志賀城陥落!そして上杉軍襲来
天文16年(1547)6月28日
■甲斐国 山梨群 躑躅ヶ崎館
「では我々も出陣する!」
おぉぉ‼︎
信之軍2000の兵と援軍として甘利虎泰と板垣信方の軍3000が雄叫びをあげる。
元々1654から早急に346人を新たに鍛えあげ軍に組み込んだ結果、丁度2000の兵になった。
俺はまだ4歳なので同然1人では馬に乗れず本陣の守りである工藤昌祐の馬に乗せてもらっている状態だ。
遂に武田軍信濃へ向かって出陣。
その数晴信を総大将として率いる総勢6000。別働隊、武田信之を総大将に添えて実質甘利虎泰と板垣信方、小畠虎盛がそれを支える総勢6000。計12000、これは抑えを残している以外武田家の最大兵力での出陣である。
信濃国の豪族、再び激震。
信濃四大将の1人。信濃守護・小笠原長時。北信の雄・村上義清。木曽谷の木曾義康。三者はそれぞれ武田家に対して敵対しており、諏訪、高遠の次は自分の所かもしれないと思い、軍備を固める。
■信濃国 埴科郡 葛尾城
・村上義清
「甲斐小童がまた攻めてきたか。恐らく志賀城辺りを攻めとるのだろう。無駄に兵糧を使うべきでは無いな。万が一にも備えて守りを固めるか…」
義清は家臣たちに兵糧が減るので軍備は最小限に抑えておくように命じる。
「関東管領の援軍も来るだろうが、武田軍の前には崩れ去るだろう。儂でも叩けるわ」
細く微笑み志賀城のある方角へと顔をむけるのであった。
■信濃国 筑摩群 林城
・小笠原長時
「武田め!この私の信濃を好き勝手動き回り勝手に城を落とそうとするなど!この信濃守護職の私が許さぬぞ!」
林城の一室で1人の男が暴れていた。その名は信濃四大将の1人である信濃守護職・小笠原長時である。
「殿、落ち着きなされ大将たる者落ち着きが肝心ですぞ」
そう言うのは重臣の神田将監。弓の名手でもある。
「しかし、武田軍め!甲斐で引きこもってれば良いものを」
親指の爪をギリギリと噛みながら志賀城のある方角へと顔をむけるのであった。
■信濃国 筑摩群 木曽谷
・木曾義康
「はぁ…また武田ですか…まぁここまで来るとは思いませんし、武田の動かきに注意して行動してください」
木曾義康はためいきをつきながらも家臣たちに指示して無言で武田軍がいる方角へと目線をむけるのであった。
天文16年(1547)7月10日
北信の雄 村上義清。信濃守護 小笠原長時
見事な切腹 諏訪頼重。巧みな鞍替 木曾義康
これが信濃四大将。武田家に比べるとなんかパッとしないメンバーと思う信之です。
そう名前が変わったのですよ。大人なったということですね。さて史実では24日に志賀城を包囲したんですけど自分がいるせいか少しだけ早く包囲している武田軍。
「さて早々に落ちるだろうて…」
晴信は気楽に構えていた。
その両脇には武田軍の諸将達が並び座っていた。
晴信から見て左側から武田信繁、武田信廉、武田信之、穴山信友、勝沼信元、桜井信貞、今井信房、今井信甫、今井虎意、今井信俊、桜井信忠、栗原信友、栗原正清、浅利虎在といった御一門衆。
右側は板垣信方、甘利虎泰、馬場信房、萩原昌明、飯富虎昌、室住虎登、曾雌虎忠、跡部信秋、原昌俊、原昌胤、原虎胤、小宮山虎景、下曽根昌利、曽根虎長、曽根虎盛、曽根虎吉、横田高松、小畠虎盛、多田満頼、金丸虎嗣、日向昌時、石原守繁、三枝守綱、三枝虎吉、長坂光堅、初鹿野高利、飯田虎春、加藤虎景、上原虎満、小山田信有、小山田昌辰、工藤昌祐、工藤祐長、板垣信憲、甘利信益、甘利昌忠、甘利信康、米倉重継、駒井昌直、春日源五郎、飯富源四郎、浅利信種、秋山信友、横田景康、小幡昌盛、山本勘助譜代家老衆。
そうそうたる武田軍名将達が揃う。
信之はそれを見渡す。
あれは隻眼の将、山本勘助か!実際にいたとは。それに多田満頼!火車鬼や天狗退治で有名な勇将。鬼美濃と恐れられた原虎胤!ヤバいな武田軍…。良かった…武田家に生まれて。しかも当主の三男で…信濃に産まれていたら真っ先に武田家の餌食になっていたよ…。
信之は安心しながらも包囲して入る志賀城を見上げる。
確か明日には金堀衆が城の水の手を断つんだよな。しかしそれでも落ちない。
「さて、先陣を務める者はいるか?」
晴信が諸将を見渡す。諸将はこぞって名乗りを上げるがそれを止めるほどの人物が名乗りを上げた。
そう信之である。
「先陣は私にお任せあれ」
「信之、お主はまだ幼子。1人では馬も乗れまい。戦いは無理かと思うが…それに付き添いと前にも言った筈だ」
晴信は心配そうに言う。
「既に志賀城は落ち申した。私が馬に乗らずとも戦わずとも既に陥落しているのです」
何ですと?バカな…
そんなわけなかろう!
まだ包囲したばかりじゃ。
様々な言葉が諸将から出る。
「静まれい!信之それはどう言う事だ?」
「既に志賀城は内から崩れるでしょう、武田軍の攻撃を合図に。段蔵!」
信之が段蔵を呼ぶと信之の後ろに現れる。両手にはには白い布で覆われたものを3つ持っている。白い布の下は真っ赤に染まっている。
段蔵は晴信の前まで行き置く。
「これは?」
晴信は信之の方に改めて向ける。
「笠原清繁の首、高田憲頼父子の首でございます。そして攻めると同時に城門に手の者がおりますので開門させます」
「良くやった!信之に初陣で先陣を任せる!」
「はっ!信房、源五郎、源四郎、昌祐、祐長行くぞ!虎泰殿、信方殿、虎盛殿後詰めよろしお願いします! 」
『承知した!』
そして武田軍が攻撃を開始すると段蔵の手の者が開門、信之達武田軍がなだれ込む。抵抗という抵抗がなく次々と打ち取られていく敵兵。
「城主、笠原清繁討ち取ったり!」
「高田憲頼父子討ち取ったり!」
打ち合わせ通り段蔵達が叫び更に敵兵の士気を下げる。
一刻も経たずして志賀城陥落。
しかし…
「関東管領上杉軍、当主・上杉憲政を総大将に碓氷峠を越えて信濃国へ入りました!」
との報告が来たのだった。
天文16年(1547)7月10日
■信濃国 佐久郡 志賀城
「関東管領上杉軍、当主・上杉憲政を総大将に碓氷峠を越えて信濃国に入りました!」
突如としてその知らせが物見に放っていた忍びが知らせてきた。
東国の旧勢力を代表する関東管領・上杉憲政。忠実での彼の生涯は波乱に満ちた生涯だった。大永3年(1523)、関東管領・上杉憲房の子として生まれるが3年後の大永5年(1525)に憲房が死去しまだ3歳という幼少であるため、憲房の養子である上杉憲寛、後の晴直が家督を継いで当主となったが享禄4年(1531)に起きた関東享禄の内乱で先代実子である憲政を擁立する成田氏や安中氏、藤田氏や小幡氏などが憲寛方の長野氏らに勝利したため、憲政が山内上杉家の家督を継いで関東管領となった。
忠実では上杉憲政は率いて来なく、倉賀野党16騎を先人に金井秀景が率いる上野衆が来るはずだったのに…。まさか兵数もか⁉︎
「兵数はどの位なのか?」
横田高松が聞く。
「その数約5000!」
やはり多い!俺が忠実よりも早く志賀城を落としたからか?歴史修正力が働いたのか?
いや、仕方がない。生き残り歴史に名を残すと決めたんだ、ここで動揺してたら成し遂げられい。
「父上!上杉軍を蹴散らしてまいります!」
信之は父、晴信に向かい深々と頭を下げた。
「うむ、存分に戦ってこい!信方、虎泰、信房、虎盛、良いな!必ず上杉憲政の首を獲れ!」
『はっ‼︎』
信之率いる6000の武田軍が小田井原に向けて進軍を開始する、
天文16年(1547)7月12日
■信濃国 佐久郡
・上杉憲政
5000の兵を率いて碓氷峠を越えて、佐久郡入った関東管領・上杉憲政。今年でまだ24の青年だ。3歳で父の憲房を失ってしまい、僅か9歳で室町幕府・関東管領職を拝命した。義兄弟と争いそして勝った。今では後北条氏に伊豆、相模を取られ武蔵も着実に取られている。
近年、関東は色々と対立があり争いが絶えない。関東公方と関東管領の対立。関東管領山内上杉と扇谷上杉の対立。未だ関東では血筋、役職を巡る戦の日々。それもこれも平将門公の乱以降、独立心旺盛な関東諸将は強い方に着くといった形でお家を保っていた。
そこに鎌倉幕府執権、関東の名門北条氏をあやかって名乗った北条氏が出てきた。下剋上である。そもそも北条氏ではなく伊勢氏なので区別するため後北条氏と呼ばれる。
「武田め!甲斐で大人しくしておればいいに!山猿め!この儂を誰だと思っておる!関東管領じゃぞ‼︎伊勢(北条)共々下賤の分際で…成敗してくれる‼︎」
憲政は色々と頭で考えている内にイライラして周りの家臣たちに当たり散らすのであった。
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