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私のヒナギク  作者: 加也子
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お針子と代書屋

お嬢さまのローブにバラの刺繍をさしているうちに、日は沈み夜は更け日が昇り日が高くなった。

一晩中明かりをともしてでも作業をさせ続けるというところからこの屋敷の主の財力が見えてくる。

針を持つ指の痛みがわからなくなり、目がかすんでとうとう金糸が見えなくなったころ、俺の右側で作業をしていたお針子の女の子がようやく、

「おわった……」

とつぶやいた。

「おわった?」

左側からも声がする。

ぷつり、と震える手で糸の始末をした。

「おわった……」

あふれてきたのは達成感ではなく疲れで、一瞬前までかかりきりだった深い赤色のローブをよけて、俺たち三人はごろりと床に倒れ伏した。

「おくさまにごほうこくしないと」

右側の子が言うと、

「もうむり、たちあがれない」

と左側が答える。

無言の圧力を感じたが、ビロードのローブ一面を覆うバラのうち八割は俺がさしたのだ。体力など残っているはずがない。

「そのうちようすをみにくるでしょう」

俺の言葉に、右側も左側も異存はなかったらしく、奥様の命を受けてやってきた侍女の金切り声に起こされるまで、俺たちは床で少しの眠りをむさぼった。


「よい腕ですね。いつでもいらっしゃい。召し抱えます」

錦の巾着は机の上でなかなかの重量を感じさせる音を立てたので、もしかしたら賃金に色を付けてくれたのかもしれない。奥様のご意向か目の前の家政婦の独断かはわからなかったけれど、もらえるものはありがたくもらおう、と俺は薄く微笑んで恭しく巾着をいただいた。

「ご縁がございましたら」

適当な言葉でその場を濁し、俺は一昼夜を過ごした屋敷を出た。あのローブはお嬢様が今日だか明日だかにお召しになるのだろう。

肩はばきばき、目はしばしば、右手は細かく震えていた。さわやかな初夏の日差しの中、俺はふらふらと市庁舎前の広場を目指す。懐の中の錦の巾着の重さが心地よい。おかげで今日はちょっといい宿に泊まれそうだった。

召し抱えますって言ってたけど、と俺は市庁舎に陳情や書類を出しに来た人々と、それらを相手にする代書屋や紙屋であふれる広場を見回す。

目がかすんで、広場を囲む回廊の陰に座っている代書屋たちの中からお目当ての人物を探し出すのにずいぶん時間がかかってしまった。どうやらまた場所取りに失敗したらしく、市庁舎から一番遠い端っこの、もう広場からはみ出してるんじゃないのか?というところに彼は座っていた。座り姿が美しく、おっとりとしていて品がよく、女性たちからはちらちらと目をやられているけれど、場所取りも客引きもへたくそなので、あいかわらず彼の前にはだれもいない。

実際は、おそらくこの広場の中でも一、二を争うくらいの字を書くし、そのまま公文書にできるような書類を作成できるのだが、まあ、確かにどうやってもそうは見えない。

穏やかに笑む顔が、俺を見つけてほころんだ。

陰にいるはずなのに、彼の周りだけに日がさしたような気分になる笑顔だ。

「おつかれさまです」

「つかれました」

「何を刺してきたのですか」

「今回はバラを。ひたすらバラを刺しました」

しばらくバラは見たくもないな、と思ったけれど、今の時期この街はバラがあちこちで咲いているから、いやでも見ることにはなるだろう。

ため息をついて、彼の後ろの地面に腰を下ろした。

日陰の石畳はひんやりとしていて気持ちがいい。

「今日は、一通嘆願書を書きました。それから、恋文を」

くすくすと笑って、彼は俺を振り返った。

「何かすてきな文言を、と言われたので、あなたは私のヒナギクですって書きました」

どこからどう突っ込めばいいのか、とぼうぜんと彼を見上げると、きょとんと首をかしげて目を瞬かせた。

「なにか、間違えましたか?」

間違いではないけれど、一般的に使う言い回しではないし、そう書かれた相手がきちんと意図を理解できるか、と言われればそれは難しいのではないか、と思う。

それに、伝わる伝わらないよりも、彼が代書屋の仕事でその言葉を使ったというのが、俺には少しつまらない。

ほかに、いくらでも気の利いた定型的な言葉があるだろうに。



あの国は寒かった。

太陽の光がここよりもずっとずっと弱かったし、窓も小さくて、部屋はいつでも薄暗くて、細い糸で刺繍をさすときは目をこらさなくてはいけなかった。

ダマスク織の、毛皮で裏打ちされた長い上着は重たくて、彼を押しつぶしてしまいそうだった。

いらないならよこせ、と弟君は言った。

その立場、あんたより、もっともっとうまく使ってやる、と。

薄暗い部屋の中で浮き上がるような白い頬に、伏せたまつげの影が落ちる。

生地と同じ色の細い糸で目立たないところにこっそりとヒナギクをさした。

ありがとう、と彼は言った。

小さな低い声で。

空気に溶けてしまいそうなはかない笑顔で。

俺の手をぎゅうとにぎって。

あなたは私のヒナギクです、と。


「あなたは私のヒナギクでしょう?」

「そうですよ」

「間違っていませんよね」

「間違っていません」

日に当たって、希望が見える。

それが、ヒナギク。

俺は、彼の希望。

よりどころ。

「すてきな言葉を書いたつもりだったのですが」

しょんぼりと肩を落とす彼の手にそっと触った。

「ふたりだけの秘密の言葉のつもりでした。だから、すこし、びっくりしてしまって」

きゅっと指が握りこまれた。

「ひみつのことば」

「そうです。秘密の言葉」

握りこまれた指が持ち上げられて、俺の爪の短いささくれた指先に唇が落とされる。

「もう二度とほかの人には使いません」

俺が笑うと、彼も笑った。

日陰が陽だまりになるみたいな顔で。


召し抱えよう、と言われたけれど。

字を書く仕事だと、国をまたいで書類が行き来して、筆跡から素性がばれてしまうかもしれないし、それができないとなったら、あのお屋敷に彼のする仕事があるとは思えない。

「どうしました?」

「次は、どこへ行きましょうか」

空は澄んで明るく青く、空気にはバラの香りが混じる。

見たくはないけれど、香りは別にかまわない。

「海のほうはどうですか?」

そう言って彼は笑った。

「いいですね」

俺にとっては、彼こそがヒナギクだった。


あなたと一緒ならどこへでも。


あなたは俺のヒナギクだから。


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