:第二話 秘密 4
相良に負けず劣らず優等生な葵くんにだって、同じことが言える。
事情のある相良と違い、葵くんは元々そういう人種なのかもしれないが、なんでも出来るやつってのは器用貧乏に陥りやすい。
余計なお世話だとしても、時には手を抜くこと、人に頼ることを覚えてほしい。
規範や道理にばかり執心して、自分の本心が分からなくなる前に。
俺が越えてしまった轍を、踏んでしまう前に。
「正直、今ちょっと驚いてます」
俺の言葉をどう解釈したのか、葵くんは不敵に微笑んだ。
「驚くってのは、どういう意味で?
見かけの割に説教くさい男だなって?」
「そんなんじゃないですよ。
……でも、印象が変わったって意味では、そうですね。
最初に会った時と比べれば、かなり」
俺の冗談に、葵くんは違う違うと首を振った。
貶しているわけではなさそうだが、褒めているのとも違いそうだ。
「印象、か」
なんでも柔軟に受け入れるようでいて、葵くんは存外、食えない男らしい。
俺を試す物言いをしたり、目の奥が笑っていなかったり。
下手な大人と渡り合うより、一筋縄ではいかないオーラをムンムンと匂わせてくる。
まったく、相良といい彼といい。
今時の中学生ってのは、どうしてこう気難しいのが多いんだ。
それとも、この二人が特殊すぎるのか。
「その言い方だと、俺の第一印象は、あんまり良くなかったみたいだな」
厳しい返答を覚悟の上で、俺は更に言及した。
葵くんは短く溜め息を吐き、俯いた。
「失礼ですけど、はっきり言ってオレ、もともと好きじゃないんですよね。
学校の先生、って」
葵くんの顔に虚ろな影が落ちる。
口では殊勝ぶりながらも、遠慮をするつもりはないようだ。
「"学校の先生"っていう、概念の話……?」
「あー、はは。
外れてもないですけど、そんな大層なアレじゃなくて。大人はみんな嫌いだとか、極端なことを言いたいんでもなくて。
中には良い人もいるってのは、ちゃんと分かってます。オレ自身、学校生活に不満があるとかでもないんですけど───」
「"けど"?」
「……叶崎先生のことは最初、信用する気になれませんでした」
どくりと、心臓が不穏な音を立てる。
こんな風に他人に、信用ならないなどと、面と向かって吐き捨てられた経験はない。
ただ、葵くんの声は穏やかだった。
現在進行形というよりは、過ぎたことを思い返しているような。
「明るくて、人当たりが良くて、生徒からも直ぐ懐かれて。
いい先生なんだろうなとは思ったけど、オレは別に、いい先生が好きなわけじゃないから。
……それに、中身はどうせ、奴らと変わらないんだろうって。内心、諦めた気持ちでいたんです」
"どうせ奴らと変わらない"。
俺の人間性が何者か、恐らくは教員の誰かと比較されている。
"奴ら"とは。
葵くんの中で、"信用ならない筆頭"と認識されているのは、果たして誰なのか。
俺は聞かなかった。
いや、聞けなかった。
葵くんは白状してくれないだろうし、そうじゃなくても俺が怖かった。
過去にいったい何があって、今の葵くんの価値観が作られたかは知らない。
確かなのは、葵くんの言う"奴ら"と相良とは、無関係じゃないということだ。
「今は?
君から見て、少し前までの俺と、今の俺。どう変わった?」
葵くんが徐に机から降り、尻についた埃を払う。
「いい意味で修正されましたよ。
少なくとも、奴らとはちょっと違うみたいだ」
そう言うと葵くんは、俺に背を向けて歩き出した。
「え……っ。
ぁ、ちょ───、葵くん!」
俺も慌てて机から降り、葵くんを呼び止めた。
葵くんは出入り口付近に設置されたグランドピアノの前で立ち止まり、こちらに振り向いた。
あそこは確か、人知れず泣いていた相良の姿を、葛西先生が目撃した場所だ。
「待ってくれ。
せめて、俺の質問に答えてくれ」
せっかく誘い出したんだ。
適当な世間話だけで帰らせるわけにはいかない。
留まらせようとする俺を、葵くんは黙って見つめ返した。
無下にはしないが、これ以上付き合ってやる義理もないってか。
「結局、君の言っていた生徒は、相良で合ってるのか?
だとしたら君は、あいつのどこを見て、気になると思ったんだ」
俺からの最後の質問。
さんざん焦らしておいて、葵くんはあっさりと答えた。
「先生の推測は当たってます。
楓のことは、オレもずっと心配してます」
「じゃあ────」
「ですが、理由についてはまだ、話せません。
印象は前より良くなったけど、先生のことを、まだ信用は出来ないから」
答え合わせは良くても、肝心の理由は教えてくれない。
まだ値しないというなら、どうすれば俺は、葵くんの信用を得られるのだろう。
そもそも葵くんは、俺のどこを見て、信用ならない人間と判断したのだろう。
「どうすればいい」
齢26にもなって、情けない話だけれど。
欠陥だらけの我が身を、どう修復すればいいのか分からない。
自分で自分の過ちに、順番さえ付けられない。
もし、存在ごと否定されてしまったら。
俺は永遠に、葵くんからも相良からも、一線を引かれたままだ。
「人として、欠けているものが多すぎて、なにが一番駄目なのか、自分じゃ分からないんだ」
失望されるくらいなら、軽蔑される方がいい。
俺は率直に、葵くんに尋ねた。
「君や、相良に信じてもらうために、俺はこれから、どうするべきだと思う?」
一人の男として、大人として教師として。
俺に一番足りないものとは、なんなのかを。
「時間です
もう少しだけ、時間をください」
葵くんの一段と低く、ハキハキとした声が、無音の音楽室に響き渡る。
「時間……。だけでいいのか?
俺個人に思うところもあるんだろう?」
「ないですよ。ないです。
今更ですけどオレ、先生を嫌いじゃないんです。
ただオレが、偏屈で腹黒で、人間不信ってだけで。先生の方に問題があるわけじゃない」
葵くんが普通に笑う。
口角だけじゃなく、目元も弧を描いて。
「だから、もう少し待ってください。
奴らと先生は違うって分かったら、あいつも多分、返事するようになると思うし。
タイミング見て、オレも先生に話しますから。
その時まで気長に、待っていてください」
そう言い残して、葵くんは今度こそ去っていった。
俺は呆然としながら、葵くんを留まらせようと伸ばした右手に目を落とした。
掌に刻まれた生命線と、緊張で滲んだらしい汗。
生命線の方はいつもより濃く、汗の方はやけにキラキラと光って見えた。
「中学生コワイ……」
相良も葵くんも、大人顔負けに悟っていて、かつ捻くれているのは理解した。
とはいえ、実際には大人じゃないから繊細だ。
なんだかんだ子供だからこそ、厄介なのだ。
大人のような子供とは、ほとほと扱いの難しい生き物だと思う。
「(相良に近付くために、まずは葵くんからと思ったのに。
外堀を埋めることすら叶わないって、難攻不落にも程がある)」
葵くんの言う機が熟すまで、具体的にはどれだけ待てばいいのだろう。
一年か、半年か。
あまり長期間となると、担任代理の任期を終えてしまう恐れがある。
長く見積もっても、残り三・四ヶ月がタイムリミットと考えるべきだ。
「(急がば回れ。
難しいもんだな、実際には)」
俺の人間性を知れば、相良もいつかは返事をしてくれる。
相良と最も付き合いの長い葵くんが、唯一くれたアドバイス。
他に妙案も浮かばないし、とりあえず乗っかってみるしかなさそうだ。
「俺がお前だったら───」
重い体をやっと動かし、葵くんに遅れて音楽室を出る直前。
何気なくグランドピアノの側面を撫でてみると、冷たい奥に仄かな温もりを感じられた。