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水没世界に人魚と二人  作者: どくどく
たった二文字の、宝物
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たった二文字の、宝物

「私、そういうのはないんです」


 人魚に名前を聞いたところ、そんな返事が返ってきた。


「……名前がない?」

「はい。お姉さまの『皆川香織』のような個体を示す単語はありません」

「それもなんとかユニットとかの関係?」

「……えへへー」


 その顔は、笑っていた。


 どこか透明で、他に表情がないから浮かべているだけの笑顔。先ほどの笑顔が秘密を守る防衛線的な笑顔なら、今度の笑みは諦めのような笑顔だ。これ以上何かを言われても、笑う以外はできない。


 拒絶ではなく、答えがない。笑う以外にできない。


『えへへー。褒められちゃいました。もっと褒めてもいいんですよ。頭撫でてくれてもいいんですよ』


 博識を褒めた時の、あの笑顔。私の言葉に対して浮かべた満面の笑顔。最初に驚き、そして口が和らいでその後に目が笑う。そんな流れるような自然の笑顔。


『乳房の発達は思春期までの乳腺の発達で姿勢や生活態度が原因――ぎぶぎぶぎぶっ! ぎぶっていったからはなしてくださーい!』


 喜怒哀楽。ころころ変わる表情。見ていてわかるぐらい喜んで、怒って、悲しんで、楽しむ表情。


 それは今の笑顔にはない。笑っているように見えて、笑っていない。困っているように見えて、泣いてもいない。怒りもしない。名前がないという事実に、


「…………えへ」


 ただ、笑顔を浮かべてその追及を避けるしかない。きっとここで何でと問い詰めても、同じことなのだろう。『ないものはないですよー』とか、『実は記憶喪失なんですよー』とか誤魔化しもしないだろう。


 名前がない。


 それはこの子にとって、根本的なキズなのだ。冗談も、誤魔化しも、嘘も、笑いごとにすらできないぐらいに、致命的な何か。


 吹けば壊れそうな、そんな笑顔。私を見ているようで、どこか違う何かを見ている目。表情筋こそ笑っているが、嬉しいとか可笑しいとかそんなことを感じさせない。口と目を同時に動かして作った作り笑い。笑顔と言う仮面。


(聞かなかったことにして、別の話題を振ろう)


 名前がないことはこの子にとっての地雷だ。これ以上この話題に踏み込んじゃいけない。厄介ごとはごめんだ。私はそう判断して次の話題を探した。火を起こした後なにしたらいいのか、寝る時はどうしたらいいのか、今後どうしようか。


 話題はたくさんある。それを口にしようとして――


『皆川さんと話すると、いじめられるから……ごめんなさい!』

『殴られたとかじゃないんだよね? 証拠もないし……何ともできないね』

『アンタがいるから私は再婚できないのよ。こんなことになるなら産まなきゃよかったわ』


 学校で無視したクラスメイト。

 いじめをいじめをないことにしたい先生たち。

 そして再婚の為に私が邪魔な両親のセリフが脳裏によぎった。


 拒否すること。問題をなかったことにすること。存在を否定すること。


 それがどれだけ相手を傷つけるか、身をもって知っている。


 傷を深め合わないために相手を突き放し、見ないようにする。そんなことは簡単だ。そうやって適度な距離を保つことは簡単で、そうすることで維持できる関係もある。


 DNAを取り入れる人間じゃない存在。出会って数時間程度の仲。私がいないと魚になる淡い人魚。そんなヤツに気をかける必要なんてない。


 出会った経緯も関係もデタラメで、こんな世界でこんな状況じゃなかったら出会うこともなかった関係。そもそもこいつの話も眉唾物。否定されたって仕方ない。


 普通に考えれば見て見ぬフリが正解だ。普通ならそうする。私がされたように、相手の傷なんか気にせずに。触れないほうが、きっと正しい。


 だけど、正解なんて知ったことか。


香魚あゆ

「え?」

「貴方の名前よ。名前が無いなら私がつけてあげるわ」


 拒否される痛みを、傷をなかったことにされる辛さを、私は知っている。


 だから拒否しない。自分の都合で相手と距離を取り、それを相手の為だと納得なんかしない。


「あ……ゆ……」

かおりさかな香魚あゆ。私の名前と、アンタの今の見た目を合わせたわ。それで香魚」


 だってこいつは――香魚は、私の妹だから。


「あ……あ、ゆ」


 さっきまで浮かべていた透明な笑顔はない。呆けたように瞳を丸くし、私がつけた名前を呟いている。

 

「……安直だった? いや、アダプタブルユニット? それの頭文字からとったとか、そういうのもあるから」

「ゆ、あ……あ、ゆ……あ、あああああああああああああん!」

「うえええええ! 泣くほど嫌だった!? 確かにネーミングセンスはないかもだけど!」


 そしていきなり泣き出す香魚。顔を手で覆うことなく、大声で涙を流す。


「違うんです、違うんです! 私、私……香魚。香魚……! お姉さまの、名前、貰って……! それが、嬉しくて……!」


 香魚は私の方を見て、はっきりと言い放つ。私がつけた名前を噛みしめるように何度もつぶやき、その度に笑顔で涙を拭いて。わんわん泣きながら、でもそれは悲しいんじゃないのは見てわかる。


 嬉しい。


 その笑顔は、まさに嬉しいときに浮かべる笑顔だ。さっきまでの仮面のような笑顔じゃない。人が嬉しいときに浮かべる笑顔。誰が見てもそう思える笑顔。涙こそ流しているけど、疑いようのない満面の笑みだ。


「そ、そう……。そこまで喜んでもらえると、逆にこっちが気恥ずかしいわ」

「最高です。私、今本当の意味でお姉さまの妹になれた気がします。

 遺伝子情報とか知識の上での関係性の妹じゃなくて、言葉にできない何か温かい意味で」


 名前を付ける。


 たったそれだけの事が、そんなに嬉しかったのだろう。

 たったそれだけの事を、誰も彼女にしなかったのだろう。


 たった二文字の、宝物。それを抱くように、祈るように、香魚は両手を胸の前で組み合わせていた。


「馬鹿ね。遺伝子がつながってる程度で、関係なんか決まるわけないでしょ」


 香魚に近づいて、頭を撫でる。さっきよりも優しく、愛おしげに。


 遺伝子がつながっている私の親は、私を疎んだ。産むんじゃなかったと罵倒すらした。それは極端な例かも知れないけど、血縁は絶対じゃない。


「関係は作っていくものなのよ。DNAとか、肩書きとか、それはそれで重要かもしれないけど。

 でも本当に大事な関係っていうのは、話したり触れ合ったり喧嘩したりして作っていくものなのよ」

「香織お姉さま」


 潤んだ瞳で見上げる香魚。その唇が、愛おしげに私の名前を呼んだ。跳ね上がる心臓。あ、やばい。自分でもわかるぐらいに頭がくらっと来た。抱きしめたいという衝動が沸き上がる。香魚を抱きしめようと水面に足を踏み入れ――


「おわぁっ!?」

「きゃあああああ!」


 足を滑らせた。濡れた土は想像以上に不安定で、私は水の中に身を沈めてしまう。香魚に手を引かれて、どうにか水面に出た。


「うわ。また濡れ鼠だ」

「あわわわわ。大丈夫ですか!? 頭を打ったりしてませんか!? 石で体をキズけたりとかは!?」

「大丈夫よ。そんなに気にしなくても――」

「駄目でーす! 水中の雑菌は怖いんですよ。破傷風を甘く見ないでください! 痛いとか熱が出たとかあったら、すぐに言ってくださいね!」


 全身をペタペタ触りながら、香魚が心配する。数分前の仮面のような笑顔は、もうそこにはない。


「香魚」

「……なん、です?」


 まだ名前を呼ばれなれていないのか、ちょっと反応が遅かった。


「これからもよろしくね。香魚」


 こんな何でもない挨拶に、表情を崩して自然に笑う香魚。


 うん。この子にはこういう笑顔が似合う。

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