっかりしてるもの。お母さんが心配するようなことはないと思うわ。私もなんかの折に、それとなく聞いてみるけど。大丈夫よ、お母さん」
それでもなお、泰子は不安げな表情を浮かべて部屋を出ていった。私も泰子の気持ちが理解できなくもないが、二十五歳にもなる息子に対してそんなに心配するものかしらと思った。亜矢と和人との付き合いは、亜矢が高校生の頃からである。和人が医者の息子であるという家柄的なこともあるだろうし、家にもよく来ていたらしいから、和人のことをわかっていると言う安心感もあるのだろう。ただ、それだけでなく、娘とは違う息子に対しての特別な感情が働いているのではないかと思った。嫁姑の確執は、ひとりの男をはさんでの所有権争いが、嫉妬という感情にあらわれるのではないかと。息子の恋人かもという、まだ不確定な相手に対しても強い嫉妬心を燃やしている泰子。泰子が心配するような人でなく、基準ははっきりしないが泰子のいう普通のお嬢さんであっても、浩平の相手であれば嫉妬するのだろう。泰子が感じる浩平への不安は、息子を取られるという母性本能に近いものがあるのだろうか。恭子としての私にも祐太という息子がいる。もし祐太に恋人がいたらどうだろうか。いや、私が知らないだけで恋人がいるかもしれない。恭子としての私は、むしろ歓迎するんじゃないだろうか。ただ、それはあくまでの仮説であって、祐太を悩ますような彼女なら、私も泰子のように不安と嫉妬の入り交じった感情をいだくかも知れない。
私は日比谷図書館に行った。扉の中は外気を遮断し快適な空間を提供している。避暑を兼ねての勉強のはずが、出掛けに泰子から聞かれたことが気になりだして、参考書を前に浩平の彼女のことばかり考えていた。別に浩平に彼女がいたとしても驚くことではないし、浩平ならば当然のような気もする。祐太に彼女がいたかどうか分らないが、たとえいたとしても私は驚いたりしないだろう。いや、実際に彼女を紹介されたら少しは心が動くかもしれないが。あの浩平のことだから女性を騙したりしないと思うし、騙されたりするほど初じゃない。もし彼女ができたら平然と家に連れてきて、何だったら自慢するくらいのことはやるだろう。こそこそするタイプではない。きっと泰子が心配するようなことではなく、友達間のいざこざに違いない。ふっとすると、そこに必死になって浩平の彼女を否定している私がいる。うろたえている私がいる。私は『近代文学における解釈論』という分厚い本を開けて読み始めたが、追っているのは文字ではなく私の心だった。泰子の危惧を否定している私自身が、泰子以上に浩平の彼女の存在を気にしている。ばかな、浩平は亜矢の兄である。私の兄なのだ。恭子から亜矢になった私の不安を一番癒してくれたのは、兄である浩平だろう。記憶を失った妹を、ごく自然に受け入れてくれた浩平に有形無形の助けを受けている。今まで兄以上の感情を持ったことが無い私が、浩平に彼女がいるかもしれないという、あやふやなことでさえ気持ちが揺らいでいる。泰子以上に嫉妬心を燃やしている私。それは妹として、それとも一人の女として。そこに思い至った私は愕然としていた。浩平を一人の男としてみている私がいる。まさかと否定しつつ胸の動悸が止まらない。私はとんでもないことを思っているんだわ。私は亜矢。浩平は兄。自分に言い聞かせても、動きはじめた感情は止まらない。私の心に芽生えた浩平への思いは、否定すれば否定するほど手の施しようがない広がりをみせ、心苦しさが増すばかりだった。妹が兄に恋するなど異常としか言いようが無い。亜矢の中の恭子がというより、ひとりの女が浩平を愛してしまった。このことは決して悟られてはいけない。いっそ和人とのあいだに、肉体関係という既成事実を作ってしまおうかと思った。もともと亜矢は和人と愛し合っていたし、もしかしたら二人の関係はそこまでいっていたかもしれない。なにしろ、今の私の馬鹿げた感情を消し去らねば。深い井戸の底で喘いでいる私の心を救ってくれる書物は、この広い図書館のどこにも見当たらない。
(十一)
私達は和人の運転する車で谷原から関越自動車道に入り、さらに藤岡から上信越自動車道に入った。中軽井沢にある和人の別荘は、軽井沢を象徴するような、白樺林に囲まれたログハウス風の洒落た建物だった。三十畳のリビングは吹き抜けで、その両側に階段があり、リビングを挟むように二階に四部屋あった。リビングには、大理石の暖炉がでんと構え、それを取り囲むように、大きな白いソファが置いてあった。
「すごいわねぇ、こんなに豪華な別荘だとは思わなかったわ」
私は各部屋を見てまわっては驚嘆の声を上げた。家のまわりの白樺林まで含めるとかなりの広さの土地だった。
「ほんとよねぇ、吉祥寺の家も広いけど、ここは林に囲まれてるからよけいにゆったりとした感じだわ。何度も来てるから慣れちゃってるけど、あらためて見ると、さすが島村家だわ」
「詩織がいまさら言うことないだろう。和人は和人なんだから家は関係ないよ。なあ、和人」
「ああ、ただ亜矢は初めてみたいなもんだから興味津々なんだよ。だろっ」
「ええ、その通りよ」
詩織にしても雄司の家にしても都心に家を構えているだけでもすごいと思っている。私自身は平凡なサラリーマンの妻だったが、それでも充分幸せだった。ただ、日々の生活の中であまり意識することがなかった幸せを、こういうかたちで思い知らされるとは考えもしないことであった。失って初めて気付かされることが亜矢になってから多々ある。
「亜矢、夕食まで少し時間があるから、この近辺を散歩しないか」
ソファに座り、白樺の林をぼうっと見ている私に和人が声をかけてきた。
「そうよ、亜矢、行ってらっしゃいよ。今晩の夕食は、私と雄司に任せておいて、ねえ雄司」
「えっ、ああ、大丈夫だ、行ってこいよ。詩織が作っとくから」
「あら、何言ってるの、雄司も手伝うのよ」
「もちろん、味見は俺に任せろ。味に関しちゃちょっとばかりうるさいんだ」
「まったく、もう。食い気だけなんだから。まっ、大丈夫よ」
「じぁあ、明日は私と和人で作るから、ちょっと行ってくるね」
私と和人は白樺の林を抜け、だらだらと続く坂道を歩いてゴルフ場横の道に出た。さすが避暑地の軽井沢だけあって、亜矢の首筋を通る風は爽やかだった。
「どうしたの。元気がないみたいだけど何か心配事でもあるの?」
「えっ、いいえ、何でもないわ。でも、驚いたわ。和人の別荘がこんなに立派だと思わなかったわ。私は、ここに何度も来てるんでしょう?」
私は、浩平への気持ちを見透かされるようで恐かった。
「ああ、そうだなぁ、結構来てるかなぁ。でも、過去のことは気にしない方がいいよ。これから何度でも来ればいいんだから。それより僕のほうがひとつ聞きたいことがあるんだけど。雄司のことなんだけどね」
「雄司のことって?」
「正直に言うよ。実は雄司から亜矢が好きだと告白したことを聞いたんだよ。ひょっとすると、そのことが亜矢の心配事の原因じゃないかと思って」
私には心配事の原因が、はっきりとわかっている。和人のことでも、雄司のことでもないって。わかっているのに、誰にも伝えることができない。
「亜矢が雄司のこと、どう思ってるかどうかわからないけど、僕には雄司の亜矢に対する気持ちが痛いほどわかるんだ。雄司は以前の亜矢には抱かなかった感情を、今の亜矢には持っている。雄司は亜矢を愛しているという。きっと雄司自身が焦ってるんじゃないかな。僕はもちろん、前も今も亜矢を愛している。ただ、亜矢が前の亜矢とはどこか違う。どこがって聞かれると困るけど、しいて言うなら中身かな。前の亜矢には無かった何かがある。雄司は前の亜矢には友達以上の感情を持たなかったと思うけど、今の亜矢に惹かれている。ごめん、だめだな、またこんな事を言って。よけいに亜矢を悩ますだけなのに。この頃、亜矢がふっとどこかに行ってしまいそうで恐いんだ」
和人は私の肩に手をまわし抱き寄せた。一瞬、このまま和人の気持ちを受け入れれば、浩平への思いを断ち切れるのではないかと思ったが、自分の気持ちの逃げ道を和人に求めることはできない。
「ごめんなさい。まだ、人を愛する心の余裕がないの。ごめん」
そう言った途端、私は和人の胸で泣きじゃくった。止めようのない涙は、抑えようのない浩平への思いだった。
軽井沢の一週間は、時計の一分一秒がゆったりと刻まれ、月日の流れがここだけ滞っているようで、はがゆく感じた。テニスをしてもドライブに行っても、私の心は常に東京の浩平に向いていた。明日帰るという日の午後、詩織と二人で町まで買物に出た。和人と雄司は、和人の父親が会員になっているゴルフクラブに出かけている。旧軽井沢の町は夏休みのせいか人々で溢れ、原宿がそのまま引っ越してきたような賑わいをみせていた。
「今日は最後の晩餐だから、庭でバーベキューっていうのはどう。ステーキ肉を奮発して」
そう言いながらも、詩織は店先の黄色い花柄のキャミソールを手に取っている。
「ええ、そうね、ステーキなら大食漢の雄司が喜びそうだわ。サラダも添えれば完璧よねぇ」
「じぁ、これで夕食は決まりね。ところでこのキャミ可愛いと思わない」
結局、詩織は黄色のキャミソールを買い、その店の並びにあった、こじんまりとした喫茶店に入った。この時期、軽井沢のどこへ行っても若い女性の嬌声が溢れ、そこかしこに華やいだ活気を振りまいている。私の若い頃、軽井沢はもっと落ち着いた大人の町で、人々は都会の喧騒を逃れ、ひとときのやすらぎを求めてゆったりとした時間を過ごした。何もない時間を過ごすことが最高の贅沢だったはずである。今は何もないことに不安を抱く時代のなのだろう。時間に追われることを拒否しながら、時間に取り残されることに脅威を感じる時代。今更、昔を思い返しても戻らない日々、いや、恭子であったつい数ヶ月前にすら戻れない。浩平を愛する前にさえも。私が無口になり思いにふけっていると、「亜矢、どうしたの」と、詩織が聞いてきた。
「えっ、いえ、別に」
私は現実に引き戻され、目の前のアイスティーを飲んだ。
「ねぇ、亜矢、この前の雄司のことで、まだ悩んでるの。それとも、和人とのあいだで何かあったの。こっちに来ているあいだじゅう、亜矢、何か変だもの。それに和人も雄司もぎこちないし」
詩織は、心配そうに私の顔を見つめていた。私は和人が雄司の気持ちを聞いたことを言うべきか少し迷ったが、いずれ分ることだし、かえって詩織には知ってもらっていた方がいいかもしれないと思った。
「実は雄司のことだけど、雄司は和人に言ってたのよ、私への告白を。雄司は、ああいう性格だから隠し事ができなかったんだと思うわ。きっと言わなくても親友だし、男同士何か通じるかも知れないけどね。ただ、私は和人に言ったのよ。まだ友達でいたいって。こんな私だから、よけいに和人や雄司を傷つけてしまうのかもしれないわ。でも、私にもどうしょうもないのよ。今はどうしょうもないの」
私はまた、浩平のことを思い涙ぐんだ。そう、確かにどうしょうもない私の気持ち。たとえ詩織でさえも話すことが出来ない私の気持ち。私が涙ぐんだことに慌てた詩織は、話題を今晩の買物に変えてアイスコーヒーを飲んだ。
(十二)
「亜矢、この頃ちょっと変だぞ。軽井沢でなんかあったのか」
日曜の昼下がり、浩平がふらっと私の部屋に入ってきた。
「別に何も。それより、お兄さんの方が変なんじゃない。彼女が出来たんなら堂々と連れてきたらいいのに。何も、かげでこそこそすることないじゃない。お母さんだって、とても心配してるのよ」
私は軽井沢から戻ると、何かにつけて浩平に突っかかるようになっていた。自分のやり場のない気持ちを押え込もうとすればするほど蟻地獄に嵌まり、もがくほどに深く埋もれていく。以前は家族の中で一番話しやすい存在であった浩平に、何も言えないことで八つ当たりしていた。
「俺が誰と付き合おうと、みんなには関係ないじゃないか。何も今すぐ、結婚がどうのこうのって話じゃなし」
「そりゃそうだけど。それなら私に何があっても関係ないでしょ、お兄さんには」
「そんな言い方ないだろう。俺はおまえが元気なく、悩んでいるみたいだから心配して聞いたのに」
浩平は、そう言い放つと部屋から出て行った。私が亜矢になってから、浩平と面と向かって喧嘩したのは初めてだった。私は、まだいるかどうかもわからない浩平の彼女に、嫉妬している自分自身が嫌だった。泰子の浩平の彼女に対する嫉妬心を否定していた私が、彼女だけでなく、息子の母親として堂々と嫉妬心を燃やすことが出来る泰子にまで嫉妬している。女として、浩平に接することができない私は、苛立ちを感じている。このままでは、私だけでなく、まわりの人達も傷つけてしまう。こんなに辛い思いをするのなら、あの事故のとき、私の体だけでなく、私の魂も一緒に死んでしまえばよかったのに。高原恭子として、この世から消し去って欲しかった。私の魂のかわりに、亜矢の魂を亜矢の体に戻してあげて欲しい。二十歳の亜矢には夢もあったし、恋人もいた。今、亜矢の体の中で女が燃えている。それが恭子の女の部分なのかはわからないが、体の芯で燃え盛る炎は、もう、消し去ることはできなかった。
私が階下に降り、リビングに入ると、俊冶が一人でテレビを見ていた。
「あらっ、お母さんは」
私は浩平とのやりとりの後、一人でいるのが嫌だった。一人でいると、自分で自分の気持ちを追いつめていくようだった。
「ああ、それがさっき浩平と何か言い争ったみたいで、不機嫌そうに出て行ったよ。たぶん買物だろうが。浩平に何かあったのかなあ。」
俊冶は浩平の彼女について泰子から何も聞いてないようで、訳がわからないような顔つきだった。
「いいえ、親子喧嘩でもしたのかしら」
「たぶんそうだろうな。でも、お母さんもこのところ何か考え事をしていることが多くなったなぁ。亜矢、女同士で何か聞いてないか?」
「さあ、私は何も」
私は曖昧な返事をしてから「お父さん、アイスコーヒーでも飲む?昨日いただいたクッキーもあるけど」と、話題をそらした。
今、浩平とは関係のない話をしたかった。庭には真夏の太陽に焼かれたバラの花が、心なしか疲れて見えた。それは浩平への愛に疲れた私の心に見えて、とてもいとおしく、悲しく思えた。泰子が気にしている、いや泰子以上に私が嫉妬している浩平の恋人は誰なんだろう。家族の者にも隠さねばならないような間柄なのだろうか。浩平への気持ちに気付いてしまった私に、もはや和人や雄司のことが入り込む余地はなかった。今すぐにでも浩平の恋人を知りたいような、またそのことによって傷つく自分から逃れたくもあった。私が亜矢になってから、やっと少しずつ家族になってきたのに、私の浩平への気持ちが、家族を崩壊させていくように思えて、とても辛く、やるせなかった。何も知らずに、アイスコーヒーを美味しそうに飲む俊冶の人のよさそうな横顔が、私の罪深さを一層重くしていった。
(十三)
私は浩平と言い合った日から、無意識のうちに浩平を避けるようになっていた。浩平のほうも、仕事が忙しいとの口実に、毎晩遅く帰宅した。泰子もあの日以来、浩平の彼女の件に関して、まったく触れなくなっていた。日々の生活は、何事もなかったように過ぎていき、秋の彼岸を前に、少しずつ秋めいてきた。私は相変わらず、どうすることもできない気持ちを抱えたまま、図書館通いを続けていた。
十月にしてはやや汗ばむ陽気の日、私はいつものように日比谷の図書館を出ると、散歩がてらに日比谷公園をぶらついていた。昼過ぎの公園内は、サラリーマンやOLで、結構賑わっていた。私は公園内のカフェに入り、サンドウィッチとコーヒーを注文すると、何気なく窓の外に目をやった。足早に行き交う人や、ベンチに座ってのんびりと昼食をとっている人などをぼうっと見ていると、噴水の前で何かを言い争っている男女が目に入った。その瞬間、私は自分の目を疑った。その男女は、紛れもなく浩平と詩織だった。どうして浩平と詩織がこんな所にいるのかしら。しかも、言い争う二人の姿は、どう見ても恋人同士の痴話喧嘩的に見える。私は、運ばれてきたコーヒーやサンドウィッチには気付かず、ただ、二人を凝視しつづけた。浩平の彼女とは、詩織だったのだろうか。確かに、詩織は高校の時から浩平とは顔なじみに違いない。でも、詩織から浩平と付き合っていることを聞いたこともないし、また、そんなそぶりを感じたこともない。いつ頃からなんだろう。私が亜矢になる前からか、それとも、亜矢は、そのことを知っていたのだろうか。仮に詩織と浩平が付き合っていたとしても、何故私に隠しているのだろう。母の泰子も知らないみたいだが。詩織が浩平の彼女だったら。私はそこまでいきついてハッとした。浩平への気持ちに気付く前ならば、私は詩織と浩平の関係を大いに賛成しただろう。でも今の私は、二人の姿を前に、ショックと嫉妬を感ぜずにいられない。まさかと否定したい気持ちと、目の前に繰り広げられている現実に、私は打ちのめされていた。浩平と詩織は、ひとしきり言い争ってから、噴水を挟んで左右に分かれて行った。私は、すぐにでも詩織を追いかけて聞いてみたい衝動にかられたが、浩平との関係を聞かされたところで、妹である私には、兄の恋愛に口をはさむ権利はない。以前、浩平にも言われたように、浩平が誰と付き合おうと、私はどうこう言う立場ではない。むしろ、兄に彼女が出来たことを、祝福すべきなのだろう。ましてや、その彼女が親友であれば、なおさらなのだ。素直にそうしてあげられない自分が情けなくもあり、また惨めだった。きっと、亜矢だったら無邪気に喜んであげられただろう。私は今日ほど亜矢でいるのが、辛く悲しく思ったことがなかった。本当の私、高原恭子は、あの時死んだ。私の心も、あの時死ぬべきだった。私は、運ばれた食事にはほとんど手を付けずに店を出た。
私は自分の部屋の天井を見つめたまま、金縛りにあったように、身動きできずにいた。あれからどう帰ったかも、よく覚えていない。無意識のうちに、いつものように電車に乗り帰って来たようだ。救いは家には誰もいず、言葉を発することなく自分の部屋に戻れたことである。今は誰とも話したくなかった。私はそっと目を閉じた。出来ればこのまま、すっと戻りたい。何もなかったあの頃に。亜矢の体に戸惑っていた頃に。浩平に心を支配される前に。
「亜矢、帰ってたの」
私は泰子の声で現実に引き戻された。私がどんなに悩んでいようと、時間は容赦なく私を現実に引き戻す。私は、階下に降りていった。
(十四)
私はあの日以来、何かしら理由をつけては、詩織の誘いを断っていた。自分でも嫌になるくらい自己嫌悪の殻から抜け出せないでいた。ただ、浩平の匂いを感じずにはいられない家にいることが息苦しく、毎日のように図書館へ逃げていた。図書館に行き本を開いても、一字たりとも頭には入ってこず、浩平と詩織の姿がだぶって浮かんでは消えるだけであった。
「亜矢、詩織さんがみえたわよ」
いつものように、泰子が階下から声をかけた。詩織が家に来たのは、二人を目撃してから、ひと月位してからだった。私は何事もなかったように振る舞い、詩織を部屋に通した。
「詩織、ごめんね。いつも誘ってくれてるのに。こう見えて私も、何かと忙しくって。なにしろ、一生懸命勉強しなくっちゃ大学に戻れないでしょう。私も早く勉強を思い出して、詩織と一緒に大学に行きたいわ」
私は自分でも白々しいほどの言い訳をしながら、いつものように詩織にクッションを手渡した。
「ううん、いいのよ。私も亜矢が早く大学に戻ってくるのを楽しみにしてるから。今日は突然来ちゃってごめんね。私ね、どうしても亜矢に聞いて欲しいことがあるの」
いつもの詩織とは違って、やや緊張した面持ちだった。喉が渇くらしく、泰子が入れてきたコーヒーにすぐ手を伸ばした。私は今まで見たこともない詩織の真剣な表情に、すぐに浩平のことだと感じた。私は詩織の視線を避け、自分の動揺を隠すように両手で持ったコーヒーカップに目を落とし、やおら口に運んだ。それは、これから死刑を宣告されるような重い気分だった。詩織はそんな私の気持ちに気づくはずもなく、ひとこと一言区切るように話し始めた。
「私ね、亜矢に黙っていたことがあるのよ。本当は早く亜矢に言いたかったんだけど。前に亜矢が私と雄司が恋人同士じゃないかって言ったことがあるでしょう。あの時、私は恋人なんかいないわって言ったけど、本当は付き合ってる人がいるの。亜矢は驚くと思うけど、亜矢のお兄さんの浩平さんよ」
私は覚悟していたとはいえ、詩織の口からはっきりと浩平の名前が出たことにショックを受けた。一瞬なんと言っていいかわからずに、黙ってコーヒーを飲み干した。その沈黙を、詩織は単に兄思いの妹が、兄の恋人の存在にショックを受けたと思ったようだった。そのあと詩織はやや早口になり、話を続けた。
「実はね、私達が付き合いだしたのは、雨の日に偶然、新宿で会った時なの。ちょうど1年くらい前かな。二人とも傘を持ってなくって、喫茶店で雨宿することにしたの。もちろん、亜矢のお兄さんのことは高校の時から知っていたけど、二人きりで話したのはその時が始めてだったわ。それから映画に行ったりして、ちょくちょく会うようになったの。私は亜矢にこのことを話そうとした頃、あの事故が起こったわ。その後のことは亜矢だってわかっているでしょうけど、とても話せる状況ではなかったでしょう。決して亜矢に隠すつもりはなかったのよ。むしろ、早く話したかったの。だって亜矢に隠し事をしているのは辛かったわ。ただ、浩平さんが亜矢に話すのをためらっているの。亜矢の記憶が完全に戻るまではってね。確かに妹思いの浩平さんだから、よくわかるわ。もちろん私だって亜矢の記憶が完全になってから話したかったけど、いつまでも亜矢に黙っているのは、何か後ろめたい気分だったわ。だから、今日は浩平さんに内緒で亜矢に話したの。もし、ショックを受けたのなら、ごめんね」
詩織は、本当にすまなさそうな表情で言った。私は精一杯の笑顔を詩織に向けた。
「本当、突然で驚いたけど。まさかお兄さんが、詩織と付き合ってたなんて知らなかったわ。でも、詩織とならお似合いだと思うわ。私は大賛成よ」
「ありがとう、亜矢ならきっと喜んでくれると思ってたわ」
詩織は肩の荷が下りたようにほっとした表情で、しばらく会っていない和人や雄司との飲み会をやろうと、はしゃいで帰っていった。私は詩織が帰ったあと、窓を開けて空を見上げた。ひんやりとした空気は、私の心をより一層震わせた。詩織の幸せそうな顔を思い出しながら、遠い星になった亜矢に祈った。
「どうか、私が詩織の幸せを心から祝福できますように」と。
(十五)
「亜矢、このセーターどうかしら?」
このところ沈みがちな泰子が珍しく声を弾ませながら、私の部屋に入ってきた。
「あら、素敵だわ。色も秋らしいし」
「そうでしょう。今日Iデパートに行って買ってきたのよ」と言いながら、泰子はカーキ色のセーターを体に当ててみせた。
「昨日、お父さんがね、来週の土日で草津温泉に行こうって言い出したのよ。どういう風の吹きまわしかしらねぇ。でも、久し振りだわぁ、二人で旅行なんて。亜矢、悪いけど留守番しててくれる?」
「もちろんよ。来週なら、ちょうど紅葉の時期じゃない。季節に合ったそのセーター、お母さんにぴったりだわ」
「そう、じぁ褒めてくれた代わりに、草津饅頭をどっさり買ってくるからね」
「あらやだ、お母さんったら私を太らす気ぃ」
私は声を立てて笑った。詩織からじかに浩平とのことを聞かされて以来、私は自分の気持ちを浩平や両親に悟られないようにと、家庭内では努めて平静に明るく振舞っていた。特に、何かと当たっていた浩平に対して、何事もなかったように平然と笑みを向けた。我ながら痛々しく感じられたが、そうでもしなければ詩織とのことを嫉妬する自分の醜態を隠せなかった。
旅行当日の朝早く、泰子はウキウキと化粧をし、旅行かばんを車に詰め込むと、「亜矢、じぁよろしく頼むわね。ああ、そうそう、浩平を起すのを忘れないでね」と言い残して出掛けていった。
浩平と一晩過ごすことが変に気が重かった。意識せぬようにと思えば思うほど、私の心は浩平を追いかけている。二人が出て行くのを見送ってから浩平の部屋に行き、ドアの外から声をかけた。
「お兄さん、七時過ぎたわよ。会社でしょう、お母さんに起こすように言われたのよ」
今日は土曜日だが、浩平は出勤のはずだと泰子が言ってたのだ。
「今日は休みだぞ」と、寝ぼけたような声で浩平が返事した。
私はリビングに戻ると、トーストとコーヒー、それにハムエッグの朝食を作り、テレビを見ながら食べ始めた。しばらくするとパジャマ姿の浩平が起きてきた。
「あれっ、俺の飯は」
「あら、お兄さん、どうしたの。今日は休みって言ったじゃない」
私はあわてて浩平のハムエッグを作るため、キッチンに立った。浩平は休みの日には、十時過ぎまで寝るのが恒例である。
「亜矢が声をかけるから目が覚めちゃったんだよ。今日は休みになったって母さんに言ってなかったかなあ。ああ、ところで親父とお袋は」
「いやねえ、今日と明日の二日間、お父さんとお母さんが草津温泉に行くって言ってたじゃない」
「そういえば、どこか温泉に行くって聞いたけど、あれ今日だったの」
浩平はトーストをほおばりながら、箸はハムエッグをつついている。私はそんな浩平を眺めながら、詩織との会話を思い出していた。浩平は私の記憶が戻るまで、詩織とのことは話さないと言ってると聞いた。しかし、私が記憶を取り戻すことなどありえない。このままでは、浩平はいつになっても詩織とのことを切り出すことが出来ないのではないか。私自身、このまま何も知らないふりして、時が過ぎて欲しいと心密かに思っている。しかし、浩平や詩織のことを考えると、早く気を楽にさせてあげたいし、私がどんなに思いを寄せても兄と妹の関係が変わるわけではないのだから、私自身もはっきりさせて楽になりたかった。それに、浩平と詩織の存在なくして、私が亜矢になっていらなかった。泰子にしても、浩平がこそこそとしているのが心配に違いない。私は食器を手早く片づけると、リビングのソファに腰を下ろした。浩平も食べ終わってソファに深々と座り、新聞を広げ始めた。それでも私は、自分から切り出す勇気がつかず、庭の赤く色づいた紅葉の木を見ながら迷っていた。浩平の口から詩織への思いを聞いても、平静でいられるだろうか。
「お兄さん、この前、詩織が来たとき聞いたの。お兄さん、詩織と付き合ってるんだってね。早く言ってくれれば良かったのに」
私は極力さりげない口調で言ったのだが、心臓の鼓動が浩平に聞こえるのではないかと思うほど激しく波打っている。新聞から顔を上げた浩平は、一瞬驚きと戸惑いの表情を見せた。
「詩織は、何て言ったんだ」
「何てって。ただ、お兄さんと去年の十一月頃から付き合っているって。詩織も早く私に言いたかったんだと思うけど、私が事故で記憶喪失になったから言えなくなっちゃったのね。詩織には可愛そうなことしちゃったわ。お兄さんが、私の記憶が戻るまで言わないようにって口止めしたらしいけど、それじゃ詩織が辛いだけだし、私も記憶が戻らないことに責任感じちゃう。私のことを気遣ってくれるのは嬉しいけど。でも、私なかなか思い出せなくって」
そこまで言うと私は言葉に詰まり、ただ、涙だけが流れた。自分の中に封印したはずの浩平への思いが涙に溶けて流れていく。
「ごめん、亜矢に心配かけて。でも、詩織とのことが言い出せなかったのは、亜矢のせいじゃないんだ。俺のせいだ」
浩平は苦渋の表情を滲ませながら私の隣に座り、私を抱きしめた。突然の行動に困惑しながらも、私は浩平への思いが止められず、浩平の胸の中で泣きじゃくった。浩平はそんな私を、より一層強く抱きしめ、「ああ、亜矢。亜矢が妹でなければ」そう呟いた。
どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。二人押しは黙ったままソファに座わり、あたたかい日差しの中にいた。浩平は、ずっと私を抱きしめていた。
「亜矢。亜矢は昔から俺の大切な可愛い妹だった。言いたいことを言い合い、よく兄妹喧嘩もした。でも、あの日から俺は、亜矢の兄貴にはなれなくなった。亜矢が交通事故に遭って病院に運ばれたと聞いた時、俺は慌てて病院に駆けつけた。亜矢は確かに亜矢だったが、でも何か違って見えた。何だか俺にもわからなかった。ただ、亜矢が妹の亜矢でなく、ひとりの女としての亜矢に見えた。俺は一瞬、狼狽した。しかし、それは単に、亜矢が記憶喪失になったためだと思い続けてきた。でも、日を追うごとに、亜矢は俺の中で亜矢ではなく、確実にひとりの女になっていった。詩織とのことも、事故前には俺から亜矢に言おうと思っていた。だが、事故後に亜矢が妹でなくなってきた途端、亜矢に詩織とのことを知られるのが怖くなってきたんだ。俺はここ数ヶ月、俺自身を責め続けてきた。妹に恋するなんて考えられないと。亜矢が記憶を無くしたことで、俺との兄妹としての関係までが消えてしまったようだった。今の俺には、亜矢はまったく初めて知り合った女に思えてしょうがない。頭では妹だと思っても、心の中ではもう一人の俺が、どうしょうもない気持ちを抱えている。自分の気持ちを詩織に向けさせようと思っても、どうしょうもない。かえって詩織との距離が離れていくのを感じてしまう。この頃から詩織とも喧嘩ばかりしている。詩織には本当に悪いと思っているけど、このことを詩織に言うことが出来ない。亜矢にこんなことを言えば、傷つくのは亜矢だってわかっているんだ。でも、もう自分を騙せない。愛してる。亜矢」
浩平の目にも薄っすらと涙が光っている。私は浩平の告白に震えながら、私も自分の気持ちをこれ以上騙すことはできなかった。
「お兄さん、ごめんね。私が事故に遭わなければ、そして記憶を無くさなければ。私は、亜矢であって亜矢じゃない。それは私が一番よくわかっているの。あの時死んでいれば、私もお兄さんを愛することはなかったわ」
私は亜矢に成り代わった事を、今日ほど恨んだことはなかった。
あってはならない一線を超えてしまった私達を止めることは、もはや誰にもできなかっただろう。
その日、私の体は浩平の腕の中で熱く、激しく燃えていた。それは、人間としての倫理を犯しているという罪悪感さえも忘れてしまうほどだった。そのとき私は、恭子でもなく亜矢でもない、ひとりの女として愛する浩平に抱かれていた。このまま消えてしまいたい、幸せな女のままでと願いながら。
私は、シャワーの栓を一気に開放するとノズルから出た冷たい水が、火照った身体を冷やし一瞬身震いをすると、徐々に熱いお湯がほとばしる。前面の鏡に写る亜矢の身体。小顔の輪郭の中に二重の大きな眼、額からすっとした鼻筋を通って、少しばかり肉厚なぽってりした唇。シャワーの湯水は首筋から豊かな乳房へ流れ、くびれた腰を描くようにして薄めの繁みの中に吸い込まれていく。やがて形のいい脚のあたりで水しぶきを散らす。浴室は湯気でもうもうとし、鏡の亜矢も霞んでいく。
私は今、靖国通りの前に立ちつくし、通りの向こう側を見つめていた。時間は午後三時過ぎ。ちょうど一年前と同じく人々がせわしく行き交い、ひとつのうねりとなって横断歩道を渡っている。信号が青から赤に変わった時、私は浩平への思いを断ち切るように、横断歩道をゆっくりと歩き出した。そして、クラックションとブレーキの音が、私の亜矢としての時間を止めた。
(十六)
暗闇の奥底から幻聴かと思えるような微かな声が聞こえ、やがてそれは次第に現実味を帯びて私の耳に届いてきた。そして、その声に反応したのか、私は深い眠りから揺り動かされるように目覚めた。ただ、寝過ぎた時のように頭が重く、神経の先がぴりぴりとする不快感がある。ぼうっとして意識がおぼつかないし、焦点もはっきりとは定まらず宙に浮いている。そんなぼんやりとした視界の中に浮かび上がった影が、ゆっくりと私に近づいてきた。そして、その影は、やさしい声で私に話しかけてきた。
「恭子、わかるか、俺だぞ。恭子」
ぼんやりとした視界の中に茂の顔が現れた。
「お母さん、大丈夫?」
心配そうに覗き込む祐太や眞理の顔も見える。
「気がつきましたか?ああ、もう大丈夫ですね」
白衣姿の医師がほっとした表情で言った。私は一瞬戸惑い、それから周りを見回しながら軽く頷いた。
(十七)
春という季節は、ビル群が林立する都会にも確実に訪れていた。それは、自然を先取りした若い女性たちの服装に如実に現れている。冬に隠れていた素足は開放され、その脚線をミニスカートから惜しげもなく覗かせながら街を闊歩している。彼女たちが振り撒く風さえ、厚い衣を脱ぎ捨てて軽やかに吹いている。私はその柔らかな風を頬に受けながら、ゆっくりと歩いていた。待ち合わせをした喫茶店は、靖国通りに面した大きなビルの三階にあった。まだ、真新しいそのビルに入るとすぐに広いエレベーターホールがあり、六基のエレベーターが三基ずつ向き合うように等間隔で並んでいた。腕時計を見ると待ち合わせの時間にはまだ余裕あったので、私はその奥にある階段を上り始めた。足元を確認しながら一段ずつ足を運んでいき、三階にたどり着いた時には軽く息切れしていた。やっぱり私はおばさんなのだと変に安心し、一人で苦笑してしまった。
その喫茶店はドアからして彫刻を施したような洒落た作りで、店内は黒檀もどきで作られた椅子やテーブルが重厚感を漂わせていた。さらにオレンジ系色のライトを基調にした照明が抑え気味に灯り、適度な明るさが落ち着きを与えている。サラリーマンらしき二人の客が隅のほうで話し込んでいるだけで、平日とはいえ新宿の喫茶店にしては珍しく閑散としている。私が道路に面したテーブルに付くと同時に、暇を持て余していたウエイターがやってきた。茶髪の若い男性が、折り目のついた黒いズボンとベストでビシッと決め、麗々しくお辞儀をし、氷水の入ったコップをテーブルに置くと、表紙が黒の革張もどきのメニューを差し出した。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
私はそのメニューを受け取らず、「モカコーヒーを」と即座に言った。モカコーヒーは唯一、私のあの時間と今を繋ぐ見えない糸のようだった。
ウエイターが引き下がるのと同時に視線を窓に向け、下の横断歩道を行き交う人々を漫然と眺めていたが、それでも私の視線は無意識のうちに若い女性に追っていた。
横断歩道ですれ違う人達は、お互い目線を合わせることもなく、黙々と歩いている。多分、各々の目に入るのは、そこにある顔という物体が、自分の歩く速度に合わせて前から後ろへと流れていく様だけだろう。それはそのまま、あの日の私だった。あの瞬間、亜矢とすれ違ったことなど気づくはずもなかった。あれは、夢だったのだろうか。いや、今でも亜矢としてのあの時間が私の体の奥底で疼いている。
「ごめん、待った」
私は下浦優子の声で我に返った。優子は学生時代からの親友だった。
「ううん、私も少し前に来たのよ。それに早めに着いたし」
優子はコーヒーを注文した後、ちらっと靖国通りに目を落として言った。
「ところで体のほうは、もう大丈夫なの?」
「ええ、ありがとう、大丈夫よ」
「でも、あの時は驚いたわ。恭子が事故に遭ったって茂さんから電話を貰ったとき。すぐに病院に駆けつけたけど、恭子の意識がまだ戻ってなかったし。心臓がおかしくなりそうなぐらい心配したのよ」
「心配かけてごめんね。結局、まる一日意識不明だったのよね。でも、怪我は全身打撲だったけど骨には異常なかったから入院も一週間位だったわ。パパは心配で一睡もせずにいたんだって、今頃になって恩着せるのよ」
「何に言ってるの、あの時の茂さんの顔、あなたに見せたかったわ。青白くて茂さんが倒れるんじゃないかって思ったくらいよ。でも、大変な事故だったよね。確か、アクセルとブレーキを踏み間違えて、歩道に突っ込んできたんだよね。亡くなった人もいたんじゃなかった?」
私はコーヒーカップに視線を落とし、気持ちを整えてから言った。
「ええ、一人。白崎亜矢さんという、まだ二十歳の娘さんだったのよ」
私は亜矢の名前を口にするだけで心が震えた。亜矢が死んだのは夢でもなく現実なのだ。沈んだ私の気持ちを察してか優子は話題を変えた。
「ところで今、予備校に行ってるって本当?急にどうしたのよ。優雅な奥様だったのに、その心境の変化は」
「なにが優雅よ、キャリアウーマンの優子の方がずっと優雅でしょう。もっとも、お金はなかったけど、のんびりと主婦業していたんだから時間的には優雅だったかも。ただね、今度の事故で考えたのよ。時間って生きているからあるのよね。当たり前だと思っていた時間が、ある日突然消えてしまう。あの瞬間、亡くなったのが白崎亜矢さんでなく私だったかもしれない。そう思ったら何かしなくては焦ったのよ。そして、しばらく図書館に通いつめたの、何かがわからなくてね。今でもはっきりわからないけど、まずは目標を持ちたかったわ。だから大学受験を目指してみようってね。受かるかどうかより、必死に何かをやりたいって思ったの。ひょっとすると生きてる実感がほしいのかもね」
「恭子って偉いね。私は時間に追われているけど、恭子は時間を追いかけているわけでしょう」
「やあねぇ、そんなに仰々しいものじゃないわよ。パパは一応頑張れって言ってくれるけど、子供たちは呆れているんじゃない、年寄りの冷や水だって」
私は笑いながら言った。それから、もう一度横断歩道に目を向けると亜矢が振り返って微笑んだ。




