プロメテウスの少女 ⑤
――2169年 4月 13日
今日の分は一度書いたけど、夕方から今夜にかけてそれなりに事態が進んだので、追記で書いておく。
あの子――ノゾミの荷物は無事に回収することが出来た。
食事中のクマ達と出遭うハプニングはあったけど、向こうが食事と我が子の安全を優先してくれて助かった。
因果関係的に、バンダ達に感謝するべきかどうかは解らないな。
ノゾミは回収した通信機に、家族との連絡を試みているけど、楽観視出来る様子じゃないらしい。彼女をひとまずは安全な場所まで連れて行って、今後の事を話すべきだと思う。
ノゾミはだいぶ変わっていて、俺が思っていたよりも気丈な子だ。母さんとは全然似ていない筈なのに、どこか同じ空気を纏っているようにも感じる。
もしかしたら、この感覚も塔になにか関係がある――と、想像するのはロマンチック過ぎるか。
ノゾミを観ていると、塔の内部へ想いを馳せずにはいられない。
住んでいる人たちはどんな風に今の世界を観ているのだろう。満足してしまっているのかな。
少なくとも、人のマスクを勝手に外す行為についてはノゾミの家族に一言伝えたい。
まどろみに包まれた意識の中で、コウキは帰る事が出来るか解らない家にいた。
戦前の首都圏端にある静かな廃墟群で、状態のよいアパートの一室を父親が日曜大工の修理とブービートラップで囲んだ愛しい我が家。
そのリビングで幽霊の様に立ち尽くしたまま、コウキは懐かしい人の背を見ていた。
誰もいない筈のボロく手入れの行き届いた台所には、女性が機械のように精確な包丁捌きで野菜を切り分けている。
「ままー」
キッチンに繋がる廊下から小さなカーキ色のポンチョが、女性の背に見惚れていたコウキを透り抜けて現れた。頬に産毛の残る幼い子供が、料理の下ごしらえをしている女性に甘えながら駆け寄る。
人離れした白髪のセミロングと赤い瞳の奥に幾何学模様を映す、少女とも言える若さの女性が包丁を置いて振り向く。母親は返事こそしないものの、慈しみで瞳を細めて子を受止め、笑窪を浮かべた。
「今、帰ったよ」
初老の波を受けたくたびれ声が、子供に続いて女性へと届く。コウキと同じ装備を身に纏った、白い無精髭を蓄えた男性が、再びコウキを透り抜けて現れた。解体した鹿肉の詰まったクーラーボックスを脇に抱え、余った片手には、ふわふわとした毛で震えている仔犬を慎重に持っている。
女性の赤い瞳から覗ける幾何学模様が男性と仔犬を見て2回転した。
「お帰りなさい、その子は?」
「親がクマと相討ちして生き残っていたのを、コウキが見つけてな」
白い無精髭の男性が仏頂面のまま、空いた片手で子供の頭を強めに撫でつける。
子供は男性の手の強さによろめくが、何ともないように踏ん張ると母親へ顔を輝かせた。
「ぼくがみつけたの、ないてたから」
「そう、よく見つけてあげたね」
女性が我が子の頭を撫で、行動を讃える。
初老の男性はクーラーボックスを降ろし、仔犬を両手で抱え直す。
「この大きさなら固形物も口に出来るだろうが、ふやかして上げてくれ。私は家の外で獲って来た鹿の毛皮をなめしておくよ。コウキ、お母さんの食事の用意を手伝ってあげなさい」
「うん、任せて」
「外はもう暗いですから、気をつけて」
「流石にそこまで老いちゃいないさ」
白髭の男性が仔犬を子供に託すと、家の外に向う為にコウキの方を向いて真っ直ぐと歩いてくる。
――親父。
フウタを拾って家に連れ帰った夜。まだ、コウキにとっての世界が狭く暖かいもので包まれていた日々。今はもう、見つめるだけしかないコウキの胸中にはどうしようもない寂しさが燻っていた。
白髭の男性がコウキと擦れ違い様に、自身の頭を指でつつく。コウキにはその仕草に、照れが含まれていた様にも見えた。
――ここにいるぞ。
歳の波を感じさせる照れ笑いだった。
塞がれた窓の隙間から朝日が差し込む室内。
一足先に起床したノゾミは素材が剥き出しになったベットの上で、昨夜取り上げたコウキのマスクをいじり回している。
塔の中で暇で仕方なく漁ったデータベースの中で一度だけ閲覧した、合同軍の精鋭で構成されたレンジャー部隊の装備。劣悪な環境下でも動作し機能する耐久性と防弾性を優先した旧世界の骨董品は年季を伴いながらも手入れは行き届いていた。
「なるほど……バッテリーはどうしてるのかな。フウタ、貴方は解る?」
ノゾミの寝転ぶベットの下で丸くなっていたフウタが起き上がり、コウキの荷物を前脚と口で器用に漁りだす。使う頻度に合わせて荷の収納場所を決めていたのか、フウタが敷き詰まれた荷物の上から、手回し式の発電機とバッテリーの充電器を交互に咥えてノゾミへと持ってくる。
「おお……なるほど。あ、太陽電池もついてるのね」
「アフッ」
「こうやって繋げて……ハンドルをー、どっち方向でもいいのね……んっ!? かったい!」
「ワフウ」
発電機のハンドルがノゾミの懸命な顔に反して冗談のようにしか回らない。フウタは予期していたノゾミの反応に、あくびを上げて見守る。
しばらくの挑戦を続けたノゾミは疲労の溜め息を吐き出すと、興味本位で取り出して貰った荷物を元の場所に仕舞い込む。コウキはノゾミに黒髪の後頭部を向けたまま、未だにダンボールの上で横になっていた。
「なかなか起きないね」
「ワンッ」
ノゾミはベットから起き上がると、背を向けて横になっているコウキの正面へ回りこみ近づく。
昨夜になってようやく拝めた恩人の顔をもう一度、確認しようと屈み込もうとする。
――けっこう綺麗な顔をしてたのよね。
ノゾミの屈み込もうとするタイミングで、コウキが前触れも無く起き上がった。
突然の起床にノゾミが尻餅をつく。
「……びっくりした」
「んー、良く寝た……ノゾミは何してるの?」
「起そうと思ったら、ちょっと驚いちゃって」
体を伸ばしていたコウキが、尻餅をついたノゾミに手を貸して起き上がらせる。
そのままコウキは、昨夜の就寝前に室内の扉に仕掛けておいたショットガントラップの解除を始めた。
「朝食は食べとく?」
「んー……そんなに空いてはないかな、昨日のパンが思ったより重くて」
荷物整理をしながらお腹をさするノゾミに、コウキは顔を見せずに微笑ましげに口端を上げる。
「それじゃあ、コーヒーでも飲んでから出発しようか。飲む前に歯磨き代わりのガムと歯間ブラシはいる?」
「ちょうだいちょうだい、変りにこのウェットティッシュを2枚上げる。顔も歯も拭けるわよ」
「お手軽なんだな、ありがとう」
コウキとノゾミが互いに物品を交換して眠気を払う。
ノゾミがガムを噛みながら、ウェットティッシュを新たに取り出してフウタを自分の膝元へと手招きする。
「フウタ、歯を拭いて上げるからこっちおいでー」
フウタが手招きされるままに近づくと、ノゾミの膝へと寝転び仰向けのまま口を開いた。
立派な犬歯をノゾミが優しい手つきで拭き始め、フウタがされるがままに眼を細める。
「……懐いてるな、お前」
「コウキにもやってあげようか?」
「自分の手があるから遠慮しておくよ」
何時もより少しだけ賑やかな朝の時間に、コウキの寝覚めで感じた寂しさは消え去っていた。
2人と1匹の道行きは何事もなく順調に進んでいた。
野営地を出た直後に出会った野鳥の囀りや鹿の親子も、地下鉄の方向へ近づくに連れて姿を完全に消している。
時おり生じる風化した廃墟の風のうねり意外は自分たちの足音だけだ。
「私、1日しか体験してないけど、こんなに静かなものだっけ?」
「いや、静か過ぎる……もしかして」
コウキが何かを確かめようと、視線を地上から廃墟の屋上まで上げる。
濃いピンクの煙が灰ビルの隙間からかすかに立ち昇っている事に気付き、体を強張らせた。フウタの耳が何かに気づく。
「塔からの物資だ――不味いな」
「えっ、ちょっと!?」
コウキがノゾミの手首を掴み、フウタを先導させて通りの路地裏に引っ張り込む。
ノゾミの足が通りの中に納まる直前、彼女の足元に広がっていた地面の一部が弾けた。
息を吐く間も無く、コウキがノゾミの手を引いて裏通りを走り出す。
「な、なになに!?」
「撃たれたんだ、どうやら物資の争奪戦してる最中に入り込んじゃったらしい!」
「争奪戦!? 誰と誰が争ってるの!?」
「近隣の地下鉄の人たち同士なら、滅多に起きない。多分、バンダの連中と君を診てくれたお爺さんがいた地下鉄で、争ってるんだと思う!」
「どうするの?」
「とりあえずは自分の身を優先!」
「解った!」
「ワンッ」
先を奔るフウタの叫びに合わせて、コウキが肩にかけていたショットガンを掴みあげて、ノゾミの手を離して正面に構える。
首から頬にかけて刺青を入れたバンダが通りの出口を塞ぐように現れ、コウキがトリガーを引いた。
「ごゃあッ」
「おい、先回りしてるのがばれてるぞ! 突っ込め!!」
胸を破裂させて仰け反る仲間を盾に、3人のバンダが突入をしかける。
拳銃を突きつける先頭のバンダの手首をフウタが喰らいつき、バンダたちが路地裏の出口でもつれた。
コウキがフウタに気をとられるバンダたち目掛け、速度を上げて駆け込む。
「この犬畜生!!」
先頭のバンダが喰らいついているフウタを壁に叩きつけるより早く、コウキが勢いのままに両足でドロップキックを放つ。3人中、もつれ合っていた2人を蹴り倒し、コウキは仰向けに倒れこみながらもショットガンを前へ突きつけたまま射撃する。
最奥にいて難を逃れていた3人目のバンダの腹部をズタボロにさせて斃す間際に、バンダの手にしていた拳銃が1度だけコウキのタクティカルアーマーにめり込む。アーマー越しの衝撃にコウキはマスクの下で奥歯を噛んだ。
「っつ」
「コウキ!!」
コウキは背後からかけられるノゾミの声に応える前に、押し倒されてなお抵抗するバンダ達の頭部へショットガンの銃床を叩き込んで黙らせた。
「アーマーが受止めたから平気、他のバンダが追ってくる前に走ろう。フウタ! 地下鉄の方まで先導を頼む!」
「バウッ」
フウタが力強く返事をして道先を疾走し、瞳を不安に揺らすノゾミの手を再び握ったコウキが、空いた片手に自働拳銃を握り走りだす。
「大丈夫、親父にやらされた卒業試験よりは楽さ」
「――うん」
ノゾミは乱れる呼吸と思考の中で、コウキの手を強く握り返す事しか出来なかった。