音のない世界で・修学旅行のときに・猫の欠伸を・置いて帰ろうとしたら怒られました。
猫が欠伸をした。その愛らしさに目を奪われ、欲しいという渇望が体の下腹辺りから頭のてっぺんまで上ってからまた落ちて、体の中をぐるんぐるんと回っている。まるで理科の授業で見た雨が川になって海に入り、海から水蒸気によって雨と成す。そのサイクルそのものだ。
ぐっと力を込めた腕が、猫がいる寒天のような壁を押し抜ける。壁を越えなければ人間の腕で制服を着ていたが、壁を越えると突然指が太く爪が鋭い赤の肌へと変わった。制服を着た鬼の腕。日本人であれば、万人が思うだろう鬼の腕。その腕が、寒天のような透明な壁の向こうで、欠伸をしたまま固まっている猫に向かって一目散に伸びる。だがその鬼の腕をつかまんと、にゅっと人間の腕が横から遮った。
「何してるんです」
「あ・・・いや。可愛いなあと思って」
「鬼の力は、そういう用途には禁止されています」
少年がそう言い放ったのに、鬼はしゅんとしていた。少年の目には赤い肌で毛深い鬼が、制服を着て縮こまっている。だが鬼は凡人には通常の人間に見えた。少しもおかしなところはない。ただおどおどと、少年に媚びる目を見せる気弱な少年でしかない。鬼はむうと唇を尖らせてみたが、少年に鋭く睨まれてしまったので引っ込める。代わりに人差し指をこすりあわせてもじもじとした。
「だって可愛いから・・・」
「人間は欠伸ではなく、その柔らかさや高貴さに惹かれるのですよ」
「変わってるなあ」
「鬼に言われたくないでしょうね」
少年の無愛想な言葉に、鬼はまたもじもじとしている。その頼りない行動に反して、鬼とは人間に害為す可能性がある異形の存在だ。古来から伝わるように怪力の持ち主であり、魔を使い、人の心の隙間に入り込む。激情が人間よりも強く、その動きを逆らわせない為には酒が効果的とは言われる。そんな鬼だがこの鬼は未成年なので酒という手は使えない。それどころか制服を着込み、学生生活を満喫しているような草臥れた鞄に友人から貰っただろうキャラクターもののアクキーがちゃらちゃら付いている。青春している鬼である。彼はわりと教室では人気がある。運動神経が良いことから好意を持たれやすいのだ。加えて少し内向的な性格が、いじりやすいということで愛らしさも感じられているらしい。だから甘えたように媚びたように、鬼の力を知っている少年を見上げる。
透き通った透明感のある少年だ。凛とした姿でその名前までも美しい。だが中学時代においては、他人の美しさはやっかみに変わり、教室では嫌われている少年である。
「おい、おまえ!いじんなよ緒丹によ」
「さいてーい」
やっかみの暴言が男女に差もなく少年に飛んでくる。鬼はむしろ恐縮して、首を盛んに振って違うと言った。だが鬼が庇えば庇うほど、何故か少年は嫌われていく。その頓珍漢な心の動きに、いつも鬼は首を傾げてしまうのだ。
羨望という感情が、この鬼にはまだ薄い。あるいは種族的なものだろう、嫉妬に狂った末の鬼の家系もこの世にはいるが、この鬼は乱暴狼藉な鬼の家系なのだ。怒り狂えば子供の首など簡単に飛ばせてします。だがこの鬼はそれをしない。少年はふんと鼻を鳴らしてその場を去った。更に罵詈雑言が少年の背に投げつけられる。鬼がかえって人間をたしなめていて、それでも若い無邪気で残酷な人間はからかったり見下すのをやめなかった。
美しい少年は、祓い師と呼ばれる家業の末裔である。鬼がこの世において、山を切り開かれて隠れ里が用を為さなくなってしまった。そのため、居場所を求めて人間の地に住まわせてくれと申し出があったのが明治の初期である。文明開化した人間なら、もしかしたら異国文化と併せて鬼も受け入れられるのではと考えたのだ。紆余曲折はあれど、数が少なくなっていた鬼は人間社会に住まうことになった。だが鬼としての純血さは残したい。だが衰退したくないということで、鬼同士の結婚が定められているものの、鬼はある年になると人間の学校に就学する決まりとなっている。集団生活に馴染み、人間の風俗を学ぶためだ。それまで鬼の里に暮らしていたが、突然学校に放り出されるので、何か人間側に不都合があってはならないと、祓い師と呼ばれる人間も鬼とセットとして入学する決まりだった。その決まりは、今や教師も知らない。ただ脈々と祓い師と鬼の里だけの決まりとなっている。鬼のペアは先ほど嫌われていた美しい少年であった。
小学校の時から少年とは一緒で、小学校では鬼を何かと助けてくれたが、中学に進学してから彼は急に大人びたのか一貫して冷たい態度を周囲にし出した。そのために嫌われている。変わりに鬼は、いじられながらも周囲に友人は絶えたことがない。人間の損得から考えれば、彼らの立場は本来は逆であるはずだが、なんだかあべこべだなあと鬼は思う。猫の欠伸を留めたいと考え、その首を持って帰ろうとしたのになあと鬼は猫を見やった。人間の目には、そして猫自身には何の変哲もない。だが鬼は時間という流動的なものを一歩引いて見ることが出来るうえ、その時間を止めてその残骸のような”過去”をつかめる。
だから鬼は猫の欠伸を取ろうとしたのだが、祓い師としては”過去”を鬼に取られると何かの障害が生まれる可能性があるので、止めたのだ。正義感である。未来への危惧である。うまく使えたとしても、本来死ぬ運命の人間を生かしたりすることも出来るが、その繰り返しにおいて世界の命運が変わることだってある。
だから鬼への目付役だ。だが少年の心は次第に学生生活ですり減って、折れそうになっている。
「ねえ」
鬼があわてて少年を追いかけてきたようだ。少年が振り返ると、過去から取った猫の首が鬼の両手にある。だが欠伸はしていない。可愛い猫の顔である。鬼はおずおずとそのかわいい物を差し出したが、少年はその首を祓いの術を施して消した。
「そういうの、やめてくださいって!」
「ご、ごめん」
「おーい、緒丹。集合時間だぞ~」
「行くよー。ついでに俐位くんも来なよ。緒丹のお守りでさ~」
くすくすと少年を笑う声が至る所から聞こえて二人を包んだ。だが俐位はふんと気にもしていないようにつかつかと歩き、彼を笑う集団を突っ切って歩いていく。感じ悪~と呟く声に、鬼はなんだかいたたまれなくなっていた。鬼は希望すれば大学までの就学が可能であり、今のところ鬼は、大学まであの俐位くんと同じ進学をするのだ。やっていけるかなあと鬼は少し心配になったが、友達に背中を押されて歩き出したのだった。
原点:一行作家