:第十一 束の間 5
午後3時。
ブレイクタイムを終えて暫くは、それぞれ自分の仕事に没頭した。
相良は寝室で宿題の片付け、俺はリビングでプリントの作成。
途中で相良が寝室から出てくることはなく、俺から相良の様子を見に行くこともしなかった。
「───ふぅ、今日はこんくらいにしとくかぁ。
ずっと明るいと時間わからんくなるなぁ」
そうして気付けば、時刻は5時を過ぎていた。
俺の仕事は区切りがついたが、相良のほうは相変わらず出てくる気配がない。
余裕のあるうちに、一気に片付けるつもりなのかもしれない。
「(急ぎのタスクは他にないし、相良の邪魔もできないし……。
ちっと早いけど、まあいいか)」
考えた末、俺は夕食の準備に取りかかることにした。
まずはご飯から。
プラスチック製の米びつに対の計量カップを突っ込み、四合分の白米を掬って炊飯器の内釜に入れる。
食の細い相良にはもっと少量でも足りるかもしれないが、余った場合は冷凍保存するなりして、翌日以降に回してしまえばいいんだ。
というか、俺のメシを残すなんてことにはさせん。
中三男子に必要分のカロリーは、是が非でも摂取させてみせる。
むしろ足りないと言わしめるくらい、食の進むおかずを拵えてやる。
本日のメインはカレーライス。
ライスの名を冠するメニューを初手で持ってくるとは、我ながらナイスチョイスではなかろうか。
「(とはいえ腹壊してもイカンし、米は柔らかめに炊いてやるか)」
研いだ白米を炊飯器にセットし、続いておかずの準備。
カレーは副食二品分のボリュームと栄養があるので、あとは付け合わせにサラダでも作っときゃいいだろう。
冷蔵庫の野菜室から具材を取り出し、シンクの空きスペースに並べる。
先に調理するのはカレー。
下拵え一番目はタマネギ。
タマネギの頭と尻の部分を小さく削ぎ、皮を剥ぐ。
半分に切り分けた一片ずつを、更に細かく微塵切りにしていく。
すると、ズズズと引き摺るような音が聞こえてきた。
寝室の引き戸が開かれる音だった。
振り返ると、相良が寝室前に立っていた。
ヘアゴムで前髪を一纏めにした姿で、ぼんやりとこちらに視線を送っている。
宿題に集中するためとはいえ、額まで露にさせた姿は、体育祭の時以来だ。
いつもより顔立ちがハッキリ見えるおかげで、本来の美少年っぷりが遺憾なく発揮されている。
「おー、冬眠明けの人。
お勤めは終わりましたんで?」
「はんぶんくらい……」
俺が声をかけると、相良はキッチンに近付いてきた。
一度も休憩を挟まなかったのか、歩調はのろのろと遅く、瞬きはもたもたと重そうだ。
「あんたは?
自分の仕事はもう済んだの?」
「まあな。
つっても、俺のは今日じゃなくても良かったやつだけど」
「それ言うなら、宿題もまだまだ余裕あるんだけどね」
「計画的でよろしい」
相良が俺の隣に並ぶ。
俺の視界に、俯いた相良の茶髪頭が見切れる。
前々から思っていたことだが、こいつ、地毛は普通に黒髪なんだもんな。
実はハーフとかクウォーターでも通る見た目をしているから、茶髪のほうが地毛なのではという気がしてくる。
「この頭は?落ち武者のコスプレ?」
相良の纏められた前髪を、爪先で弾いてやる。
相良は無言で睨み返してきたが、この出で立ちで凄まれても怖くなかった。
「落ち武者じゃねーし。
落ち武者って、てっぺんハゲてるやつじゃん。
おれまだハゲてない」
「知ってるよ。
ハゲるどころか、新しい毛が生えてきてる」
相良の黒くなり始めている旋毛を、小指の腹で押してやる。
相良は一瞬びくりと固まってから、くすぐったそうに肩を竦めた。
「……髪、鬱陶しいなら切ればいいのに。
こんな風に結ぶんじゃなくてさ」
最後に項の毛を爪先で払い、俺は相良から手を離した。
相良も確認するように自分の髪に触れ、ぼそぼそと呟いた。
「別に、いんだよこれで。おれ短いの似合わないし。
それに、赤いほうが中学生ってバレにくいでしょ。絶対じゃあないけどさ」
そう言う相良の横顔に、僅かに影が落ちたのを、俺は見逃さなかった。
アルバイト先で、客から疑いの目を向けられないようにするため。
孝太郎さんからも伺っていた理由は、確かに筋が通っている。
ただ、それだけじゃなさそうな。
高校生に成りすますってのは、あくまで表向きの理由で、本当の理由は別にあるんじゃないかと、俺には思えてならなかった。
自分から言いたくないことなら、今は聞かないでおくけど。
「───で、こっから何すんの?野菜切るとっから?」
相良がおもむろに手を洗い始める。
もしかして、一緒に料理に興じてくれるつもりなのか。
「え、なに手伝ってくれんの?」
「うん。邪魔?」
相良が頷くと同時に、触角もとい前髪の束が、ぴょんぴょんと左右に揺れた。
そういやこいつ、中学生の割に家事が堪能なんだった。
定食屋で働いているのもあるし、下拵えくらいは十全にできるんだろう。
「邪魔じゃねーよ、ぜんぜん。人手多いほうが助かる」
「ん」
「じゃあ……。
こっちタマネギ炒めるから、ニンジンの皮剥いてバラしてくれる?」
「切り方は?」
「乱切りって分かる?」
「わかる」
「の、ちょい小さめで」
「わかった」
刻んだタマネギを鍋に移し、ニンジンの入った袋を相良に示す。
相良は短く返事をすると、右手首に巻いていたもう一つのヘアゴムに触れた。
何をするのかと思いきや、そのヘアゴムで項の毛も結ってしまった。
すべての髪を纏めた相良は、ポマードかワックスで撫でつけたような、オールバックのような髪型になった。
「ンぶッ、ふっ……」
「ちょっと、なに笑ってんの」
つい吹き出した俺に、相良は先程より露骨に凄んできた。
しかし、やっぱり迫力がなかった。
髪型が愉快なせいもあるが、顔が綺麗すぎるってのも損なもんだな。男として。
「いやなんか、魚みたいだと思って」
「魚?」
俺は"魚みたい"な部分を、小指で順に差していった。
「ほら、こっちの。ちょんまげが背鰭で、後ろの───、しっぽが尾鰭。
グフッ、試しにギョギョギョ~って言ってみてよ」
「言わねーし」
語気は強めでも、怒りは感じない。
俺の冗談を冗談として受け取ってくれている証拠だ。
相良は言動こそ辛辣だが、中身は意外と度量の大きいヤツだということを、俺は知っている。
「しゃーなし。ちゃっちゃとやっつけますか」
「ん」
俺は鍋にサラダ油を垂らし、コンロの火を点けた。
相良も短く返事をして、下拵えに取りかかった。
俺がタマネギを炒める音と、相良がピーラーでニンジンの皮を剥いていく音が重なる。
これだけでも相良の経験値が窺えたが、包丁で刻んでいく手際はもっと達者だった。
「おお~、うまいうまい。やっぱ手付きで分かるもんだなぁ。
日頃からマメにやってねーと、そんなスムーズにいかねーよ」
「こんくらい別に普通でしょ。
高い料───、亭?とかで見るような、飾り切り?とか、大根の桂剥き?みたいのとかは、全然できないし」
「それは俺もできねーよ。
や~、中坊男子でこんだけ出来りゃあ大したもんだ。
俺がお前くらいの頃なんか、比にならんくらい下手くそだったっけなぁ」
「あんたが料理に目覚めたのって、いつからなの?」
「あー、んとね、確か───」
隣にいる気配。
取りとめのない会話。
普段、一人で自炊する時には、何も感じないのに。
こうして誰かとキッチンに立つと、料理って楽しいものだったんだと、しみじみ思い出す。
「(ずっと、ここにいていいよ)」
相良と出会ってからというもの、俺は知らず知らずに学ばされることが多くなった。
一人の時間も大切だが、他人と触れ合ってこそ、生活は人生になるんだろうとか。
自分では意識していなかっただけで、俺って実は寂しがりなのかもしれない、とか。
「(ずっと、ここにいてよ)」
もし、ここに相良がいなかったら。
一人でいるのが当たり前の、生活ばかりを続けていたら。
俺は、どんな顔になっていたのだろう。
なにが楽しくて悲しくて、なにを目的に生きていたのだろう。
想像さえ出来ないのが少し嬉しく、少し怖かった。
**
調理開始から約40分後。
市販のルーを鍋に加え、調味料で味を整えて、カレーは完成した。
サラダは片手間に作ってあるし、同時にご飯も炊けたので、あとは器に装って食うだけだ。
ただ、夕食にするには、まだ半端な時間ではある。
相良のアシストが完璧だったために、予定より早くに仕上がってしまったのだ。
「───一応、できたけど……。どうする?
早いけど、もう食うか?それか、もう少し待って、7時ぐらいからにするか?」
俺はどちらでも構わなかったので、相良の判断に委ねた。
相良は"うーん"と悩ましげに唸ってから、鍋の蓋を開けてカレーの匂いを嗅いだ。
「んー……。
そこまで腹減ってるわけじゃないけど……。
カレーの匂い嗅いだらなんか、食いたくなってきた、かも」
スパイスの香りで食欲が刺激されたとのこと。
食の細い相良が"食べたい"と言うのだから、きっと今がベストタイミングなんだろう。
「じゃあ、今にする?」
「でも……。
今食べたら後でおなか空きそうじゃない?」
「そうなったらなったで、また有り合わせで何か作ってやるよ。
間食用のお菓子とかも色々買っといたし」
「ヴー……、うん」
「ではそのように」
完成したカレーライスとサラダを器に装い、冷やしておいた麦茶をコップに注ぎ、二人分のスプーンと箸をローテーブルに並べる。
ローテーブルの面積と、俺たちの体積の関係で、座る位置は端と端で向かい合わせになった。
正面からテレビを見られなくなったのは残念だが、背を向けるよりはマシだろう。
「準備いいか?」
「いい」
「よし。───いただきます」
「いただきまーす」
俺に続いて相良も発声する。
俺はスプーンの前にリモコンを手に取り、消していたテレビの電源を点け直した。
「食べないの?」
自分のスプーンでカレーのジャガイモを突きながら、相良が上目がちに尋ねてくる。
俺はリモコンを操作しながら答えた。
「食うよー。でもちょっと待ってー。なんか適当なの入れるから」
「テレビ見ながらメシ食うの?」
「え、見ないのお前?バラエティとか」
「うん」
テレビ画面から一旦目を離して、俺は相良のほうに振り返った。
相良は頷いて、突いていたジャガイモを半分に割った。
「そもそも、テレビ自体をあんま見てない。
ニュースくらいは一応チェックするけど、それ以外はからっきし」
「マジかよ……。
友達とお笑いの話とかしねーの?」
「しない。
おれがそういうの疎いってみんな知ってるから、誰もおれにはテレビの話振ってこない」
「そう……、だとしてもさ。寂しくなったりは?ねーの?
メシ食ってる時まで無音だと、俺は却って落ち着かないけ、ど───」
俺の言葉に、相良の動きが一瞬止まった。
つられて俺も止まり、思わず息を呑んだ。
「別に。静かなほうが、ごはんに集中できるし。
……つか早く食べようよ。いつまでお預けさせんのさ」
「あっ───、あ?
うん、そう、だな、わるい」
器の縁をスプーンの背で叩き、早く早くと相良が急かす。
その顔はいつものポーカーフェースで、声もいつもの低い声で、特に変わった様子はない。
なのに、何故だろう。
先程の一瞬、あの一瞬の間に、俺は相良の地雷を踏んでしまった気がした。
「(心臓が)」
これも、距離が縮まった影響なんだろうか。
以前までは見落としていたものも、敏感に察知できるようになった、とか。
あまり、嬉しく感じない。手放しに喜べない。
たとえ距離は縮まったのだとしても、相良と通じ合えている実感は全くない。
「(いたい)」
相良の一挙手一投足に、不安や焦燥や自己嫌悪を覚えやすくなったという意味では、むしろ。
「───これにします」
「なにこれ」
「女児向けアニメの再放送」
「いや見りゃ分かるけど……。そんなん見ながら食うの?」
「いいだろう、たまには。
他ニュースばっかだし、メシの時くらい頭空っぽんなるテレビ見るべき!」
最後に切り替えたチャンネルで固定し、邪魔にならない範囲で音量を上げてから、俺はリモコンをローテーブルの脇に置いた。
相良は深くは追求してこなかったが、呆れたような溜め息を吐いた。
「まあいいや。あんたの趣味に付き合ってあげるよ」
「シュミジャナイモン。俺なりに気を使って───」
「キモイ。いただきます」
俺の悪ふざけを遮った相良が、スプーンで掬ったカレーライスを口に運ぶ。
顔が小さい割に一口が大きかったので、もごもごと咀嚼する姿は、まるで頬袋パンパンのハムスターだった。
「どう?お口に合いますか?」
家具屋の店員に引き続き、今度はレストランのシェフっぽく俺は尋ねた。
相良はウンウンと二回頷き、ゴクンと音を立ててカレーライスを飲み込んだ。
「普通においしい。てか自分で作るより遥かにおいしい。
なんで?同じルー使ってるはずなのに」
相良は"美味しい"と言いながらも、なんだか不味そうに眉を寄せた。
そんな仕草もまた、ある意味で相良らしいと、俺は笑ってしまった。
「ルーは同じでも、タマネギの炒め時間とか、調味料の配分とかでも、けっこう味変わるからな」
「へー」
「なんなら、後でメモ書いてやろうか?
レシピってほどのもんじゃないけど」
「くれるんなら貰っとく。今度ウチでやる時マネする」
俺との会話の合間にも、どんどんカレーライスを食べ進めていく相良。
体育祭の時とは対照的な反応だ。
本当に美味しくて食べているのが伝わって、食欲の分だけ元気なことが分かって、俺も安心する。
「(こういうとこは、健全な男子中学生なんだよなぁ)」
かくいう俺は、健康のためにサラダをまず一口。
血糖値もコレステロールもお構いなしな相良を前に、味気ないレタスを早食い防止の緩衝材とする。
「そうだ」
「うん?」
「決めた」
「なにが?」
「夏休みの目標」
「は?」
自分と相良の対比から思いついた、今年の夏休みの目標。
俺は改めて背筋を伸ばし、相良の顔に箸の先端を突きつけ、宣言した。
「二学期が始まる前に、お前の体重を最低3キロ増やす」
相良は、"がんばれ"と言って笑った。
"馬鹿じゃないの"と一蹴される前提だった俺は、予想外の返しにちょっと狼狽えた。




