川に流れむ
水が流れている。
広い川幅いっぱいに広がりながら、きっと大海原へ向かって流れていくのだろう。
水面は透明で、太陽の光を反射してキラキラと輝いていなければ、そこに水があることを認識できないほどだ。
そこでは、まるで空を飛んでいるかのように、魚が佇んでいた。必死になって尾びれを振って、川の流れに流されないようにしているのは解るけれど、こちらには川のせせらぎしか聴こえてこないため、涼しげに見える。
一枚の枯葉が、北風によって枝から離れ、水面に落ちて流されていく。
子供が投げた水切り石が、二、三度跳ねて円い波を立て、川底に沈む際に小さな水柱を立てる。
きっと魚にとっては迷惑なのだろうな、と思いつつも、好奇心の赴くままに足の近くにある一石を川へと投じる。石はごく普通にポトンという小さな音と水柱を立てながら、川底へと沈んでいく。その音に魚は驚いたようで、全力で全身をくねらせて、遠くへと飛んで行ってしまった。
重い小石は川底へ沈み、軽い枯葉は水面に浮かび流れる。密度とか表面積とかの物理的な問題だが、あまり深く考えはしない。
軽ければ流され、重ければ沈む。必死にならなきゃ留まれないし、逆らうにはもっと頑張らないといけない。
留まることも、流れに逆らうことも疲れるのだから、流されるままになっていればいいのに、と思うのだけれど、彼らが流れ着いた先の環境で生きることが出来ないという事を思い出し、あれが彼らの生きるための仕事なのだな、と不思議な仲間意識が湧いてくる。
遺伝子にプログラムされているのだろう。流れに逆らわなければ死んでしまうと。だから、行ったことも無い世界に恐怖し、停滞のために労働している。
本能を忘れて久しいけれど、それでも死にたくはないと思っている。知らないけど、怖い。知らないから、怖い。
留まるのは辛い、流されるのは怖い。
じゃあ、重くなれる?
無理だね。そんなに中身が詰まっていない。薄っぺらだ。
けれど、まだ足掻けるだろう。食事はしっかり食べているし、手も足も未だ付いているのだから、意志さえあれば出来るはずだ。
前へ、前へと、一歩ずつ。
たとえ、何にも、見えてこなくても。
目の前に餌が無ければ向かえないほど愚かではないだろう。進まなければならないことを理解できないほど無知ではないだろう。
きっと目標が見えるほど近づいていないか、視力が落ちているだけだ。
もうあと少し歩けば、もしくは望遠鏡でも組み立てれば――双眼鏡でも、メガネでも良いかもしれない――、何かしらは見えてくる。
視える、というのは重要だ。スタートとゴールさえ判れば、二点を繋いで道筋を引ける。
河川敷に吹く冷たい風のため、一つ大きなクシャミをする。周りにいた名も知らない数人の通行人が、目線をこちらに向けてくるのと、本格的な冬の到来を遅まきながらも感じ、白い息を漏らす。
思い出した寒さに少し身震いした後、足元の石の群れから蹴りやすそうな大きさのものを探し、大人げなく一蹴する。少し大きすぎたらしく、爪先が少し痛んだ。
どこまでも均一な薄水色をした快晴の空に、豆粒のような鳥が群れをなして飛んでいる。何処へ向かうのだろう。目では追いかけたが、豆粒たちは胡麻粒になり、砂粒になり、塵状になって、とうとう空色を汚さなくなってしまった。
川岸にて、砂利道を踏み鳴らしながら当てもなく今の今まで散歩しているのだが、何が悲しくてこんな寒空の下で無意味に熱量を浪費しているのだろうか、という純粋な疑問が湧いてきた。
過去に下した決断の正気を疑い、海馬に問いかけてみると、返答されてきたのは支離滅裂な文節の羅列。
暇だったから、飽きていたから、足があったから、生きていたから、動けたから、眠かったから、死んでいないから、座っていたから、動きたかったから、探していたから、ここにいるから………
湯水のように湧いてくる回答。ただし、正解がどれかは覚えていない。
あるいは正解などないのかもしれない。
流されるままに、ここまで流れているのかもしれない。
目に見えていないだけで、ここも川の中なのかもしれない。
これは、作品ジャンルを何とすべきなんでしょう。