婚約破棄された虫好き令嬢は「あの虫」を使ってヒロインに復讐する!
「フランチェスカ・スウィングラー!君との婚約を破棄する!」
卒業を間際に控えた3学年の学生たちを集めた卒業パーティーで、この国の第一王子であるオーブリー・アルテアンは高らかに告げる。
「フランチェスカは平民出身でありながら特待生としてこの学園で過ごしたデリアに嫉妬し、筆舌に尽くしがたい方法で彼女をいじめた…!」
オーブリーはデリアと呼ばれた茶髪の女を肩に抱き、フランチェスカを糾弾する。
「殿下…人を指さしてはいけないと幼い頃に教わりましたよね?」
フランチェスカはため息をついて言う。彼女は美しいブロンドを結い上げ、真っ赤なドレスを身にまとっていた。
「い、今はそんなことどうだっていいだろう!とにかく、僕は心優しいデリアと共に生きていく…!君のような底意地の悪い女とはあたたかい家庭を築くことができない!」
デリアはオーブリーの腕に絡みついておっとりと微笑んでいる。
「その女のカバンの中に死にかけのセミを入れたり孵化直前のカマキリの卵を入れたりしただけなのに…」
フランチェスカは実に残念そうにつぶやいた。
「それがおぞましいいじめだって言ってるんだ!なんでそんなことしたんだよ!」
「殿下、わたし、こわかった…」
しなだれかかるデリアを抱き寄せ、オーブリーは彼女の頭を撫でる。
「どうしてって、そりゃあ…」
フランチェスカはそんな二人の様子を冷めた目で眺め、冷ややかな声で言った。
「その女が気に食わないからに決まっているでしょう?気に入らない女をいじめて何が悪いの?」
王太子の婚約者であるフランチェスカの言葉に、集まった卒業生たちはざわめいた。
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貴族だけが入学できる学園に、その女…デリアは平民出身の特待生として入学してきた。
どんな経緯があったのかは全く知らないが、とにかくナントカ男爵の養女として入学資格を得たらしい。
入学当初、公爵令嬢であるフランチェスカにとってデリアは視界に入ることすらないゴミ虫同然の存在であった。
男爵令嬢として生まれ育った子女でさえ、彼女にとってはどうでもいい。
平民出身のデリアなど、本来であれば一生関わることのない存在なのである。
ある日フランチェスカは、かねてから希望していた図鑑が入荷したと聞きつけ、意気揚々と図書館を訪れた。
『羽のない虫ずかん』と表紙に書かれた分厚い本を小脇に抱え、鼻歌交じりにカウンターに向かう。
その途中、デリアが書架の上のほうに手を伸ばし、プルプルと震えているのを見つけた。
「そこのあなた。わたくしが先ほど使った梯子があちらにありますわ」
どこの誰だかフランチェスカには分からなかったが、困っているようだったので声をかけてやる。
「いいんですっ!もうすぐあの人が助けてくれるはずだから…」
この女、何を言っているんだろう。
フランチェスカにはデリアの言いたいことが全く分からない。関わり合いにならない方が良いと判断し、彼女の言葉には答えずスルーすることにした。
カウンターで本の貸し出し手続きをしていると、そこに現れたのはなんと婚約者であるオーブリーであった。
オーブリーは彼女が求めていた本をとってやり、彼女がそれに礼を言う。
いつからあそこで手を伸ばしていたのか知らないが、梯子を使った方がきっと早かっただろう。
その時から、デリアはフランチェスカにとって「なんとなく気に食わない女」になった。
またある時、フランチェスカは当番で教材を運ぶデリアを見かけた。
彼女はそれほど重くもない教材を抱え、「ふぇぇ」と声を漏らす。
フランチェスカは昔、こっそりと忍び込んだ公爵邸の厩舎で珍しい虫を見つけ、乾草の中にもぐりこんだ標的をとらえるために束になった乾草を持ち上げたことがあった。
あまりの重さに、「ヴンヌ”ゥヴウ」という貴族令嬢らしからぬ声が出たことを覚えている。
あんなふざけた声がどこから出てくるのだろう…と考えていると、またもやデリアの前に現れたオーブリー。
デリアが抱える教材を代わりに持ってやり、彼女がそれに礼を言っていた。
この時から、デリアはフランチェスカにとって「だいぶ気に食わない女」になった。
オーブリーは、デリアがいかに愛らしいか、フランチェスカに語って聞かせたことがある。
「女性は男に守られるべき存在だ。完璧な存在よりも弱々しい女性の方がかわいらしい。その点、デリア嬢は実にか弱く愛らしい…」
フランチェスカはオーブリーを殴り飛ばしたい気持ちであったが、ギリギリのところで我慢した。
「つまり殿下は、お蚕様のような存在をお求めなのですね?」
蚕は完全に家畜化された昆虫で、野生として生きていくことはできない。
人間に守られ、利用されながらでなければ生きることさえできない生き物だ。
「そうやってすぐに虫に例えるところも可愛くない!」
オーブリーは顔を真っ赤にして言う。
「確かにお蚕様もかわいらしい姿をしていらっしゃいますが…彼らはそれだけではないのですよ。人間たちのために価値あるものを生み出してくださいます。それに比べて、あの女はどう?」
フランチェスカも、冷静なように見えて声には静かな怒りを浮かべていた。
「なんてことを言うんだ。彼女は虫なんかよりもずっと価値があるに決まってる。どうして虫しか愛せないような女になってしまったんだ」
「どうして?」
フランチェスカはオーブリーの言葉にぴくりと眉を動かす。もうそろそろ限界だ。
「わたくしが虫を愛するようになったのは、殿下が…」
「そんな話は聞きたくない。とにかく、フランチェスカもデリアを見習ってくれ」
翌日、フランチェスカはデリアのカバンにセミ爆弾を仕込んだのである。
カバンを開けた瞬間、「ジジジジ!」とけたたましい声をあげてデリアに飛びついたセミと、金切り声を上げセミを払い落とそうと暴れる彼女の姿は傑作であった。
あまりにも壮絶なその様子を、ぜひオーブリーにも見せてやりたい。
その時は、なんらかの理由で死にかけのセミがデリアのカバンに迷い込んでしまったのだろうということで片づけられた。
「デリアはとても怖い思いをしたみたいでね。しばらく僕がついていてやろうと決めた」
オーブリーにそう告げられた時、フランチェスカは彼の思考回路を疑った。
「わたくしという婚約者がいるにも関わらず、どうして殿下が男爵令嬢ごときの護衛ごっこをするのです?」
「フランチェスカなら、カバンからセミが出てきたところで喜びそうじゃないか。それに、君は一人でなんだってできるだろう」
悔しいが大当たりだ。カバンからセミが出てきたらサプライズプレゼントとしてありがたく受け取るだろう。
だが、それがこの国の王太子が平民出身の男爵令嬢の護衛ごっこをする理由にはならない。
「問題はそこではありません。わたくしという婚約者がいながらなぜ、あんな女と一緒に過ごすのですか?」
怒りに震えるフランチェスカの声を聞き、オーブリーは「ははーん」と得意げな顔をした。
「嫉妬か。見苦しいぞ、フランチェスカ。君も僕に愛されたいのなら、デリアを見習うことだな」
フランチェスカは怒りのあまり震える拳をさすり、それから王太子に語り掛ける。
「わたくしには平民出身の男爵令嬢の思考回路なんて理解できません。したがって見習うこともできません。それに、もしわたくしが平民として生を受けていたら、きっとわたくしだって…」
フランチェスカは瞼を閉じ、外で遊ぶことさえ許されなかった幼少期を思い出す。
幼い頃から第一王子の婚約者として育てられたフランチェスカは、毎日厳しい妃教育を受ける必要があり、自由など全くなかったのである。
親が決めた婚約で、当初はなぜ自分がこんな思いをしなければならないのかと毎日泣き暮らした。
しかしあの日、オーブリーとあの美しい蝶の姿を見てからフランチェスカは変わったのだ。
懸命に努力し、完璧な令嬢として認められた。
まさに王太子にふさわしい令嬢として、オーブリー以外のすべての人々に認められたのだ。
彼女が人生の半分以上を捧げて手にしたものは、その名声と期待であった。
フランチェスカは瞼を開ける。目の前には、あの日と変わらぬ幼い表情で自分を見つめるオーブリーの姿。
「わたくしが平民として生を受けていたら、たくさんやってみたかったことがありますわ。アリの巣に水を流し込んでみたかったし、サナギを激しくシェイクしてみたかった…」
もしわたくしが平民として生まれていたら。
彼の婚約者になることはなかった。だから、きっとこれでいい。
「なんの話?!そういう猟奇的な願望を口にするところも可愛くない!」
「王太子の婚約者に、可愛さって必要なのですか?」
平然とした顔で言うフランチェスカに、オーブリーはむっとした顔で「必要に決まってる!」と答えた。
「あーあ、今からでもデリアを婚約者にできないか父上に聞いてみようかなあ」
フランチェスカは翌日、孵化直前のカマキリの卵をデリアのカバンに入れた。
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あの卒業パーティー以来、フランチェスカやオーブリー、デリアはまるで腫物を触るように扱われた。
婚約破棄についてはまだ結論が出ていないが、王族があれだけ多くの人間の前で宣言したのだから、ほぼ確実に実行されるだろう。
フランチェスカには何もかもが許せなかった。
卒業前に、もう一度デリアをいじめてやろうと決意する。
寮でひそかに繁殖させていた、ぬらぬらと黒光りをする例の虫…イニシャルGを大量に連れてきた。
そしてオーブリーを装って書いた手紙をデリアの靴箱に入れる。
なんなら本当は靴の中にGちゃんたちを待機させたかったくらいだ。
デリアは時速1km程度しか出ていないのでは?という小走りでオーブリーのふりをしたフランチェスカが指定した教室にやってくる。
「オーブリーくん?どこにいるのー?」
なんということ。王族であるオーブリーを、男爵令嬢ごときがくん付けで呼ぶなんて。
はらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じたが、ひとまずここは冷静になって作戦通りにそっとドアを閉めて外から鍵をかける。
「オーブリーくん…?」
彼女はまだ気が付かない。彼女の周りには数十匹のGが潜んでいることに。
「ヒィッ!」
教室の中から短い悲鳴が聞こえた。ようやく気が付いたらしい。
「ちょっと!!!なによこれ!!!?!」
フランチェスカは、デリアの悲鳴を聞きながら懐中時計で時間を確認する。
そろそろ来る頃だ。
「あーっ!クソ!あのクソ女の仕業だな?!あいつマジ…!原作ではこんないじめ方じゃなかったのに!きもいんだよこのクソ虫が!近づくんじゃねえ!」
何も知らずに、教室の中のデリアは叫んでいる。
フランチェスカに呼び出されていたオーブリーが教室の前にいるというのに。
「私はヒロインなんだよ!ヒロイン様にたかってんじゃねえよクソ虫が!!たかってくるクソ虫はこの世界の男どもだけでいいんだよ!あのクソ王子…攻略対象の中で一番地位が高くて一番マシだから選んでやったのに勘違いしててキモイしよお!」
オーブリーは愕然とその声を聞いている。
フランチェスカも、流石にここまでデリアの口が悪いとは思っていなかった。ところどころに意味不明な単語も混ざっている。
「死ね!死ねクソ虫!」
可愛いGたちが殺されているような音がする。とはいえ、愛玩するために飼っているのではなく生態を観察するために飼っているので、それほど悲しみはない。
「殿下…愛しい女が困ってますわよ?助けて差し上げたら?」
フランチェスカに声をかけられたオーブリーは、「あ、ああ…」と頷いた。
彼はドアを開ける前に、助けを求めるようにフランチェスカを見る。
「フランチェスカ…その…」
フランチェスカは何も言わず、その場を去った。
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卒業までの約一カ月間、オーブリーはフランチェスカとすれ違うたびに何か言いたげな様子を見せていた。
フランチェスカはそれに気が付いていたが、あえて気が付かないふりをする。
いよいよ卒業というタイミングで、オーブリーがフランチェスカを呼び出した。
「フランチェスカ…ごめん」
開口一番に出てきた謝罪の言葉。でももう遅い。
「僕、甘えてたみたいだ。フランチェスカにも、デリアにも…」
ああ、もっと早く気が付いてくれていれば。
「ちゃんと気が付けて偉いですわ、殿下」
フランチェスカの微笑みを見て、オーブリーに希望の光が宿る。
「フランチェスカ、やり直そう。僕たちはずっと前から婚約していたし、まだ正式な婚約破棄の手続きはしていない」
「まだ甘えていますのね」
フランチェスカの言葉に、オーブリーははっとした。それから切なげに唇をゆがませる。
「僕がバカだった…」
うなだれて首を振るオーブリーの姿を見ても、フランチェスカの心は揺らがない。
「わたくしはあなたと一緒にこの国を背負うためにたくさん努力をしてきました。好きなことも我慢して、人生の半分以上を捧げてきました」
「わかってる」
「あなたが彼女を選んだのは、わたくしが捧げたすべてを否定する行為でした。もちろん、あの女をいじめたわたくしも悪かったのでしょうけど」
フランチェスカは思っていたよりもずっと冷静に言葉を紡ぐ自分自身に驚いていた。
「わたくし、あなたのことが好きでした」
オーブリーはフランチェスカの言葉を聞いて、小さく肩を震わせた。
「わかってた。わかってたのに、完璧すぎて僕を頼ってくれない君に不満があった」
鼻水をすすりながら彼は言う。
「僕は頼られたかったんだ。誰でもよかった…でも一番は、君に」
「…こんなことで泣いていては、王子は務まりませんよ」
フランチェスカが差し出したハンカチを、オーブリーは大切なものを持つように両手で握った。
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本来であれば、フランチェスカは卒業後王宮に入りオーブリーとの生活をスタートさせるはずだった。
しかし彼らの婚約は結局破談となり、フランチェスカは公爵領の中でも最も辺境の地にある別荘で過ごしている。
珍しい虫がたくさんいるし、田舎ということもあって一匹一匹がのびのびと大きく成長していて観察しがいがあり、彼女にとっては楽しい毎日であった。
これまでは次期国王の婚約者として、虫を愛でることは良しとされておらず、肩身の狭い思いをしていた。
しかし今ではもう、彼女の趣味をとやかく言うものはいない。
オーブリーはあの後、後に引けなくなってデリアを王宮に招いて妃教育を行っているようだ。
しかし平民出身の男爵令嬢で、なおかつあれほど口が悪い彼女がまっとうな妃になれるとは思えない。
事実、妃教育はかなり難航しているようだ。
国王を含め、オーブリー以外の多くの人間が何度もフランチェスカを呼び戻すよう彼を説得したらしい。
しかしオーブリーはそれを拒み続けている。
平民の女にそれほどまでに執着しているのか、と、周りの人々は呆れた目で彼を見た。
しかしオーブリーはデリアに執着しているわけではない。
窓の外を飛んでいる美しい蝶を眺めるオーブリーがつぶやいた名前は、元婚約者のものだった。
―――――――――――――――――――
「フランチェスカ!」
フランチェスカが虫を好きになったきっかけは、かつてこの公爵領で起こった出来事だった。
まだ彼らが婚約して間もない頃。婚約の意味をきちんと理解できないほどに幼かった頃の話だ。
名前を呼ばれたフランチェスカが振り向くと、オーブリーが彼女めがけて突進してきていた。
「ちょ、殿…わぶっ」
「つかまえた!」
オーブリーにぶつかられて転倒したフランチェスカの上で、彼は無邪気に言う。
「殿下!なんてことするんですか?!どいてください!」
フランチェスカにおしのけられたオーブリーは、地面にごろごろと転がって、しかし大切そうに何かを包む両手は決して開こうとしなかった。
「いたた…」
地面に転がったままオーブリーはつぶやいて、それから両手を高く上げ「見て!こっち来て!」とフランチェスカを呼び寄せる。
渋々といった様子でオーブリーを上から覗き込むフランチェスカに、彼は少しだけ拳を開いて手の中のものを見せた。
鮮やかな青と赤の羽根を持つ蝶がそこにいる。
「見て、これ!どうしても見せたかったんだ。だから追いかけてたんだけど、そしたらぶつかっちゃった!この蝶、フランチェスカみたいに綺麗だったから」
屈託のない笑みを浮かべてそう言ったオーブリーを見て、フランチェスカは初めての恋をしたのであった。
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久々に訪れたこの別荘で、フランチェスカはあの時の蝶を見つけた。
王子が捕まえた蝶を育てようとしたものの、素手で捕まえられたせいかすぐに死んでしまったことを思い出す。
その蝶を飼育しようとしたことがきっかけであらゆる昆虫に興味を抱くようになったのだ。
たとえオーブリーが覚えていないとしても、フランチェスカにとっては大切な思い出の一つだった。
フランチェスカは何とはなしに蝶に向けて人差し指を差し出す。
蝶はその指を避けるようにふわりと飛び立った。
青い空に蝶の羽根がひらめいている。
どこまでも広い空で、蝶は自由に飛んでいた。
だいたい一週間に1〜2本、短編アップしてます。
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