:第六話 鳴らない電話は親愛の始め 4
「でも、今まで無事に来てるってことは、あいつが本当は中学生ってのも、まだバレてないわけですよね?
過去に一回くらい、ピンチになったりはなかったんですか?」
ちびちび減らしていたコーヒーを、俺はここで飲み干した。
孝太郎さんもぐいっと自分のコーヒーを飲み干すと、空になった容器を片手で握り潰した。
容器のギシリと軋む音が大きくて、調子に乗るなと怒られたように感じられて、俺は饒舌になりかけていた口をとっさに閉じた。
「そのことなんですけど。
もうひとつ、先生に確認しておきたかった話があるんです」
孝太郎さんの雰囲気が変わった。
穏やかだった声は別人のように冷たくなり、もともと鋭かった目付きは人を射殺せそうなほどになった。
どうやら、ここまでは前座で、ここからが本題であるらしい。
俺の言動に怒ったんじゃないなら良かったが、いちいち所作にキレがあって怖いんだよな、この人。
「さっき、あいつをウチで働かせるのに、俺は反対したって言ったでしょう?
人員を増やすだけならまだしも、そこらの中学生に飯屋のバイトは勤まらないって」
「……ええ。
それが普通の反応だと、思います」
「ですよね。俺もそう思います。
ただ俺の場合、あいつをウチに引き入れたくなかったのには、別の理由があるんです」
駐車場前の道路を軽自動車が横切る。
ヘッドライトの眩い光が夜の闇を散らし、安っぽいエンジン音は周囲に余韻を残していった。
「はじめ、あいつを見た時。ずいぶん貧相なガキだなって、正直思いました。
……同時に、こうも思ったんです。
こいつはいわゆる、ワケありの子供だなって」
「………。」
「俺があいつを引き入れたくなかったのは、あいつがただのガキで、まともな子供じゃなかったからなんですよ、先生」
相良を雇うことに反対した理由は、相良がまだ"中学生だったから"。
一方で、個人的に相良と関わりたくなかった理由は、相良が"普通の中学生ではなかったから"。
相良の姿を一目見た瞬間には、孝太郎さんは気付いてしまったのだ。
相良の内に潜む毒、相良の纏う闇の気配に。
「例えばあいつが、よそで事故や事件に巻き込まれた場合。少なからず、こっちにも火の粉が来る。
あいつの存在自体が、店に悪影響を及ぼさないとも限らない」
「はい」
「もちろん、可哀相だと同情する気持ちはありました。できれば力になってやりたいとも。
……それでも、はっきり言って、あまり難しい事情を抱えた子供には、近付きたくなかった。近付けたくなかった」
「………。」
「相手が誰であろうと俺は、我が家にトラブルを招きたくなかったんです。
我ながら、薄情と呆れますがね」
自らを蔑むような口ぶりで、孝太郎さんは語った。
彼の真摯な告白に、俺は圧倒された。
"例えばあいつが、よそで事故や事件に巻き込まれた場合"。
どんなに手厚く遇したって、店から一歩出てしまえば、相良はただの中学生。
社会的には庇護される立場にある以上、本人の意思のみでは生きられない。
相良は自分で戦うための術を持たず、孝太郎さん達は手の届く範囲でしか相良を庇ってやれず。
孝太郎さん達が相良のプライベートに干渉できない反面、相良のプライベートで起きた問題は孝太郎さん達に影響する。
"少なからず、こっちにも火の粉が来る"。
接客業とは、顧客との信頼関係あってこそ成り立つものだ。
一度でも悪いイメージがついてしまえば、完全な汚名返上はほぼ不可能だ。
つまり孝太郎さんは、店のため家族のために、悪役を引き受けようとしたのだろう。
相手は爆弾を抱えた子供。
子供だから人間だからと容赦してやりたいところを、あえて爆弾として扱うことで、被害を最小限に留める。
自分たちも巻き込まれるくらいなら、抱えた本人だけで爆発させる。
たとえ、非道な行いと分かっていても。
"あいつの存在自体が、店に悪影響を及ぼさないとも限らない"。
あともう一年すれば、あいつは中学生じゃなくなる。
高校生になればアルバイトなんて普通のことだし、年齢を聞かれたら堂々と事実を答えられるようになる。
でも。
中学生じゃなくなっても、あいつの毒や闇は消えてはくれない。
大人になっても、あいつの生い立ちが"普通じゃない"事実は変わらない。
相良が相良であるが故に、あいつは苦しみ続ける定めだろう。
"我ながら、薄情と呆れますがね"。
いつどのタイミングで、相良自身が毒や闇に転ずるか。
俺でさえ懸念していることを、孝太郎さんだけの責任にできるものか。
触れたら最後、無傷では済まない。
覚悟の上で受け入れたご主人は立派だし、心を鬼にして突き放そうとした孝太郎さんも立派だとしか、俺には言えない。
「薄情だなんて、まさか。
ご家族とお店のことを考えれば、そのくらい───」
「いいんです。フォローして欲しくて、こんな言い方をしたわけじゃないですから。
客観的な事実として、そうであるというだけです」
俺の月並みなフォローを、孝太郎さんは受け取らなかった。
俺は空になったコーヒーの容器を、車のカップホルダーに入れた。
「先生、俺はね。
詳しいことは知らないけど、あいつが無理して笑ってるってことは分かるんです。
親父もお袋も、態度には出さないだけで、たぶん気付いてる」
孝太郎さんの目線が再び、こちらを向く。
「先生はどうですか?
俺は虐待かネグレクトのどちらかだと思うんですが、先生の見解は?」
まただ。この感じ。
自分のことを聞かれているわけじゃないのに、自分が責められている気分になる。
相良の人生を俺が成り代わって生きているような、俺が相良になったかのような錯覚を覚える。
相良の秘密を俺から明かしてしまうのは無論、忍びない。
だが、それだけではない。
忍びなさ以外にも、なにか。
自分の口から、あいつを語ることに、強烈な抵抗がある。
「……虐待です。
あいつは、父親から虐待を受けてる」
意を決して明かすと、今度は俺が相良の父親になった気分になった。
俺が相良に虐待をしている、俺の罪を告白している感覚だった。
「そうですか……」
孝太郎さんは薄く眉を寄せ、鼻から溜め息を吐いた。
「なんとなく、そんな気はしてましたけど。
本当にいるんですね、我が子に暴力を振るう輩って」
目元を掌で覆い、途切れ途切れに呟いた孝太郎さんの声は、怒りに掠れていた。
「最初は、関係を持つことに少し、───いやかなり、抵抗がありましたけど。
今となっては、出会えて良かったって、心から思うんです。
楓は本当に、いい子だから。イチ戦力としてだけじゃなく、一人の人間として、あいつはいいヤツなんです」
「ええ」
「あれだけ警戒しておいて、虫のいい話ですけど。
気付けば俺も、楓のことを好きになってました」
「……ええ」
「だから……。
あんなに綺麗な、優しい子を、当然のように傷つける輩がいるんだと思うと……。
殺してやりたいです、今すぐにでも」
葛西先生、葵くん、冴島さん。
そして、孝太郎さん。
一人、また一人と、相良の物語に登場人物が増えていく。
あいつの味方をしてくれる人が増えるのは、俺としても喜ばしい。
そうだ、集中しろ。
余計なことを考えるな。
俺が見ているのは相良であって、鏡ではないのだ。
学校にいる間は俺が、店にいる間は孝太郎さんが、相良を守る。
あとは"家"という檻から、どうやって相良を解き放つかだ。
「やれるもんなら、俺もぶっ殺してやりたいですよ。
……けど、無理やり引き離して、まるっと収まるかと言えば、そうもいかない気がする。
きっちり清算しない限り、あいつは一生、父親の影に怯えて生きることになる」
「ですね……。
人間って、なんで生きるだけで、こんなに手間がかかるんでしょう」
「……ええ、本当に」
自嘲気味に笑う孝太郎さん。
生きるだけで手間がかかる。
確かにその通りかもしれない。
こうして俯瞰を気取っている俺たちだって、大なり小なり罪や恥を抱えて生きている。
本能の赴くまま生きられる人間なんて、この世に一人もいないのかもしれない。
「先生。
できることは限られますが、俺にも何か、力になれることはありますか」
上体ごとこちらを向いて、孝太郎さんは尋ねた。
俺は少し考えてから頷いた。
「見守ってあげてください。何事もなかったみたいに。
事情があるからって気を遣われるより、そういうの全部抜きにしてやった方が、あいつのためにはいいと思います」
「……わかりました。
じゃあこちらは、今後とも平常通り、やらせてもらいます。
それで、先生は?先生のほうは、これからどうされるおつもりなんですか?」
「そこはまだ、なんとも言えませんが……。
どうにかして、虐待を防ぐ方法を考えます。力づくでも消去法でもなく、あいつが自然に、自由になれる道を探します」
「自然に自由に、か。
いいですね、そうなれば一番」
「ですから、孝太郎さん。
少しの間でいいので、あいつに、普通でいられる時間を与えてやってください。
……お店にいる時はどうか、相良のこと、よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、孝太郎さんは肩を叩いてくれた。
学校では優等生を演じなければならず、家では父親との距離感に神経を擦り減らせている。
そんな相良が唯一、自分らしくいられる場所が、常葉亭だ。
念願叶ったあいつの居場所を、俺も大事にしてやりたい。
可能な限り、あいつの最後の砦として、常葉亭には機能していてもらいたい。
相良が幸せになるために、孝太郎さん達は最も近い位置にいる。
俺には持ち合わせのないものを、彼らなら相良に分け与えてやれるんだ。
"今となっては、出会えて良かったって、心から思うんです"。
離れ離れにならないように。
出会わない方が良かったと、後悔させないために。
今後はアルバイトの件も、常葉一家との繋がりも含めて、見守ってやらないとな。