炬燵と門松
天文16年(1547)12月18日
■信濃国 佐久郡 小諸城
炬燵を依頼して3日後
「炬燵が来たか!」
信之は炬燵を私室へと運ばせると、早速着けておいた火鉢を中に入れる。
フゥ〜、暖かい…。
このまま隠居でもするか…。戦や内政なんかどうでもよくなってきた…。
はぁ、炬燵は良いものですなぁ〜。
炬燵に入って半刻経った頃
「殿、失礼します。ん?それは3日前に職人に頼んでおいた炬燵ですか?」
源五郎が部屋に入ってきて信之が炬燵に入っているのを確認する
「源五郎、お主も炬燵に入れ暖かいぞ」
「いえいえ、まだ仕事がありますので…」
「そう言わずに」
信之に言われてはどうしようもないので源五郎は言われるがまま炬燵を足を潜り込ませる。
「これは…」
源五郎の顔はみるみる緩む。
「暖かいだろう?」
「はい、このまま動きたく無くなりますな」
「今までは火鉢で手のひらを暖める事しか出来なかったがこれは足を温められる。本当は掘り炬燵が良かったのだがな」
「掘り炬燵ですか?」
「あぁ、この炬燵は火鉢をそのまま入れる為、 寝転ぶと足が火鉢に触ってしまい火傷をしてしまうが掘り炬燵だと足だけではなく上半身も暖められる」
「なぜそれを作らないのですか?」
「部屋の一部の床を低くしないといけないし、信頼できる職人でないと早々頼めないからな」
「確かに、敵方と通じているやもしれませんし信じるに値する職人を捜すのは時間をかけるしかありませんな」
「まぁ、忍びに頼んで見張りでもつければいいし」
「そうですな…」
信之と源五郎は自分の仕事をしばらく忘れ、のんびりとするのだった…。
天文16年(1547)12月31日
■信濃国 佐久郡 小諸城 信之私室
信之の私室では異様な光景が広がっていた。部屋には炬燵が4つあった。それに部屋の主人であり主君の信之と主な諸将が炬燵に入っていた。
「今年は我ら武田家が順調に信濃へと進行でき、皆の働きでこの上野も領有する事となったわけだが皆の方から何か言いたい事はあるか?」
信之は諸将を見渡す。
「ならば私が」
発言したのは国峰城の城主である小幡憲重。
「何故、今年最後の評定をすると言われてここにきたのですが、炬燵?なるものに入りながらしなくてはいけないのでしょうか?」
憲重の言葉に源五郎以外、うんうんと頷く。
「信濃国も上野国も雪が降る国、現に雪が降っている。そんな中、大広間でやるのは死ぬのに等しいし俺ははっきりと言って嫌だからな。暖かいは正義!」
「殿は正直者ですからな」
段蔵が笑いながら答える。
「まぁ、そこが良いのですが」
源四郎が続いて答える。
「この間、職人に頼んで火鉢に変わる暖房器具を作らせた。それが今、皆に座ってもらっている炬燵だ。私の軍にいる限り冬の間の評定は炬燵で行う、もちろん戦の陣中であってもだ。今、職人に大きいものを作らせている」
「確かにこの炬燵があれば冷え切った身体を暖めるのは良いですな」
箕輪城の城主である業正が普段は凛々しいおじ様の顔を緩ませている。
「それでな、これを褒美として此処にいる者全員にやろうと思ってな」
「「「なんと‼︎」」」
諸将達の口から驚きの声が出る。
「しかし条件があるのだ」
「条件ですか?」
千代女が首を傾げて問いかける。その仕草は抱きつきたいくらい可愛いがグッと堪える。
我慢…我慢だ!
「あ…あぁ、まずはこの炬燵を褒美として渡す者は絶対に裏切らないであろう者たちに渡す。また忠誠心、働きを認めていることにもなる」
少し千代女のせいで動揺してしまったがなんとか言えた。
「なるほど、確かに他家では譜代衆はともかく、他国衆、外様衆は中々認めて貰うのは難しいですからな」
業正が腕を組み悩むように言う。
「俺はそこがまずはおかしいと思うのだ。譜代衆?外様衆?そんなのは関係ない。俺は武田家の為に自分なりに一生懸命に尽くしている者に対しては評価する。現に此処にいる上野衆は信じるに値する。どうだ?俺、いや武田家の為に死ねるか?」
信之の熱弁に上野衆は自然と目元から涙が溢れていた。信房たち譜代衆も頷く。
「この老骨で良ければ武田家の為に死ねますぞ…。此処にいる上野衆は武田家、いや信之様を盛り立てていく所存末長くよろしくお願いしますぞ」
上野衆の筆頭である業正は答え終わると炬燵から出ると上野衆は皆、後に続くように炬燵から出ると頭を下げるのだった。
天文17年(1548)1月1日
信濃国 佐久郡 小諸城
あけましておめでとうございます武田信之です!
いやぁ、炬燵はいいものです。外は雪が積もり真っ白な状況で見るだけでも嫌になります。城内の正門と屋敷の玄関先には門松が置いてあるのですが、そもそも門松は何故、竹、松、梅が使われているのか?そんな形なのか不思議で前世?転生する前に調べたわけですよ。門松は玄関に左右一体の形で置くもので先ほど言った通り竹、松の枝と梅の枝を荒縄でしっかりと固定して作るが、何故竹、松、梅なのか?と思った人もいるだろう。この3つが使われるようになったのは室町時代からなのだそうだ。まさにこの時代ですね。松は千歳を契り、竹は万余を契る。という言い伝えが元となっておりそれから依り代が永遠に続くようにと人々の願いが込められているというわけでありまして、そう思うと門松は正月には欠かせないものだと分かります。門松の竹は上の節の部分が削ぎ落とされていますがこれは何のためか疑問になった事は無いだろうか。これは竹の切り口を見てみるとわかる。人が笑った口に見えるのだ。笑う門には福来たる…という語源があるように縁起を担ごうという説があるが本当はどうなのかはわからない。
門松という名前は名前から見て分かる通り松が主体なのだが門松を見てみると脇役である竹が中心にあり目立つ何故?と思った。
調べてみると門松は原来松の木の枝を飾るといものからきているらしい。なぜ松の木を飾っていたかというと、松は祀るという意味があるので古来より日本ではどんなものにも神様が宿ると信じられており松にも当然神様が宿っていると信じられていた。それに鎌倉時代までは竹は使われず松が主役だったらしいのだ。
門松の形について有名なエピソードがある。武田信玄と今は織田の人質になっている哀れな松平竹千代、後の徳川家康が深く関わっている。門松の切り口は2つあり水平に切った”寸胴”と、斜めに切った”そぎ”だ。寸胴は武田流門松として有名であるが家康がそれを切ったのが始まりとされる、そぎ門松が20世紀では主流となっている。
この世界では起こるかわからないが、忠実では武田信玄が三方ヶ原で家康を完膚なきまでに破った戦いの後に家康に対して送った文にそれは書いてあった。
「松枯れて竹たぐひなきあしたかな」
この意味は松は松平、つまり家康のことで竹は武田。
松(松平)が滅んで、竹(武田)は安泰である。
つまり松平がこれから滅んでいき、武田はこれから先は安泰である。という意味で当然家康はこれに対して怒り信玄に対して返答の文を書く 。
「松枯れで武田首無きあしたかな」
意味は
松は枯れず、武田の首が飛ぶ。
つまり松平はこれくらいでは滅亡せず、代わりに武田が滅亡するという意味だ。しかしこの文を送ったが怒りは収まらず門松の竹を信玄に見立てて刀で削ぎ落とした。
次はお前、信玄の首を切る!という意味もあったのだろう。後に家康が天下を取りそぎ門松も使われるようになったのだ。
寸胴、そぎ、どちらの門松でも縁起が悪くなる事は無いので人々の自由だが、やはり武田家として生まれた以上、武田流門松である寸胴タイプの門松を飾っている…。
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