今宵音楽を聴きながら
彼と知り合って二十年近く経つ。が名前は知らない。知っているのは性別くらいだ。地下でしか会ったことがないので顔もよく判らない。日中すれ違っても彼とは認識出来ないだろう。お互いに。
新しい世紀が始まった冬、接待を終え赤坂の一ツ木通りをふらふら歩いていると雑居ビルの入口にピンクフロイドのレコードジャケットが飾られているのが目に入った。地下へと続く階段の壁には一九七〇〜八十年代のロックの名盤が並べられ、かつて神とも崇めたミュージシャン達に背中を押されるようにして店の扉を開けた。
暗い店内はカウンター七席のみ。その向こうに髭面のマスター。そして酒が並ぶボードの横にマッキントッシュのアンプとJBLのスピーカーが鎮座している。狭い店をより窮屈に見せるかのように壁一面にレコードが並べられ、客は聴きたい曲をリクエストすればマスターが自慢のオーディオで鳴らしてくれる。
タバコは自由、大声を出さなければ会話もOKで、決まりは一人の客が連続して曲をリクエストしてはいけないだけ(客が一人の時はマスターと交互に選曲する)というゆるさが気に入り月に一度は足を運ぶようになった。
彼を意識しだしたのは通い始めて半年ほどたった頃だった。
嗜好が似ている。それだけならよくあることで気にも止めないが、かなりの確率で前の曲と繋がりのある曲を選ぶのだ。マリリンモンローを題材にしたエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド」の次に往年の名女優ベティ・デイビスを讃える「ベティ・デイベスの瞳」を。
友人に寄り添う心情を歌ったジェームス・テイラーの「きみの友だち」の後にサイモン&ガーファンクルの最高傑作「明日に架ける橋」を。
マービン・ゲイの命日(四月一日なので非常に覚え易い)にダイアナロスがゲイとの思い出を歌う「アイ・ミッシング・ユー」を彼が選曲した後、僕がゲイのトリュビートソングであるコモドアーズの「ナイトシフト」をリクエストした。曲が流れ出した瞬間、彼は笑みを浮かべてグラスを上げた。
それ以来、気に入った選曲が流れる度、お互い軽くグラスを上げるようになった。それだけの関係が続いている。
連絡先も知らないし、次に店に来る予定も言わないので会う頻度は一年でも片手に満たない。そもそも碌に会話をした記憶もない。
友人かと聞かれれば間違いなくNOだ。だがこういう縁も悪くないのでは、と思う。