第参話 そして時は加速する
夜、月明かりが差し込む教室で俺は立ちつくしている。
憧れ、一度会っただけで目が離せなかった女性、色織雅を前にして。
彼女はくすっと軽く笑って俺に話しかけてきた。どこかイメージと違う、絶対的な自信にあふれた声音。
神秘的で、妖しく、神々しく。彼女はとにかく不思議な女性だった。
「ねえ、犬神君。わたしが何故ここにいるか、わかる?」
「い、いやわからない、けど」
また、昼間と同じ、眼球が彼女を捉えて離さない。自分の意志ではどうにもならない。
見ることを強制されているようで、目の奥がじりじりと痛んだ。
「じゃあ、あなたはなんでここにいるの?」
「それは、財布を忘れて…………」
とっさに口に出る。事実、そうなのだからこれ以上に答えようはない。
心なしか、彼女を前にして焦っている自分に気付く。
つい数時間前までは告白するだの、玉砕覚悟だのと騒いでいたというのに、その相手にこんなにも早く対面することになるなんて、思ってもみなかったのだから仕方ない。
「ホントに?こんな時間に?」
「そうじゃないとこんな時間にこんな場所にいる訳がない」
暗闇で佇む色織さんはその様子を見て妖しく微笑んでいる。
夜になってまで取りに来る必要があったのか?わざわざ離れた学校にまで……?そんな疑問、考えた所でどうなるわけでもない。
―――正直、馬鹿馬鹿しい。
色織さんと話せることは嬉しいし、いつまでも話していたいとは思うが、残念なことに俺はそんなに面白い答えを出来そうになかった。
財布を取りに来た理由など、‘今すぐにでも取りに行きたかったから’で済んでしまうのだから。不思議な事など何もない。
「へえ、そうなんだ」
「そうなんだ………ところで、君はなんでここに?」
色織さんは上品に口元に手を当てて笑う。俺から視線は外さない。何故か、俺もその視線を振り切ることが出来ない。
考えを巡らせる中、妖しく見つめる彼女の眼が急に恐ろしくなった。月を映す漆黒の瞳。そこにわずかながら朱色が混じる。
(朱色?何だそれ)
俺は目をこすってその様子をもう一度捉えようとした――次の瞬間。
「…………え?」
俺は教室の木製のタイルの上に這いつくばっていた。否、蹴り倒された、と言った方が正確なのかもしれない。ひざの裏側に鈍痛がある。誰に?もちろん、他でもない、色織雅その人に、だ。
「ごめんなさいね。少し意地悪をしたわ。そうよね、財布を取りに来る理由なんて人それぞれ。白状すると、わたしがここにいる理由は―――あなたに会うため」
「………どういう意味かな」
俺の背中の上に色織さんの足らしきものが上がっていた。
正直、会いに来てくれた、というのは理由を聞かずとも少なからず嬉しい。それは自分に興味を持っているということだからだ。それなのに、どういうわけか、彼女は何かおかしい。
何がとは言わない。何がとは言えない。しかし、おかしいということは、わかる。直感というやつだろうか。
俺が挑発的な態度を取ると、彼女は嬉しそうに話を続けた。
「あなたが財布を取りに来ることは決まっていた。それは気まぐれじゃなく、確定された未来だから。確実な現実だから」
「………?」
「わかってなさそうな顔ね」
「いや、要点は理解した。つまり、財布は君が持っているわけだ」
「まあ、あなたの要点だけ挙げればね」
美しい笑みを浮かべて、色織さんは俺を見下す。
正直、悪い気はしな……女に優位を取られ過ぎるのも癪だ。そろそろ、ガツンと言ってやらないと。
呼吸を整え、自分なりに鋭い目つきで彼女を見上げる。
「あのぅ、そろそろ足の方を」
ダメだった。睨まれた。
「何、どけて欲しいの?あなた、私のことが好きなんでしょう?」
「へっ!?」
思わず声が裏返る。顔に出ていたのだろうか。
「なんでわかったかって?そりゃあんな熱心に見つめられたら誰だって気付くでしょう。自慢じゃないけど、私って結構モテるのよ。早くしないと取られちゃうかも」
何故か、目の前の少女が喋るたびに、俺の中の色織雅という人物のイメージが崩れていく。何が品行方正なものか。とんだ悪女だ。
「なに笑ってるの?マゾ?キモいのね」
「んなわけない。なんか、むしろ仲良くなれそうだなって思ってさ」
「は?」
わけがわからないというような顔をしている。彼女にとって予想外だったのだろうか。
自分の踏みにじっている相手が、自分と仲良くなれそうだなどと。
そんな奴は本当にドMか、それとも相当なお人好しかのどちらかであろう。
もちろん、ドMでは断じてないので、後者なのではないかと自分で推測する。
「君のその顔、知ってる人どれくらいいるんだよ」
「家族以外ではあなたとメイドくらいかもね」
「そいつは光栄だな」
何故、俺に素情を明かしたのか。その真意を問おうとは思わなかった。
それを聞いてしまえば、なんとなくではあるが、きっと彼女の‘暇つぶし’みたいなものは終わってしまうんじゃないだろうか。
俺はこの不思議な状況を楽しんでいた。充実していた。例えそれが彼女にとって暇つぶしでも。
「その性格、普通だと思う」
「そうね、きっとこれが普通なんでしょうね。でも、私は違うのよ」
普通、ならね。
そう口にして色織さんは少しだけ目を伏せた。背中に乗っている足が邪魔でその顔を窺い知ることは出来なかった。しかし、何か思うところがあるような………。
不意に彼女は口を開く。とんでもないことを、さらりと口にする。
「私ね、吸血鬼なの」
「……………は?」
またからかっているのかと問おうとしたとき、それを遮るようにして色織さんは口を開く。
その瞳は、先ほど見た朱色に染まっていた。禍々しくも綺麗な色。美しい色。
「ふざけているわけじゃないのよ。本当よ」
「嘘だな」
「何故、そう思う?」
「普通そうだろう」
「普通ならね」
奇妙な会話だった。子供じみた内容。けれど、不思議と嫌じゃない。
まあ、憧れの人物と相対しているのだから当然と言えば当然だが、失望せずに話せているのはその挑戦的な性格ゆえにではないだろうか。
「証拠を見せてあげる。その代わり少しだけ血をくれない?最近、ストックがなくて困っているの」
「吸えるものなら」
「ふぅん、信じないんだ。ま、それが普通の反応よね」
心なしか色織さんの声の調子が落ち込む。
急に背中の圧力が消える。足が下ろされたのだと気付き、顔を上げようと―――再び押さえつけられる。今度は肩を押され、押し倒される形で。
「それじゃ、遠慮なくもらうから。ああ、言っておくけど吸血された後、その前後の記憶がなくなるけれどいいわよね」
「え、待てっ、ちょっと待て!!」
「あれ、信じてないんでしょう?それにそのつもりで素情を明かしたのだから、もともと吸うつもり。拒否権はないの」
そう言って邪悪な笑みを浮かべる。
妖艶に身を寄せ、色織さんの口が容赦なく俺の首元に近づく。息使いが間近に迫った時、確かに見えた。
吸血鬼のイメージに合致する、あからさまといえばあからさまな、鋭い八重歯が―――。
「お、おおお、お嬢様!!」
首に歯の感触があると知覚した時、甲高く、慌ただしい声が響き渡った。
身体がびくりと跳ねる。俺も、上に乗っている色織さんも。心境的にはエロ本を読んでいるところを親に見られた感じと思ってもらえば近いのではないのではないだろうか。
鬱陶しそうに色織さんはゆっくりと身を起こし、声の主を睨みつける。
見ると、そこには学校には場違いな、メイド服を纏った髪を後ろで三つ編みをした少女が教室の廊下側で立ち尽くしていた。
「美琴、どうしたの?」
「聞いてしまいました聞いてしまいました聞いてしまいました!!」
「………何を?」
「ですから、その、吸血鬼の事を話したということは―――――」
何事かと様子を窺っていると、上にみるみるうちに青ざめていく色織さんが見えた。俺の衣服がギュっと握り締められる。
息を飲む音が間近で聞こえた。
「馬鹿っ!それを喋ったら…………!!」
「その方を婚約者にするってことですよね!!?」
誰もいない校舎の廊下に反響する声。訪れる静寂。
俺の頭は真っ白で、きっと俺の上で馬乗りになって固まっている色織さんも同じ心境ではないだろうか。
色々な事を考える。色織さんが初めて慌てて大声を張り上げたこと、吸血鬼だと言う彼女の発言、突然現れたメイド服姿の少女、そして、婚約者の意味。
外から風が吹き、教室の窓を叩いていった。
「…………ああ」
色織さんは諦めたように脱力し、うつむいた。
何事か呟くと不意にメイド服姿の少女を睨みつける。何やら物騒な空気だ。相変わらず色織さんは俺の上を動こうとしない。
「あんた……ホント、ドジよね」
「え、ええ!?なんか違いましたか!?」
あわあわと慌てふためくメイドをよそに色織さんはぼうと天井を見上げる。やはり、何かぶつぶつと呟いている。
そんな様子を眺めながら俺は【婚約者】の意味を考える。いや、言葉の意味は重々わかっているつもりだが、問題は何故この場面でそれが出てきたのかということにある。
しかし、まあ。ここは流れ的に驚いておいた方がいいのかもしれない。
「……ええっ!こんにゃっ」
噛んだ。
パーフェクトに、まごうことなく、確実に、避けられないほど噛んだ。
死にたくなってきた。
「別に秘密がばれるのはいいけれど、それにしたって婚約者って………」
呟きながらちらっちらっとこちらを見る色織さん。その仕草は中々キュートだった。
やがて、目が据わって俺を見つめる。ついでに横に投げだされていた俺の腕を踏みつけて。
「こんなことになってしまったけど、心配ないわ」
「どういうことだ?まるで状況が理解できな……つか、腕が痛い」
「要するに!」
大声を張り上げて、俺の胸倉をつかんで色織さんは言った。そして一層強く俺の腕を踏みにじる。
そろそろ腕の方を早く自由にしてほしいのだが―――などと考えている矢先。
「あなたの記憶、消させてもらうから」
ずぶっ
一瞬だった。息をする余裕すらない。
肩口に何かがめり込む。ずぶずぶと侵入するそれに対する痛みは不思議な事にそれほど感じはしなかったものの、代わりに倦怠感がどっと押し寄せてきた。
今日の疲れが一気に来たような感じだ。手足から力が抜け、押し倒されたまま、成されるがままになっている。腕の痛みも感じない。
「んっ、く、んっ、は、はあ、はむっ」
聞こえるのは色織さんの息遣いだけ。感じるのは疲れと、彼女の体温。
普通だったらきっと、理性なんて吹き飛んでしまっているレベルの状況だが、生憎その感覚は残っていないようだった。
すう、と眠気が意識を覆う。
(この記憶、消えるのか。残念だな………)
どろりと混濁する視界は鬱陶しく、どうしても俺を眠りに落としたいようで、名残惜しくもそのまま、意識は混沌へ………。
『おいおい、そりゃねえだろ、悟』
「仕方ねえだろうが。無理矢理に睡眠薬飲まされたようなもんだ」
夢の空間。不思議には思うが怖くはない。爺さんはやはり、今日も俺に語りかけてきた。
全く、暇人もいいところである。
死人なら、さっさと天に昇ってしまえばいいものを。
『お、爺ちゃん傷付いちゃうな~。天に昇れってか。そうかよ~』
「地の文を読むな。それと、アンタはそんなキャラじゃない」
『ちぇっ』
爺さんは拗ねたように顔をそむける。
周りは相変わらず変わり映えのしない真っ暗な空間。以前、というか今日の朝の夢に見た光あふれるあの光景は、もう見られないのだろうか。
「それにしても、何だかなぁ。もったいないな。この記憶がなくなるのはさ」
『何を言っている?記憶などなくなっておらんではないか』
爺さんが不思議そうな顔で俺を覗き込む。
「消えるんだろ、今から。どっかの自称吸血鬼がそう言ってたからな。いや、本物だったのかな。もし消えるんだったら」
『はっは、消えんよ』
自信たっぷりに爺さんは笑う。そして、驚きの言葉を口にする。
『まだお前は、意識を失っていない。だから、無理矢理覚醒してその吸血鬼にちゅうでもしてやるんだな』
「え、でも、俺夢見てるだろ?つか、ちゅうって……」
爺さんは伸びをして、俺に背を向ける。
「果たして、持続する夢など存在し得るのか……?」
その声はやけにハッキリ聞こえて、まるで本当に爺さんが目の前で生きているように―――――。
―――――――覚醒。
何やら緩やかな揺れが俺を揺らしている。頭にはやけに柔らかい感触。温かさ。聞こえてくるエンジンの音で、自分は車の中にいるのだと気付く。
………だるい。やけにだるい。寝た後はもっと爽やかな気分になっても良いのではと思うのだが。
「………んぅ?」
「え、ええ!?も、もももう気付かれましたか!?」
甲高い声が頭に響く。どこかで聞き覚えのある、というかついさっき聞いたような………?
「……アンタ、さっきのメイドさん?」
「え、と………はい、色織家でメイドをさせていただいています。美琴と申します」
誰かと会話したような気配の後、遠慮気味にメイドが口を開く。目の前に彼女の栗色の髪が垂れ下がって来て、むず痒い。膝枕されていた。
「ここは……?」
「んと………あなたの財布を拾って、偶然会ったので渡そうと思ったのですが、何故か気を失ってしまって……気分はどうですか?」
人肌の温かさに感動しつつ、ゆっくりと視線だけを動かして周囲を見回す。
ここは後部座席だ。長さからいってリムジンだろうか。俺の後ろの方には黒服の男が二人。運転席にも一人。助手席には長い黒髪。
「あの……気分は?」
「ん?ああ、大丈夫。少しぼぅとするけどな」
「そうですか、良かったです」
唐突に助手席に座っていた黒髪の女性が口を開く。いかにもお嬢様らしく、上品な振る舞い。
俺は身を起こして声の主を見る。
「一時はどうなることかと思いました。急に倒れられるのですから。あ、わたしは色織雅と申します。よろしくお願いしますね」
「ああ、よろしく。自称吸血鬼さん」
瞬間、場の空気が凍りつく。エンジンの音がやけにうるさい。
……何か悪いことでも言っただろうか。黒服は相変わらず無口だが、横に座っているメイドも口をパクパクとさせている。
「………なんで覚えてるのよ!」
「消えなかったみたいだな、記憶。これでアレは君の冗談という形で捉えられるってコトだ」
「お、おお、おおおおお嬢様!!」
メイドに話しかけた時に気付いてほしいものだ。しっかり「さっきの」ってつけたけどな。
どっと賑やかになる。いや、ある意味殺伐としているが、とりあえず一番安心したことはさっきまでの記憶が事実で間違いないということだ。妄言を言って、精神科に送られでもしたら洒落にならない。
相手がお嬢様ということもあり、正直、かなり心配だったりしたのだが。
「まずいわ………このままじゃ本当に……!」
腕を組み、人差し指で腕をしきりに叩く色織さん。本気で焦っているのか、綺麗な顔に一筋の汗が伝い落ちる。
未だ頭が覚醒しきっていないため、俺はただその様子を眺めるばかりだ。けだるそうに、下手をすれば睨んでいるようにも見えるだろう。
ただ、記憶が残っていて良かったという感情は確実に俺を満たしていた。忘れに忘れられない、歯が刺さり、肌を舌が這う、あの感触。
「どうしましょうどうしましょう……!このままではお赤飯を急ぎ炊かなくてはならなくなってしまいます!!」
「そういう問題じゃないでしょう!!わたし、婚約なんてまだする気ないし、というか一生する気ないくらいだったのよ?………アンタのせいよ!!」
「そ、そんな………そんなこと言うならフォローしませんから!」
「逆ギレしないでよ!キレたいのはこっちなんだから………はあ」
ヒートアップしたり沈んでみたりと忙しそうだ。俺は寝ていた方が賢明かもしれない。
俺は再びメイドの膝へ……は行きにくいので座ったままの無理な体勢で再び目を閉じる。ぬぐいされていなかった眠気が再度俺の意識を覆い尽くそうと……。
「アンタ、何寝ようとしてんのよ!アンタの問題でもあるのよ?このままじゃアンタわたしと、こ、婚約することになってしまうんだ、け、ど……」
しどろもどろになる色織さん。とても可愛らしい。正直、夢うつつといった感じなので、周りの声がちょうどいい子守唄になっていたりするのだが……。
「あの、もしもし?」
「んあっ!?………ああ、気を抜くと寝てしまいそうだ」
それを聞いて、助手席で呻っていた色織さんがぴたりと動きを止める。そしてゆっくりとこちらを振り向く。その顔には張り付けたような見事な作り笑顔が浮かんでいた。
普段見ていたら、特に彼女に心酔していれば騙されるであろうその笑顔。
自分も一応、彼女に惚れているのだが………どうにも、本性が垣間見えてしまったため、素直に騙されることが出来なくなってしまっていた。
予想通り、彼女の口からはとんでもない言葉が飛んでくる。
「これは夢よ。あなたはわたしのことが好きで好きで堪らないみたいだから、しょうがなく出てきてあげたの。わかる?」
「………そうなのか?」
とりあえず、素直そうな隣のメイドにふってみる。
「え、ええ、あ、あ、そう!そうでひゅっ」
フィッシュっ!!
その様子を気にも留めず、色織さんは強引に話を進める。
そこまで俺との婚約が嫌なんだろうか。とてもショックだ。
「まあ、そこの駄メイドは置いといて……とにかく夢だから。そういうことだから」
「自分でも不思議なほど冷静なんだが、まあ、後で暴れるんだろうし、一応今のうちに聞いておきたいんだが…………俺が婚約者じゃダメなのか?」
「ダメね。なんか人生普通に終わりそうじゃない?もっと刺激的なのを求めてるのわたしは」
酷い言われようだ。今の言葉を訂正してもいいとするのなら、ここ最近はかなり刺激的な出来事が多いと思う。俺自体は普通だからあまり関係ないのか?
「とにかくっ」
色織さんは声を大にして叫ぶ。
そこには鬼気迫るものがあった。そこまで嫌がられるとかなり傷つく。やたらと傷つく。
もし俺がガラスのハートの持ち主だったら完膚なきまでに粉々になっていたことだろう。そしてさらさらと風に流され、風にとけていっただろう。
そんな俺の事情をお構いなしに色織さんは言葉を繋ぐ。
「記憶が残っている以上、約束しておかないといけないわ」
「約束?」
「そう、婚約しないで尚且つ平和的な解決。つまり………」
作り笑顔でニコッとほほ笑む。
「学校では………お互い無視」
無視の部分だけ異様に低い声だった。それだけ彼女の必死さがうかがえる。隣でメイドはあわあわと忙しなく手を動かしていて、黒服の男達は相変わらずのだんまりだ。
そして、茫然とする俺と、そんな俺を険しく睨みつける色織さん。
(爺さん、これが運命の出会いなのか………?)
俺はその要求に応じるよりほかに、この状況を打破する方法はないと考えた。もしかすると、まだ他にも手はあったのかもしれない。
渋々承諾した後、色織さんは嬉しそうに頷き、約束の契りとばかりに握手を求めてきた。
これが後々に俺を苦しめることになろうとは、この時はまだ知る由もなかったわけだ。
…………朝だ。
あの後、そのまま車で家まで送り届けられた。
家に入ると、親がテレビを見て大声で笑っていた。何を見ているのかと思い、そっと覗いてみると…………アダルトビデオだった。
俺は見なかったことにして、静かに部屋への階段を足早に上り、無造作にベッドにごろんと横になった。
「あ~もう、畜生、なんで俺の親は息子が帰ってきたってのに……はあ」
部屋で一人、親の愚痴をたれる。誰が聞いてくれるというわけではなく、自己満足の範囲である。
昨日を思い出し、今日のことを思う。すると、不思議な事に頭痛がする。ガンガンとかそういう具体的な痛みじゃなく、なんとなく痛い。普段なら気のせいだと思えるものが、今はそうあってほしいために気のせいだという認識を覆すのだ。
人間の身体とは気まぐれなものである。
「あ~女々しいな、俺。それに嫌な事あったから学校休む~なんて通じないしな、うちの親には」
起き上がった身体を再びベッドに倒す。時計を確認すると、普段よりも二十分早い起床だった。なんとなく眠いのはそのせいなのかもしれない。
そのせいだけじゃないことはもちろん、先ほど説明したとおりだ。
「お~い、悟ぅ~おっきろ~よっ!!」
下の階から鼻歌交じりで父親の皮を被った変態が階段を上って来る音が聞こえる。今日は何をたくらんでいるのかわからないが、一応警戒に越したことはない。
俺は布団を身体に巻きつけ、完全防御の体勢を取った。
「おい、さ、と、る☆」
気持ち悪い、実に気持ち悪い表情だ。いつにも増して笑顔が輝いている。七福神の恵比寿様の口角をくいっと上げたらこんな感じだ。気持ち悪い。
「どうしたんだよ」
「ん?いやぁ、何にもないぞ?何にもないって。うぁははははは!」
絶対何かある。しかしわからない。いつもは行動を把握しているだけにかなり怖い。
「悟ぅ、お前………」
妙に緊張する。某クイズ番組のように間をためる父が憎らしい。こんなに気にならなければ蹴り倒して無理矢理聞いているところだ。親不孝?違うな。人格強制だ。
「何だよ、もったいぶらずに言えよ」
「………彼女、出来たんだろ?」
「………は?……ああ、実は見てたってオチなのか?でもあれは」
「や、やっぱりか!?ついに悟にも春が……長かったなぁ」
わざとらしく涙ぐむ父。しかし、俺の心中は穏やかではなかった――色織さんとの約束、学校で他人のふりをすることが難しくなりそうな予感がしたからだ。
この親のことだ。わかった途端に学校まで来て自ら挨拶に向かうことがあってもおかしくはない。鮮明にヴィジョンが浮かぶ。ちなみにラストシーンはデッドエンド。
「いや、ダチってだけでそんな関係のつもりは」
「そうかそうか、よし………母さん!悟に春が来たぞおおおおお!桜満開だあああ!!!」
「なんですって~?赤飯は五合で足りるぅ?」
「そんだけありゃあ十分だ!乗り込むぞ!昼休み中に挨拶だ!!―――仕事は休む」
なんてことだ。話が通じていない。いや、言葉が通じていないのか?さっきから俺はこの人たちが何を言っているのか理解できない。したくない。
―――しかし、放っておくわけにはいかないのは事実。
「えっと、だからアレは学校の友達なんだよ……っていねぇ!?」
親の姿は既に俺の目の前から消失していた。全く我が親ながら行動力にあふれている。昼と言っていたような気もするが………恐らく、気配を消して俺をつけるつもりなのだろう。考えすぎだと思うかもしれないが、以前法律の壁を破ろうとしたことがあるのでこれくらいは考えておかねば不十分だ。
「ホント、俺の親はどうなってんだか……はあ」
最近、ため息が多いな。
玄関を出ると茶色がかった髪の毛が目の前に現れた。視線を下げていくと少女の笑顔があった。
どうやら小暮の人格ではないようなので、心が穏やかだ。別に嫌いというわけじゃない。苦手なだけだ。
「おはよう、日向」
「おはよ~、さと君っ!………顔色悪いけど、どうかしたの?」
「いや、親の問題なんであまり聞かないでくれると助かる。ハズいから」
純粋な労りが身にしみる。不覚にも涙が……。
「ど、どうしたの?やっぱり泣くほど辛いなら……」
「違う、違うんだ。今更ながらまともな位置にいる人間は必要だなと感じ入っていただけなんだ」
「?」
不思議そうに俺を見ている日向。
少し涙目な顔を隠してなるべく速足で歩く。途中、チワワが飛びかかってきたり、柴犬が飛びかかってきたり、ドーベルマン(警察犬)に喰らいつかれそうになったりしたのは何故だろうか。何故犬なんだろうか。そういえば、吸血鬼と狼男は関連性あるんだったっけ?犬と狼は違うはずだが……。
しばらくして学校が見える。もう道のりは完璧のようで安心したが、学校の中は主に親族の関係で安心できない。
重くなった足をゆっくり、確実に前に進める。その奇怪であろう光景を日向は再び不思議そうな顔で見ていた。
「全て杞憂でありますように全て杞憂でありますように全て杞憂でありますように……!」
「さと君………なんか怖いよ?」
そんなこんなで授業。
俺たちが入って来て十分程度で始まるので、なかなか息をつく暇がない。距離のこともあるが、何故か通学の度に決まって何か起きるのだ。迷ったり、追いかけられたり、迷ったり。犬に追いかけられたのは今日が初めてだが。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ………!
ノートをとっていて思い出したが、最近、ノートをとるという概念が覆されようとしている地域があるらしい。というか、現代っ子の電子機器活用法というか。何でも、黒板に書かれた内容を携帯で撮るらしい。全く、考えられない行為だ。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ………!
わかっているさ。振り返れば地獄が待っていることくらい、重々承知している。驚いたように口をぽかんとあける先生とか、生徒たちのざわめきとか。ひとまず言えることは――どうやら隠す気はなさそうだ。
「なあ、素晴らしい我が両親様よ」
「…………!よく気付いたな、悟。気配は消しきれなかったか」
「駄々漏れなんだよ。少しくらい隠れろよ。学校にまで乗り込んでくるのはさすがにどうかと思うぞ」
「お前のためだろう。お前はただ授業に集中していればいいんだ―――ゴゴゴゴゴゴゴ」
「それは声だったのか!?」
どうやら本格的に居座るつもりらしい。腕を組んで先生にぐっと親指を突き出す我が父。
そして、その横で床にクッションを置いてお茶を飲む、下手をすれば学生と間違えられそうな容姿の我が母。
凍りつく教師。
やめてくれ、俺の平穏を荒らさないでくれ…………!!
「悟、大変だな」
「わかってくれるか、友よ」
「………自分がお前の立場だったらと思うとぞっとする」
隣から俊也が憐れみの目を向けてくる。気のせいか、俊也以外からも多数の視線を感じる。
先生は困惑して両親と俺を交互に見て、どう注意したものかと迷っているようだ。そして両親に向かって、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの」
「ん?なんですかな」
「じゅ、授業中なので飲食はやめていただけますか?」
「「「そこじゃねぇ」」」
クラスの気持ちがシンクロした。
両親はそのことに今更気付いたように、そして悪びれもせず。
「あ、そうですな。……お茶はダメだってよ」
「あ~そうよね~高校だものね~」
「う、………授業を再開します」
俺の両親の存在が容認されてしまった。
「紅崎先輩、こんにちは」
「ああ、…………後ろにいるのは?」
「気にしないで下さい。空気中に浮かぶ塵とでも思ってもらえればいいです」
「そうか……」
俺の背後では何やら観光気分の両親の姿。絶対に関わりがあると思われたくない。もう約束がどうのこうの以前にあの二人の事について触れたくない。
穴があったら入ってふたをして両親をやり過ごしたい。
「それでは、あの席に行くとするかね?」
「はい、お願いします」
「いや、助かります。先輩」
俊也がわざとらしく頭を下げる。先輩は苦笑して胸の前でふるふると両手を動かす。
「いいんだよ。私こそ君たちに話し相手をさせているのだから、お相子だよ」
「そんな、俺たちは先輩と話せて嬉しいっすから。な、悟」
「そうですよ。むしろ何かお返しをしたいくらいで」
「そうですよ。もう嫁にしたいくらいべっぴんさんです」
「そうですよ~。もうウチの娘にしたいくらい綺麗よ~?」
台詞が多かった。もちろん俺が一人三役をこなしたわけではない。
ゆっくりと振り返ると顔が気持ち悪いくらいニヤついた両親の姿があった。気配を消せるなんて忍かあんた等。
全く気配を消さないでいたものだからすっかり油断していた。全てはこのための布石だったのか……!
「き、綺麗………ですか」
「おう!俺がもうちょい若ければ……痛たたたたっ!母さん、引っ張るな。耳は千切れたら再生しないぞ。足の小指と違って」
「足の小指も再生しねぇよ。なんでこのタイミングで話しかけてくる?」
「そりゃあ、お前のかのじ………痛たたたたっ!!やめてくれ!俺の最近大事にしている頭頂部を引っ張るんじゃない!!」
ほんの少し赤くなっている先輩と状況を読みこめていない俊也に背を向けて二人を連れ出す。不服そうに付いてくる両親に一喝する。
「妙な行動はやめてくれ。それと、あの人は昨日の人じゃないから」
「そうなのか?あんな綺麗な娘を放っておくなんて………期待が持てるなぁ!母さん!!」
「そうねぇ~さぞかし美形な孫が見れるでしょ~母さん楽しみだわ~」
「いいから大人しくしててくれ。それと、もしこの人だと思っても話しかけるな」
「「え~」」
「え~じゃないっ!俺の学校生活が割と本気でかかってるからな」
「しょうがない」と言ったかと思うと、二人は速足で俺の視界から姿を消したが、いなくなったかどうかは確証が持てない。何せあの図太い両親のことだ。
「ったく、今日は気をつけないと」
「先ほどの方たちは………?」
「そんなことより、早く昼にしましょう」
「?………まあいいか」
「お前、大変だな…………」
俊也は心からそう思っているようだった。遠い目をしているところからもしかするとコイツも似たような経験があるか、今まさに悩まされているのかもしれないな。
昼食を摂り終わった後、先輩から俊也と別れ、なんとなく親がつけてきているような気がするので普段とは違う行動を取る。今向かっているのは図書室だ。行ったことはない。
(あの親も図書室みたいな静かな場所なら静かになってくれるだろ)
からっと軽い音を立てて扉が開く(他の教室とは作りが違うようだ)。中に入ると、予想通り、テスト中に似たピリッとした空気が流れていた。
ひとまず安心、と席に着くが………………つまらん。
教室の静けさは想像以上だった。声を発すると殺されそうな気がした。本を読んでいる人間は皆、人形のように固まっていて、時々ページをめくる音が切なく響く。
パラ、………………パラ、………………パラ…………。
「……………………っ!ぷはっ!……ヤバい、息止まってた」
「あの~どうしたんですか?」
「え?いや、何でもないです」
「そうですか。難しそうな顔をしていたので、何かあったのかと。よかったです」
見慣れない少女だった。肩口に切りそろえられた黒髪に、落ち着いた細い目。指を忙しなく動かしていて、脇にはノートが抱えられていた。
随分と落ち着いた口調。年上なのかもしれない。
「少し、ここの空気に気押されていたというか。もう大丈夫です」
「そうですか……良ければお勧めの本などを紹介しましょうか?」
「え、じゃあお願いします」
「ふふ、私のことは千早と呼んでください」
少女――千早さんはコロコロと気持ちのいい笑いをすると、俺の手を引いて図書館内を案内してくれた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……………!
「急に怖気が………!」
「?」
「こっちの話です」
どうやら両親はここに来ているらしかった。もうただひたすら面倒事を起こさないことを祈るばかりだが…………。
思考に浸っていると千早さんがにこやかに話しかけてきた。気が付くと、何やら沢山の小説が並んだ棚に案内されていた。
千早さんはその棚から何冊かを選んで抜き取り、俺の目の前でそれらを紹介してくれた。
「はい、それじゃあ紹介していきますね」
「お願いします」
「まずはこれ。【渡る世間は国ばかり】」
「でしょうね」
「次は【崖の上の捕虜】」
「絵本の癖に物騒な内容ですね」
「まだありますよ。【改になりたい】」
「肉体改造!?」
それから昼休み終了まで本の紹介は続いたが、これがまた中々面白い。
最近の小説って奇抜なタイトルが多いのな…………。
「どうです?お役に立てましたか?」
「ありがとうございます。すごく面白かったです。」
「そうですか。それは良かったです。私はいつもここにいるので、もしまた聞きたくなったりしたら声をかけてくださいね」
「はい」
「あ、そういえば名前は………?」
「あ、犬神悟です。すいません、名乗りもしないで」
「いいんですよ。よろしくお願いしますね」
そう言って、千早さんはコロコロと笑った。
放課後だ。もう諦めたのか、両親は授業中に現れなかった。そして、こうして廊下を歩いている時も気配を感じない。気配を感じると言うのもおかしな話だが。
俊也を引き連れ、階段を下っていると見慣れた茶色が目に飛び込んできた。
「お、さと君もとっしーも今帰りなの?」
「とっしー?」
「俺のことだ。何故か妙なあだ名をつけられてな」
さと君にとっしーか。この後に‘愉快な仲間たち’とかつけたら教育テレビに出れそうだな。
「そういえば、さっきさと君のお父さんとお母さんに会ったよ?」
「何?いつの事だそれは」
「悟、顔が妙に濃いぞ」
「そうだね。声もなんか格好よくなってるよ」
「いつの事だ」
「わかったから、わかったから顔近づけないで……!」
微妙に涙目になっているような気がしたので仕方なく離れる。
「んで、いつだ」
「さっき授業終わったら教室の前でなんか話してて、見つけたとか何とか……」
「見つけた…………?」
「それで急いで玄関の方に行ったよ?」
「激しく嫌な予感しかしない………!」
「え、おい悟!」
俺は走った。階段は一段飛ばしで下り、階段を通る人をさばきながら最高速で目的地の玄関まで向かった。風を切る。俺は風だ。風だ!!!
玄関に着くと惰性がつきすぎたせいで前にのめり込む。周囲を見回したが、両親の姿らしきものは見られなかった。
まばらに帰る生徒たち。部活動はまだ始まっていないはずだから色織さんに遭遇する可能性は十分だ。マズイ。
「畜生、どこだっ!肝心なところで出てこなくなりやがって………!」
もしかすると、もうすでに………ない。絶対にない。というかあっても信じない。
「生憎と約束は守る方なんだよ!」
誰に言うでもなく叫び、学校を飛び出す。
再び辺りを見渡す。あのおかしな二人の事だ。奇抜すぎて目立っているの違いない。あれだけ騒がしい親ならすぐに見つかるはずだ……!
「どこだ……………いたぁ!」
やはり目立っている。何やら女子に声をかけているようだ。変質者だな。完全に。
全速力で向かう。一刻も早く釘を刺さなければ。
「おい、我が馬鹿親共よ。そうやって生徒にちょっかいかけ……る……」
「おお、悟!見ろ!生のメイドだぞ!いやぁ、感動だなぁ。俺、一度でいいから見てみたかったんだよ。本当の生メイド」
「可愛いわねぇ~。なぁに?これどんな生地なの~?」
メイドだ。確かにメイドだ。見たことのあるメイドだ。
「え、えと、これはシルクです。いいお屋敷で働かせていただいておりますので」
「わぁ~すご~い。肌触りすご~い」
「おい」
「え、ふぇ?」
メイドを無理矢理引っ張る。耳に口を近づけ、声を潜ませる。
「もう、何ですか?」
「あれ、俺の親なんだ」
「ええっ!………もしかして話してしまわれたのですか?」
「話してない!どうやらリムジンを見られてしまったらしくてな。本当に肝心なとき鋭い人たちだから、もしかしたらお前を見て気付いたのかもしれないな」
「気付いたって………」
「色織さんの事だよ。なんか彼女だなんだって言ってる。高級車から連想できるって……そういえば、そこの車は?」
「リムジンです。あなたも乗ったでしょう?」
馬鹿な。チェックメイトだと?そんなわけがない。いくら俺の親だからってそんな暗い中で見た車をしっかり覚えて
「おっ、これ昨日悟が乗ってきた奴じゃないか?」
「あ~そうね~ほら、写メと同じだし~」
―――――覚えてたね。写メ撮ってたね。
しかし、まさかその中にいる人を一人残らず覚えているわけはないだろう。俺の家の窓側の席には俺と黒服の男ぐらいしか乗っていないはずだ。雅を見られているとは
「そういえば、あの黒い髪のお姉ちゃんがいねえな」
「そうね~あの娘ってぇ~さとちゃんが合格発表の時に見てた娘よね~?」
―――――見られてたね。しかもしっかり覚えられてるね。アンタ等の視力どうなってんの?暗視?暗視スコープ搭載?
にしても、マズイ。これでは約束を守れない。もう破れているような気がするが、とにかくヤバい。
俺は素早く親たちの下に戻り、無駄とは思いつつも説得(何を?)を始めた。
「なあ、お父様お母様。そろそろ帰ってくれないか」
「いやだ、将来の嫁を見るまで帰らない」
「それはないから」
「いやよ~孫を見るまで帰れないわ~」
「不可能だ」
何故かもう諦めたくなってきた。敵う気がしない。
なんというか、意固地な子どもを相手にしているようだ。身体が大人なだけにもう手のつけようがない。
後はもう、色織さんがどう行動するかだが………。
「お嬢様、お疲れ様です」
「ええ、あなたも御苦労さま」
なんてタイミングの良さだぁああぁ!!!!もう運命としか思えないぞ!?どうなってんだ………!
瞬間、色織さんと目が合う。にこりといつもの学校で見るお嬢様の顔で微笑むと、口元が動く。言葉は発していないが何かを言おうとしているようだ。
(?………ば……ら……し……………)
なおも動き続ける唇。読唇術は心得ていないが………。
しばらくして読み取ることに成功。復唱すると、
『ばらしたら、沈める』
「どこに!?」
「どうかしたの~?…………ああっ!」
「おお……!」
「しまったっ!!」
俺が大声を上げたことによって完全に色織さんを認識した両親。両者の視線がぶつかる。
万事休すか………!
「おお?雅ちゃんじゃないかい?」
「賢介先生?どうして………?」
「は?」
「ふえ?」
俺とメイドの口から同じような気の抜けた声が聞こえる。
賢介、というのは父の名前だ。ちなみに母は日羽子。
いや、今はそんなことは問題ではなくて、どうして二人が知り合いなのかということがとても気になるわけで………そして先生?
「どういうことだよ?」
「お父さんね~音楽の講師をしてたことがあったの~飽きてやめちゃったけど~」
「その中の一人が雅ちゃんだ。主に弦楽器を教えていたな」
「そうですね、先生の教え方はとてもわかりやすく、個性的で面白かったです」
どう個性的なのかは聞くまい。
しかし、希望が見えてきたな。もしかしたら色織さんからお許しが出るかもな。
「それにしても、そうかぁ。雅ちゃんかぁ。運命的なめぐり合わせじゃないか!」
「孫も美形だわ~」
「はい?」
キッとこちらを睨む色織さん。
『ばらしたな』
そう瞳は告げていた。
それについては断固否定させてもらうが、しかし、別に友達位の言い訳で何とかならないだろうか。
俺は色織さんにアイコンタクトを取る。すると目をそらされた。
「すいません、私は悟君とは少ししか話したことがありません。昨日、家までお送りしたのは、悟君が財布を落として、それを拾ったついでに送って差し上げただけです。先生方の思うような関係ではありません」
「発展の余地は?」
「ないです」
「……………即答っすか」
いじける俺をメイドが優しく撫でてくれる。ドジだけど優しいな。ときめいたぞ。
そんな俺を差し置いて色織さんと父は話を進める。長年別れ、離れていた親族と話すような親しみがそこにはあった。
「なんだ、残念だな。雅ちゃんが娘になってくれるならそれは嬉しいことなんだけどな」
「残念ながら」
父は優しげな、俺も見覚えのある、慈しみのある表情で語りかける。
中学で挫折した時期、この顔に何度救われたことか。そして、俺のなんと情けないことか。
母に抱かれ、父に励まされ、そして爺さんの言葉に支えられて、俺という至極脆弱な生物は生きてきたのだ。
「そっか……でも仲良くしてやってくれよ。悟は優しいやつだから、きっと気に入ると思うんだが」
「………………それくらいなら」
驚くべきことに色織さんは折れた。少し、顔を赤らめるようにして、長いためらいを込めて、ゆっくりと。
「おお!良かった。良かったな、悟!!」
「何故俺にふる」
意外に早く決着がついたことに唖然とする。なんとなく、父親の話術の凄さを思い知った瞬間だった。同情に働きかけるというか。
とにかく、この場はおさまったようで良かった…………何故か感動した。
「よし、帰るぞ母さん!」
「は~い、あ・な・た」
両親はそう言うと恐ろしいスピードで帰って行った。妖怪と見まがうほどだ。
そして、ここにも妖怪が一人。
「……………………」
「あの、色織さん。そんな殺意の籠もった目で見られるとおっかねぇんですが」
「殺意なんて込めてないわよ。睨むという行為から殺意を連想するのは間違い。それから、その気色悪い呼び方を止めなさい」
「へ?じゃあ………きおりん」
「なに、わざと?じゃなかったら酷いネーミングセンスね。五回ほど生まれ変わってセミとして生きなさい」
くっ、日向ゴメン。お前っぽい呼び方は通用しなかったよ。
しかもその結果、五回の転生の後、成虫になって一週間で去らなくてはいけないようだ。
「名前で呼びなさい」
「み、雅」
「‘様’は?」
「雅様…………これは違うだろう」
「そう?ぞくぞくするけど」
俺は惨めな気持ちでいっぱいだ。ホント、驚くべき猫被りだな。
そういえば、父さんと話している時はどっちだったんだろう。自称吸血鬼か、完全無欠のお嬢様か。
「もともと学校では無視って約束だったし、学校では不用意に話しかけたり、接触したりしないで。ただ、今日みたいに放課後くらいは、その、関わってあげてもいいというか」
「ありがたき幸せでございます。雅様」
「本気で使うのはやめてくれる?土下座までされるとさすがのわたしも罪悪感を感じずにはいられないわ」
「じゃあ、その踏みつけようとしている足をどけてくれ」
「これは………つい」
まあ、冗談はともかく。
とてつもなく嬉しい、ということは俺の胸の内だけにしまっておくことにしよう。
吸血鬼と犬神少年の物語は、ここから始まったと言っても過言ではないのだから。
どうも、読んで下さっている方、ありがとうございます。間藤ヤスヒラです。
この話は中々苦手なジャンルで、まあ書くのが遅い。まあ遅い。
よって続きはまた長い期間を空けることになるでしょう。でも、完結させます。
とにかく、完結させますから……!
別の方に力を入れているのであまり更新頻度は高くありませんがね。
さて、今回の話は物語の邂逅編と呼んでもいいくらいの部分があらかた終了いたしました。
これからは結構書きやすいかなと思ってます。
だって、学校のイベントと言えばもう一目瞭然ですし?これは抜かしちゃいけねえ!!って感じのイベントは決まってますし?
少し霧識高校はおかしい、という設定ですから、もしかしたら今後に突拍子もないことが………?
それはお楽しみに。
今回はあとがきで色々と語りたい気分だったので、全てをまともに書くと言うわけではありませんが。
どうぞ感想等があればよろしくお願いします。
なにぶん初心者なので意見もあれば、と。