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漆黒をも照らす月明かりの下で 2

作者: アクル

まだ未完のものを投稿しております。

【第一章】

真円を描く月は、何者をも闇にひそむことを許さない明るさで照らしている。貯水タンクも、屋上を囲む落下防止用の柵も、三階と屋上を繋ぐ階段に続く扉も。等しく同じように。

だから私も、隠してはもらえないのだろう。

夕方まで雨を降らせていた雲も晴れて、煌々(こうこう)と照りつける月をうらみがましく見上げてしまう。

折角せっかくの夜なのに、身をさらさないといけないなんて、と思う。結局、こんな時間なら誰もいないはずの学校の屋上にいてさえも、サイレンの音だったり、繁華街からの喧騒だったりで、独りにひたることもできない。私はいつだって自分のことすらも自由に出来ないのだと思い知らされる。

なら、せめて自分で自由に出来る命を自分の手で終わらせてしまおう、そう思うからここにいる。でもやっぱりそんな醜態しゅうたいは誰にも見られたくなくて、自分自身でも見たくないから。必要以上に明るい月明かりが恨めしい。

見られたくないのは、今のこんなぐしゃぐしゃになっている顔もそう。

人前では泣けないのに、一人でいる時は、私は泣いてばかりで、最期になるこの瞬間も泣いている。

「なんでなんだろう。」

カツンッ

私の呟きを追いかけるように硬い金属音が響く。音を発したみなもとを追いかけて振り返れば、扇を逆にしたような影が在る。屋上の反対側の柵の縁石に人が座って、その長い黒髪が広がっている様だと気付くのに数瞬の時間がかかった。扇の弧をさらにはっきりとさせているのが巨大な鎌で、その足元に猫がいることに遅まきながら気付く。

「誰?」

涙がつたったままだったことに気付いて、慌てて指で涙をぬぐい取りながらたずねる。

「随分と傲慢ごうまんなんだね。自分の命だから自分の好きにしていい、なんて。まぁジブンはその傲慢さを見守るしかないんだけどさ。」

問いに対して回答ではなく非難がましい言葉を向けられたことに気付くまで少々時間がかかる。何から何までこちらの判断を遅らせる存在だった。

実際、答えを返さないことに対する苛立ちも、その言い草に腹が立ったことも、何拍か遅れて沸きあがる。

「ちょっ…」

「相も変わらず首を突っ込むな、おんしは。」ちょっとどういうつもり、と続くはずの言葉は、私でも目の前の髪の長い人でもない声に遮られた。声は続く「何度言ってもおんしは聞く耳をもたないようだが、小生も懲りずに何度でも言ってやる。おんしのおかげで小生は、引っ掻く相手に事欠かない。退屈しのぎになって良いじゃないなんて言うでないぞ。いい迷惑だと言っておるのだ。」

「今日も絶好調だね、ショーセイ。」

髪の長い人ーー声からして少年なのだろうは、足元の猫に話しかけている。

うるさいわ、おんしも、少しは周りの目を気にすることを覚えろ。」

「まぁ、そういうことは、ジブンの代わりにショーセイがやってくれるから。」

「ちょっと、なんなのあんた達?」たまらず、声を張り上げる。「こっちの質問には全く答えないくせに勝手なことを言って、その後は私を無視して会話してるってなんなのよ。まず、あんたは一体何者?それとそのおかしな猫喋ってるよね、どうなっているの?」

「そう、捲くし立てられても、ね。」

長髪の少年は、心底困ったように返事を返してくる。

「誰がおかしな猫だ。小生はもう猫ではなく猫又になったが、おかしくなどない。」

その長髪の少年の言葉の隙に、私のすぐ脇の柵の上に飛び乗った猫が間髪入れずに、怒鳴る。

「何これっ、尻尾が二本あるっ、変。」

落ちきれない滴を幾つもたたえた柵の上に乗った猫からは、二本の尻尾が垂れ下がっている。

「言うに事欠いて変と言いおったな。アヤツ、もうこの小娘を小生の爪の錆にしてしまって良いよな。」

後半を長髪の少年に向けて猫がそんな物騒なことを言う。

「良いわけないでしょ。ジブン達は人間に干渉しちゃいけないことになっているんだから。」

「おんしがそれを言うのか。今回だっておんしが最初に干渉したからこうなっておるのだろうが。」

私の胸元近くで私より遠くにいる長髪の少年目掛けてわめくから、うるさくてかなわない。それも相まって声を荒げる。

「煩いわね、いい加減にしてよ。なんで私を放っておくのよ。私に用があったんじゃないの?」

「あぁ、ごめん、どうぞ続けて。あなたの傲慢さに一言言わずにいられなかったから声をかけてしまったけど、別にあなたを引き止めようと思ったわけではないから。」

「…なんなのよ。」

暗くてはっきりと見えるはずがないのに、長髪の少年の双眸そうぼうに見据えられて怖気おじけづいた。それが声に表れる。

「じゃあ訊かれたことに応えるね。ジブンたちが誰か?あなたが死んだあとにあなたの死を正しく導く存在だよ。人間の言葉にはそれに適した表現があったよね、本来の使い方とは違うけど。…そうそう、死後処理だったけ。それをする者だよ。」

「まさか…、死神?」

あんたの存在をまんま言い表せる言葉が存在するじゃない、と思うと同時に、冗談じゃない、とも思う。物語とかだけに存在していればいい、想像の産物のはずのそれが目の前にいる。大体私が想像していたそれとは全然違う。“死神”って言葉と一緒に持っていたイメージと一致するのは、大きな鎌と黒い衣装であることだけだ。

「端的に言うとそうだ、ね。」

愚にも付かない私の疑問を、長髪の少年はあっさりと肯定する。

「私を殺しに来たの?」

「ジブン達がそんなことをしなくても、あなたは自分でそうするつもりなんでしょ。がっかりさせるようで申し訳ないけど、死神といってもジブン達は誰かを殺すようなことはしないんだよ。死んだ後の魂を導くだけの存在だから。それにね、ジブン達は本来あなたが死んだ後に関わる存在。今回は見つかってしまったけどね。」態と見つかるように仕向けたくせに何が、今回は見つかってしまったけどねだ、とぼそっと猫が呟くのが聞こえる。「あなたが死んだ後にあなたに関わる者のことを、あなたが知る必要はないと思うよ。」

勝手な物言い、勝手な言い草、腹が立ってしようがない。

「勝手な事を言わないでよ。私の決断を邪魔しておいて、何があなたが知る必要はないと思うよ、よ。」

「邪魔したのは悪かったけど、さっきも言ったとおり引き止めるつもりはないよ。ジブン達はあなたの死後処理のためにここにいるんだから。」

「えっ…」

ずっと穏やかな話し方なのに、ぞっとするほど冷淡に響く声に対して、思わず言葉に詰まる。

「だから、止めるつもりはないと言っておるのだ。ここから飛び降りるつもりならさっさとすればよかろう。小生たちはおんしがそうした後でなければ、やるべきことも出来ん。」

私の停止した思考の穴埋めをするようなタイミングで、猫が言ってくる。

「なによ、自分たちが迷惑だからさっさと飛び降りろって言ってるの?馬鹿にしないでよ。あんた達のそんな都合で死んだりするわけないじゃない。」

私は、また声を張り上げることになった。まるでゴミ扱いじゃない。

「正直、小生はさっさとしてくれないかと思っておるよ、このアヤツがまっとうに死神の仕事をしないために小生まで役立たずと言われる始末だ。仕事を全うするためにも、な。でも、小生の都合など関係なくおんしは飛び降りるつもりだったのだろう?」

「ショーセイ、今そういう話をされると話がややっこしくなるから、止めてくれないかな。」一旦猫に向けた視線を私に戻して、続ける「どうせ死ぬつもりだったんだから早くして、なんてジブンは思ってないよ。それこそゴミ扱いなんかにしているつもりも。そう感じるのだとしたら、あなた自身でそうしてしまっているんじゃない?」

長髪の少年の言葉は、温度が上がることなく、冷淡なままだ。

「そんなことないわよ。」

長髪の少年が発する冷淡さに打ちのめされないように、声を張り上げる。

「だとしても、あなた自身で命を終わらせようとしているんでしょ。」

(それはそうだけど、でも私の命は私のもの、その価値だって私が決める。あなた達にゴミ扱いされる覚えなんかないわよ。)長髪の少年の凄みに気圧けおされて、声を出すことも出来ずに反論だけを思い浮かべる。

「だから、ね。そうやって自分の命だから摘み取って構わないなんて思ってることが傲慢で、命の価値をおとしめるんだと思うよ。」

言い返さなくても、冷たい降りしきる雨のように私を凍えさせる言葉はんでくれない。

「貶めさせたりしないわよ。私が死ぬことで少しは私の命の大事さに気付かせてやるの。私がどれだけ必要だったかを思い知ればいいんだわ。」

だったら、言い返すしかないから、無理にだって強い口調を呼び覚ますしかないじゃない。

「人が死ぬことにはそういう側面があって、死に対する価値の見出し方としてはあながち間違ってない気がするけど。手段が最悪だね。それじゃ、周りの人たちが覚えるのは、あなたがいたことの大切さでも、あなたの叶えられなかった未来とか想いを継ごうって意志でもなく、自殺なんて選択を止められなかったって後悔だけなんじゃない。」

「だから自殺が間違ってるなんて言うつもり、だったら、やっぱり私を引きとめようとしているんじゃない。違うって言うなら邪魔しないでよ。」

「そうだね、ここであなたと話を続ける時間はあなたの命を引き延ばしてるってことになるからね。」もっとムキになって反論してくると思っていたから、その長髪の少年の言葉を少し拍子抜ひょうしぬけしながら、聞いた。さっきまでの気圧けおされるほどの冷淡さも消えている。

「なんだ、引き止めて欲しいのか。」

その合い間をって、猫が底意地の悪そうな声音こわねで、訊いてくる。

「そんなわけないでしょ。」

動揺で、声が震える。まさか…図星だからなのかな。

「でも、今日は気をがれたみたいだね。今更そこから飛び降りようなんて気にはならないでしょ。」

眼下に広がる地面との距離に恐怖を覚えて、僅かに身を引いてしまう。

長髪の少年はまるで、それを見越しいたかのように立ち上がると、立ち去る前に後片付けだけはきっちりしようかなんて雰囲気で、お尻のほこりを両手でパンパンっと払う。その時になって初めて、長髪の少年が私よりも小柄らしいことを知る。

「なんなのさっきから、私のこと勝手に決め付けないでよ。」

もしかしたら、自分より年下かもって思ってしまえば、今までの発言が生意気に思えて腹が立ってしようがない。だから必要以上に強い口調になった。

「じゃあ、違うの?」

引いた波が再び寄せてくるように、消えたわけではない長髪の少年が放つ冷淡さが私を怖気おじけづかせる。

「あんた達のせいで台無しだから、もう今日はしないわよ。」

声を張り上げる気もおこらず、諦めながら口にする。

「なら、ジブン達はここにいてもしようがないね、ショーセイ、行こうか。」

「ここに来たのは無駄足になったな。」

猫は、音もなく柵から飛び降りると、長髪の少年の足元に向かう。

「あなたとはもう、二度と会わないことを祈ってるよ。」

猫が追いつくのを待っていた長髪の少年が、これで最後とばかりにそんなことを言ってくる。

「私だって、あんた達みたいなわけの分かんないのに、二度と会いたくないわよ。」

勝手に割り込んできたくせに、何が二度と会わないことを祈ってるよ、よっ。

「ジブンが言いたいのはそういうことじゃないんだけど、ね。まぁ二度と会わないんだったら、それでいいや。」

長髪の少年が小さくすくめて見せる肩は、寂しそうに映る。言い過ぎたかもなんて、後悔がそう見せるだけなのかもしれないけど。

「なんだ、この小娘に会えなくなるのがそんなに寂しいのか。死神に二度も三度も会いたがる人間がいるわけがなかろう。」

私と同様に肩を竦める仕草を寂しさと受け止めたらしい猫は、呆れた口調でそう言うと、立ち止まることなく長髪の少年の足元を通り抜け、追い越していく。

「そんなんじゃないんだけどね。」

長髪の少年は微かな苦味がのぞく言葉を残しながら、猫のあとを追う。その後姿は、今いる屋上の高さに地面がずっと続いているみたいに柵をすり抜け、そのままの足取りでかすんでけて、月明かりがほのかに照らす闇の中に消える。

そうした、不可思議なことですらどうでも良くなる苛立ち。

「なんだったのよ、本当に。」

最後までこっちのことをほったらかしで、勝手なことばかり言っていなくなった。まるで私の覚悟とか決意を嘲笑あざわらうみたいに。

はぁあ。

意図的に吐き出した溜息に、珍妙な闖入者ちんにゅうしゃへの不満や苛立ちを込める。

折角、思い出の場所に忍び込んだのに台無しだ。

私の母校、市立中学校。

私の人生に何の疑いも持たずにいた。その時間を過ごした場所。

だからここで終わりにしようと思ったのに。

帰ったら、また怒られるんだろうな、そう思う。

電源を切ったままにしている携帯電話の着信の数を想像すると気が重い。

あぁあ。

私だって言い過ぎたっていうのは分かってるけど。

満月の明るい月明かりですら照らし出せない私の嘆息は、夜気にまぎれた。



バタンッ

無言で乱暴に閉めた玄関のドアは、一際ひときわ大きな音をたてる。ドアを閉めた私自身が首をすくめてしまうほどの、音量。私が無言を通した代わりってわけでもないだろうけど。

昨夜、変な一人と一匹とに色々と掻き乱されて家に帰ってから、母親とは口をきいていない。これ見よがしにおいてあった夕食を食べて、その汚れ物を洗い、風呂に入って、自室で寝た。朝も恩着せがましく既に用意されていた朝食を食べて、こうして出てきたところだ。

昨夜、家に帰る道すがらスマートフォンの電源を入れると、案の定、母親からの着信で履歴が埋め尽くされていた。なのに帰ってきた私には一言も言葉をかけてこない。言いたい事があるんなら、言えばいいじゃないっ

家の玄関の戸に八つ当たりして多少は解消された苛立ちがぶり返してきた。それを踏み抜くようにアスファルトへと叩き下ろした足に込める。結局、私の足の裏に痺れるような痛みが返ってきただけだったけど。

その痛みにすら腹が立つ。

なんなのよ、もうっ。

大体、処分を聞くためだけに学校に行かなきゃいけないっていうのが馬鹿らしい。月曜だから学校に向かうのが億劫おっくうというのもあるけど。だからといって家に居たいとも思えない。今の私の置かれた状況はどこに居ても身の置き場がないんだ。

家からバス停までの距離は、徒歩五分。その程度の時間で私に芽生えた苛立ちが収まるはずもない。目に映るものがことごとく面白くない。辿り着いたバス停に並ぶ人の列の多さに対してだって、邪魔くさいな、なんて思う。

そうした苛立ちから目を背けようとしてスマートフォンを取り出すけど、気が気じゃなくなって全然見てる内容が頭に入ってこない。だから物思いにふける。でも明るくなんてならなくて、どうしたって抱える悩みに思考が向かう。ケチのつき始めはどこだったろう、なんで私にはこんなにも良いことがないんだろう、そういったことを考えてしまう。

別に昨日の夜に変な死神と猫にあったせいじゃない。だって、いろんなことが上手くいかなくて悔しくてやり切れなくて、だから中学校の屋上なんかに言ったんだから。高校に入ってすぐの頃は、平穏だったんだと思う。少なくとも私が気付くような違和感はなかったと思う。でも、それがそもそも違うのかもしれない。私が単にそれに気付かなかっただけなのかもしれない。

私が異変に気付いた時には、取り返しのつかない手遅れな状態だった。

学校で私と話してくれる人がいない。

愕然がくぜんとするその事態を受け入れるのには、長い時間がかかった。

私には夢がある。…夢があった、というのが正確だ。

単に思い描いただけじゃない。ずっとそれに向かって努力してた。

毎日数時間その夢に向き合って努力してきたのだ。そこら辺の人が夢を持ってそれを口にしながら、実際には努力していないのとは違う。なのに、私には才能がなかったらしい。どうしても届かなかった。だから、それを諦めようと思った。

それが全ての発端ほったんなのではないかと思う。母親と喧嘩することになったのも、私の周りに友達がいないことに気付いたのも。

私の思考がぐるぐると回っている間に、定刻どおりにやってきたバスが、乗車口である後ろの扉をバス停にぴったりと合わせて停車する。

「今日もバス混んでるなぁ。」

バスの後ろの窓から目いっぱい人が詰め込まれた状態が見えてしまうと、嫌気しか生まれない。その嫌気を口を動かしただけの呟きに乗せてそっと漏らす。

このバスを使って高校に通うようになってから、バスで痴漢されるようなことはないけど、それでも知らない人とーー特に知らない男の人とーー密着しなきゃならないのは、嫌悪感さえ抱くこともある。例えば今日みたいに機嫌の悪い日には。

うつむきながら、前の人に続いてバスのステップに足をかける。その時になって初めて前の人が履いているものがパンプスであることに気付く。そしてこの人にくっついていこうと思う。四方を男の人に囲まれるよりも、一角でも女の人がいてくれたほうが少しは安心できる。押されながら行き着いた先は、勿論混みあっているが、思惑通りに後を追った女性の隣で、背もたれにしつらえられた手摺てすりを掴むことが出来る場所だった。握った手摺が生温かくてちょっと気持ち悪かったけど。そうやって自分の立ち位置を確保出来たことで、再度物思いに耽る。

私は物心つく前から習い事を続けてきた。

そして、小学校に入学して以降は放課後になると真っ直ぐ習い事に行く毎日だった。習い事が終わって帰宅してからも寝るまで殆どの時間を練習に充てた。別にそれが苦痛だと思ったことはなかった。私は好きだったんだ、単調な練習の繰返しだったとしても。それに上達しているなんて実感が湧けば、その喜びはひとしおだった。そしていつしか当然のようにそれは私の夢になった。

習い事を始めた理由は覚えていない。確認したことがないから物心がつく前に私が望んだのか、母が勧めたのかはしらない。でもどちらでも良かった。習えていることに意味があって、始めた理由なんて些細なことだったから。

ただ、歯車が狂って自分が孤立していることに気付いた時、それが習い事のせいなんだと思い知った。

普通の子達は、放課後に共に遊びや部活にいそしむことで友達との関係を築くものらしい。私はそうしたことに全く時間を割かなかった。結果、私にとって学校の教室という場所には、薄っぺらで乏しい人間関係しか築けなかった。卒業してしまえば、なかったことにされてしまうような、薄っぺらく乏しい人間関係だ。

いじめを受けているわけではない。ただ、輪に溶け込めないってだけだ。

がむしゃらに習い事に向き合ってた頃には気付かなかった。気付いたのは、私が初めて習い事をサボった時、放課後を告げるチャイムがなると同時に、楽しげに数人のグループで集まる子達の中で、一人取り残されたからだ。

教科書を鞄に詰め終えた私はぽつんと、どうすればいいのかも分からず、そのまま座り続けた。「ああ、そうか帰ればいいのか。」なんてことに気付いたのは、あらかたの子達が帰った後だった。そう思い立って腰を上げた時に声をかけられた。

「響子、今日はすぐに帰らないんだね。私達と遊びに行く?」

今思えば、そんな私の様子を見かねたのだろう。その誘いに素直に応じて、カラオケに行ったが、どう楽しんでいいか分からず、終止戸惑っていた。それは面にも態度にも表れていたのだろう。以来、その子から誘ってもらえることはなかったし、それ以外の子に声をかけられることもなかった。

それはそうだよな、と思う。

だって放課後という限られた開放的な時間を謳歌おうかするためにみんな一緒に行動するのだ。つまらなそうな顔をしている人間と一緒にいたいとは思わないだろう。

そして、もともと一人で過ごすのが好きだから、学校にいる時間は一人でいるのだと思っていた。でもそれは単に私には友達がいないから一人でいるだけなのだと、知ったのだ。

みじめだった。

そのことに初めて気付いた時と同じように打ちのめされていると、バスが大きく揺れる。手摺を握る手に一際ひときわ強く力を込めて顔を上げると、バスがゆっくりと大きく方向転換しながらロータリーに入っていくところだった。

混みあったバスの中、人いきれで熱気すらを帯びる空気から間もなく開放される。その安堵が、丸く吐き出した息にこもる。

バスが完全に停車すると周りの人たちの足並みに合わせながら、バスの前方に向かい、定期券を提示してバスを降りる。そのまま、前の人の歩幅と歩調をなぞりながら歩く。

このバスロータリーに停車したバスから吐き出された殆どの人たちが向かうのは、都内へと向かう電車のホームだ。私もその例に漏れず目的地は一緒なので、転ばないようにとかぶつからないようにとかそんなことにだけ気を配って、人の流れに身を任せていれば、駅のホームにたどり着ける。バスロータリーを抜けるためにエスカレーターで昇って、降りて、駅の改札をICカードで抜ける。

ここからは快速と各駅停車の二つのホームがあるから、全く考えなしに歩くことは出来ない。少し顔を上げる。このゾロゾロと生気なく集団で歩く姿は、服装はバラバラだけど昔見た戦争映画収容所の行進みたいだと思う。

そして、いつものようにホームへと続く階段の脇にあるエスカレーターを利用しようと足を向けたところで、前を行く人たちが全員階段に向かっていく。

嫌な予感にかられ、歩を進めるとエスカレーターの前に二本のカラーコーンが立っていて、“調整中”の文字が目に入る。

「面倒くさいなぁ。」

声にしない不満を漏らしながら、階段に足をかける。

「ここの階段、必要以上に急勾配なのよ。」

続けてぎる不満で荒くなった鼻息が抜ける。

階段を数段上ったところでスカートのすそが気になってスカートを押さえる。その押さえた先に視線を向ける。視線がぶつかったのは、私の足を凝視する小太りなサラリーマンの男の人だった。

「なんなの、気持ち悪い。」

声には出さなかったけど、不快感で思わず目と手に力がこもる。階段の途中でそこから逃げ出すことも出来ない。

それに堪えて階段を上り切ると、通勤通学時間だと女性専用になっている先頭車両を目指す。その数歩を歩を進めたところで、

「まもなく3番線に東京行きがまいります。危ないですから白線の内側までお下がり下さい。」

そんなアナウンスが駅に響く。

「もう間に合わないかなぁ。」

絶望的な距離を前に、諦念ていねんが心を占める。

そのあきらめのままに、状況はくつがえらないのだと思い知らせるよう、アナウンスから間もなく私の乗ろうとしていた電車がホームに滑り込んでくる。この電車を乗り過ごすと学校に遅刻してしまう。

「当然そうなるよね。」

残念さが、小さく口をつく。

階段を上っている時に、私の後ろにいた小太りなサラリーマンが見回した中にいないことを確認して、

「あの気持ち悪い人がいないならここでいいか。」

その思いが歩みを緩めるきっかけとなって、その時たまたま近かった乗車口の列に並ぶ。

電車が幾つもの金属がきしむ音をともなって、停車する。

プシュー

気の抜けたような音を上げて、両開きのドアが開く。

こぼれ出すように押し込められた人達の内の数名がホームに降りるが、その人たちは改札口に繋がる階段に向かうでもなく列の最後尾に並んでいた私の更に後ろに並ぶ。その流れが収まると人と人との隙間を埋めるように、私の前に並んでいた人から順々に、電車に乗り込んでいく。私は自分の力だけでは電車に乗り切れず、私の後ろに並んだ人たちの押す力のおかげで押し込んでももらいながら、なんとか電車の中に入ることが出来た。

電車に乗り込むことを優先に考えていたので、立ち位置に気を配る余裕などなかったが、気がつけば電車の淵に立っていた。鞄やスカートの裾が閉まるドアに挟まれないように気をつけて閉まりきってしまえば、そのドアに左肩で寄りかかることが出来た。

ホッと息をついた瞬間、眼前をヌッとスーツの手が伸びてきて、私の視線を遮る位置に固定される。

「この手は鬱陶うっとうしいけど、とりあえず今日は楽な姿勢で電車に乗れてるから、まぁ良いか。」

そんな思いが胸を突く。

その思いに対して、慣れって怖いなと思う。どう考えたって劣悪な環境に置かれているのに、無理な体勢をとらないですんでるってだけで、良かった、なんて思えるのだから。

だた、そうした安心感が私の思考を回想へと追いやっていく。

「…お客様にお願いいたします。電車は事故防止のため、やむを得ず急停車することがありますので、お立ちのお客様はつり革や手摺にお掴まりください。…」

車内放送の堅い女性の声が遠くなっていく。そして私の意識は混みあった電車の中から一昨日の土曜日の放課後へと移っていく。



私は、一人での放課後の過ごし方を模索していた。さりとて習い事に通う気にはならずに、放課後になると呆然と自分の席で暫く座って過ごしてから真っ直ぐ帰宅するといったことを数日繰り返した。放課後になったら好きなことをすればいいんだってそんな簡単なことに思い至るまでにも、数日間が必要だったんだ。当時の私には。

なんていうか、ずっと習い事ばっかりで、本当に何も分かってなかったのだ。自分が何をしたいのかさえ。

雨が降っていた。朝、起きた時から延々としとしとと降り続く、そんな雨だった。

その雨は巨大なショッピングモールの建物の輪郭を淡くし、霞んで見せる。小さな雨粒は大きな雨音をたてることなく、降り注いでいる。湿気を多分に含んだ空気は、まとわりつくようで鬱陶うっとうしい。長雨のせいで出来た沢山の大きな水溜りに、何度も何度も足をひたしてしまったせいで靴下まで湿って気色悪い。

もともと抱えている陰鬱いんうつな気分をさらに沈ませる、私にとってはそういった雨だった。

陰鬱な気分を抱えたまま、長い午後を家で過ごす気になれずにいた。

それで態々、家の最寄り駅から電車を乗り換えて湾岸地区にあるショッピングモールまで足を運んだ。なんでここだったのかって訊かれれば、昔、母親にここに連れて来てもらった時の思い出が楽しかったからってそんな単純な理由だった。

別に楽しいことがある確証なんてない。お財布にも数千円が入っていただけだ。何を求めてと言われれば、何か心が浮き立つような何か。そんな漠然とした都合の良いことを求めて私はここに足を運んだんだ。

ショッピングモールの屋根のあるエントランスで、雨に濡れた傘を閉じて水をある程度払って畳んで丸め、止め具をパチンと鳴らして留める。置かれている雨天時の傘用ビニールを吊るしているゴミ箱から一枚を抜き取り、持っていた傘を入れる。そしてショッピングモールに足を踏み入れた。

久し振りに来たショッピングモールは随分と様変わりしていて、どういった店舗が何処にあるかがさっぱり分からない。無目的で来たのだ、変化のない微笑を浮かべて毅然と案内カウンターに座っている女の人に、声をかけるのははばかられた。私自身で歩き回るコースぐらい模索してみようと思って、ショッピングモールの地図とそのパンフレットを並べたオブジェクトに近づく。それをみたところであっさりと行き先を定められるような場所ではない。総店舗数四百五十にも及ぶような、巨大ショッピングモールだ。一先ひとまず気になるような店舗が集まっている場所に行って商品を見てみることにして、パンフレットの地図を頼りに歩き始める。

その道中とて、通路を通る訳ではない。両脇を華やかな店構えの店舗が立ち並ぶ。視線を振り回せば目に入ってくるのは、どこもかしこも目移りするものたちで溢れている。その中を歩いている。少なからず心は浮き立った。すれ違う人たちだって、親子連れだろうと、カップルだろうと、友達連れだろうと、独りのひとであっても、どこか表情がほころんでいるように見えた。少なくとも、そう、靴下が濡れた不快さに心がささくれだつことはなくなったように思う。普段の私なら、外出する時はうつむきがちで、店舗の軒先の様子にもすれ違う人たちの表情にも気付くことは出来なかっただろう。他の人の視線は刺さるものとしか感じられないのに、ここではそれも気にならない。順番があやふやな気もするけど、そんなのはだってどうだって良い。

そうした心持は足取りにも表れたのかもしれない。再度パンフレットで自分の位置を確認した時には、目的にしていた区画に辿り着いていた。

悪くない。

色とりどりの服が掛けられ、畳まれ、マネキンに着せられ、ディスプレイされている。そのどれもが私を高揚こうようさせる。これを私が身につけたらなんて想像はただただ、浮かれ気分を増長させる。

気になったマネキンに近寄って、裏返しになっていた値札を引っくり返してみる。

ふぅう。

有頂天になりかけていた気持ちに、冷水を浴びせられその勢いで高台から突き落とされるような落胆。その心の落差を埋めるように溜息が押し出される。

そこにしるされた金額は、適正な金額なのかもしれないけど、私が支払える金額とはゼロの個数が違っている。

折角、上げることが出来た視線は伏せるしかなくなって。

私はそのマネキンの前でお辞儀じぎをするように、こうべを垂れてそこにとどまっていた。

「何かをお探しですか。」

にこやかな声でかけられた言葉に、動き出すきっかけをもらう。そのきっかけは、お金が足りないなんて理由で商品が買えないことに対する後ろめたさと気恥ずかしさから生まれる、この場から一刻も早く立ち去りたいという衝動に起因するものではあったけど。

「いえ、すいません。」

声をかけてきた人の顔を見ずに言葉と小さく上下させた首の動きだけで、謝意を伝えるとそそくさとその場を離れる。

その後にのぞいた二店舗目も三店舗目も、同じように値段を見て落胆し、溜息をつくことになった。

楽しい気分で訪れたこの場所が、色褪せ遠のいていく。その様を愕然がくぜんと受け入れるしかなかった。私はここに関わることが出来ないんだって思い知らされる。

その思いに打ちのめされて、項垂うなだれる。リノリウム張りの床とのろのろと前へ押し出される足をただ見つめていた。

そんな歩みでも四店舗目に行き当たる。持ち手の形が特徴的なバックで名を馳せることになったブランド店だ。

通路から真っ先に見えた色とりどりの財布の値段は、やっぱり私の所持金とはかけ離れた金額だった。

思わず肩にかけているスクールバックから財布を取り出して比べてしまう。

あぁあ。

無言で大きく吐き出した溜息で肩が落ちる。そのせいでバックがずり落ちそうになるのをかけ直す。

往生際悪く、財布の中身を確認してしまう。そんなことをしても所持金が増えるわけではないのだけど。

いつ買ったかも覚えてないような、みすぼらしい財布。

これをみんなが持っているような、ここに置いてあるような可愛らしいものに変えれば、クラスの中に少しは溶け込めるのかな、なんて安易で根拠のない願望を抱いたりもする。

そうした感傷を払拭しきれずに、開いていた自分の財布をバックに戻す。

そして店頭にディスプレイされている中でも私の目を引いた財布を手に取る。

コレガホシイ

全体が薄い水色で切り返しの部分がクリーム色になっている長財布。切り返しの部分にブランド名のロゴが浮き上がっている。両脇から装飾のためにだけつけられた二本のベルトが縫い付けられ、そこには花を模した金具が取り付けられている。真新しい革のすべすべとした感触が心地よい。

一度触ってしまうとその感触を手放すのが惜しくて仕方なくなる。

持ち上げた財布からぶら下がる値札には、さっき見たのと変わらない私の所持金を大きく上回る金額が記されている。

デモ、コレガホシイ

芽生えた思いは、一度湧き上がってしまうと纏わりつき絡みついて離れてくれない。このままお金を支払わずに持っていってしまうということだって出来る。

でもそれは、悪いことなんだと私は知っているんだ。そう言い聞かせる。

夕方のニュースでスーパーの万引きの報道を見たこともある。万引きは高齢者に増えていて、万引きGメンなんて人たちが万引きした人を店の事務所に連れて行く様子も見たことがある。その後に警察に引き渡されている姿も。万引きしているところを見つかれば捕まるんだ。万引きなんて言い方をすれば子供の悪戯の延長みたいな気軽さだけど、窃盗なんだ。そうも言い聞かせる。

ソレデモ、コレガホシイ

結局拭えない。

だってしょうがないじゃない、私はこれが欲しいのにお金がたりないんだもん。だってしょうがないじゃない、私にはお金を手に入れる手段がないんだもん。

だったら、お金がなくても手に入れる方法をとるしかないじゃない。

そう思い込めば悪いことをしているんじゃないって思えそうだから。

だいたい、バレナケレバイイダケジャナイ。

視線の先、店の奥にいる女性店員が私に背を向けて、私とは別のお客の相手をしているのを確認する。

激しく心臓が高鳴る。動悸の一回一回が胸を押し広げ裂くように脈打つ。苦しくて仕方ない。

ダイジョウブ。

財布を持つ財布が小刻みに揺れる。もう片方の手も鞄の持ち手を握り締めていなければ、震えを隠し切れない。

ダイジョウブ、ダイジョウブ。

すぅう。小さく息を吸い込む。その反動を利用するような心地で手にしている売り物の財布を自分のバッグに入れる。

ハヤク、ハヤク。

はやる気持ちを抑えながら、この場を離れようとする。

その途端、

「あなた、何しているの?いま、鞄に入れたものを出しなさい。」

怒鳴り声とともに手首を強く掴まれる。その声と痛みに身体が強張って竦んだ。

その時、今更ながらに思い出していた。

私が見ていた万引きの報道の中で、万引きによる損失がどれだけあるのかを。そのせいで閉店に追い込まれる店があることを。誰かの生活を奪って、悪くないわけがない。

そんなことをやっと思い出して、やっと思い至る。

もう全てが手遅れだったけど。



「…この先電車が揺れますのでご注意ください。お立ちのお客様はつり革や手摺におつかまりください。」

車内放送の堅い声に意識が呼び戻される。

ぎゅうぎゅうに押し込められて、過ぎ去った夏もかくやといった湿気と熱を帯びた空気が密閉された車両内に満ちている。夏を名残惜しいと思うことはあっても、こんな形で再現されても甚だ迷惑だ。太陽が照りつけるわけでもないのに。

一定の速さで流れていた窓の外の街並みが徐々に、ゆったりとしたものに変わり、それに伴って建物の高さが伸びていく。

見慣れた街並み。毎日のように往復する電車の窓からこうして見ている景色なのだから当たり前なんだけど。

その景色のおかげで生まれる、もう少しでこの空間から開放されるなんて安堵感。それは小さく丸く押し出した息として形を与えられる。

車内放送のとおりに、電車を別のレールに乗せ換えるかのような大きな揺れにみまわれる。私は左肩から電車のドアに寄りかかっていたため、大きな影響を受けずにすんだ。

揺れる前から高さを増していた建物は、さらに大きくなって視界を遮っていく。と、駅へ侵入したことでプラットフォームに並んでいる多くの人たちの姿が、窓のすぐ近くを後ろへ後ろへ流れていく。

「…間もなく市川、市川。お出口は右側です。小岩へおいでのお客様は、お乗換えです。市川の次は新小岩に停まります。」

その放送が終わる頃には、並んで立っている人たちの顔を見極められるようになっていく。

一度、身体を電車前方に投げ出される感覚を味わうと電車が停止する。

プシュー

ドアが開いた途端、私の意思が入り込む余地もなく電車の外に押し出される。

その有無を言わせぬ感じは、あの時、店員に奥のスタッフルームに手を引かれて連れて行かれた時のことを彷彿ほうふつとさせる。そして、思い出すと羞恥からくる暑さと、恐怖心からくる冷たさを同時に感じて、身震いする。

電車から吐き出された私と電車に乗り込もうとする人。向き合う格好になった人たちの視線を避け顔を伏せて、人と人との隙間に身体をねじ込み進む。

ふぅう

背中を丸めることで抜けていく息。

満員電車は毎朝毎朝のことだけど、この不快な空間に慣れることは出来ない。私が高校のクラスに馴染めないのと因縁でもあるのかな、なんて疑いたくなる。

電車が出発してしまえば、多少はホームのごった返す状態が解消されるが、続々と通勤、通学の人たちがホームに上ってくるので、それも僅かな時間なのだろう。人に遮られて思うとおりに歩けない。出来れば、またホームがごった返す前にとっとと階段にたどり着きたいのになんて焦れを覚える。

ふぅう

突発的に感じる感情を身体の内から抜いていくための息。

そうすることで思い出してしまう、後悔と羞恥と恐怖心が心を占める。

人の流れに身を任せ、意識は回想へと沈んでいく。



「…なんでこんなことをしたんだ?」

調書をとり終わって、私の話を聞いてくれていたーー私にお父さんがいたら同い年くらいなんだろうーー盗犯係の刑事がかけてきた問いの応えに窮する。

なんでなんて言われると難しい。財布が欲しくてお金が足りなかったからなんて子供じみたことしか言えない。もう少し捻り出せば、抱える色んな不満をぶつける場所を求めていたってことなのかもしれないけど。そんなのが理由になるのかと言えば、疑問でしかない。もしくはあのブランドの財布を持てばクラスメート達との溝が埋められるかもしれないなんて抱いた妄想が、理由だったと話したところで理解はしてもらえないだろう。だから黙るしかなかった。

「…調書に必要な動機なんかじゃなくて、君が抱えるものを知りたいんだが、万引きには大した意味はなかったということかい。」

その沈黙を、どういう風に解釈したのかは分からないけど、刑事が寂しそうな表情でそんなことを言ってくる。思わず顔を伏せてその視線から逃れる。調書を取っている時の厳めしい表情から打って変わったそんな目と声で大人に言われると泣きたくなる。

殺風景な部屋。

飾り気のない二台の机と三脚の椅子が置かれているだけ。その机の上にも置かれているものは何もなく、殺風景という印象を強める。

ゆとりも遊びもない部屋の中では気を逸らせるものがなくて、小さく生じた不安が膨れ上がっていく。刑事の寂しそうな表情も拍車をかける。

私はこの後どうなってしまうのだろう。

その不安が溢れて溢れて止め処ない。

犯罪者になるのだろうか?学校は?色んな人に何を言われるのだろう?

「あ、あの…」

恐る恐る私は口を開く。不安を自分の心の内に留めておくことが出来なかったんだ。

「なんだ?」

「私って、この後どうなるんですか?」

不安で顔を見ることが出来ずに、顔を伏せたまま訊く。悪いことをしたことは分かってるつもり。それでもなんとか最悪の事態を避けることは出来ないだろうか、って都合のいいことを考えることを止めることは出来ない。

「うーん。金額は小額ってわけじゃないが、そこまで悪質じゃないと判断されると思うぞ。だから警察内での処理で検察には上がらない。まぁ、要するに裁判とかにならずにすむってことだ。」

私を安心させるためなのだろう、さらに優しい声音で声をかけてくれる。

「本当ですか、私刑務所に入ったりしなくて良いんですか?」

ようやく顔を上げることが出来て、刑事の目を懇願するように見る。

「そうなるだろうな、それでもお前さんのやったことは犯罪には変わらないんだ。万引きなんて言葉にすると軽く感じるかもしれんが、俺らみたいのがでばらなきゃならない、れっきとした犯罪だ。もうするなよ。」

釘を刺された。

知っているつもりだった。でも日頃からこうしたことに向き合っている人に言われると重く思える。

「…はい。」

再度項垂れながら、それだけを応えた。

「分かってくれればいい。まぁな、お前さん達の年代にはその年代特有の悩みとかもあるだろうしな。色んな情報が入ってくるのに、経済的に自由にならなかったりするなんてジレンマがあるのもしれんけどな。犯罪以外の方法で折り合いをつけてもらいたいもんだな。」

私にというより多くの中高生に向けてといった風な響きのある言葉が私の鼓膜を打つ。それは語気を強めたわけでもないのに強く心に刺さる。

「…はい。」

私に出来ることは、返事を返すことだけだ。

「なんせ、俺たちが楽だからな。」

冗談めかして付け足された言葉は、気を遣われていると分かっても悪いものじゃなかった。だから、それに笑顔で応じようと思ったけど、ぎこちなく顔が引きつっただけだった。

「まぁ身の丈にあったことをするのが一番ってことだ。欲しいものを手に入れるのも、笑うのも、無理をすることではないな。」

微苦笑を浮かべた刑事の言葉は、心に沁みていく。

その後は、ただ黙した空気が支配する。

そんな中、机を叩く指の音が一定のリズムで刻まれる。

「なんか不機嫌そうですけど、どうかしたんですか?」

その机を叩く指が苛立ちを体現しているように感じられて思わず訊く。

「いや、なぁ…」

指の動きを止めた刑事は言葉を濁すと、決まり悪そうに頭をガシガシ掻く。

「娘さんにお子さんが生まれたのを機に煙草をやめようとしてるの。だけど、落ち着きがなくて周りが迷惑してるの。」

部屋の中にいて一言も発さなかった制服の女性警官が教えてくれる。

「今まで、ずっと黙ってたくせになんでそういう余計なことばっかり言うかなぁ。」

「本当のことでしょ。今時禁煙するのなんて珍しくないけど、こんなに周りに歓迎されない禁煙は珍しいわよね。」

「これでも家族は、歓迎してくれてるんだよぉ。」

「フフッ」

さっきまでの威厳が嘘のように情けない声を上げる刑事の様があまりにも可笑しくて、笑い声が漏れる。

その私を刑事も女性警官もにこやかな目で見てくるから、恥ずかしくてまた顔を伏せた。

「それにしても、お母さん遅いわね。連絡がついてからは結構な時間が経っているんだけど。」

女性警官がポツリと漏らした言葉に思わず硬直する。

「すいません。母は出版社で編集の仕事をしていて、それなりに忙しくしているので。」

狭い窓から見上げることのできる空は、もう完全に日の落ちた夜空だ。狭い窓から都合よく月が見えたりすることもない、暗いだけの夜空。

「どうされたのかなと思っただけなの。他意はないのよ、ごめんなさいね。」

女性警官は、さらっと言葉を置いてくれる。

「そんなに気になるんだったら、様子を見てきてくれよ。俺も少々気になるしな。」

「亀岡さんって本当に規則とかどうでもいい人よね。まさか私が暇つぶしで同席してるとか思ってないわよね。」

刑事が亀岡という名前なんだと今更ながらに認識する。最初に自己紹介された気もするが、その時は完全に気もそぞろで記憶にとどめることが出来ていなかった。

「なんだよぉ。俺もおじいちゃんなんだぞ。こんな若い娘さんをどうこうするようなことはありえないぞ。なんせ目指しているのは、好々爺なんだからな。」

「亀岡さんと、この娘に何かあるなんてこれぽっちも思いません。でも規則なの。規則は万能ではなくとも、経験とか反省から生まれている間違いを起こり難くするためのものなの。」

「そんなの言われなくても分かってるよぉ。」

「分かってるなら、亀岡さんがさっさと様子を見てくる。」

親子ほども歳が離れた二人なのに、明らかに歳が下のはずの女性警官の方が優位に話を進めるのは、違和感がある。それとも父親と娘の関係ってこんな感じなのだろうか。

「なんでそうなる?」

「私はここを離れられないし、さっき自分で気になるって言ってたでしょ。」

「なんだよ、人遣い荒いなぁ、そもそも階級は俺の方が上なのに。」

「ぶつぶつ言わない、さっさと行く。」

まだ小声でぶつぶつ言いながらも亀岡さんが部屋を出て行く。

「ごめんね、情けない姿を見せて。幻滅したでしょ。」

「いえ、そんなこと。」

「亀岡さん、刑事のくせに威厳に欠けるのよね。仕事も出来るし悪い人じゃないんだけどね。」

概ね、その亀岡さんの威厳はこの女性警官が失墜させた気がするけど、これは口にしない方が良いんだろう、そう思う。

「何もないところだけど、お母さんが来るまでゆっくりしていって。お茶ぐらいならだせるんだけど、要る?」

「大丈夫です。」

「そう、規則で私はここを離れるわけには行かないから、少し窮屈に感じるかもしれないけど、もう暫く我慢してね。」

「とんでもないです。」

その私の返答を微笑で受け止めると、女性警官は黙る。私と視線を交わさないように壁を見つめている。私が黙ってこの場にいやすいようにとの配慮だろう。それでも、さっきは否定したけど、特に何をするでもない女性警官と一緒にいるのは正直、息が詰まる。この女性警官だからとかではなく。気を紛らわせるものがない二人だけの空間で、秒針を押し進めることが重労働でもあるかのような重苦しい時間を黙って過ごさなきゃならないことに苦痛を感じるというだけだ。

その一秒一秒が、じりじりと私を押し潰すようで。私は膝の上で拳を固く握り締めて、じっと耐えることしか出来ない。なんとなく下げた視線は膝の上に置かれた自分の拳を見つめることになる。手の甲にうっすら浮かぶ青い血管の筋をなんとなく目でなぞる。その意味のない行動を意識すると何をやっているんだろうって、泣きたくなる。亀岡さんと話している時には記憶の隅に追いやることが出来ていた、自分のしでかしたことが重くのしかかってくる。自分のしたことは万引きなのだ。学校ではどんな処罰を受けるだろう。クラスの皆とは更に距離が出来るのだろう、それどころか虐められのかもしれない。母親はどう思うのだろう。叱られるのだろうか、それとももう相手にされないのだろうか。母親がこれからくるということがこれほど気が重い。母親とは、最近ギクシャクしている。それは私のせいなのは分かっているけど、素直に謝る気になれない。今回のこのことが関係性を決定的に崩すのかもしれない。

…決定的には変わるよね、万引きして警察に捕まってるんだから。

手の甲にしずくが落ちたことで、涙が零れ落ちたことに気付く。慌てて指で拭う。そして女性警官を盗み見る心地で視線をあげる。幸い女性警官は、変わらず壁を向いて座っている。気付いてないのか、気付かないフリをしてくれているのか。分からないけど、考えても無駄なんだろうなと思う。大人の女の人の腹の底を正確に探れるとは思えないから。

だから見られなかったと思うことにする。気が晴れるわけではないけど。

でも、母親のことを思い至ってしまったことは、もう拭えない。しかもこの後、顔を合わせねばならないんだ。私の言うことをきかないからって顔をされるのが一番、かんに障る。

私が真剣に悩んで、長年続けてきた習い事をやめたいと相談した時も、私の話を聞いてくれるではなく、勿体無いから続けなさい、なんて言う母親なんだ。今回だって私の思いなんか聞く耳も持たずに叱りつけるのだろう。元はと言えば習い事ばかりで、友達付き合いが出来なかったからこうなっているのに。習い事をやめたいって相談した時に、もう少しでも私の気持ちを汲み取ってくれていたら、こうはなってなかったかもしれないのに。きっと、聞く耳を持たずに叱るんだ。

…私が甘えていて、悪いのなんて分かってるつもり。今回のこの警察に連れて来られたのだって、長年続けてきた習い事を前触れなくやめたいって言い出して、聞いてもらえなかったからって無断でサボっているのだって。私が悪いのなんて、そんな当たり前のこと分かってる。私がクラスに溶け込めないのだって、習い事のせいで全てこうなっているんじゃないのだって、分かってる。

でも、じゃあ私は何を頼ればいいのよ。友達と呼べる子もいなくて、母親にも相談出来なかったら、誰を頼ればいいのよっ。困っている時に誰かに相談することさえも甘えだって言うなら、もう生きていく自信なんて持てないよ。

手の甲が濡れていることで我に返る。もう誤魔化せないほどの涙が頬をつたっている。

無言でポケットティッシュが眼前に差し出される。

私がそれを受け取るのに躊躇っていると、もう数センチ突き出される。

「泣いたりしなくたって、反省してるのは伝わってるから。亀岡さんが帰ってくる前に拭いてしまいなさい。」

項垂れる私に優しく振ってきた言葉で、頷いてポケットティッシュを受け取れる。

反省の涙ではないのに、そう思わせてしまったことを申し訳ないと思うけど、否定することが出来ない。上手い言葉が見つからないというのもあるけど、折角都合良く解釈してくれていることを否定してしまうほど正直でいられなかったんだ。

私がティッシュを受け取って涙を拭い切ると、女性警官がゴミ箱を差し出してくれる。そこに涙に濡れて丸めたティッシュを投げ入れる。

そのポトンッと情けない音とガチャッとドアを開く音が重なる。

「お母さんが迎えに来てくれたぞ。」

ドアから顔を出した亀岡さんがそう声をかけてくる。

その言葉に身体が意図せずに強張る。安堵がないわけではないけど、どんな顔で母親の前に出て行けば分からない。こっぴどく叱られるのだろう、それはしょうがないけど、私が正しいみたいな顔をされるのは、やっぱり我慢ならない。私にだって言い分くらいあるし。でも母親に母子家庭だからなんて負い目を感じさせてしまったのかもなんて後悔だってある。

亀岡さんの背中についていきながら、頭の中を整理できないまま母親の前に出される。そのせいで顔を上げることができない。そこに母親の素っ気無い声が降ってくる。

「…帰るわよ。最後に皆さんにご迷惑をお掛けしたことを謝りなさい。」



キンコンッ

警告音らしく不快でけたたましい音と、私の歩みを遮るために閉じられたゲートと、両脇から赤い点滅が私を照らすことで自動改札が私の行く手をはばんだことを知る。

物思いに耽ったままだったので、定期を兼ねたICカードを出すことなく、自動改札に入ってしまっていた。

後ろからははっきりとは聞き取れない悪態と舌打ちが聞こえてくる。

顔が一気に火照って、謝罪のために小さく頭を下げる。その顔を上げれないまま、顔を伏せて改札口に出来た列の後ろに並びなおす。

なんだか最近こんなのばっかりだ。

他の人から見れば、単に自動改札をすんなり通過出来なかったってだけの話なんだろう。でも、どうしてもここ最近自分に起こっていることに重ね合わせてしまう。自業自得と言われれば、そうなのかもしれないけど。

思わず涙がこぼれそうになるのを顔を上げることで堪える。こんなに沢山の人がいるところで泣くなんて情けなくて仕方がない。大丈夫なんて声をかけられたりしたらいたたまれなくなる。

顔を上げて見渡しみれば、私のことを見てる人なんて誰もいない。自意識過剰ってだけかぁ、自嘲の笑みが口角を押し上げるのをはっきりと感じる。

どうにもならないな。この状況も私の気持ちも。

だから死にたいと思ったのに、あの変な死神と猫のせいで台無しだ。

そんなほの暗い思いを抱く。でも今は、この中に上手く溶け込まねばならないんだ。鞄から、ICカードが入った財布を取り出す。万引きをしないですんだから、相も変わらずみすぼらしい財布だ。

いつからこの財布をみすぼらしいなんて思うようになったんだろう。

意識するようになったのは、ここ最近のことだ。特に誰かに何かを言われたということはなかった。少なくとも習い事に邁進まいしんしていた頃には、そんなことを意識していなかったと思う。はっきりとは思い出せないけど。

思いを巡らせているのか単にから回っているのかをしている間に、心太ところてんのように押し出されていく改札の列の中で、私の順番が回ってくる。今度こそICカードが入った財布をパネルに触れさせて自動改札を通り抜ける。

改札を抜けると、それまで一所ひとところを目指していたそれぞれの歩みが各々の目的地を目指したものに変わる。一人一人の動きは単純でも多くの人が違えた場所を目指すと、途端に複雑になるように私には思える。少なくとも思案に暮れたまま、誰ともぶつからずに歩けるような場所ではない。だから、歩いて駅構内を通り抜けることだけを意識する。

改札を出て右手側にあたる北口を目指す。左右から近寄ってくる人たちを緩めたり小走りになったりする歩調でやり過ごす。

駅構内の出口、春から夏に向けて移ろっていくその季節の陽射しは、全てのものにあまねく降り注いで、くすむことを許さないそんな陽射しだ。真夏の全てを押さえつけるようなそんな強制力のあるそれとは違っているけど、やっぱり私にも周りと同じであることを求めているようで、正直好きではない。

高架にあるホームから改札口に降りるだけでは足りなかった地上までの高さを埋めるための階段。この階段も勾配がきつくて上る時は後ろからの視線が気になるし、降りる時は踏み外してしまうのではないかという不安に駆られるから好きじゃない。

もっと利用者に配慮したらいいのに、特に身体が不自由な人だっているのに、なんてとってつけたような理由が上滑りしていく。そして、少し怖くなる、今の私は身体の不自由な人たちを本当に思い遣って引き合いに出したわけじゃない。自分の不満のためにそういったことを利用したんだ。口に出したわけじゃない。誰かに伝えたわけじゃない。それでも自分のそうした発想が怖くて仕方ない。こんなんだから万引きなんかするし、母親とも反りが合わなくなるんだろう。

階段を降りきったことで生まれる安堵感も伴って、私はまた一昨日の出来事へと意識が押し流されていく。



警察署を出てから前を歩く母親の背中を、俯きつつ上目遣いに見ながらとぼとぼと歩いてきた。なんとなく、いや、はっきりと後ろめたくて隣を歩くことがはばかられたから。

でも、黙っているのも怖かった。

怒っているだろうな、呆れているだろうなとは思うけど。それでも黙っている間にどんどん怒りや呆れは膨らんでぜるのでは、そんな不安がある。

弁解も弁明も出来なくて、まともな言い訳すら用意できないだろうけど、小言とかを貰うことで解消する何かがあるかもしれないと思える。だから話しかけたかった。でもそれを許さない雰囲気が母親の背中にはある。だから少なくとも私の不安は膨らんでいるのに、結局、警察署を出て15分ほどの時間、話しかけることが出来なかった。

母親に見捨てられる。

それが現実的な輪郭を持ちながら、私にせまって私をおびやかす。膨らんだ不安がそうした発想になっていくことを傍観することしか出来ない。

身体の末端から背筋にせり上がってくる悪寒と震えに抗う術もなくて、ただ耐えるしかない。

何か言ってよ。

私の心の叫びが聞こえるはずもなく、母親はずっと変わらぬ調子で歩いている。心なしかいつもより背中が丸まっているようにも見える。それも仕方ないのだろう。自分の子供が馬鹿な真似をして警察署に出向くことになったんだ。いつもは芯の強い母親であっても、落ち込んだりもするのだろう。…全部、私が悪いんだよね。

母親よりも深く項垂うなだれながら、ただ前を行く母親の足を追いかける。

でもこうなったのは、母親にだって少しくらいは責任があるはずなんだ。だって私の救いを求めた声を取り合わなかったのは母親なんだから。私の苦しみを全く理解しようとしなかったんだから。

ダカラワタシダケガワルインジャナイ

そんな偽りの強がりで自分を奮い立たせると、話しかける。

「なんで何も言ってくれないの?」強がりのままに、いどみかかるように話しかける「呆れたから、それとも私を育てることに嫌気がさした。そりゃあそうよね。万引きして掴まるような娘、自分の娘だなんて思いたくないよねっ」

足を止めて母親が振り返る。間髪入れずに。

バチンッ

大きな炸裂音が耳のそばで鳴ったこと、左頬に残るジンジンとした熱さと痛み、意図せずそっぽを向くように首を捻っている様を認識する。

…叩かれた?

「何を言えばいいって言うの?万引きは悪いことだから今度からやっちゃ駄目よ、とか言って欲しいわけ?」

起こっている事への理解が追いつかず、ましてたたみ掛ける言葉に反論することも出来ない。熱さを伴った痛みを覚える左頬をさすることでさえ、何拍も遅れてやっと行動に移せる有様だ。

「今までずっと、やってきた習い事を突然やめたいなんて言い出したと思ったら、万引きをして警察のご厄介やっかいになってるって。勝手を押し通すつもりなら自分で責任をとりなさい。」

その叩きつけられた言葉と母親の形相を思い浮かべてしまって、向き直ることが出来ない。

「…ごめんなさい。」

絞り出した声は、私と母親の間に横たわる空気にはばまれて届かないのではと不安になるほどにかすれる。

「謝る相手は私じゃないでしょ。それにあんたがしおらしくしたところで、何が解決するわけでもないでしょ。」

つっけんどんな物言いなのは変わらないけど、謝ったことに対して返答があったことで見捨てられていないんだとの安堵が生じる。その安堵感が自分の浅ましさを現しているようで嫌だった。と同時に母親に対する腹立たしさも湧き上がる。見捨てられないと思えた瞬間から、依存しているその相手への不平や不満が心を占めていくことに対して、どんだけ自分に都合よく物事を考えているのよ、といういさめもよぎぎるけど。

ハハオヤノセイデコンナコトニナッタンダ

という最悪な考えまで浮かんでしまう。先ほどまでの無理矢理に自分を奮い立たせるために思い描いたのとは別の、腹立ちまぎれに責任転嫁で生み出した言葉だ。沈む一方だった心がすくい上げられた途端、跳ね回って自分で制御することすら出来ない。だから押し黙る。今感情のままに口を開けば、取り返しのつかないことを言ってしまいそうだ。だって、叩かれた頬の痛みにさえ怒りを覚えているんだ。叩かれても仕方ないと分かってはいるのに。

「だいたいなんでよりによって財布なのよ。」

母親のその呟きに思い出す、財布をみすぼらしいと思うようになったのは、一度だけクラスの子達と一緒にカラオケに行った時に、他の子達が持っている財布と見比べてしまって、恥ずかしいと思ったからなんだ、と。

「…それは、友達と買い物した時とかに恥ずかしいのよ、こんなみすぼらしい財布。」

言い澱んだのは、母親から譲り受けたことを覚えていたから、そして、激情に流されてしまわぬよう自らを戒めていたからだ。

「そんなことを思ってたの?それでそんなことを理由に万引きをしたの、本当に情けないわ。」

プツンっ

溜息混じりに呟かれた母の一言が私のかろうじて留めていたせきを切った。

クラスの子達の前で財布を取り出した時に感じた羞恥と疎外感を知らない母親が、そんなこと、と言うのか。私の気も知らないでっ。

「他の子達が、流行りのものを持っている中で、こんなのを使い続けなきゃならない理由が分からないわよ。私には自由になるお金なんて殆どないんだから。だからバイトしたいって言っても、お母さんは、習い事を続けろばっかりじゃない。私のことなんて何にも分かってないくせにっ。」

バチンッ

再度、同じ頬を引っ叩かれた。二度目の衝撃。

「たかだか万引きじゃない。なんでここまでされなきゃならないのよっ。」

頭で考えるより、口から言葉が吐いて出た。

睨みつけた先の母親が、強く口を結ぶのが見えて、また引っ叩かれると身構える。けれど、無言で母親は向き直ると歩き始めた、ただ足音を響かせて。その足音が私を責め続けるようで、結局、うつむいて歩くしかなくなった。



駅へと向かう道と幹線道路がぶつかる交差点で、信号待ちをしている人達の群れの一員となって無意識に動かしていた足を止めたことで、回想も途切れた。

あれから母親とはまともに口をきいていない。

ふぅう。

溜息が漏れる。

母親との関係を思っても、学校に着いて待ち受けていることを思っても、浮かない顔をしている自分と同じ制服を着ているという共通した部分がある子達が顔見知りを見つけていつもどおりの挨拶を交わしているというその格差を思っても。

同じ格好なのに、こんなにもへだたりがある。朝をしかも月曜日の朝を憂鬱ゆううつに思っている子なら私以外にも沢山居るだろう。でもそれは、わずらわしい一週間が始まるとか、そういった類のものだ。暫く学校に来れなくなるかも、下手をすれば二度と来れなくなるかも、という不安とか、自分のしでかした事とはいえ、なかったことにしたい事実を根掘り葉掘り聞かれるかもとか、そうした事態を知っている人たちの目線に耐えなければならないのだろうとか、私が抱えているのはそうした煩わしさなのだ。誰かに区別されたわけではないけど、それでも私からすればあからさまな境界線だ。そこに疎外とか隔たりを感じないことなど、どだい無理な話だ。

その感じた距離感は、私の意思とは関係なく止まった足を、再び踏み出すのを躊躇ためらわすには充分すぎる。

もしくは、昨夜、中学校の屋上におもむいたように、遠慮のない速度で車が行き交う幹線道路にそのまま足を踏み入れるという選択肢もあるのかもしれない。

こんな顔見知りがいるかもしれない衆目しゅうもくさらされてなければ、それもいいのかもね、自嘲でその考えを打ち消して、自分の足を見下ろす。

この足が再度、踏み出せるかが自分でも不安で、目を向けてしまう。遅刻しないようにすることを強く意識することで、閉め出していた学校で待ち受けていることをあれこれ考えてしまえば、足はすくむ。

学校に行っても行かなくても結果は同じだ。それでも、これ以上母親にしたり顔をされるのも、呆れ顔されるのも我慢ならない。昨日の昼間に万引きをしたお店に謝りに行った際に、「まさか手ぶらでいくつもり?」という言葉とその時の呆れた表情だけは色濃く、胸に残っている。今日このまま登校しなければ、やっぱり同じような顔をされるのだろう。

だから、登校しないという選択をすることは出来ない。

その仮初かりそめの意地と強がりで、顔を上げる。

そのおかげで、歩行者用の信号機が青に変わる瞬間を見ることになった。

同じく信号待ちをしていた人達の足並みを先行する心地で足を踏み出す。

交差点に描かれた横断歩道を渡る。自分の足で一歩一歩歩けば、向こう側に渡ることが出来る。なんで生きていくこともこんな風に順調に進んでいかないのだろう。私は努力をずっと続けてきた、だから努力に対して正当な結果があってもいいじゃないか、そう思う。別に過剰な見返りが欲しいなんていうつもりはない。でも世の中は理不尽で、努力じゃ埋まらない才能を持った人がいるんだ。私の数年間の努力を数ヶ月で追いついてしまうような、そして追い抜かしていくような。なら、私の努力ってなんなんだろう。私が生きる意味ってなんなんだろう。そう思う。

ズキンッ

はっきりとした痛みを伴うと錯覚する思い出。

それが緩慢かんまんな歩みの中で、ピアノコンクールの全国大会でのことが蘇ってくる。



バクンッバクンッバクンッ

大きな心音に私の心臓はこのまま破裂してしまうんじゃないか、そんな懸念すら生まれる鼓動。それがずっと続いている。収まることなく、それどころか際限なく大きくなっていく。

こんな鼓動が鳴り響くなかじゃまともな演奏なんて出来るわけないよ。

すうぅぅぅはぁぁぁぁ

吸う時に胸を張って吐く時に背中を丸める仕草で大袈裟に、深呼吸をする。

身体を縮こまらせてしまうものを、身体を強張らせるものを肺の中から追い出して、新鮮で身体をほぐすものを取り込む心地で。

三度繰り返して、肺の中の空気を全て入れ替えたと満足できたところで深呼吸をとめて視線を前に向ける。

世界の中でそこだけが浮き上がっているようなピアノ。実際浮き上がらせるように見せるために舞台上、そのピアノにだけ照明が注いでいて、それ以外の場所の照明を極力抑えている。それだけのことなのに、それでも、世界中の視線が向いているのではと、錯覚してしまうような、それほどまでに神々しくさえ感じる照明によって照らされている。私が今から向かう場所はそういった場所なのだ、と思えばまた大きく心臓が跳ね上がる。

もう一度、先ほどよりも大きな身振りで沢山の空気を吸い込むと、吐き出す。

「私のために用意された場所。だから私を見るのは当然。そして私の演奏に聞き惚れればいい。」そんなことを思う。無理矢理にでも絞り出した傲慢ごうまんな思考を維持するために胸を張って視線を上げる。高い天井に視線がぶつかる。「ほら、私のためにこうしてしつらえられているんだ。」その天井で、ピアノに光を当てているライトを見つければ、そんな風に思うことも出来た。そのまぶしさに目をつぶる。

顔の角度も瞑った目もそのままに胸に左手を当ててみる。いつも通りとはいかない早い鼓動が掌に伝わってくる。それでも、先ほどの心臓が跳ね上がるような鼓動ではなく、ただ早鐘のように打ち鳴らすような鼓動になっている。そして、その鼓動はおびえてすくんだための早さでなく、いど鼓舞こぶするための早さだと思えた。そう思えたからこそ、同じ顔の角度で目を開けることが出来た。だから、張った胸もそのままだ。

「№8の方、お願いします。」

私の番号を呼ぶアナウンスが流れる。

私は、無声で返事をすると、いつかテレビで見たシンクロナイズドスイミングの選手が登場するときの姿勢を意識し、背筋を更に伸ばして歩を進める。

昨日も一昨日もその前もさらにその前もその前だって、ずっと弾き続けてきた曲をここで披露するだけだ。右手に持った楽譜は形式上持ってきてはいるけど、こんなのがなくたって弾けるほどに、弾いてきた曲。それを同じように弾くだけのことなんだ。沢山の視線が集まっていようとコンクールであろうとそんなの変わらない。それに似たような状況の地方大会でだって、私はちゃんとやれたから、ここにいるんだ。全国大会のここでだって上手くやれるはずでしょ。だって地方大会との違いなんて課題曲なのか自由曲なのかだけなんだから。

ピアノの前まで進んだところで、ステージを観る人たちに深々とお辞儀をする。

この先、私は何度だってそれこそもっと大きな舞台でもっと沢山の人たちに見られながら演奏することになる。いい経験じゃない。私がピアノを弾くっていうのは、今後こういうことになっていくんだ。多くの人に聴いてもらうための演奏。そういうことになっていくんだから。

椅子に腰掛ける頃には、私はかつて経験したことのないほど、高揚した気分でピアノを前にすることになっていた。

自分との対話を終え、周りに意識を向ければひっそりと静まり返っている。数百人の人がいるとは信じられないほどの静寂。その中にあって早鐘の鼓動が私の鼓膜を震わせる。でもそれももう私の中では、私をふるい立たせるものでしかない。

だから鍵盤けんばんに指を置いたとき、もしかしたらもっと前から私はこの舞台で望むままに、音を奏でられることが決まっていたみたいだ。

今日は、きっと良い演奏が出来る。

そう思えたままに、弾き始める。

湧き上がった予感めいた思いは間違ってなかった。私の指は意識せずとも、譜面を旋律に変えて響かせていく。

私の弾いているピアノが発する音だけが、広い講堂内を満たしていく。

それが気持ちよくて、さらにピアノに向かい合っていること、ピアノを弾いていることだけに集中していく。周りの景色が見えなくなるわけじゃないのに、鍵盤とダンパーべダル、指と右足の動作にだけ意識が集約していくのだ。

ダンパーべダルと指の受け渡しもスムーズで、途切れない調べを奏でることが出来ている。

楽しくなってくる。

深く集中していたせいなんだろう、自分の気持ちにすら遅れて気付いたのは。気持ちに気付ければ、いつの間にか頬がほころんでいるのが分かる。壇上でしかも演奏中に笑顔を見せるのは、不謹慎なのかもしれないともぎるけど、今更厳いかめしい表情を作るのは難しそうだ。それにこんな楽しく演奏できることなんてそうそうない。こんなに思い描いて、思い願ったとおりに音を奏でることが出来ることなんかそうそうない。だから心の赴くままに、譜面をなぞる。危うく譜面を飛び出してしまいそうになるけど、まるで水を入れた水槽を持ったままバランスを崩した時に、水槽内を暴れまわる水のように。でもその暴れる水を水槽内に収め続けられていることで、さらに面白くて仕方なくなっていく。

曲の佳境に入る頃には、腰は若干椅子から浮き上がる。その勢いも乗って自分でもそう感じるほどに力強く、旋律は響く。

フォルティッシモからフォルテフォルティッシモへ、そして最後の音を叩きつけるスフォルツァンドで締め括る。

ジャンッ

激しい音が空気を震わせ終わった後、一拍の静寂。

その後には、拍手の音が講堂内を埋め尽くした。

私は、まるで雨みたいに見ることが出来るんじゃないかと思うほど、幾重いくえにも重なりながら一つ一つも鮮明な拍手の音を浴びながら、立ち上がり、半ば無意識に深々とお辞儀をする。一際ひときわ大きくなった拍手の音に、演奏をやり遂げた達成感からぼんやりしていた意識が覚醒してくると、胸の内を歓喜が占めていく。ここで歓喜に任せて歓声を上げたり、喜びを身体で表現することなく、落ち着いた振舞いを継続できたのは、日頃からピアノの先生が舞台上の全ての振舞いが演奏とみなされると教えてくれていたおかげだ。

私は歓喜の一部を先生への感謝に向けることで、顔を上げた後も振舞いを乱すことなく舞台袖に下がることが出来た。

下がった後も暫く続いた拍手と会心の演奏だったことで、胸の内から始まった歓喜が全身を駆け巡る。振り返り舞台上を照らすスポットライトを見上げる。神々しいとさえ思った光は、やっぱり神々しいままで。それが霞んで滲む。形をなくしてただそこに光があることが分かるだけになる。

声は出なかった。喉からはただ微かに喘ぐ息が漏れるだけだった。でも止め処なく涙が溢れ止まらない。こみ上げてくる涙と感情をどうすることも出来ずに、私はその場から動くことが出来なくなっていた。

私はやり切った、今までにないほど完璧な演奏だった。歓喜と感謝を持て余して、こうして立っていることしか出来ない。

どのくらいの時間そうしていたのかは正直分からない。そして遅ればせながら状況が変化していることに気付いた。そして、音が鼓膜を震わせる。

途端、総毛立つ。

次の人の演奏が始まっている。当然の時間の経過による変化なのに、私は同じ時間の流れだとは信じたくなかった。それほどに空気は一変していた。その一変した空気は、私と同様に他の人達も唖然と次の人の演奏を聴いたためなのだろう。その人の演奏を聴いただけで、違うかもしれないその一音を聴いただけで、私はかつてないほどの衝撃を受けていた。

私と、同じピアノを弾いているのよね?

そんな当たり前のことを疑問に思ってしまうほど、何から何までが違っている。

私は旋律を奏でていたのに対して、彼女のは感情をそのまま音として投げかけてくるようなそんな違いだ。私は心臓を鷲掴みにされたように身動きが取れなくなる。そしてただただ演奏者の後姿を凝視する。大きくない、どちらかといえば華奢きゃしゃに映るその背中が異様な圧迫感でもってピアノを奏でている。

何これ?

嘘みたいな光景で、嘘みたいな演奏を聴いている。

私の歓喜も感謝も一瞬で砕けて、ただ圧倒されている。たかだかピアノの音なのに畏怖すら覚える。

なんなのよ?

しゃがみこみたくなるほどの脱力感が、全身を襲う。それを辛うじてとどめてくれているのも実は、力強いこの演奏なのではと思ってしまう。

驚きによって気付かない振りが出来ていた。でも、演奏に支えられているなんてことに思い至ってしまえば、もう敗北感に気付かない振りを続けることは出来なかった。

ばかみたい。

不思議と涙は出なかった。ただ自分の演奏を会心の出来だなんて涙を流していた先程までの自分を呪わしく思うだけだ。本物の演奏者、ピアニストっていうのはこういう人がなるものなんだろう。

演奏はいつの間にか終わっていた。

そして、一拍なんて間ではすまないほどたっぷりと静寂の時間があって、私の時より断然大きな拍手と、私の時にはなかった喝采が鳴り響いている。それを私は震える肩で受け止めることしか出来ず。ただただ打ちのめされていた。



高校の校門の前で、足を止める。

そして、小さく溜息を漏らす。

私は、ピアノの全日本学生コンクールで3位に入ることが出来たけど、圧倒的過ぎる差を1位の人に見せ付けられた。そしてピアノを習うことが億劫になった。それで気晴らしをしたかったけど、気晴らしの方法も分からないし、学校に友達と呼べるような人たちがいないことを思い知らされた。それで、持ち物だけでもクラスメイトと同じようにしたら、距離も縮まるかもなんて浅はかな理由で万引きなんて馬鹿なことをして、警察に補導された。そして今日、私は学校で停学処分を言い渡されるはずだ。

これが私の置かれている状況だ。

そんな状況だから、校門をくぐって高校の敷地に入るのは、とても気が重い。

それを振り払いたくて、夢を過去形にして決別し、現状を自嘲で一笑に付してしまいたかった。

「私、飯窪響子はピアニストになりたかった。そして私には何にもなくなった。その上今はただの万引き犯だ。」



ブルッ

背筋を這い上がる震えは、すっかり寒気を覚えるようになった夜気のせいばかりではないだろう。

ここ、学校の屋上で感じる風は、他に同じ高さのもがないので、前兆もなく、また軌跡も残さない。

だから、心構えを持つことも名残惜しむことも出来ない。

恐怖心にすくんだり、あれこれ思い悩んで躊躇ったりするくらいなら、この予測もつかない風に煽られて、飛び降りてしまうほうが楽なのかもしれない、とも思う。

私の意志じゃないなら、事故みたいな扱いに…

「ならないよ。」

私の思考のあとを受けた言葉が夜風に乗って私の耳に届く。私の思いを奪った奴に目を向ける。案の定、昨日の夜と同じ組み合わせがいる。

髪の長い大鎌なんて物騒な物と不釣り合いな少年とその傍らにそっぽを向く猫。

「勝手に私の考えていることを覗いて、勝手に私の考えを否定しないでよ。」

苛立つままに語気を強める。

「昨日は、大人しく帰ってくれたからあれでおしまいかと思ったのに、またこうして、ここに戻って来ちゃうだね。」

こちらと会話をするつもりがないのか、全然関係ないことを言ってくる。そのせいで苛立ちが更に募る。

「小生達に会いたかったのだろう?」

「煩いわね。」

「小生、その冗談は面白くない上に、適切じゃなさそう。」

「そうか、まぁこういう冗談を言ったりするセンスがないのが小生の数少ない弱点の一つではあるな。」

四つ足のくせに器用に肩をすくめると、猫はそんなことを言ってくる。

「さっと考えるだけで、ショーセイの欠点になり得そうな特徴が幾つか思い付くけど、それは多いのかね、少ないのかね。」

「少ないに決まっておろう。」

「まぁ、当人の判断だからね。」

相も変わらず。私は、いからせた肩を落とすようなこれ見よがしなため息をつく。これくらいで、対応を改めたりしないのは分かってきた。

「なんなのよ、なんで毎度毎度、こっちを無視して話を進めるのよ。」

私がいくら声を荒げようとも、意に介した様子もないことに、更に腹が立つ。

「なんでって言われると何でなんだろうね?」

「さあな、そもそもアヤツが関わろうとしているだけで、小生には関係ないからな。」

「じゃあ、特に理由もなくこんな失礼な仕打ちを受けているってこと。」

「強いて言うと、そうなるかな。」

「ふざけないでよ。」

「ふざけてるつもりはないよ。」

「ふざけてるじゃない。私の決断を小バカにして。」

「バカにもしてないよ。」

「なら、ほっといてよ。」

相手を黙らせたい、言い負かしてやりたいと思いながら言葉を叩きつける。

「うん、ジブンは誤りを指摘しただけでその後は引き留めるつもりはなかったんだよ。そう思ってもらえなかったんだとしたら、申し訳なかったね。」

こうやってのらりくらりといなすのだ。余計に腹が立つ。地団駄を踏む心地で、言葉を探す。

「小娘は、何故そんなに死にたがる?」

「なにも知らないくせに」

「万引きで捕まったことか、友達がいなことか、ピアノを諦めようとしていることか、母親に言われた言葉か、だから自分が必要ないと感じたことか。どれも死に値するとは思えんがな。」

「だから、私の気持ちも知らないくせに、分かったようなこと言わないでって言ってるでしょ。」

声を張り上げる。

猫はそれを欠伸で受け流す。なんなのよ、充分おちょくってるじゃない。苛立ちは増すばかりだ。

「分かったようなことを言わないで、ね。ジブンには分かってないのはあなたな気がするけど。」

「私が何を分かってないって言うのよ?」

語気を緩めることも出来ず、相手に尋ねる言葉はただ叩きつけただけになった。

「あまねく殆んどのことがなんだけど、一番は自分のことかな。」

「私が私の何を分かってないって言うのよ。」

「沢山あるけどね。じゃあ、今朝のこと。バスのことを覚えてる?バスから電車に乗り換える時の階段のことも、電車の中のことも。」

「いつもと変わらなかったわよ。」

「気付いてないんだから、幸せだな。」

猫が口を挟んでくる。

「なにがよ。」

「ショーセイ、言い方。」

「ふんっ、言い方なんぞに気を回しておるから回りくどくなって真意が伝わりづらくなるのだろう。」

「そういう面もあるだろうけど。」

「良いわよ、言い方なんて。で、朝のバスとか、電車がなんなのよ。」

「バスであっさり、手摺に掴まれたでしょ。」

「それがなんなのよ。」

「あれは、手摺がたまたま空いていたわけじゃなくて、譲ってもらったんだけど、気付いてた?」

私は、返す言葉を見失ってただただ黙る。

「プラットホームに上がる時に後ろにいたサラリーマンがあなたが落ちてきたときに備える心積もりで、あなたの足運びを凝視していたことも、電車の中で、あなたの視線を遮るように、手をついていた人が、あなたが押し潰されないように支えてくれていたことも、気付いてないでしょう?あなたは見ず知らずの人にすら大事にされる存在なんだね。」

「そんなの、」咄嗟に声を上げて言い澱む、そしてこじつける「そんなの私じゃなくても、そういう人たちは、大事にするのよ。」

「そうかもね、でも今朝のことはあなたに向けたものであったことは紛れもないことだと思うけど。それを否定することに意味はないでしょ。」

「そんな行きづりの人に大事にしてもらっても、私を必要としてる人なんていないのよ。」

「そう、なら、実際に見てもらったほうが早そうだね。」

そう言うと長髪の少年は、それまで刃を下にして杖変わりにしか使ってなかった大鎌を肩に乗せて構える。巨大な刃が持ち上がると威圧的で恐怖心を覚える。

「何を、するつもり。」

そのせいで声が震えたとは、思われたくない。

「ちょっと、ジブンの我が儘に付き合ってもらおうと思って。」

「もうすでに、迷惑を被っているのに、これ以上時間を取ろうっていうの。」

そんな思惑が、言葉の選び方も語気も強いものにする。

「そうなるかな。でも、あなたは、この世からいなくなるつもりなんでしょ。なら、少し時間を貰っても些末なことだよね。」

「厚かましいわね。」

「それも、否定はしないよ。付け足すなら、自分勝手なんだよ。なので無理矢理にでもジブンのやることに付き合ってもらおうかな。」

なんで私が語気を強めても、のらりくらりといなされるのに、この少年の言葉は穏やかでも有無を言わさぬ強さがあるのだろう?もし疑問が解消されたところで、この少年のように言葉に力を込められるというわけではないのだろうけど。

「じゃあ、態々断りを入れたりせずに、勝手にすればいいじゃない。」

「あなたの了解を得たと思えれば、心おおきなく勝手が出来るから。」

「無理矢理得た承諾で、心おおきなく振る舞えるんだったら、最初からそんな承諾に意味なんてないでしょ。」

「違いない。アヤツ、おんしの変な気の回し方に意味はないという良い例だな。おんしのお節介も同様だと思うぞ。」

「二対一とは、分が悪いね。まぁ、確かに、出来もしない気配りの真似ごとなんかしてないで、とっととやることをやってしまったほうが良さそうだ。」

「そういうことだな。小娘も強がりか何かは知らないが気持ちが固まっているというなら、時間を使うだけ無駄であろう。ただでさえ小生からすれば無駄な時間なのだ。」

「分かったよ。」

「相も変わらず、私のことを無視するのね。さっきも言ったけど、勝手にすればいいじゃない。さっさとすればいいでしょ。」

「じゃあ、お言葉に甘えて。」

長髪の少年はそう言うと、肩に担いでいた大鎌を構える。私は、原始的な恐怖心に襲われる。その私の感じたものは、咄嗟に目を瞑ったこと、顔の前に手をかざしたこと、喉の奥から声にならない悲鳴が漏れたこととなって現れた。

胸を押される感触があって、それ以降なにも起こらないので恐る恐る目を開ける。かざした手の隙間から見えた光景は、目を疑うものだった。

倒れ付した私の身体を自分で見下ろしている。

何これ?

私は、ここにいる。

自分の手を見下ろして、自分の身体を触って確認してみる。いつもと変わらない視界といつもと変わらない触覚を感じる。

でも、倒れたところを長髪の少年が抱えているのも、毎日鏡で見てる私と同じ顔をしている。

なんで自分の身体を見下ろしているの?こっちは私だけどあっちも私ってこと?私が二人いるってこと?それとも私は、私じゃないってこと?

解消されない疑問が私の頭の中で、ぐるぐると回っている。

「やっぱり、ちゃんと説明してからにすれば良かったね。申し訳ない。あなたの身体から魂を抜き出したんだ。だから、あなたはあなたの倒れた姿を見ることになってるんだ。」

一応、疑問は解消される。全てがスッキリするわけではないけど。

「魂を抜き出したって何?」

「そのまんまの意味だよ。身体から魂だけを取り出したんだ。…なんでそんなことが出来るのかって思ってるね。昨晩言ったでしょ。ジブンは死神なんだって、些か威厳というか凄味が足らないらしくて、よく忘れられるけどね。」

「些か?小生は全く足らないと思っておるがな。だから、小生の爪は常に渇くことはないのだからな。」面倒そうに、猫がぼやく。そして私に向かって告げてくる。「それにしても滑稽だな、毎度毎度人間というのは。死ぬことを望みながら、いざ殺されるとなると、怖がるのだからな。」

「煩いわね。死ぬのが怖いわけじゃないわよ。痛いのが怖くて嫌なだけよ。」

「その意味の違いは小生には分からんな。」

またもや器用に肩をすくめると、特に言い返すつもりもなかったのか私の前を横切って少年に場所を明け渡す。

「じゃあこれからあなたの知らないあなたのことを知る旅に行こうか。停学になって少しぐらい夜更かししても影響ないよね?」

失礼ね、そう言い返す前に意識が途切れた。


目を瞑ってから目を開くまで、どれ程の時間が経ったのかすら分からない。意識が途絶えていたのかすら曖昧で、何か自分の時間を奪われたような喪失感で言い知れぬ焦燥に煽られる。意図せずに深い昼寝をしてしまい、休日を無駄にしてしまったような。そういった焦燥感だ。

そして、私はゆっくりと回りの状況を受け入れていく。

お読み頂き、ありがとうございました。

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