お針子と兄君様3
お針子と兄君様3
師匠の言葉の意味が分からなかった。
痛まし気なため息が周りのお針子たちから漏れる中で、俺だけがぼんやりと突っ立っている。
「お前、作りかけの掛布があっただろう」
師匠が俺に言う。
「あれをお持ちいただくから、仕上げを急げ」
はあ、と気の抜けた声を返して、刺繍台の前に座った。
薄い緑の絹地の3/4は、すでにヒナギクに覆われている。
一針一針、思いを込めて、さしたかった。
誰が使うかもわからない掛布だった。
たぶんお嬢様が、もしかしたら未来の若奥様が。
何か間違ったら、あの人の手元に届くかもしれない、と馬鹿げた望みを持っていた。
それがかなうというのに、俺は全然うれしくなかった。
もしかしたら、これは、俺のその馬鹿げた望みが引き起こした事態なのだろうか。
兄君様が胸を病まれた。
廃嫡の上、修道院に入られる。
誓願は追って。
お持ちになる品々の用意を。
師匠の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
元気だったのに。
気落ちはしていたけれど、元気に見えたのに。
薄暗い部屋、水色の絹の上着、銀糸のレース、頬に落ちるまつ毛の影、ヒナギクをさした手巾、雲間から漏れる光のような笑顔、濃い赤い分厚い胴衣、身に沿わないゴブラン織りの上着、握り合った手から伝わる体温、指に落とされた唇の柔らかさ。
窓から差し込む弱い光を手掛かりに、必死にヒナギクをさした。
一針一針ていねいになんてことは、結局かなわず、いつものように急いで急いで、必死に。
でも、持っていってほしかった。
あなたのために俺がさしたのだ、ときっとわかってくれるから。
明るい、よく晴れた空の下、一面に咲くヒナギクを。
希望を。
光を。
俺を。
どうしようもないし、何も言えないし、もうたぶん会えない。
俺にできることは、ほかに何もなくて。
だから、俺があなたのヒナギクなら、俺を一緒に連れて行ってほしい。
日に当たって希望が見える。
あなたにとっての俺がそれなら、どうか。
どうか。
どうか。
奥様が弟君様に花瓶を投げつけて蟄居を命じられたとか、弟君様の婚礼が決まったとか、南の海で異教徒と戦っているご領主さまのご兄弟が久しぶりに帰っていらっしゃるとか、そんな噂話のうちの一つとして、兄君様が修道院に入られた、と聞いた。
ヒナギクの掛布が俺の手を離れてすぐのことだ。
それから、近々巡礼に出られる予定だ、とも。
胸を病んだ人間が巡礼に出る、というのは、死にに行くということと同じ意味だ。
病を治す奇跡を起こした聖人のもとを巡り、力尽きたところで倒れて、もう起き上がらない。
白い絹の敷布に銀糸でこの家の紋章をさしながら、俺は外を眺めた。
どんよりとした曇り空だ。窓から入ってくる光は相変わらず弱い。
紋章入りの敷布は、ご領主様のご兄弟が南の海に戻られるときにお渡しするためのものだった。
南の海のあたりは、気候が穏やかで暖かくて、太陽の光にあふれている、と聞いた。
明るい光の下、ヒナギクが一面に咲いている野原も、あるだろう。
俺はつい止まってしまった作業を再開する。
大きな紋章の緻密な刺繍は、さしてもさしてもやはり終わらず、師匠が引き上げ、ほかのお針子たちが引き上げても、俺は窓際に陣取ってさし続けた。
さしてさしてさして。
ずっと頭をからっぽにしておかないと、今にも走り出してしまいそうだった。
「ヒナギク、ちょうどよかった。スズランさしてくれ」
よく似た、でも全然違う声がする。
ヒナギクっていうな、と心の中で毒づいて、俺は顔を上げた。
濃い茶色の渋い色味の上着は弟君様によく似合っていて、奥様の思惑がなければこの人はこんな格好をするのか、と知った。
では、兄君様は、と考えがそっちに流れて、俺は緩く首をふる。
「まあそう言わず。お前、腕がいいのな。ほかのところのを持っていったら、前のほうがいいって言われたんだよ」
はあ、と気のない返事をして大きさや色味の確認をした。
縁のかがりをかわいらしく、中の刺繍は簡素めに。
「修道院に、一緒に行くかと思っていた」
急に投げかけられた言葉に眉を顰めた。
勝手に走り出しそうになる足を、必死に抑えているというのに、人の気も知らないで簡単に言う。
「誘われたろう?」
「は?」
思わずとげとげしい声が出て、とっさに口をつぐんだがもう声は出てしまった後だった。
「何にも言われてないのか?いや、まあ、兄上だしな……」
目を見開いた後、弟君様は心底あきれたという顔でため息をついた。
「一回、顔を見せに行ってやって。もうちょっと、身動き取れないからさ」
そんなに具合が悪いのか、と立ち上ると、刺繍台が膝に当たって、がたりと大きな音を立てて揺れる。
「いや、落ち着けよ。もう修道院の門、閉まる刻限だから。明日な」
どうどう、と馬をなだめるようにさすられる背中が気持ち悪くて手を払うと、
「お前、結構気が荒いのな」
と、おもしろげに笑う顔は、造作は似ているのに本当に全然違う人間のもので、なんで俺はこんなところでこの人と二人でいなくてはいけないのか、とひどく腹立たしかった。
翌日、夜明け前に起きて、朝の礼拝の時間に合わせて気持ちのままに走って修道院に向かい、門番に兄君様に会いたい旨を伝える。
門番小屋で待たされる間にも、寒くもないのに体が震えて、それを抑えようと両手を握りしめてうつむいていた。
身動きも取れないって、そんなことって。
「兄ちゃん、大丈夫か。まあ飲めよ」
相当様子が変だったのだろう、門番の一人が香草と蜂蜜の入った暖かい葡萄酒をくれたので、ありがたく受け取った。葡萄酒はいい匂いがして甘く、体の震えも少しだけ収まったようだった。
葡萄酒を飲み終わったころに、接待係の修道士がようやく表れて、宿泊棟に案内してくれた。
誓願はあとで、ということだったから、まだ客扱いなのだろう。
中庭に面した、たぶん宿泊棟で一番いい部屋の前まで俺を連れてくると、修道士は無言のまま頭を下げて行ってしまう。無言の行をしているのかもしれない。
こつこつと扉をたたいて、そっとあけた。
薄暗い窓の小さな部屋には、テーブルと椅子と寝台があり、その簡素な木の寝台の上には、濃い緑色の絹地の、一面にヒナギクの刺繍の掛布がかかっていて、そして、きちんと整えられたそこには誰も寝ていなかった。
「あ、の、まさか、来てくれるとは思わなくて、びっくりしてしまって」
扉の影から声がして、俺の肩がびくりと揺れる。
振り返ると、さっぱりとしたきれいな藍色の上着を着た兄君様が立っていた。
「使ってくださっているんですね、掛布」
上着の生地はやわらかな毛のようだった。
身に沿った細身の形が兄君様によく似合っている。
「あなたが作ってくれたものでしょう。すぐにわかりました」
緩く穏やかに話す。
決して大きな声ではないけれど、小さくも低くもなかった。
「いちめんの、ヒナギク、を、もっていっていただきたくて」
舌っ足らずな、子どもみたいな話し方になってしまう。
思ったよりずっと元気でよかった。
「ありがとう、とてもうれしかったです」
兄君様が笑うと、そこだけ日が差したように明るくなる。
「身動きが取れない、と聞いていたのですが、お元気そうで、安心しました」
大きな瞬きをして兄君様が首をかしげた。
「そう、ですね。廃嫡するには、それなりの理由がいりますから」
会話にはなっているけれど、何かがおかしい。
「お元気なんですか?」
こくりとうなずいて、にこりと笑った。
「実は元気なのです」
春の陽だまりのようになった薄暗い修道院の一室で、俺はへなへなと座り込んでしまう。
兄君様が床に倒れそうな俺をしゃがみこんで支えてくれるところに、ぎゅうと抱き着いた。
肩口に顔をうずめると、あたたかくて、やわらかかった。
「なんか、こんな、おれ、もう、あなたが、し、しんでしまうのかと、おもって」
ぎゅうと抱き返されて、首筋に額が触れる。
「心配してくれて、ありがとう。それから、ごめんなさい」
やわらかな声は少し湿っていて、その声を聞くと俺の腹の中はぐらぐらと揺れるような心地がした。
「巡礼に行くことになって、つまりは、ここに帰ってくるな、どこへなりとも行け、ということなんですけど、だから、もう城の中には入れなくて、だから、もうあなたに会えなくなってしまって、それで、あの」
湿ったままの声が、とぎれとぎれに続く。
「あの」
首筋から頭が離れたから、自分も肩口から顔をあげると、兄君様と目が合った。
「あの、一面の、ヒナギクを、あなたと見られたら、と、思っているんです」
すがりついた腕が震える。頭ががんがんして、体は熱いんだか寒いんだかわからない。
「俺も見たいです。あの」
何もできない、と思っていた。
何かできたら、と思っていた。
返す言葉を持たない、と。
それは仕方がない、と。
でも、今は。
今なら、俺はこの人に、返せる言葉があり、できることがあった。
「「一緒に」」
口にした言葉は同時で、つい笑ってしまう。
俺が笑うと、兄君様も笑う。
顔が自然と近寄って、唇が重なった。
「あなたと一緒なら、どこへでも」
息の触れる近さでささやくと、抱きあう腕の力が増した。
「ありがとう。あなたは、私の、ヒナギクです」
おわり
読んでくださってありがとうございました。
少しでも楽しんでいただけたら、うれしいです。




