:第二話 秘密 2
午後。
1組の生徒に混じって給食を食べた俺は、昼休みが終わらない内に体育館へと赴いた。
午前中の3・4組に引き続き、5時限目は1・2組の合同体育となっている。
新年度初の体育では、全クラス共通してのレクリエーションを行った。
"ケイドロ"や"フルーツバスケット"、北海ならではの"大根抜き"など、伝承遊びに類されるゲームを中心としたものだ。
残念ながら、二度目となる今日からは通常の授業内容に戻る。
今週いっぱいは体力測定がメインで、来週はバスケットボールを予定している。
前にいた学校でも、バスケの授業は概ね好評だった。
インターハイをかじった経験が活きている、かは分からないが、子ども達に良い影響を与えられたなら喜ばしい。
**
危険物の点検、備品室の整理。
義務というわけじゃなくとも、事前準備は欠かさずやる。
授業を滞りなく進めるため、何より、生徒が怪我をする可能性を減らすために。
そのためなら、自分の自由時間が犠牲になっても構わない。
昔は意識してやっていたルーティーンが、今や考える前に体が動く。
「───あ、やっぱりいた〜」
「佐山先生。お疲れ様です」
「お疲れ様〜。ほんといつも早いのね〜」
「暇だったんで」
程なくして、佐山さんが合流した。
佐山さんは女子の保健体育を担当する教師で、30代半ばの快活なお姉さんである。
「あっ!
もしかして、もう点検終わらせちゃった?」
「だいたいは」
「ンモ〜、分けてやろうって言ったのに〜。
せめてこっちは残しといてよ〜、一人で全部はさすがに大変よ〜」
「そう思ったんですけど、黙って待ってるのも、なんか……」
「暇だった?」
「はい」
「言い訳ヘタクソかよ〜、気遣いすぎなんだよキミは〜」
「すいません。押し付けがましかったすかね」
「逆逆。助かるマジありがとう。後でコーヒー奢る」
「やったー。ありがとうございます」
体育館中央には、仕切りのネットが引かれている。
ネットを隔てたステージ側が男子、出入口側が女子。
それぞれに活動場所が別れ、活動場所の違いが、俺と佐山さんの領分の違いでもある。
「午後もよろしくお願いします」
「こちらこそ。張り切っていきましょー」
佐山さんとの閑談を切り上げ、ステージ上で待つこと数分。
いつもの制服から運動用のジャージに着替えた1・2組の生徒が、ぞろぞろと体育館に集まり始めた。
「(あれ……?)」
しかし、集まった生徒の中に、相良の姿はなかった。
まだチャイムは鳴っていないのでセーフだが、どうして相良だけが居ないのだろうか。
心配になった俺は、クラスの誰かに訳を聴いてみることにした。
「───柴田!ちょっと!」
ステージ脇で欠伸をしていた少年を呼び、こっちこっちと手招きする。
少年は首の骨を鳴らしながら、気怠げに歩み寄ってきた。
「なんすかー?」
鶏のトサカのように逆立った髪と、立ったまま寝こけそうな半目が特徴的な彼は、柴田祥太郎。
チームレギュラーと副キャプテンを兼任する、男子バスケ部の一員だ。
普段はだらしない言動の多い彼だが、いざ試合となると水を得た魚になる。
来週からは部活動だけでなく、体育の授業でも勇姿を拝めることだろう。
「1組の生徒って、ほぼほぼ揃ってるよな?
なんで相良だけいないんだ?」
今朝から顔色が悪かったのもあるし、もしかしたら本格的に体調を崩して、欠席せざるを得なくなったのかもしれない。
俺の予想に反して、柴田は平然と答えた。
「あー。
あいつなら別に大丈夫っすよ。いつものことなんで」
"いつものこと"。
遅刻癖、という意味だろうか。
でも相良には、前年無遅刻・無欠席の記録があったはず。
最初のレクリエーション授業だって、いの一番に整列し終えていたくらいだ。
「どういう意味だ?
今日がたまたまってわけじゃないのか?」
俺は更に言及した。
柴田は腕を組み、不思議そうに首を傾げた。
「なんか知んねーっすけど、いっつも教室で着替えないんすよ、あいつ。
俺らと一緒が嫌なのか、さあ準備するぞって時には、もうどっか消えてて。
で、気付いたらジャージになってて、普通に体育館来るんす」
相良は体育の授業が控えると姿を消す。
どうやら、単に時間を守る守らないの話ではなさそうだ。
「教室じゃないとなると……。
あいつだけ更衣室で着替えてるってことか?
確か、男子の方の更衣室って、暖房効かないんだったよな?
そのせいで使用禁止になってるって、古賀先生から聞いたけど」
「んー。俺あんま相良と話さないんで、よく分かんないっすけど……。
とにかく大丈夫っすよ。どこいても、授業始まる前には必ず来るんで。
そのうち、ひょっこり出てきますって」
「……そうか。
手間かけたな、ありがとう」
今度は肩の骨を鳴らしながら、柴田は言った。
俺は尚も腑に落ちなかったが、柴田を解放してやった。
「(そういうもんってことに、していいのか……?)」
西嶺中の生徒用更衣室は、校舎一階に男女別で設置されている。
ただし、使えるのは女子用のみ。
男子用は現在、全面使用不可となっている。
というのも、男子更衣室の暖房器具が、老朽化により壊れてしまったらしく。
復旧の目処がつくまでの間、男子は自分たちの教室で着替えをさせられるようになったそうだ。
ちなみに。
男子更衣室の暖房が壊れたのは、今から四年ほど前のこと。
四年もの長きに渡って設備不良を放置するなど、学校側の怠慢が過ぎるのではと俺は思ったけれど。
生徒からも特に不満の声が上がらなかったそうなので、双方とも関心の薄い問題なのかもしれない。
本当に問題なのは、何故そんなところで、相良は一人で着替えているかということだ。
気温の高い夏日ならともかく、まだ根雪の残る四月中旬。
少なくとも、俺が校内見学で訪れた際の男子更衣室は、冷凍庫並に寒かった。
そこで着替えなんて、服を脱いで裸になるだなんて、罰ゲームを通り越して拷問だ。
自分の下着や裸を、人に見られるのが恥ずかしいから?
三階の教室より、一階の更衣室の方が体育館に近いから?
いずれにせよ、あそこを拠点とするのは健康に悪い。
どうしても一人がいいというなら仕方ないが、せめて更衣室ではなく、暖房の届く部屋を選ぶよう言ってやらなければ。
「葵くん!」
俺は続いて、葵くんを呼び付けた。
相良を探しに行きたい旨を伝えると、葵くんは直ぐ了承してくれた。
「じゃあ、悪いけど……。
測定で使う道具とか、軽いやつだけ、先に配置しといてもらえるか?」
「配置……。はい」
「あ、なんか分かんないことある?」
「いえ。前にも生徒だけで準備したことあるんで、任せてください」
「ありがとう。
これ、備品室の鍵ね。あと頼んだ」
「はい。いってらっしゃい」
「授業始まるまでには戻るから!」
葵くんに備品室の鍵を渡し、駆け足で体育館を出る。
廊下に面した曲がり角に入ると、向かって手前にトイレ、奥に更衣室が男女別で並んでいる。
念のため男子トイレを先に調べてみたが、そこに相良の姿はなかった。
となると、やはり更衣室か。
もし更衣室にも居なかったら、二階の視聴覚室でも覗いてみるか。
あそこは滅多に使われないから、こそこそしたい奴には持ってこいの場所だし。
駄目で元々、有人か無人かを確認するだけのつもりで、次は男子更衣室のドアノブに手をかけた。
「(さむ……っ!)」
ドアを開けた瞬間、室内の冷気がふわっと頬を撫でていった。
反射的に眉を顰めた俺は、浅く息を吐きながら視線をずらした。
そして、自分の吐息の向こうに、何者かの人影を見つけた。
こちらに背を向けているので、顔は分からない。
だが、この線の細さと明るい茶髪は、彼の他にいない。
相良だ。
駄目で元々だったので、本当に更衣室に居るとは思わなかった。
ちょうど着替え中のようで、下は学校指定の灰色ジャージ、上は黒のタンクトップのみを身に付けている。
「さが────」
俺はとっさに相良の名前を呼ぼうとして、飲み込んだ。
タンクトップの肩口から伸びた、二本の棒きれ。
彼の両の腕に、赤紫の痣が散らばっていたのだ。
「なにしてんの、先生」
俺の気配に気付いた相良が、ゆっくりとこちらに振り返る。
死んだ魚のように虚ろな相良の目と、驚きに見開かれた俺の目とが交わる。
普段の朗らかな様子とはかけ離れた、怖気を感じさせるまでの無表情。
何かしらの激情を覚えたが故の、敢えて抑揚をつけないであろう声。
こんな相良は、初めてだ。
俺は一瞬で頭が真っ白になり、体ごと硬直してしまった。
「あ……、すまん。ノックもしないで。
お前だけ、どこにも、いなかったから───」
我に返ると同時に、俺は相良から顔を背けた。
本人にそう言われたわけじゃないが、なんとなく、見てはいけない気がした。
「だから様子を、見に、来たんだ」
相良の激情の正体は恐らく、怒りだ。
いくら同性とはいえ、断りなく着替えを覗かれたら、誰だって嫌に決まっている。
ただ、咎められはしなかった。
素早くTシャツを被り、上のジャージを羽織るまでの間、相良は一言も発しなかった。
最後にジャージのジッパーが上げられる。
ジジジと低い金属音が響き、俺も恐る恐ると顔を上げた。
いつの間にかこちらを向いていた相良は、口元にうっすらと笑みを浮かべていた。
「心配かけてすいません、先生。
これからは、もっと早くに、体育館に着くようにします」
そう言って相良は俺の前を通り過ぎ、何事もなかったように更衣室を出ていった。
相良の足音が遠ざかってから、俺は開けっ放しのドアに凭れ掛かった。
溜まっていた息を吐き出すと、情けなくも喉が震えた。
「び、びった……」
俺の不作法を咎めないどころか、心配をかけたと逆に詫びてきた。
優等生としては文句ナシ、百点満点の対応だ。
だが、あの目は。
言動こそ穏やかだったが、あの鋭い目付きは、もはや殺意すら湛えていた。
表情や声は取り繕えても、生理的な仕草までは御し切れなかったようだ。
"俺らと一緒が嫌なのか、さあ準備するぞって時には、もうどっか消えてて───。"
相良が人と着替えたがらない理由が分かった。
裸を見られるのが恥ずかしかったのではなく、痣を晒すのが耐えられなかったんだ。
両腕に散りばめられた赤紫。
自然に負う怪我とは明らかに違った。
なにか固くて重いもの、鈍器に等しいもので、ピンポイントに殴られたような跡だった。
彼は、虐待を受けているのか。
だから、氷のように冷たい部屋で、一人で。
「───いけね、」
5時限目開始を告げるチャイムが、無人の廊下に鳴り響く。
俺は慌てて立ち上がり、更衣室を後にした。
「(とんでもないものを、見てしまったかもしれない)」
葛西先生の推察は正しかった。
誰しもが認める優等生は、仮初めの姿。
相良の笑顔は、作り物だったんだ。
彼の身内にはきっと、俺の想像する以上に強烈な毒が潜んでいる。
その毒を炙り出すために、俺はまず何をすべきだろうか。