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短編No.41-60

No.55 菩提樹

作者: 藤夜 要

 温かな暖炉の炎だけが、柔らかく優しく薄暗い室内を照らしている。暖炉の前で、ひとりの男が旅支度を整えていた。むき出しの金を束で掴み、布袋へ幾つか押し込んだ。それを古びた背負いの旅行鞄へ無造作に放り込む。偽の旅券、偽名の身分証明書、依頼主からの書簡に数枚の資料らしき書類。セピアの色褪せた写真をポケットへ押し込んだ。

 男の風貌を見れば、誰がどう見ても観光ではない事情ゆえの旅と察するだろう。男の顔の右半分には大きな傷が、隻眼を誇張するように額から頬に掛けて走っている。癖の強い前髪がそれを下手くそに隠しているが、今夜のような雨の夜、ずぶ濡れにならない限り、巧く隠せやしないだろう。乱雑に束ねられた後ろ髪は、手入れが面倒でただ伸ばしているだけだと判る傷みようだ。着古した濃緑のセーターは彼の愛用らしく、ところどころほつれている。毛玉は数え切れないほどでセーターの模様と化している。とても旅路の洒落とは思えないみすぼらしいいでたちだった。

「フェイ」

 そんな男に声を掛ける少女の声が、彼の無表情に感情を宿らせた。少女、その存在さえも、この男には似つかわしくない。そう思わせるほど彼――フェイは“闇”を全身にまとっていた。

「まだ起きていたのか、リン」

 少女をそう呼び、振り返る。愛しげに名を呼ぶ声が、少女を安堵させようと企む微笑が、フェイという男に似合わない柔らかさを帯びさせた。彼にそんな非合理な努力をさせるほど、少女の存在は彼と対極の位置にあった。

 淡い黄色のスカートが、彼女をより幼く見せる。その裾から覗くフリルの純白が、フェイと対極の無垢な彼女そのものを彷彿とさせる。亜麻色の髪が、彼女の動きに合わせてゆらりとたなびいた。

「行かないで、って言ったのに。傍にいるよって言ったのに……うそつき」

 そう零して駆け寄るリンを、フェイが包むような優しさでそっと(かいな)(いだ)き、諭す声音で囁いた。

「ごめん。でも、リンと一緒にいたいなら、私はやっぱり行かなくちゃ。リンがこの場所を離れても生きていけるように。一緒に連れて行けるくらい、元気なリンになれるように。医者代も欲しいし、食うための金だって稼がなくちゃ。解って?」

 およそフェイには似つかわしくない、甘ったるい声がリンの鼓膜を甘くくすぐる。彼の背に回された小さな白いふたつの手が、駄々をこねるように強く彼のセーターを掴んだ。

「お医者なんか、要らない。フェイが笑ってくれたら元気になれるから。だからお願い。傍にいて」

 フェイの顔が、醜くゆがむ。苦悩と迷いと、それらとは相反する不可思議な思いでいびつになる。

「……リン。必ず帰るから。リンと出逢ってから、これまで何度旅に出ても、必ず帰って来ただろう? 此処は私とリンしか知らない場所だ。だから心配しないで。怯えないで。私が帰るまで、いつものようにあの菩提樹とお喋りしながら待っていて」

 フェイがそう言ってリンの両頬を挟む。そうしてリンに自分を見上げさせる頃には、フェイのゆがんだ顔が温和な微笑を湛えたものに戻っていた。フェイは彼女の瞳を捉えると、促すように視線を窓の外へ送った。

 窓の外には菩提樹が一本、廃れたこの小さな廃屋を隠すように立っている。小高い丘の向こうに広がる平野には、町へつながる道が一本とおっているのみだ。


 その昔、惨劇があったというこの家。ひと組の夫婦が惨殺されたらしい。生き証人だったひとり息子は、ある日忽然と保護された警察署から姿を消した。犯人のとおった道筋を誇示するように、点々と“人だったものの一部”が町の外れまで続いていたそうだ。

 そんな派手な痕跡を残していったにも関わらず、その事件は犯人の足取りを掴めないまま捜査が打ち切られたという。町の人々は、行方の知れないひとり息子は犯人に殺されているだろうと同情をまじえた声で噂した。かれこれ今から二十年以上も前の話らしい。

 すべてを知るのは、あの小高い丘にそびえ立つ菩提樹のみ。ときおり薄桃色の花を咲かせる不気味な菩提樹。町の人々はその菩提樹さえ薄気味悪く思い、誰もこの一帯に近寄らなくなった。この近辺に住んでいた人達も、風向きによって不気味に聞こえるかすかな声音を恐れるあまり、町場に住まいを変えてしまった。

 風向きによって聞こえる不気味な声……菩提樹の嘆きと人々は語っていた。

 ――お願い、独りにしないで。私が守ってあげるから。あなたが笑えるその日まで。

 フェイが町で聞いたその噂。絶好の隠れ家と見做して潜り込んだこの廃屋。そこにこんな小さな少女がたった独りで隠れ住んでいるとも知らずに、取り急ぎ“仕事”に不要な荷物を置いてすぐにこの廃屋をあとにした。

 仕事を終えて此処へ戻り、初めて彼女を目にした瞬間は、斬り捨ててしまえばいいと考えた。だがその時のフェイには、それだけの体力が残っていなかった。ただ、それだけのことだった。

『おじさんは、だれ?』

 問われると同時に、フェイの体が崩れ落ちた。手にしていた刀が自分の身体を支えていた。そう気づいたのは、振り上げた瞬間だった。身を立て直すには、気づくのが遅過ぎた。

『おじさん、怪我してるの?』

 そう尋ねて痛覚さえ麻痺した右目に触れた少女の手の温もりが、どこか既視感を覚えるものだった。フェイはなぜか、その瞬間に凍った心が息を吹き返したのを自覚した。

『……っ』

『おじさん、痛かったの? ごめんなさい。私が触ったから? ごめんなさい。だからもう泣かないで』

 そう乞う彼女こそが、今にも泣きそうな顔で、瀕死のフェイを覗き込んで来た。

 次に意識を取り戻した時には、フェイの視界がぼやけていた。右目に走る激痛は、もう何も見ることが出来ないと告げていた。血にまみれた衣類は乾いた心地よいそれに取り替えられていた。目の前で玉の雫を零して笑む少女の亜麻色の髪が、彼女の頬にべったりと張りついていた。

『よかった……死んじゃったらどうしようって、思った』

 小さな小さな少女は、誰も呼ばず、誰の助けも借りず、その小さく華奢な身ひとつで、大人の体躯を転がして、すべての傷に処置をしてくれていた。

 汗だくになって泣きながら微笑む彼女を愛おしいと思ったのは、なぜだろう。フェイには今でもその理由が解らない。ただ、彼女の“また独りぼっちになっちゃうかと思った”という言葉を否定したいと強く思った。

『これからは、私がずっと傍にいてあげる。あの菩提樹に誓って約束するよ。だからもう泣かないで』

 定住が最も危険な選択だと解っていたはずなのに、その時なぜか、フェイは彼女にそう誓った。


 リンはこの地に詳しかった。だが、町の人々が語る噂のことは知らなかった。

 彼女は知らない。不自然に過去の記憶が飛んでいた。そこに彼女の恐怖の理由があると思われた。

 彼女は知らない。フェイの存在を知った町の人々を、フェイが一人残らず消したことを。

 腐り切ったこの世界は、リンの綺麗な心を穢す。不気味な噂で知られるこの地へリンを捨てた者は、その噂を知ってそうしたに違いない。そんな人間でも平気で受け容れる町の人々など、消して当然だとフェイは思った。だから、復讐さえ思いつかず、恨むことさえ許されないリンに代わって、フェイがその手で粛清した。そう、思うことに、した。


 どちらからともなく、菩提樹から視線を互いへ戻す。リンがようやく笑ってくれた。それはフェイがひと目で判る作り笑いではあるけれど。

「……わかった。でも、今度こそ、怪我なんかしないで、無事で帰って来てね?」

「うん。出来るだけ、努力はするよ」

「約束だよ?」

「約束は、ちょっと難しい、かな。リンに嘘をつきたくないから」

 でも、必ず自分の脚で歩いて帰って来るよ。そんな物騒な言葉が、あたかも日常であるかのような普通さで紡がれた。

 名残惜しげに互いの距離を少しずつ開けていく。フェイは旅行鞄を背負うと、暖炉の隣に立てかけておいた刀剣を手に取った。

「いってきます」

「いってらっしゃい。菩提樹と一緒に、フェイが無事に帰って来るのを祈っているね」

 穢れのない満面の笑みが、リンの面に淡く宿る。フェイもそんな彼女に釣られ、似たような笑みをかたどった。だが巧く笑えなかったような気がしてしまい、すぐに彼女へ背中を向けた。

 激しく降り注ぐ雨が、フェイを包む。凍るように冷たい冬の雨。フェイの面から温もりを感じる微笑が消え、無表情が彼の表面を支配する。束ねた髪から落ちる後れ毛が、頬や顎に嫌味なほどに張りついてゆく。その毛先だけが重力に負け、ぽたぽたと雨の雫を落としていた。それはまるで、フェイの代わりに彼の髪が泣いているかのようだった。

 菩提樹は、そんな彼の後ろ姿をただ黙って見送った。




 フェイの出て行った扉を少女はぼんやりと見つめていた。元々薄暗かった辺りを真っ黒な闇が支配しても、暖炉に灯っていた火を再び起こそうともせず、ただその場に立ち尽くしていた。

「う……ぇっ」

 急激にこみ上げて来た吐き気が、リンに似合わない低い呻き声を上げさせた。彼女は慌ててトイレへ駆け込み、夕方にフェイと一緒に摂った食事をひとつ残らず吐き戻した。えずく感覚が、リンに次々と涙を零させる。吐き戻しても消えない嘔吐感が、淡い黄色のワンピースを醜いまだらに変えていった。

「……フェイ……、独りに、しないで……」

 消え入りそうな儚い声を、流れる水が掻き消した。


 フェイは知らない。フェイの隠している何もかもが、既にリンの知っていることばかりなのだということを。

 リンとの出逢いが偶然ではないということを。リンが祈って願って乞うて、そしてやっと神さまに聞き届けられたがゆえの出逢いだったということを。

 ずっと、ずっと、愛していた。悪戯な瞳、まっすぐな心。リンを癒す屈託のない微笑。

 ひとつの事件が、彼を目覚めさせてしまった。彼の奥深くに眠っていた大きな闇を。自分が彼を守れなかったせいで、それを目覚めさせてしまった。リンは、ずっと、そう思っていた。

「フェイ……気づいて……私に」

 リンがなぜリンなのか、というその意味を。此処を離れるとリンの息がとまってしまう、その理由(わけ)を。たくさん語らった、その内容を。

「フェイ……思い出して……私を」

 そう呟く彼女の言葉は、幼い少女が大人の庇護を願って紡ぐそれとはまるで異なる響きを孕んでいた。


 吐き気が遠のき、リンは不意に外を見遣った。雨はもうやんでいる。仄明るい陽射しが、菩提樹の濡れた葉をきらめかせていた。その輝きに呼ばれるように、リンは廃屋の外へ出た。

 小高い丘に佇む菩提樹の下に立ち、ゆっくりとブーツを脱いで、太い幹を抱きしめた。

「……だいすき」

 自然とリンの口角がほころんでゆく。

「キミの傍にいると、なんだか、落ち着く」

 唱えているような響きで、誰かの言葉を辿るように、リンは菩提樹に語り掛けた。

「あったかい」

 リンはスカートの裾を腰に通した紐の間に挟み入れ、菩提樹の幹に片足を掛けた。ゆっくりと一歩ずつ、踏みしめるように、菩提樹の幹を少しずつ登る。人を支えるに充分な太さを持つ枝の最も高い位置に、彼女はそっと腰を下ろして地平線を遠い目で眺めながら呟いた。

「ファティ、ムティよりも、リンの方が、あったかいよ」

 リンの頬にぬるいひと筋が、フェイを恋しがるように尾を引いて伝った。




 ――寒い。

 その感覚が、フェイを現実に引き戻した。

「……っ」

 目の前に広がる海。紅くて黒い、醜い塊の散らばる――肉塊の、海。

 震える左手でコートの内ポケットをまさぐる。皺くちゃになった依頼文書に、フェイの指紋をかたどる赤い染みが一辺にべたりと張りついた。

「……エアハルト・ベルンシュタイン、と、その、妻、を……なのに……」

 散乱した四肢や頭、胴体は、フェイの視界に入るだけでも指定された人数をはるかに上回っていた。

「やあ、ご苦労さん。フェルディナント……いや、フェアツヴァイフルングくん」

 背後から、そう呼び掛けられた。フェルディナントと呼ばれたフェイの偽名が、声の主がこの仕事の依頼主であると彼に知らせていた。絶望を意味するもうひとつの名は、フェイ自身が彼に名乗った皮肉混じりの偽名だ。

「依頼と、状況が、違う」

 うな垂れたまま、独語のように言葉を返す。フェイの握る刀から零れる赤い雫は、乾きもせずに滴りを繰り返していた。

「そう恨みがましい声を出さないでくれたまえ。軍属でありながら、腰抜けの政治屋どもに内通している不届き者をついでに処分してもらっただけのこと。君とて存分に楽しめただろう?」

 耳障りな甲高い声で、その一隊の長と思しき吊り目の男が得意げに語る。

「四半世紀以上も前、強盗に襲われた両親を助けるためとは言え、人を殺めた君を生かしてあげたのは、誰だね?」

 記憶にない自分の過去を語られても、何度それを叩き込まれて来ていても、フェイの耳には自分の身に覚えのない絵空事にしか聞こえなかった。

「ああ、回りくどい説教だったようだな。ひとつ訂正しておこう。両親を“助けるため”というのは、きっかけに過ぎなかったのだな。資料によれば、フェアツヴァイフルングくん、君は地元警官からの通報を受けた軍部が駆けつけた時、ご両親を切り刻んで遊んでいたそうだね。四肢を撃ち抜かれて自由を奪われるまでの間に、貴重な手練た者が数人、君の犠牲になったのだとか」

 ざわりと背筋に寒気が走る。意識がぼんやりと曖昧になってゆき、耳障りな癇に障る高音の声さえぼやけて来る。

「そんな君に、総統のお役に立つ任務を与えてやったのだ。我々に対する謝辞こそあれど、そんな不機嫌な声を出されるいわれなどないと思うが、違うかね?」

 多くの靴音が、フェイに圧倒的な不利を知らしめる。とにかく、寒かった。言い換えればつい先刻までは、居心地のよい適度な温度に酔いしれていたということになる。

「……むい」

「む? 何か異論でもあるのかね?」

 的外れな言葉を返す軍の一団を統べる長と思しき男の方へ、フェイはためらうようにゆっくりと振り返った。

「さむい」

 軍服をまとった一団が、一斉にそう呟いたフェイに怪訝な顔を向けた。

「存分に血を浴びたばかりだろう? 人肌の温もりを、こんな形でしか感じられない不憫な君に同情はするが、こちらも仕事なのでね。無駄な殺戮は、君の寿命を縮めることになる。物理的にも、心、という見えない架空の存在に対しても、だ。それは君自身が最も痛感していることではないのかね?」

 フェイの耳には、そんな彼の諭す説教が、寝入り端に口ずさまれる子守唄のような漠然とした音程にしか聞き取れなかった。ひどく、体中が寒かった。やり場のない憤りが、快楽を求める原始欲求へとすりかわる。

「さて、無駄話はそれくらいにしておくとしよう。報酬の前に、次の仕事に関する資料を渡しておく。こちらの契約書に血判を」

 そんな言葉が先頭に立つ長らしき甲高い声の男の口から発せられたが、それを聞いていたのは、彼の後ろに控える獲物を手にした彼の部下たちだけだった。

「……しい」

「!」

 御託を並べていた長の頬に、赤い点が縦一列に並ぶ。それはフェイの握る刀が振り上げられた遠心力で勢いよく跳ね飛ばされた、刀剣に粘りつく鮮血の珠。次の瞬間、フェイは彼の前から消えた。長の男が狙ってフェイの見えない右側に立ったにも関わらず、彼が腰の柄に手を掛けるより一瞬早く、フェイが彼の傍らに佇んでいた。

「ぬくもりが」

 間近で微笑む狂気の微笑。フェイのかたどるそれを見て、男は情けない悲鳴を上げた。

「な、何をしている! 斬れ! 撃てっ!」

 誰を、と彼が配下へ伝え切る前に、彼の首が天井へと跳ね上げられた。

 不自然で生臭い輪切りの箇所から、湧き水のように赤い水が噴き上がる。酸化していない鮮明な赤が、ぬくもりと快楽に姿を変えてフェイの頭上へ降り注ぐ。

「……あった、かい」

 彼の口の端がありえないほどに上がる。愛しげに受け止めようと両の腕を広げるその仕草は、長を失った一軍に、充分なほどの恐怖を与えた。

「う……おぉぉぉぉッッッ!」

 体温をわずかながらも得たフェイに、理性を失った一軍のそんな雄叫びを最期まで聞いてやる義務などなかった。濁った瞳が彼らを捉える。勝手に右腕がゆるりと上がる。刀の切っ先が通りすがりとばかりに、既に事切れた長の身体を舐めていった。新たに血を吸った刃の切っ先に向かい、ぬめる血が所狭しと自分の居場所を探し求めて走っていく。

「……くれるの? “僕”に」

 フェイの問い掛けとともに、凝固し切らない血が珠となって一軍に飛び散った。

「うっ」

「おぅっ?!」

 彼らは面白いほど一斉に立ち向かうべき歩をとめた。

「ありがとう」

 フェイの面差しが、無邪気な少年のそれに変わる。言うが早いか、彼の体が踊り子のようにくるりと回った。ひと振りを翳せばひとつの悲鳴が。空いた左手が、崩れ落ちる兵の腰からサーベルを引き抜く。その切っ先がほんの刹那ののちに、元来の持ち主にとって同胞(はらから)だった兵の喉笛を貫いた。

「……」

 フェイの呟く声を、言葉として聞き取れた者はいない。断末魔の悲鳴、くずおれていく鈍い音、刀の唸る犬笛だけが、賑やかでありながら陰湿に轟き続けた。

 フェイの羽織った黒いコートに、わずかなまだらが浮いては消える。濃緑だったはずの彼のセーターは、最早その名残を残さないほどの紅に染まり、これ以上吸うことが敵わないと、紅い雫を滴らせていた。

 フェイは倒れゆく敵の手から、腰から、次々と殺め慣れていない刀剣を引き抜いては、次なる獲物へ向かって振るい、また新たな温もりを浴びた。上がる息が心地よい。あんなにも寒かった体が汗ばむほどに熱を発する。生きていると実感出来るこの瞬間が、フェイの快楽を頂点まで突き上げた。

「次は、誰?」

 くたびれた中年の風情にそぐわぬ無邪気な声が、次の獲物に呼び掛ける。

「こ……ンの、バケモノがぁッ!」

 ようやく弾をこめられたらしい。後方に配置されていたと思われる男が、銃剣の先をフェイに定め、そんな金切り声を上げた。同時に空気の爆ぜる音が、小さな密室に轟いた。

「あ」

 場にそぐわない間の抜けた声が、フェイの口から零れ落ちた。脇腹に、妙な違和を覚える。それは次第に痛みへと変わっていった。何か意味不明な言葉を叫んで向かって来る銃剣を右手の刀一本で払い除ける。戻る刀はフェイの指令に従い、刃先を返してフェイの許へ戻るまでの間にまたひとつ首を刎ねた。

「帰ら、なくちゃ……温かい内に、リンのところへ」

 体が冷え切ったら、また動けなくなる。あの隠れ家へ瀕死で戻ったあの時のように――。

「あの時みたいに――だ、と……?」

 視界が白く濁っていく。脇腹の痛みが遠ざかる。

(あ……まずいな、これ)

 フェイは骸のひとつから荷物を漁り、応急処置の道具を取り出した。消毒薬で傷を洗い流し、弾が貫通していることを認めると、幾重にも布を重ねて患部に押し当てきつく縛って止血の処置を施した。

 急速に体が冷えていく。震えが次第にひどくなる。

(リン……“私”から、逃げろ)

 ずぶ濡れのコートを脱ぎ捨て、軍支給のコートを剥ぎ取り身にまとうのがやっとだった。証拠品は、一切残せない。かすむ目をこすって、今一度辺りを見回した。脱ぎ捨てたコートを背負い鞄に押し込み、ポケットに旅券と身分証明書と数枚の現金をねじ込んだ。

 早く、帰りたい。それはフェイの呟きだったのか。それとも思い描いただけの願望だったのか。

(なぜ“私”は、リンの許へ帰らなくてはならない、と思った、の、だろ、う……?)

 彼女の呼ぶ声が、聞こえた気がした。

 ――お願い、帰って来て。私が守ってあげるから。私の傍で、笑って、フェイ。

「泣か、ないで……リン」

 どさりとまたひとつ、大きなものの倒れる音がした。




 どれくらいの時が過ぎたのだろう。

 リンは地平線を見つめながら、ぼんやりと思いめぐらせた。いく度もの闇が過ぎ、いく度もの光が過ぎ。なかなかフェイは戻らなかった。菩提樹と触れ合っているにも関わらず、リンの呼吸が浅く短く、苦しげなものになっていた。

「フェイ……もう、私の中に、フェイを元気にさせてあげられるだけの力は、ちょっとしかないのかも、知れない」

 フェイの笑った顔が見たかった。そのためなら、なんでもしようと思って来た。そう思って、自分に出来る限りのことをして来たつもりでいた。だけど。

「ごめんね、フェイ。あなたが一番欲しいものを、私はどうしてもあげられなかった」

 それはリンが最も望まないものだったから。

「だけど、今度帰って来たら、あげる。もう私もフェイも、からっぽ、だものね」

 未練を振り切るように、リンは溢れ落ちた涙を袖で力強く拭った。

 そんな彼女の強い意思に答えようとでもしたのだろうか。

 地平線に不意に浮かんだ小さな隆起が目にとまる。リンが目を凝らしてそれを見れば、こちらに向かって足を急がせる荷馬車が、次第にはっきり見えて来る。

「……おかえりなさい」

 ぽつりと呟き、リンは枝の上に立ち上がった。荷馬車から、ひとつの影がどさりと零れ落ちた。風に乗って、鉄の臭いがリンの鼻先を甘くくすぐる。もうひとつの影が、地表に崩れ落ちたモノを荷台へ引きずっているようだ。きっとまた菩提樹の根もとに埋めるためだろう。

 リンはゆっくりと、菩提樹の樹から地表へ下りた。急いで廃屋へ戻り、暖炉に火を起こす。凍えて帰って来るであろうフェイに暖をとらせるためではない。

「笑ってくれると、いいな」

 リンは暖炉から、火種の薪を手に取った。


「……菩提樹が……」

 荷馬車を降り、フェイが呆然と呟いた。

 菩提樹が、燃えていた。黒い煙が天高く伸び、悲鳴に近い呪うような声が、無人の平野一帯に轟いていた。

「リンっ」

 フェイは“土産”の荷物さえ放り出し、小高い丘に向かって駆け出した。脇腹から溢れる血は、異常なほど温かい。不思議なほど痛みは感じなかった。ただひとつの感情に囚われ、ほかの感覚すべてが完全に麻痺していた。

「リンっ」

 菩提樹の横をとおり過ぎ、廃屋の扉を蹴り破る。誰も来ないはずの此処へ、何者かが侵入した可能性を真っ先に考えた末の行動だった。

「……リン?」

 仄かに漂う室内のぬくもり。だが、そこにリンの気配はなかった。そしてフェイ以外の誰かが侵入した形跡も臭いも気配も感じなかった。フェイは一度だけ、ぶる、と身を震わせた。だが次の瞬間、寒気が急速に引いていき、柔らかくて心地よい温かさが、フェイの全身を満たしていった。思わず背後の丘を振り返る。確信に近い予感が、フェイの鼓動を速まらせた。




 かすんでいく視界と反比例するように、フェイのぼやけた記憶が鮮明になっていく。丘へ向かって踵を返し、フェイが走り続ける間、彼の心の中では過去の記憶が駆け抜けていた。


 リン。リンデンバウム。フェイが名づけた彼女の名前。

 初めて血のぬくもりに言いようのない悦びを見い出したのは、ちょうど彼女の見た目と同じような年頃の時だった。

 飼っていた犬が、不治の病に冒された。感染する前に処分しろと人々に言われ、やむなく父が犬の息の根を止めた。フェイはありったけの言葉で父を罵倒した。父を止めもしなかった母のことも。ふたりに犬の埋葬を手伝わせなかった。フェイが独りで、菩提樹の根もとに墓を作った。子どもの手では、浅くて小さな穴しか作れなかった。

『頭と足を切り落としてあげたら、ちゃんとお墓に入れてあげられるよ』

 頭上から、そんな声が降った。幼いフェイが声の方を見上げれば、そこには淡い黄色のワンピースをまとった女の子が、その時のフェイとは正反対の嬉しそうな笑みを零していた。

『手伝って、あげる』

 彼女はスコップを勢いよく振り落とした。それは、事切れている犬の首を正確に狙い、たったひと振りで、犬の首を刎ね飛ばした。血飛沫は犬のとまった血流が飛ばしたものではなく、彼女の力によって撒き散らかされた、スコップについた濁る赤の残りかすだった。

『……まだ、あったかい』

 ざわり、と総毛立った。彼女からスコップを奪い、今度はフェイが自身で犬の四肢を刎ね飛ばした。

『キミは、誰?』

 赤黒い土を掛けながら、フェイは少女を見ずに尋ねた。

『菩提樹』

『うそつき。本当は? キミはどこから来たの? いつから菩提樹の上にいた?』

『じゃあ、フェイの好きな風に呼んでいいよ。私はずっと、此処にいる。ずっとフェイと一緒にいたよ。でも、私の声がフェイに聞こえてくれたのは、今日が初めて。だから、嬉しい』

 彼女の言葉を、信じた。菩提樹に宿る精霊だと思った。

『じゃあ、リン。リンデンバウムの、リンって呼ぶ』

 愛犬を失った喪失感が、得がたいものを得た至福感にとって変わった。亜麻色の髪に魅せられた。無垢な笑顔に囚われた。多分、初めて、恋、らしきものを抱いた。


 リンとふたりだけの秘密。

 菩提樹の下で戯れる“お葬式ごっこ”。最初は死体を集めていた。その内それでは飽き足らず、野良犬や野良猫を探し歩いた。

『人だけは、ダメだよ。フェイが生きていけなくなっちゃうから』

 リンに悲しげな瞳でそう言われれば、首を縦に振るしかなかった。あの事件が起きるまでは、フェイ自身もそこまで凍えてはいなかった。リンが隣にいつもいたから、そんな必要などなかった。

 フェイの家に忍び込んだ強盗は、住人を生かしておく気がなかったらしい。三人を縛り上げると、彼らは室内に油を撒いた。フェイの父が、家族を守ろうとしたのだろう。背を向けた男に突進して頭突きで相手を押し倒した。

『ちっ、野郎が、暴れるんじゃねえ』

 もうひとりの男が、そんな言葉とともに、テーブルへ立てかけていた刀で父の背を斬った。

 生きた人間の血を浴びるのは、その時が初めてだった。叫ぶ母親の声が、どこか遠くから聞こえる感覚。妙に火照る体が、じっとしていられなくなっていた。まるで蝶の標本みたいに刀で床へとめられた父。油を撒くのに忙しい侵入者の目を盗んで、フェイは立てられた刀の刃を利用して後ろ手に縛られていた縄を切った。怯える母に、微笑を投げて安心させようと試みる。だが、無駄と判って、彼女にも背を向けた。手にした刀はフェイの身長よりも少し短い程度の全長だった。しかし、ためらっている暇などないし、何よりも……取り憑かれていた。

 まるで、そのために生まれて来たかのように感じられた。手に馴染む獲物の感触。刀が体の一部のように、それを意のままに操れた。重なる悲鳴が心地よく響く。誰のものなのかは判らなかった。どうでもいい、そう思った。ただこの心地よい温もりと、潤っていく感覚と、自分からも溢れ出す血潮が“生”を感じさせた。そして初めて気づかされた。生きながらにして死んでいた今までを。

『フェイっ、だめっ!』

 叫び声のする入口を振り返り、初めて自分のしたことを知った。人が、ひとりもいなかった。肉の塊があちこちに散らかっているだけで。

『……リン……どうしよう……僕……約束を』

『フェイ、私を見て。大丈夫、私がフェイを守ってあげる』

 リンがフェイの頬を両手で挟み、まっすぐ瞳を覗き込む。彼女の瞳が琥珀色から深い紅へと変わっていった。次第に意識が遠のいて、夢かうつつか判らなくなる。そして、意識は闇に閉ざされた。今のフェイが自分のものとして記憶しているのはそこまでだ。

 そのあとの流れる記憶は、どこか遠い場所から他人の身に起きた出来事を眺めているような錯覚に陥る。それでもそれは、間違いなく、フェイの中の“僕”と自称する部分が行なって来た所業。

 寒い、という言葉を繰り返し、血肉を漁る少年。大勢の大人たちが取り囲み、抗うたびに顔を痛みでゆがめている。なのに、笑っていた。狂った人間独特の微笑。

『自分のだと、あったかくないなあ。ファティより、ムティより、リンの血が一番、あったかい』

 傍らに、傷だらけの菩提樹の枝が落ちていた。ありえないことに、その切り口からは赤い樹液が滴っていた。だが、それどころではない軍服の男たちは、それに誰一人気づいていなかった。




 燃え盛る菩提樹の前に立つ。顔は熱を帯びて火照っているはずなのに、フェイは寒さで震えていた。

「リン」

 乞うように名前を呼ぶ。フェイが与えて来た血を吸って赤い花を咲かせ続けて来た彼女の、人をかたどった仮の姿を血眼になって探した。

「おかえりなさい、フェイ」

 彼女は廃屋とは逆の方から、小高い丘をゆっくりと登って来た。もう消えてしまったのかと思っていたのだろうか。フェイは自分で自分の胸の内を他人事のようにそう考えて、一瞬だけ首を傾げた。それでも、そんな疑問は束の間で消え、彼女の姿を見とめられた奇跡に安堵の笑みを浮かべた。

「ただいま」

 彼女の薄紅に染まった瞳へ、次いで彼女の手にしたフェイの刀に向かって、ありったけの思いで帰宅の挨拶を返した。

「リン、もう、お土産は要らないんだね」

 すべての記憶がフェイに収まり、すべてを把握した上での問い掛けは、問うというよりも同意に近い響きを伴っていた。

「うん。ごめんね、フェイ。あなたが本当に望むこと、私のエゴであげられなかった」

 ――永遠なんてあるわけがないのに、あなたとの永遠を望んでごめんね。

 泣きながら笑う彼女を、心からの微笑に。どうすればそう出来るのだろう。少年だった頃から、フェイはずっとそればかりを考えていた。それは今考えると、とても簡単なことで。尚且つそれは、フェイ自身も望んでいたことだ。

「リン――おんなじくらい、私もリンを愛しているよ」

 まともに生を営めない孤独。常識と狂気の狭間で生きる苦しさ。それをただ独り解ってくれたのは、やはり狂気と苦悩と孤独に悶える、異質な菩提樹の精霊として生きるしかなかった彼女だけだ。

「ずっと、傍にいる」

 両手を広げ、彼女の構える刃先を待つ。もう、望みを口にしてもいいと思った。彼女もまた朽ちようとしている今なら許される、と思った。

「隣じゃなくて、もっと近くに」

 逃げ隠れ、利用され、死んだように生きながらえるのは、苦しかった。リンのくれる心が、何よりも温かく居心地よく。その傍らではなく、彼女の一部になりたい。そのくらい、愛していた。それは今も変わらない。

「フェイ……ごめんね」

 また独りぼっちになってしまうのが怖くて、望みを叶えてあげられなかった。そう呟く彼女の方へ、フェイは一歩ずつ近づいていった。

「リン、ごめんね。自分で火を灯すのは、やっぱり怖かっただろう?」

 泣きじゃくる彼女を言葉であやしながら、細いその右腕を掴み取る。フェイの左胸に、甘酸っぱい痛みが走った。それは彼が想像していたよりも、さほど苦痛を感じる痛みではない、そんな気がした。

「笑って、リン」

 彼女の望む笑みを湛え、フェイが愛しげに彼女を抱きしめる。鈍い音がフェイの心臓を貫き、背中の方からぐずりというかすかな音が聞こえた。

「やっと、見れた。フェイの、本当に、笑った顔」

 そう言って見上げて来るリンの微笑も、フェイが恋焦がれた本物の笑みだった。

 ふたつの大小の影が、よろめいた。燃え盛る菩提樹の幹へ、ふたつの影が溶けていく。灰と化した菩提樹の葉が、花が、炭と化した枝が、幹が。フェイの骸を包んで守るように、大きな音を立てて崩れ落ちた。

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