:第九話 懐疑の種 4
「───さすがに、沢井先生と楓の親父さんがどんな話をしたかまでは、オレも知らないですけど……。
沢井先生と楓と、二人の間に因縁があるのは、確かだと思います」
みぞおちの奥から、吐き気に似た衝動が込み上げる。
熱くなった目頭から、生理的な涙が溢れ出そうになる。
特定の誰かに対する、猛烈な"怒り"。
こんな感覚に陥ったのは、久しぶりだ。
葵くんのコーヒーがいつ無くなったのか、自分がいつから相槌を打てなくなったのかさえ、もう覚えていない。
「わかった。
だいたいは、わかったよ」
俺の中で燻っていた、疑念の正体。
"沢井先生の印象と実体が異なっていた"こと。
俺の知る"印象"の部分と、相良の知る"実体"の部分とが隔たっていたからこそ、俺は相良との出会いを経て、沢井先生に疑念を抱くようになったんだ。
「(どうして俺は、会ったこともない人を、人格者だなんて思い込んだのか)」
写真で見た優しい笑顔も、電話で聞いた穏やかな声も、人づてに教わった丁寧な教育方針も。
少し前まで、信じてしまっていた。
俺は沢井先生のことを、評判に違わぬ人格者とばかり思っていたのに。
現実は、こうか。
葵くんの証言だけでは確実性に欠けるが、沢井先生が相良の家庭問題を引っかき回したのは間違いない。
「(相良に出会わなければ、俺も、惑わされたままだったのか)」
当時の相良の心境は、どんなものだったのだろう。
信用した相手に裏切られるのは、沢井先生が初めてじゃない。
虐待の事実を告白するだけでも、相当にしんどかったはずだ。
「(そりゃあ、警戒するわけだよ)」
自分にとっては悪人、みんなにとっては善人。
一対一で向き合わなければ、瞳の奥に焦点を合わせなければ、疑念すら持てない。
自らの虚飾を真実かのように錯覚させる魔性が、沢井先生にはある。
相良に降り懸かった悲嘆と絶望が、より鮮明になって、俺の目に浮かんだ。
「もう一度だけ確認するけど……。
葵くんはあくまで、第三者として、二人のやり取りを見てただけなんだよな?」
「そうです。
オレが見たのは、沢井先生が楓に迫ってるところと、楓の親父さんの件で、沢井先生が事後報告をしてる場面だけです。
だからちょっと、オレの主観っていうか……。想像とか、推測で補ってる部分もあります。すいません」
「いいよ。顛末は十分わかったから」
葵くん自身は、相良の家庭問題に関与していない。
相良と沢井先生の攻防を、付きっきりで観察していたわけでもない。
せいぜい、ターニングポイントとなる場面に居合わせたり、小耳に挟んだ程度のようだ。
「ちなみに、例の事後報告の場面って、どんな雰囲気だったか覚えてる?」
「覚えてますよ。
温度とか、色とか匂いまで、昨日のことのように」
「たとえば?」
「当時は、冬も始まる頃だったんで、寒かったです。
教科準備室なんて特に、外れのほうにあるから、オレのいる廊下も、二人のいる部屋の中も、暖房届かなくて、寒いし暗いしで。
匂いは……、ちょっと埃っぽいのと、窓の近くは結露のあれで、ちょっと湿っぽかったかな」
「よく覚えてるなぁ。
二人の様子は?どうだった?」
「……そこは別に。
詳しく言わなくても、先生ならもう分かるんじゃないですか?」
「え?」
という点を踏まえた上で、葵くんが"確か"だと断言したターニングポイントは、以下の二つ。
相良が沢井先生に虐待の旨を打ち明けていたらしいことと、
沢井先生が相良の父親のもとに直談判へ行ったらしいこと。
前者は二人の普段の会話から判明したもので、
後者は沢井先生本人の口から聞いたものだそうだ。
ちなみに、後者の事後報告が行われたのは、放課後の教科準備室。
奇しくも、相良と鈴原先生の因縁が始まったのと、同じ場所だった。
俺は葵くんと冴島さん、相良は鈴原先生と沢井先生。
それぞれで、音楽室と教科準備室に縁があるのかもしれない。
「一応は内密な、二人だけの内緒話、って体だったみたいですけどね。
その割に、大きな声で話してましたよ、沢井先生は。
単なる報告ってより、物語を朗読するような、って言えば伝わります?」
「……なんとなく」
「たぶん、あれかな?
実はオレみたいに、誰かにこっそり聞かれちゃって、やっぱり沢井先生はスゴイって噂されたかったんじゃないすかね?
オレはしなかったすけど」
「……相良のほうは?どんな?」
「死人ですよ。
いつにも増して、青ざめた顔。
生気がない、でも表面的には薄く笑ってる。
傍から見たら、作り笑顔だってすぐ分かるやつ。
分かってないのは、目の前にいる"おしゃべりジイさん"だけ」
「……だからこそ、君は最後まで立ち会ったんだね。
君以外に誰か、立ち聞きされることのないように」
「………。」
話していくうちに、葵くんは沢井先生への嫌悪を隠さなくなっていった。
敬称だけは欠かさずにいるが、"おしゃべりジイさん"呼ばわりまで落ちるとは。
生まれついての正義感の他に、相良個人への肩入れがないと出ない発言だろう。
「葵くんってさ、相良と同じ小学校出身なんだよね?」
「え?ああ、はい」
「"楓"、"俊介"って、下の名前で呼び合ってるくらいだし、その頃から仲は良かったのか?」
「あー……、はい」
そういえば、葵くんと相良は同じ小学校出身だっけか。
肩入れするくらいには、当時から親しい間柄だったのか。
俺の改まった問いに、葵くんはコーヒー代わりの水を飲んでから答えた。
「昔は特に、色んなとこ遊び行ったりしましたよ。
オレん家で一緒に宿題やったこともあります」
「へー……。
普通に友達だったんだな。ちょっと意外だ」
「ですかね」
「今は?
あんま話してるとこ見ないけど、喧嘩でもした……?」
「いいえ」
"昔は"、と前置きするということは、今は違うのか。
俺が追求すると、葵くんは寂しそうに眉をひそめた。
「急に仲が悪くなった、とかでは、ないです。
オレは今でも、楓のことを友達と思ってます」
「……じゃあ、いつ頃から疎遠に?」
「小学五年の中頃───、くらいだったと思います」
「きっかけは?」
「きっかけ───、ってほど、特別なことはなかったです。
……なかった、はず、なんですけど」
「うん」
「気付いたら向こうが、あんまり喋ってくれなくなった、みたいな……」
あえて言葉を濁すのではなく、要領を得ない言い方をする葵くん。
どうやら葵くんのほうが、一方的に距離を置かれてしまったようだ。
「特に何かあったわけじゃないけど、少しずつ、あいつの方から離れていったと?」
「はい」
「葵くん的に、心当たりがあるとしたら?」
"ガシャーン"。
葵くんが返事をしようと口を開いた瞬間、厨房から食器の割れる音が響いてきた。
次いで従業員の謝る声が響いてきて、厨房内でトラブルがあったことが窺える。
驚いた葵くんは咄嗟に口をつぐみ、数秒の間を置いて仕切り直した。
「ちょうど、楓の親が離婚した時期でもあったから。
そのせいで気持ちが不安定になったんじゃないかと、オレは思ってます」
「なるほどな。
ご両親の離婚は、割と最近の話だったわけか」
「もっと昔のことだと思ってました?」
「想像ではな」
"相良が小学生の頃に、相良の両親は離婚した"。
沢井先生が残してくれた資料には、そう書かれていた。
俺としては低学年を想像したのだが、実際にはもう少し後の出来事だったようだ。
今から約3年前。
相良が小学5・6年生だった時期に、相良の両親は離婚した。
そして、両親の離婚を機に、父親から相良への虐待は本格化した。
離婚をする前の状況は、どうだったのだろう。
一時でも円満な時期はあったのか、相良が生まれた時にはDVも虐待も常態化していたのか。
いずれにしても、相良の父親は我が子を殴る男で、相良の母親は我が子を捨てていった女だ。
どうしても、相良が救われない展開ばかりで、俺は頭を抱えたくなった。
「あともうひとつ、いいかな」
「なんですか?」
「ずっと聞きそびれてたんだけど……。
沢井先生のことは抜きに、葵くん自身が相良の虐待について気付いたのは、いつだったんだ?」
ここまで来て今更な気もするが、もうひとつ。
相良の家庭問題について、葵くんが予め把握していたことにも、俺は追求しておきたかった。
音楽室での一件から、葵くんが何かを知っていそうな気配はあった。
だから当然のように、"虐待"というワードが葵くんの口から出てきても、"やっぱり知ってたんだな"としか俺は思わなかった。
葵くんも葵くんで、俺がどこまで相良を知っているか、俺と相良の間で何があったのか、まだ掘り下げていない。
お互い暗黙の了解というか、空気を読んで割愛していた感じだ。
「さっき言ったのと同じくらいの時期ですよ。
急に楓がよそよそしくなったから、どうしたのかなって意識してたら、"あ"、みたいな」
「直接、相談されたわけじゃないのか?」
「まさか。楓は誰にも話してませんよ。
オレ以外に気付いてるヤツも、多分いないと思います。
……あいつ、自分の辛いことだけ、隠すのスゲー上手いから」
言葉尻に、葵くんは目線を下げた。
相良本人は心配をかけまいと黙っていたのだろうが、それが却って葵くんの不安を煽ったようだ。
葵くんのほうは未だに相良を友達だと言っているくらいだし、本当は色々と相談してほしかったのかもしれない。
相良だって、葵くんに愚痴のひとつでも零していれば、少しは気が晴れたかもしれない。
子供同士の、それも男同士のすれ違いというのは、女同士のそれより縺れたり、長引くことが多いものである。
「そっか。
君も、色々あったんだな」
今となっては過去の話。
葵くんと相良には仲直りしてほしいところだが、沢井先生には二度と相良に関わってほしくない。
やっとの思いで、相良は沢井先生を遠ざけたんだ。
同じ悲劇を繰り返さないためにも、二人の因縁は蒸し返すべきじゃないだろう。
相良の現状を、沢井先生にだけは知られてはならない。
とはいえ、全く放っておける話でもない。
葵くんの語ってくれた全てが、どこまで事実で推測なのか、裏をとる必要はある。
沢井先生のやり方を肯定できないからこそ、彼の犯したミスを無駄にしたくない。
直談判に行ったのなら、父親の人となりも垣間見えたはずだ。
俺の知らない相良の父親について、沢井先生は多少のアドバンテージを持っている。
目立つな、感情的になるな。
相良に倣え、俺も優等生になれ。
復帰される前に、今度こそ会って、真相を確かめる。
よくも相良を追い詰めてくれたなと、糾弾するのは俺の役目じゃない。
「───話してくれてありがとう。
君みたいな子が、周りに一人でもいてくれるなら、相良も少しは救われると思うよ」
腕時計に目を落とすと、もうじき午後の8時を示そうとしていた。
店内に散らばる客層は、俺が来店した当初と比べて、様変わりしている。
当初は学生風の若者が多く見受けられたが、今は仕事帰りのビジネスマンや家族連れが中心だ。
俺も葵くんもコーヒーを飲み終えたし、そろそろ葵くんを解放してやらねば。
「先生って、やっぱりちょっと、変わってますよね」
ふと、葵くんが独り言のように呟いた。
「え、そう?どのへんが?」
「すごくお人好しで、情に厚い人なのかと思ったら、実は冷めてるとこあったり。
冷たい人なのかと思ったら、意外と優しかったり」
「どっちだよ」
「どっちもってことです。
お人好しだけど、冷めた視点も持ってて。
安定してないのに、何故かバランスはとれてる、みたいな」
溜めていたものを吐き出したおかげで、スッキリしたのだろう。
リラックスした様子で、葵くんは座席の背もたれに寄りかかった。
「哲学者みたいなこと言うんだな」
「大した意味はありませんよ。
ただ、そういう人だから、楓と相性が良かったんだなって、思っただけです」
葵くんの視線が横に逸れる。
店舗の前を一台の乗用車が通り、乗用車のヘッドライトが窓に反射し、反射した光を葵くんの視線が追いかける。
「優しいだけじゃ、あいつとは付き合えないから」
"君のような子が周りにいるだけでも、相良にとってはプラスになるだろう"。
先程の俺の言葉に他意はないが、悔しい気持ちは少しあった。
葵くんは、俺なんかよりずっと相良に詳しいし、理解している。
俺より付き合いが長い分かもしれないが、埋めようのない"時間"の差を、酷くもどかしく感じてしまう。
俺も、もっと早くに、あいつと出会えていたなら。
この悔しささえも、葵くんには見抜かれている気がして、俺は更に悔しかった。
「聞かないんだな。俺と相良のこと」
俺も独り言のつもりで呟いた。
葵くんはこちらを一瞥だけして、窓の向こうに再び視線をやった。
「聞かないでおきます。今は」
「"今は"───、っていうのは?」
葵くんが姿勢を戻して、こちらを向く。
に、と口角を上げた顔は、なにかが吹っ切れたような笑顔だった。
「"先生からは聞かない"、って意味です」
あれ、この感じ、どこかで。
記憶を遡った先に、俺は孝太郎さんとぶつかった。
"───先生。
俺にも何か、力になれることはありますか。"
そうか。
葵くんは、孝太郎さんに似てるんだ。
顔立ちは違っても顔付きが近くて、性格は別でも表現が一緒なのは、根っこにあるのが相良だから。
俺たちの共通項は相良で、互いに相良を主語にしているから、いざという時同じスタンスになるんだ。
「葵くんって実は、俺より年上だったりする?」
「あはは。
先生こそ、オレが"強くてニューゲーム"してるって言ったら、信じます?」
てことは、俺も。
俺が二人のことを、なんか怖くて、でも信じられると思ったように。
二人も俺のことを、同じように思っていたとしたら。
だから葵くんは、"あんなこと"を言ったのか。
「(どうやら俺は、誤解をしていたらしい)」
"優しいだけじゃ、あいつとは付き合えない"。
俺たちみたいなタイプが、相良に惹かれやすいのか。
相良に惹かれたからこそ、俺たちは似通ってきたのか。
要するに、類が友を呼んだ、と。
揃いも揃って、相良に人生観を変えられてしまったわけだ。
「叶崎先生。
これからはちょっと、難しくなるかもしれないけど。
楓にとって先生は、やっと会えた、大人の理解者なんです。
オレも、オレなりに頑張ってみるから、どうか。
楓のこと、よろしくお願いします」
テーブル越しに、葵くんが頭を下げてくる。
たとえ俺が、葵くんより年下でも、侮られる立場であったとしても。
葵くんはきっと、こうして頭を下げたのだろう。
「こちらこそ。
また以前のように、楓と仲良くしてやってくれ」
"あ"。
俺も頭を下げると、葵くんが短く反応した。
俺が顔を上げると、葵くんは"してやったり"な顔と声で、こちらを指差した。
「今、楓って言った」
今度は俺が、"あ"、と呟いた。




