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私のヒナギク  作者: 加也子
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お針子と兄君様2

その日も俺は忙しかった。

奥様の提案で馬上試合の催しが急遽開かれることになり、領主様と兄君様と弟君様用の鎧の下の胴衣と上の長上着、試合の後の宴用のお三方のお召し物と、試合中と宴用の奥様のガウンをそれぞれ新調する、という意味の分からない仕事量になってしまったからだ。

裁縫室に詰めているお針子だけでは手が回らないときは家臣の奥方やご息女の手を借りることもあるのだけれど、今回は彼女たちの夫や父親の衣装も作る必要があるのだ。頼めば嫌とは言われないとしてもわだかまりが残るので、師匠としてもできれば頼みたくないというのが本音だった。

そして、お針子だって恋人や父親や夫に胴衣や長上着を作りたい。当然だ。

ということで、馬上試合に出るような父親も、もちろん恋人も夫もいない、俺とか俺とか俺とか俺が、ひたすら縫って縫って縫いまくるということと相成った。

「死ぬ……」

俺のつぶやきに作業台の向かいで恋人の胴衣にあけた小さな穴をかがっていたお針子の一人がすまなそうに言う。

「ごめんね。ありがとね。これが終わったら奥様のガウンの刺繍やるから」

すまながるならそんな手の込んだ胴衣なんて作るな、と心の中で毒づいてから、

「奥様の刺繍はいいから、ご領主様の長上着縫って」

と、手を止めずに答えた。

「ありがと、恩に着る」

あまり刺繍が得意ではない彼女に刺繍を任せるのは自分が余計に死ぬからだけれど、恩に着られてしまった。ありがたく貸しにしておこう。一層早くなった彼女の針をちらりと確認してから、俺は兄君様の胴衣の仕上げに入った。

明るい赤の毛織物だ。兄君様が着るには、色が強すぎるというのが裁縫室の一致した意見だったけれど、奥様の強い意向でこの色に決まった。

この前は、弟君様の衣装が赤かった。

深く強い赤色の生地に、金糸の刺繍を全面に施して、金茶色の毛皮で飾ったその上着は、華やかに弟君様を際立たせた、のだそうだ。

だから、今回は兄君様にその色を、と。

胴衣は赤。長上着は赤と朱。宴には赤を基調にしたゴブラン織に毛皮の裏打ちの長い上着で、こんな量感のあるものよりも、もっとすっきりとした囲気のほうが、あの少し線は細いけれどきちんと伸びた背中ににあうのだろうに。

俺は細く息を吐いて、それから濃くて強い赤色の一番細い糸を針穴に通した。

「ヒナギクってのは、お前か?お前だな」

裁縫室では聞きなれないよく響く男の声がした。俺はヒナギクを途中にして針を布に止め、ようやく顔を上げる。

ヒナギク、とは俺のことだろうか。

「刺繍の腕がいいと聞いた。スズランの手巾を頼みたい。小さめで、端っこもかわいく。色とりどりで、女が喜びそうなのを」

最初に思ったのは、兄君様によく似た顔だ、ということだった。

でも、似ているのは顔だけだった。

「手巾、ですか」

つぶやいた俺の声は不満げだったはずだ。

すでに死ぬほど忙しいのだ。

手巾とか縫ってる暇はない。

しかも端をかわいく色とりどりだなんて手の込んだものを。

「そう、馬上試合の前日までに頼む」

じゃあ、と言いおいて弟君様は踵を返した。

後ろについていた侍従が、

「後で何か差し入れる。すまん」

とささやいて後を追うのを呆然と見送っていると、作業台の向かいから、

「午後には二人くらい戻って来る予定だから、あの、元気出して、正気に戻って、手を動かして。あんたが自失したらもうあたしたちは終わりなのよう」

と、悲痛な声がかかる。

ならその胴衣、さっさと仕上げろ!、と心の中で絶叫してから、俺は息を細く細く吐く。

気持ちが乱れると針が乱れる。

ほんの少しの間、薄暗い部屋の中に浮き上がる頬と、そこに落ちるまつ毛の影を頭の中に思い描いてから針を持った。

胴衣の内側、左胸の、心臓の上に、そっとヒナギクをさす。

気がつくだろうか。

気がつかないだろうか。

でも、どっちでもいいような気がした。

俺が、彼の左胸の上に、俺のさしたヒナギクがあるということを知っていれば、それだけで。

ヒナギクは、希望。

日の光。

ていねいにさし終えて、その上にそっと触る。

それから、出来上がった胴衣を師匠が確認する用の台の上に乗せた。

次は、問題のスズランの手巾だ。

早く仕上がるものからやる、というのが、俺の座右の銘だった。

手巾は馬上試合の前日に侍従が取りに来た。


絹地に絹糸でさしたスズランは、まあまあきれいにできていたと思う。

どこのお嬢様に渡されるのかは知らないが、たぶん喜んでもらえるだろう。

ようやくそんなことを思ったのは、馬上試合の日の夜だ。

前日までは余計なことを考える暇はなかったし、当日の昼間は完全に死体になって、睡眠をむさぼっていたからだ。

宴が始まるころ、よろよろと起きだした俺は、おふるまいの肉と肉と肉と、侍従から差し入れられたちょっといい酒でいい気分になって、使用人用に開放された裏庭と厨房を行き来して、俺なりに宴を満喫した。


だから、俺は知らなかったのだ。

馬上試合で何が起きたのか。

宴でどんな騒ぎがあったのか。



大きな催し物が終わって、裁縫室はつかの間の静かな日々を迎えていた。

特に急ぎで作らなくてはならないものもなく、お直しもなく、なのでお針子たちはそれぞれに思い思いの作業をしていた。

師匠に言われたものを作ったり、苦手分野の克服を図ったり、得意技を磨いたり。

俺は、寝台の掛布にするための布に刺繍をさしていた。

大きな薄い緑の絹布に、濃い緑で茎と葉を、花びらは白く、真ん中は黄色で、細かなヒナギクを山のように。

「誰の掛布?」

向かいに座るお針子は、苦手分野の克服ということで、ひたすら花やツタや鳥をさしている。

「さあ」

こんなかわいい掛布だったら、完成したらおそらくはお嬢様のものになるだろう。

あるいは、いつかあるいはそろそろ嫁いでいらっしゃる若奥様のものに。

「あんた刺繍得意でしょうに」

別に今更やらなくても、という含みを持って彼女が言う。

「急いでがつがつさすんじゃなくて、一針一針思いとかを込めて、ていねいにさしたりしてみたいと思ったんだ。あんまりそういう機会、ないから」

ああ、そうねえ、と最近の忙しさを思い出したのか、彼女のあいづちにはため息が混じっていた。

早めに上がるという彼女を見送って、俺は窓辺に移動した。

日が傾いて、部屋の中が薄暗くなってきていたからだ。

一針一針、ていねいに。

思いとかを、込めて。

窓辺でも針目が見づらくなってきたころ、ことりと小さな音がして裁縫室の扉が開いた。

だから、どうしてこの人は俺が一人の時にやってくるのだろう、と入り口に立って困ったような嬉しそうな、でも冴え冴えとして透き通った顔をしている兄君様を見上げる。

兄君様は赤いゴブラン織りの長い上着を着ていた。毛皮の内張りのしてある、嵩の大きな上着だ。

その上着は兄君様には重たすぎる印象で、なんだか上着が立っているように見える。

「胴衣に、ヒナギクをありがとう。あれは、あなたでしょう?せっかくさしてもらったのに、負けてしまったのですが」

馬上試合で兄君様が弟君様に負けた、と言う話は裁縫室の噂話で知っていた。

でも、それは別に大した話題ではなかった。

兄君様が弟君様に勝ったことは今までなかったからだ。

「残念でした」

俺の言葉に、兄君様は笑ったような顔をして目を伏せた。

日が沈みかけ、薄青くなった部屋の中で、華々しいゴブラン織りの赤い上着がひどく場違いに見える。

「兄上、ここか。っと、ヒナギクも一緒だったか悪かった」

ごつごつと音を立てて、廊下をかかとの堅い靴が近づいてきたことに気がついたのと、よくとおる低い声がかけられたのはほぼ同時だった。弟君様は歩くのが早い。

ヒナギクというのは俺のことだろうか。

領主の息子たちが夕方の薄暗い裁縫室にそろっているという奇妙な状況に、首をかしげながら俺は、もそもそと刺繍台に広げていた敷布に埃よけの麻布をかけた。もう暗いし、今日の仕事はここまでだろう。

「どうしました?」

さっきまでより少し張りのある、でも優しい声で兄上様が問うと、弟君様は肩をすくめた。

「母上が兄上のことを探していて」

「なぜ君が?」

「探しに行けって」

兄君様がため息をついて扉に向かおうとするのを、弟君様が腕をつかんで止めた。

「あんたが全部引き受けることはないよ。適当にすればいい」

ふ、と兄君様が嗤った。

嗤った、と思った。

「湖畔の奥様は、私が一番上だから母上に渡したのだけれど、最初から出来がわかっていたら、どうしたかな。君を渡したかな」

弟君様はつかんでいた兄君様の腕をぐいと引き寄せた。

背丈は、弟君様のほうが少し高い。

体のつくりも、なんとなく弟君様のほうががっしりしている。

「あんたがそういうこと言うのはじめて聞いたな」

弟君様がさらに兄君様の腕を引き寄せて、口を耳元に寄せる。

それは、小さな、でもはっきりした声だった。

「いらないなら、俺によこせよ。その立場、あんたより、もっともっとうまく使ってやる」

兄君様は目を見開いて、ぱちりと瞬きをした。

「きみが、そういうことを言うのを、はじめて聞きました」

「はじめて言ったからな」

そして、弟君様は兄君様の体を放り投げるように離すと、そのまま裁縫室を出て行った。

俺は、たぶん、立場的に聞いてはいけない話を聞いた。

これは、忘れなくちゃいけない話だ。

とてつもなく遠い話で、どうしようもないことが歯がゆかったけれど、それは確かに、俺にはどうしようもないことでもあった。

俺はここにいるのに、なぜ何もできないのだろう。

どうしようもないのは、わかってはいた。それでも、何かできたら、と思ってしまう。

「弟は、何でも持っていて、何でもできて、ずっと日向を歩いていて、自分はそれを陰から見ているだけなんだと、ずっと思っていました」

兄君様が、小さく低い声で話し出した。

俺は、それに対して返す言葉を持たない。でも、言葉を持たないから、これを聞けているんだろう。


兄君様の声を。

気持ちを。

心を。


「彼は何でも持っているのに、彼が持っていない、持てない、手に入らないものだけを、私は持っていて、さぞかし、腹立たしかったでしょうね」

どうしようもないし、何も言えないし、何もできないのに、何かしたくて、俺はだらりと垂れた兄君様の手を握る。

冷たい節立った手だった。

俺が針を持つのとは違うところが硬くなっていたり厚くなっていたりして、ほっそりとした見た目によらず、この人がずっと槍や剣を持ってきたのだということがわかる。

握った手がぎゅうっと握り返された。

「胴衣に、ヒナギクをありがとうございました。あれのおかげで、何でもできる気分になったのですが、でもやっぱり、持った力以上のことは、できませんでした」

兄君様が笑った。

空気に溶けてしまいそうな顔だった。

「するべきことを、するだけだ、とずっと思っていました。私では、求められるに足りないのは、もうずいぶん前から分かっていたのですが」

握りしめられた手が持ち上げられて、そのまま指に口づけられた。

「ありがとう、そばにいてくれて」

口づけられたままの唇が紡ぐ言葉で、俺の背筋はぞくぞくと震える。

気持ちが悪いものではなかった。

反対に、とても気持ちがよくて、俺は思わず兄君様の手に自分の唇を寄せる。

手を握り合って、それぞれの指に唇を落とす。

ぴくり、と兄君様の体に力が入って、そして、解けた。

「ありがとう」

かすかにゆれる、小さな低い声だった。

唇の触れたところから手が熱を持っていく。

「あなたは、私のヒナギクです」

俺たちは手を握り合って、指に唇を落としあって、しばらくそのまま動かないでいた。

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