【短編版】死線上のエクスタク—ループの世界で無双していたボクだが、クラスメイトの女子は全てを知っていた—
朝、目覚ましが鳴る前に目を覚ます。
午前6時33分36秒。必ずこの時、この時間にボクは起きる。そして、生ぬるい風が顔に触れるたびボクは絶望する。今日から始まるのは「99回目」の「4月8日」だ。
ボクは鏡も見ずに制服に着替え、階段を降りて洗面台へ向かう。寝癖は三時の方向と八時の方向。ボクはレバーを上に持ち上げて、水を素早く手につけ、ドンピシャで寝癖に手を当てた。
母さんが「あ、今、朝食出来上がったわ」と言う前に「おはよう母さん、今日の朝食はサバの塩焼きと豆腐の味噌汁でしょ」と言ってリビングの椅子を引いて座り、朝食を口の中に入れていく。この味は99回目の味だ。飽きていないと言えば嘘になる。食べ終わった後、「醤油のキャップ、少し緩んでるから気をつけて。それと、玄関の靴置きちゃんと整理しておくんだよ!」と言い放ち、母さんが背後で息をのむ気配がしたが、振り向かない。
通学路。7時12分27秒、曲がり角から飛び出してくるスーツ男の自転車を半歩だけ引いてかわす。7時15分55秒、電柱の陰から野良猫が跳び出してくるので、あらかじめ差し出した左手で綺麗にキャッチして撫で下ろす。
学校に着き、掲示板を見る必要すらない。ボクのクラスは1年3組。席は窓際の一番後ろ。
「なあ、君! 掲示板見ないで自分のクラス分かるの?」
話しかけてきたのは、今後のサッカー部期待の新星・瀬戸だ。
「ああ、1年3組だからね」
最初の数回は戸惑った。だが何十回ともなればこの世界は完璧に攻略したゲームと同じだ。一見普通の高校生だが、100年以上も生きているんだ。起こることなど全て知っている。
「えー、みんな知っての通りこれから自己紹介してもらう」
新しいクラスの担任の田中に促され、出席番号順に壇上へ上がっていくクラスメイトたち。
次は3番の、野球部で将来キャプテンになる小林だ。ボクは彼が口を開く前に、手元のルーズリーフにさらさらとペンを走らせる。
「小林大輝です! 中学ではピッチャーをやってました! 趣味は筋トレで、特技はルービックキューブを1分以内に解くことです!」
寸分の狂いもない。彼が言葉を言い終えると同時に、ボクは机の上でルービックキューブをシャッフルし、8秒で6面を揃えて見せた。教室内に「え……?」と小さなざわめきが広がる。
「次、5番。……一谷」
ボクは静かに立ち上がり、壇上へと向かう。
「一谷蓮です。趣味は人間観察と、予知能力の真似事です」
「あ、ははは……」
教室内が乾いた笑いに包まれる中、ボクは黒板の前に立ち、ゆっくりとクラスを見渡した。
「右奥の霧島さん、10秒後にシャープペンシルの芯が折れますよ。隣の木村くん、15秒後に左の鼻から鼻血が出ます。それで保健室に行きますね。そして田中先生、20秒後に奥さんから『あの件、まだ終わったわけじゃないから。家に帰ってきたらちゃんと話して』とLINEが届きます」
「は?」
そんなわけないと皆、顔を見合わせて鼻で笑った。ついには変なやつだとボクを嘲笑う声でクラス中はざわついた。
チク、タク、チク、タク。
ポキッ。
「あ、っ……」と霧島さんが声を漏らす。
ズルッ。
「うわっ、マジで鼻血!?」と木村くんがパニックになる。
ブブッ。
田中先生がポケットからスマホを取り出し、画面を見た瞬間、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。顔面蒼白だ。
「な、なんだ……マジでどうなって――」
「ちなみに霧島さん、今日のパンツの柄は赤と青のストライプですよね」
悲鳴に似た声と、霧島純子の怒りの声と、恐怖の声が混ざり合って教室を包み込む。ボクはフッと鼻で笑い、完璧な身ごなしで自分の席へと戻った。
三限目の英語の授業。中学までの範囲の抜き打ち単語テストで、ボクは教員が問題を配り終える前に答案用紙をすべて埋め、満点を取ってみせた。
昼休み、購買の限定菓子パン争奪戦。猛烈な人だかりができる数分前、ボクは購買部に一番乗りし、難なくラスト1個を手に入れる。背後で落胆の声をあげる上級生たちを横目に、窓際で優雅にそれを味わう。
放課後部活の体験入部。ボクはバレー部のエースが打ったスパイクの軌道をミリ単位で読み切り、指一本で完璧なレシーブを上げた。バスケ部では選手顔負けのフェイントで全員を置き去りにし、軽々と3Pを決めた。軽音部では渡されたギターで、来月大ヒットするはずの未発表曲を即興で完璧に演奏してみせた。
「なんだアイツ……化け物かよ!?」
歓声と困惑が校庭に響き渡る。
中間テストも、期末テストも、全教科100点以外の数字を取るほうが難しい。誰がどの問いで鉛筆を落とすか、先生がいつ咳払いをするかまで完璧に覚えている。
ボクはこの1年間の絶対の神だった。
365日後、3月31日の23時59分が過ぎれば、世界はまたこの「4月8日」に巻き戻る。誰もボクの無双を覚えていない。だからこそ、ボクはこの永遠の箱庭で好き勝手に万能感を貪っていたのだ。
そう、今日までは。
体験入部を終え、下駄箱で靴を履き替えていたときだった。
隣の靴箱が開く音がした。同じクラスの浮いている女子生徒、桐生五木だった。
彼女はボクの顔をじっと見つめる。
「なに、どうしたの? ボクに予想してもらいたいことでもあった?」
だが彼女はボクがこれまでの人生で、一度も聞いたことがない言葉を口にした。
「……ねえ。次の周回は優越感なんて浸らないほうがいいんじゃな〜い?」
「それってどういう」
ボクの思考が凍りついた。
桐生は、ボクが『周回』していることを知っている!? いやハッタリの可能性がある。ボクのことをおちょくっているのかもしれない。
「信じてもらえてないみたいだね」
彼女は胸元から一冊の古いノートを取り出した。
『1周目:自転車交通事故』
『12周目:校舎からの転落』
『45周目:原因不明の心不全』
『98周目:刺殺』
ページの束をパラパラと捲るたび、びっしりと書き込まれたボクの死因が目に飛び込んでくる。
「何だ……これ。ボクは一回も死んでない! 3月31日になれば普通に時間が巻き戻って――」
「バカだねえ」
桐生は哀れむような目でボクを見上げた。
「あなたが覚えてるのは『自分にとって都合のいい記憶』だけだよ。ループの記憶を保持したり改ざんしたりできるのは、この世界でひとりだけ。そして今日は権限が私にある」
冷や汗が背中を伝う。
パニックに陥ったボクは、桐生の肩を突き飛ばして下駄箱を飛び出した。
校門を抜け、街をなりふり構わず走る。
おかしい。何かが狂っている。テストも部活も人間関係も、すべてを掌の上で転がして……それなのに足がガタガタと震えて止まない。
角を曲がると、朝すれ違うはずのあの自転車のスーツの男が、なぜか夕方のこの時間に立ち尽くし、不気味にこちらを睨んでいた。
電柱の陰を見れば、朝は元気に飛び出してきたあの野良猫が、ドクドクと血を流して倒れている。ボクの知る世界がガラガラと崩れ去っていく。
「はぁ、はぁ、はぁ……なんで……なんでだよ」
逃げるように学校へ引き返した。なぜ戻ったのかすら分からない。ただ、あの誰もいない放課後の教室なら完璧なボクに戻れる気がした。
1年3組の後ろドアを勢いよく開けて、鍵を閉めた。
ここにくれば……
「おーい、一谷くん」
沈む夕日の中、教卓の前に桐生五木がぽつんと立っていた。
「なんでお前がここにいんだよ」
右手には夕暮れの光を反射する一本のカッターナイフ。
「おかえり、一谷くん。戻ってきてくれたんだね」
「桐生……お前、何をする気だ」
「教えてあげる。このループはね、あなたが誰かに殺されることでしかリセットされないの」
彼女が静かに歩み寄ってくる。刃先がシャキシャキと音を立てて伸びる。
「逃げられるわけないじゃない。どこに行っても殺してループさせる」
「やめろ……来るな!」
ボクは机をひっくり返して桐生に投げつける。だが彼女は、無駄のない動きで身をかわし、ボクの懐へと踏み込んできた。
ズバっと生暖かいものが首筋で感じられる。
「がっ……あ……!」
視界が真っ赤に染まる。床に倒れ込み、吐き出される血の温かさに触れた。
そうだ。
1周目も、2周目も、3周目も……ボクは桐生に殺されていた。
「全能感に浸って気持ちよかった? 『99回目の一谷蓮』くん」
ボクの頭を蹴飛ばし、血の海の上で転がす。
「大丈夫だよ。また『4月8日』になれば、あなたは全部忘れて、朝6時33分36秒に起きるから」
あ、意識が遠のいていく。
完璧に攻略したはずのゲームの、本当のプレイヤーはボクではない。
暗闇が視界を塗りつぶす直前、彼女の嘲笑う声が聞こえた。
「じゃあね。『100回目』の『4月8日』で、また会いましょう」
チク、タク、チク、タク。
それは記憶を強制的に塗りつぶし、世界を再起動させるためのリズム。
チク、タク、チク、タク。
午前6時33分36秒。
必ずこの時、この時間にボクは起きる。
いや、違う。
「う……あっ……!」
目を開けた瞬間、猛烈な吐き気と、喉元を刺された激痛の記憶がボクを襲った。
首に手をやる。
皮膚は繋がっているし、血も流れていない。だけど覚えている。鮮明すぎるほどに覚えている。
鮮血の生温かい感触。床に転がされた視界。自分を蹴り飛ばしながら嘲笑う、桐生五木のあの冷ややかな瞳。カッターナイフのシャキシャキという、脳内にこびりついて離れない音。
これまで「99回」の間、都合よくリセットされ続けていた恐怖の記憶が、溢れ出すように脳内に流れ込んできた。
呼吸が浅くなり、視界がチカチカと明滅する。
今日から始まるのは「100回目」の「4月8日」。
またあの女に殺される。絶対に逃げられない。逃げようとしても、ボクを殺すために狂い出し、最終的には首を掻き切られる。
「嫌だ……死にたくない……! 死にたくない! たすけ、て……」
ガタガタと震える膝を押さえつけ、ボクはパニックになりながらベッドから這い出た。鏡なんて見たくもない。制服に袖を通す手すら痙攣している。
逃げ出したい。でも、どこへ?
全知全能の全能感なんて一瞬で吹き飛んだ。今のボクはただの、死の恐怖に怯える哀れな16歳の子供だ。
必死の思いで階段を降り、洗面台へ向かう。
すがるような思いでレバーを上に持ち上げ、冷水を両手ですくう。いつもの「3時と8時」の寝癖を水で押し潰せば、ほんの少しだけ、いつもの完璧な日常を取り戻せるかもしれないという、淡い期待を抱いて。
そうだ、そうだよ。99周回目以外は最後まで周回出来た……んだ。だから大丈夫……
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」
胸を手で押さえつけて深く深呼吸をする。ボクは制服に着替え、洗面台へ向かう。寝癖は三時の方向と八時の方向。ボクはレバーを持ち上げて、水を手につけ、ドンピシャで寝癖に手を当て
「あれ」
寝癖がいつもの所にない。
ボクは鏡を見て、寝癖を確認した。
やっぱり……このむくみ方も?
追い打ちをかけるように、1階のリビングから母さんの明るい声が響く。
「蓮ー、朝食できあがったわよー」
「あ……あ……」
喉がカラカラに干からびて、まともな声が出ない。
いつもならボクが「サバの塩焼きと豆腐の味噌汁でしょ」と遮るはずのその言葉を、ボクは口にすることすら出来なかった。
崩れ落ちそうな足取りでリビングのドアを開ける。机の上に並べられていたのは、香ばしく焼けたベーコンエッグトーストとポタージュスープだった。
「サバ」じゃない?
朝食を口の中にかきこんでいく。この味は100回目の味だ。飽きていないと言えば嘘になる。食べ終わった後、「醤油のキャップ、少し緩んでるから気をつけて。それと、玄関の靴置きちゃんと整理しておくんだよ!」と言い放ったが、母さんは「それ昨日も言ってたわね」とにこやかに言った。
「でも教えてくれたおかげで、あの人に怒られることがなくなったから良かったんだけどね。ありがとう」
今日は……、「4月9日」 いやボクは……ボクは……ボクはボクは。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!
「駄目だ! 気づくな! 気づいたら……全部が……」
気づいてはいけない。気づいちゃいけない! あの女に全部を狂わされたなんて、脳が裂けても思い出すもんか!
「だ、大丈夫? そんな大声だして……今日は休んだほうがいいんじゃない」
「……」
休んだら桐生とは遭遇しない……そうだ桐生と遭遇しなければ大丈夫なんだよ! ああ、そうだそうだ全部あいつだ。あいつさえいなければボクは生きられる。
「うん、今日は休む」
ボクは寝室へ重たい足を運んだ。
部屋にカギをかけ、布団にくるまるボク。これで桐生と会うことはない。彼女のナイフも、あの恐ろしいノートも、ここまでは届かないはずだ。
「生きる生きる生きる。死なないぞボクは! あんな女に殺されてたまるか」
午前10時を過ぎた頃だった。
「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」
暗い部屋には、ボクの独り言が反響していた。
そしてガレージのシャッターが跳ね上がる。家が少し揺れるような雑な開け方。
え、え、……父さん……? 出張から帰ってくるのは毎日夜のはずなのに……
ドスドスと廊下を歩く、不機嫌そのものの足音。仕事でトラブルがあったのか、それともただ機嫌が悪いのか。父さんが家に帰ってきた時の、この嫌な空気をボクは嫌というほど知っている。
「おかえり……。あなた、今日は早いのね……」
一階で母さんが迎える声が聞こえた直後、
パンッ!!! と乾いた肉体音が家に響き渡った。
「うッ……ああ……」
「うるせえ。お前みたいな働かない屑のための徹夜勤務と、会社でやられた散々な目! お前は今俺にしなきゃいけないことあるだろうが。なんだその顔は、俺に文句でもあるのか」
「ち、違うの。ただ、蓮が今日体調を崩して学校を休んでいて静かに……」
「ズル休みに決まってんだろ! ろくな大人にならんぞあのガキ。ここに連れて来い!」
ドカッ、バキッという殴打音と、「やめてよぉ」母さんの痛みに耐える呻き声。
ボクが知らなかっただけで、父さんは今日家に帰ってきていたのか。最悪だ。最悪だ!!
「やめて……やめてよ父さん!」
階段を駆け上がる荒々しい足音。ボクの部屋のドアノブがガチャガチャと狂おしく揺れ、ドカンと蹴り飛ばされてドアが破られた。
「蓮ッ!! 体調不良だ? 根性が無えからそうなんだ」
酒とタバコの匂いを撒き散らしながら、ズカズカとボクの部屋に入ってくる。
落ち着け……ボクは100年この一年を繰り返してきたんだ。親父の怒りを鎮める言葉は知ってる。
「父さん、待って。今日の会社の件、確か取引先の不手際でしょ。父さんのせいじゃないよ、だから——」
「知ったような口を利くなぁぁッ!!」
言葉を言い切る前に、容赦ない拳がボクの顔面を打ち抜いた。
床に叩きつけられ、視界が明滅する。奥歯が二本砕け落ちた。
「やめて、あなた。蓮を殺す気!? 逃げて、蓮!」
顔を腫らし、血を流した母さんがボクを庇うように父さんの足に泣きついた。
母さん……そんなことしたら死んじゃうよ!
あんなにも優しい母さんが、必死にボクを守ろうとしている。その姿を見た瞬間、胸の奥から息子としての感情が溢れ出た。母さんを助けなきゃいけない。
「クソ、邪魔だ」
父さんは母さんの髪を掴み、壁に向かって叩きつけた。倒れ込み、ピクリとも動かなくなる母さん。
「母さん! お前、許さない……絶対に許さないぞッ」
ボクは机の上の重い辞書を両手で掴み、父さんに向かってがむしゃらに飛びかかった。100年の記憶の中で、初めて見せる本気の抵抗。母さんのために自分のために。
バシッ!
辞書はいとも簡単に払い落とされ、ボクの首元を父さんの太い丸太のような手が強く締め上げた。
「ガハッ……あ……ッ!」
みしみしと首の骨が鳴る。足が空を泳ぎ、視界がどんどん赤く、そして黒く染まっていく。
「親に向かって逆らうとはいい度胸だな」
カチコチと、頭の中で時計の針が鳴る。
桐生に会わなければ生き残れると思った。でも違ったんだ。ボクがシナリオから外れた瞬間、別の形をした死がボクを迎えに来る。
母さん……ごめん……ボク、また死んじゃうよ……。
意識が途切れる寸前、薄れゆく視界の端——開け放たれた部屋のドアの隙間に、一冊のノートを抱えて静かに立ち尽くす桐生五木の姿が見えた。
彼女は救いようのないボクたちを冷ややかな目で見下ろし、声を出さずに口元だけを動かした。
『100周目:父親による殴打死』
ポキリと、首の骨が砕ける音が響いた。
チク、タク、チク、タク。
まただ。また一日、ズレている。
今日から始まるのは、100周を経て狂い出した「101回目」の日常。カレンダーの数字は「4月10日」を示していた。
「なんでまた一日、進んでる」
朝、パニックになりながら母さんに「昨日、何か変なことなかった!?」と詰め寄ったが、母さんは「何もないわよ? 風邪でも引いたの?」と首を傾げるだけだった。
生々しい死の恐怖。昨日殺されたはずなのに、今日にワープした? どういうことだ? でも今は……
ボクは思わず母さんに強く抱きついてしまった。母さんは驚きつつも背中を優しく撫でてくれたが、ボクの震えは止まらなかった。
学校に着いても、世界の狂いは収まらない。
教室に入ると、クラス中がボクを見てひそひそと囁き交わしていた。
「あいつだろ……エスパー一谷……昨日は全部の授業何をやるか当てたらしいぜ」
「セクハラ野郎だと思ってたけど、一昨日の部活体験ヤバかったらしいし……」
「でも顔はちょっと好みかも。女子の敵だけど!」
もう慣れた反応だ。クラスメイトの性格も、裏の顔も、攻略し尽くした37人のことなんて手に取るようにわかる。だけど、一昨日にやってしまったパンツの柄予言のせいで、変な噂と評価が混ざり合ってひとり歩きしているようだった。
いや待て。101周目の4月10日の時点で、クラスメイトは「一昨日のパンツ予言」や「一昨日の部活体験」のことを覚えてる。ループしたら世界はリセットされるはずなのに、もしかすると、ボクが100周目の4月8日に行った行動が、101周目の世界にそのまま残って引き継がれている!? つまり予知が……
うぅ、……予知。
その言葉が頭に流れ、昨日のことを強く思い出した。吐き気に耐え切れず、ボクは朝礼前にトイレへ向かった。冷たい水で顔を洗い、手すりにしがみつく。
消えない、消えてくれない。この二回の死の記憶は、いつまで経っても消えてくれない。
ボクはハンカチで手を拭きながらトイレを出た。
「ねえ、大丈夫? 顔色、すっごく悪いよ?」
背後から聞いたことのない声が聞こえた。
柔らかく、どこか透き通っている声。
振り返ると、そこにひとりの女子生徒が立っていた。
背中に伸びる鮮やかな赤髪のツインテール。ハーフか、それとも染めているのか。身長はボクの顎の少し下あたり。華奢なのに、女の子らしい柔らかいシルエットをしていて、廊下を通る男子生徒たちの視線を一身に集めているのが分かった。
「ううん、大丈夫……ちょっと気分が悪いだけだから」
「ほんとに? 鏡見てみなよ、顔が真っ白だよ『エスパー一谷』くん!」
くすっと悪戯っぽく笑う彼女の名前は、琴沢琴音。
100周もの時間を繰り返してきたボクの記憶のどこにも存在しない、初めて出会う少女だった。あまりに遭遇率が低すぎてボクが忘れていたのか、それともボクの行動の狂いで初めて遭遇したのか。
「エスパー一谷って呼ばないでよ……。あのパンツの件は、ただのミスリードっていうか、事故なんだ」
「パンツの件は聞いてないよ。本当は凄腕の予知能力者なんでしょ? 購買の菓子パンも先輩を差し置いて取ってきちゃうし、部活のスーパープレイも、みんな噂になってるよ」
彼女は愛嬌たっぷりの表情を変えながら、ボクの顔を覗き込んできた。
「あ、ねえねえ! 私のこと『琴沢さん』って呼ぶの、なんか堅苦しくない? 『琴音』って呼んでよ! 私も『蓮くん』って呼んでいい?」
「えっ、あ、うん……琴音、ちゃん」
「ちゃん付けか〜! まぁ最初はそれで許してあげる! いつかは琴音って呼んでね、蓮くん!」
パッと花が咲くような笑顔。人懐っこくて、どこか小悪魔的で、でも嫌味が全く感じられない。ボクの心の中にあった死の恐怖が、彼女の存在によって少しずつ解されていくのが分かった。
琴音はそれから、一日中ボクの隣にいてくれた。移動教室の移動の時間でも、休み時間の合間でも、事あるごとにボクの教室に来ては話しかけてくる。そして無邪気に笑ってみせる。
昼休み、購買へ向かう階段の踊り場でも
「私ねー、あの恋リアってなんか嘘っぽいなって感じちゃうの! だって一週間で好きになって付き合うなんてねー。本当の性格を見てるのか! って思っちゃう」
「まあ確かに。恋愛系のそういうのって顔で見る方が多いかもだし、一週間では裏の性格とか把握しきれないよね」
「うんうん! 私ね、そういう意味では蓮くんが一番人の性格を分かっているんじゃないかなって思うよ!」
「どうして?」
「だって蓮くんは——」
——あいつとすれ違った。
——あいつ
——あいつだ!
あいつだ!あいつだ!あいつだ!あいつだ!
桐生五木
すれ違いざま、桐生は暗く濁った瞳でボクをじっと睨みつけてきた。胸元には、あのノート。
途端にボクの心拍数が跳ね上がり、強烈な眩暈と吐き気がボクを襲う。壁に手をつき、荒い息を吐く。
「蓮くん!? 大丈夫!?」
琴音が慌ててボクの背中に手を当て、優しく撫で下ろしてくれた。
「ゆっくり息吸って〜、吸って、吐いて……よしよし。保健室行こう!」
琴音はボクの腕を自分の肩に回し、必死に保健室まで運んでくれた。その途中で振り返ると、階段の上から桐生がじっとボクたちを見下ろしていたが、琴音の温もりがボクを現実につなぎ止めてくれた。
保健室のベッドに横になると、琴音が顔を覗き込んで、ぽんぽんとボクの頭を撫でてくれた。
「ここで少し休んでてね」
保健室のベッドの横の椅子に彼女は腰をかけると、保健室の外から声が聞こえた。
「琴沢さーん。琴沢琴音さん。さっき担任の先生から呼ばれてたよー」
壁越しでこもった声。どこか聞いたことのある声で……
「だめ、出ちゃだめだ。琴音ちゃん」
「……大丈夫。私は戻ってくるよ!」
彼女は申し訳なさそうな顔をして、一度保健室のドアを開けた。そして扉の隙間からひょっこりと顔だけを出して、悪戯っぽくウインクを投げてきた。
「蓮くん! 昼休みが終わるまでに体調が良くなったら、中庭に来てね! 待ってるから! 絶対だよ〜!」
パタンとドアが閉まる。
保健室にいる他の生徒たちが、呆然とした顔でボクを見ていた。
「おい……お前、あの女子とどういう関係だよ……」
悔しそうな男子たちの声も、今のボクにはどこか遠く聞こえた。
不安だ……あの声はボクの脳内に危険信号を出した。二回も死ねばわかる。壁越しでもわかる。存在が憂鬱で不規則で憎たらしい恐怖の塊。だけど、恐怖でいっぱいだったボクの中に、温もりを琴音が与えてくれた。だから大丈夫、予感は当たらない。あいつの狙いはボクなんだ。
大丈夫、大丈夫!
しっかり休んで、そして行かなきゃ……琴音のところへ!
昼休み終了まで、あと6分。
ボクは重い身体を押し起こし、彼女が待つ中庭へと歩き出した。もういないかもしれない……でも、いてほしい。その気持ちだけで足を進めた。
中庭に通じるガラス扉を勢いよく押し開ける。
昼休み終了のチャイムまで、あとわずか。
日差しが照りつける青空の下、中央にある大きなシンボルツリーの影に、彼女はポツンといた。
鮮やかな赤髪のツインテール。風に揺れる赤いスカート。
ボクの足音に気づいた彼女が、パッと花が咲くような笑顔でこちらを見ている。
「……琴音!」
ボクは息を切らしながら、ベンチへ駆け寄った。
彼女は手に持っていた赤いイチゴジャムパンを胸元に抱え、嬉しそうにボクの顔を覗き込んでくる。
「……」
「はは……ごめん、遅くなっちゃって。まだいてくれて良かった」
彼女は誇らしげになり、小さな口をキュッと結んで、手にしたジャムパンをボクの目の前に差し出してきた。
「え、これボクに? 『蓮くん』顔色悪かったから〜って……ふふっ、琴音は本当に優しいね。ありがとう、すごく嬉しいよ」
パンを受け取ると、彼女は照れくさそうに俯き、頬を赤く染め、小さく首を傾げた。
「え? 桐生のこと? 大丈夫だよ。あいつが遠くからボクらを睨んでたって……ボクには琴音がついててくれるもんね」
彼女は満足そうに大きく頷くと、後ろの芝生の地面に大の字で倒れた。琴音はボクの顔をじっと見つめている。
ボクは笑いながら頬に触れる。
……冷たいなぁ
春のぬるい日差しの中だというのに、彼女の頬は冷たかった。
「……」
「琴音? どうしたの、そんな急に真面目な顔して……」
彼女は小さく口元を動かす。言葉を紡ぐように。
でも声が届かない。
「……」
「……え? イチゴジャムパン食べてって? うん、いいよ」
ボクは琴音からイチゴジャムパンを取って、一欠片を口の中に放り込んだ。
手からパンが落ちる。
そこに赤くてドロリとした粘り気のある液体が、ボクの口から落ちていく。
鉄の味だ。こんなにまずいパン、どこに売ってるんだよ琴音。ふははっ。
「……」
ボクは目の前の彼女の姿をまじまじと見つめ直した。
日差しに透けていた鮮やかな赤髪は、大量の血で黒く凝固している。制服は赤く染まっていて、首の骨ごと不自然に前へ折れ曲がっていたからだ。
ベンチの陰。彼女の足元には、水たまりのような血の海と——
一冊の古いノートが転がっていた。
血で汚れたページに、走り書きされた文字。
『101周目:琴沢琴音——放課後の中庭にて、喉元切断により死亡』
「あ……あ……あ……ッ」
視界が歪む。
目の前に立つ、首の折れた少女の死体が、ゆっくりと倒れ込んでくる。
ボクはガタガタと激しく震える手で、彼女の冷え切った肩を抱きしめた。
「なんで……ッ……なんで……」
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、返事のない死体にしがみつく。
「なんで……琴音……君は死んでるの」
頭の中でチク、タク、チク、タクと、冷酷なカウントダウンが響き始めていた。
そして血の海に転がるノートの『放課後』という文字を見た時、ボクの引き攣った脳に一つの疑問が浮かぶ。
「ぁ……ほう、かご……? ちがう……今は、昼休みだ……」
そうだ。ノートに書き留めなければ忘れてしまうんだ、あいつは。
思い出せ。『記憶を保持したり改ざんしたりできるのは一人だけ』——あいつのあの言葉。
記憶を保持しているのは桐生じゃない。
ボクだ。
あいつはノートの記述に従って動いているだけだ。だからボクの行動が狂えば、あいつのシナリオだって容易く狂い出す。
勝機はある。いくらでもある。
涙を拭い、血で汚れた地面を強く踏みしめる。
立ち上がれ、一谷蓮。
冷たくなった彼女を抱きしめ直しながら、ボクは心の中で叫んだ。
立ち上がって、守りたい人を守れ。
せめて、女の子一人くらい守ってみせろ!
さあ、立て。立ち上がって、すべてを攻略し直すんだ!
「待ってろよ、桐生……」
暗転していく視界の中、ボクは冷え切った琴音の頬にそっと顔を寄せ、静かに、けれど強く誓った。息が段々苦しくなっていく。両手を強く、もっと強く握り締めた。
「お前の思い通りにはさせない。次の周回で……そのくだらないシナリオごと、全部ぶっ壊してやる」
チク、タク、チク、タク。
『101周目:一谷蓮——放課後の中庭にて、自死』
チク、タク、チク、タク。
「あ、ッ! ああ……ッ……!」
目を覚ました瞬間、猛烈な気道閉塞感がボクの喉を襲った。
本当にやったんだ、自分の手で……。あの生々しい感触がまだ残ってる。
「んッッ!」
ボクはベッドの上で跳ね起き、激しく吐き戻すように激しく咳き込んだ。
冷や汗が全身から噴き出し、シーツを固く握りしめる両手は震えている。
改めて、喉に触れたが傷はない。呼吸も出来ている。
カレンダーに目をやると、
「やっぱりな……」
予想通り、数字は「4月11日」を示していた。
一日ずつ、ループしていたはずの世界は進んでいる。だが、そんなことは今はどうでもいい。重要なのは、ボクの頭の中に、99回の優越感と二回の凄惨な死、そのすべての記憶が鮮明に残っているということだ。
ボクは静かにベッドから降り、鏡の前に立った。寝癖は5時の方向と12時の方向。
「おはよう、一谷蓮」
鏡の中の自分に語りかける。
もう全能感に酔いしれた哀れな生徒じゃない。ボクはこの日から、桐生のシナリオを跡形もなく潰すのだ。
制服に着替えた後は洗面台へ向かい、レバーを持ち上げて冷水で顔を洗う。寝癖を素早く押し潰し、完璧な身なりを整えた。
階段を降りてリビングのドアを開ける。
「あ、蓮。朝食できてるわよ」
母さんの声。机の上にはベーコンエッグトースト。
「ありがとう母さん。いただきます」
サバの塩焼きじゃないことに動揺すらしなかった。ボクは黙々とトーストを口に押し込み、スープで流し込む。
「行ってきます」
「あら、もう出ちゃうの。気をつけてね!」
玄関を出ると、生ぬるい春の風が頬を撫でた。
通学路。7時14分02秒。曲がり角から飛び出してくるフード男の自転車。
ボクは避けない。あえて正面から自転車のフレームを足で蹴り飛ばし、男ごと派手に転倒させた。
「いっ、痛ぇな! どこ見て歩いてんだガキ」
怒鳴り散らす男を、ボクは冷ややかな目で見下ろす。
「すみません。でも、7時14分02秒にここを通るなら、もう少しブレーキの点検をしておいたほうがいいですよ。次は子ども連れの車に跳ねられますから」
男が息をのむのを無視して歩き出す。
7時20分55秒。曲がり角から暗い顔をして歩く女子中学生。何もないところで躓いてしまう所を、差し出した左手で受け止める。あらかじめ用意していた貼り付けの笑顔を見せる。
「え、え、あ、ありがと……」
そう、決まった未来なんていくらでも書き換えられる。誰かの感情も、誰かの傷も、ボクの手足で変えられるんだ。
学校の門を潜る。
掲示板の前を通り過ぎ、1年3組の教室へ。
ドアを開けると、クラス内が一瞬で静まり返った。
「あ……S谷だ……」
「S谷?」
「そう、エスパー一谷! なんかあいつ、隣のクラスの琴沢さんと仲いいんだって」
「あの琴沢さん!? もう先輩に告られたって噂の——」
「ねえ」
ボクは噂していたクラスメイトの机に近づき、真剣な眼差しで問い詰めた。
「今の話詳しく聞かせてほしい」
男子生徒二人は首をかしげる。
「えっと、告られたって話?」
「違う、その前のことだ。琴音は——死んだはずだろ?」
「え」
クラス中がシーンと静まり返った。重い空気の中、その男子生徒が引きつった口を開く。
「も、もしかしてそれも予知なの……?」
その一言を皮切りに、クラスメイトたちは一斉にボクへ気味の悪いものを見るような視線を向け、ヒソヒソと悪口を言い始めた。
「サイテーなんですけど」
「いくら予知とか言ってもさ、人が死ぬとか不吉すぎるでしょ……」
クラス中が冷ややかな毒気でどよめく。
マズい、やりすぎた。そりゃそうだろ。人の死を予知するなんて不吉すぎるにも程がある!
「来て」
その時、後ろから強く手を引っ張られ、ボクは教室から連れ去られた。
その手のぬくもりには覚えがあった。視線の先で揺れるのは、ふわっとバニラエッセンスの甘い匂いが香る、鮮やかな赤いツインテール。
人通りの少ない美術室前の廊下に辿り着くと、彼女はパッと手を離し、困ったように眉を下げて振り返った。
「あーもう! 蓮くん、なんであんなこと言っちゃうのかなー」
「ああぁ……琴音ッ!」
ボクはもう耐えきれず、生きてそこにいる彼女の身体を、強く抱きしめた。
「ひゃあっ!? れ、蓮くん……!?」
彼女は素狂ったような悲鳴をあげたが、振り払おうとはしなかった。
一瞬だけ身体を強張らせたあと、愛おしそうにボクの背中に小さな手を回してくれる。
首筋に触れる息の温かさ。昨日の冷たくなってた死体とは違う。
「大丈夫だよ、私はここにいるよ……。もしかして、昨日の保健室のあとに何か怖い夢でも見た?」
「保健室……? ボクは昨日の昼休み、中庭で……」
「えー? 私、昨日の放課後は中庭にずっといたよ? 先生からの呼び出しは生徒間の伝達ミスだったらしくてすぐ帰されたから。でも蓮くんが心配で保健室に行ってみてもいないしさー。ずっと探したんだよ?」
琴音はポンポンと背中を優しく叩いた。
「それで、昨日はどこに行っちゃってたの? 午後の授業も出ないで」
——放課後の中庭だ……。そのはずだ。
抱きしめたまま、ボクの脳内でパズルのピースが強引にはまっていく。
昨日の101周目、ボクが中庭で琴音の惨死体を見つけたのは『昼休みの終わり』だった。だが、あの血まみれのノートにはハッキリと『放課後』と書かれていた。
そうか……! 桐生はノートに『放課後に殺す』と計画を書いていたのに、ボクがいつもと違う行動をとったパニックで予定を狂わせ、フライングして昼休みに殺してしまったんだ。そしてボクの自死によって世界が巻き戻り、タイムラインが補正された……。
桐生はノートの記述通りにしか動けない。だから実際の放課後には何も起きず、琴音は無事に過ごすことができたんだ。
やっぱりそうだ。あいつのシナリオは完璧なんかじゃない。ボクが行動を変えれば、いくらでもボロボロと綻びが出る!
「ねえ、蓮くん? 聞いてる……?」
ゆっくりと体を離すと、琴音は上目遣いでボクの顔を覗き込んできた。少しだけ頬を桃色に染め、照れくさそうに髪を指で弄っている。
「……うん、聞いてるよ琴音。ごめん、ちょっと考えごとをしていて」
「もー、本当に心配したんだからね? クラスのみんなもびっくりしちゃってたし……蓮くんが変な目で見られるの、私嫌だもん」
誰になんと言われようと、彼女だけはボクの味方でいてくれる。その健気さが、痛いほど胸に刺さった。もう二度と、この笑顔を散らせてなるものか。
「そうだね、気を付けるよ。……ねえ、琴音。もしよかったらなんだけど、今日の放課後、少し付き合ってくれないかな? 君に見せたいものがあるんだ」
「えっ……」
琴音は一瞬目を丸くしたあと、パッと花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「それって……デートのお誘いって思ってもいいのかなー?」
「っ……いや、それは……」
言葉を詰まらせるボクを見て、彼女は満足そうに「ふふっ、冗談! でもすっごく嬉しい!」と笑い、ギュッとボクの手を両手で包み込んだ。
「約束ね! 楽しみにしてるから、絶対放課後ね、蓮くん!」
ぱっと顔を輝かせる琴音を愛おしく見つめながら、ボクは心の中で冷たい刃を研いでいた。
授業開始のチャイムが鳴り、ボクたちはそれぞれの教室へと戻った。
2時間目、数学Ⅱ。
1年3組の教室。窓際の席の一番前に座る桐生五木は、表向きは大人しく授業を聞いているフリをしていた。
だが、その背中は明らかに強張っている。
カチ、カチ、カチ、カチ。
ボクはシャープペンシルの芯を出し、桐生の後頭部をじっと見つめた。
桐生は五分に一度のペースで、チラチラとボクの方を振り返っていた。その顔には焦りが見える。
彼女はボクを何度も殺そうとしてきた。大切な存在を痛めつけてボクを絶望に突き落とし、自死へと誘導すること。あるいは、家庭環境の歪みを利用して父親の過度な暴力によって殺害させること。あらゆる悪意と罠を張り巡らせて。
だが——おかしいことがあった。
101周目のあの日、彼女は確かにこう言い放った。
『また次の4月8日で会おうね』と。
その言葉こそが、桐生の最大の綻びだった。
彼女は次が存在することを知っている。だがボクが今回『4月11日』へとタイムリープ先が書き換わったこと……つまり、世界の起点がずれていることにはまるで気づいていない。
もし彼女が本当に世界を統括し、未来を自在に操る神のような者なら、ボクの起点が変わった時点でその異常を察知し、シナリオを修正できたはずだろう。
しかし今の彼女はどうだ?
五分に一度、青ざめた顔で振り返り、必死に自分のノートを擦っている。
——そうか。そういうことか。
カツン、と教師のチョークが折れる音が響いた。
その小さな音にすら弾かれたように、桐生が肩を大きく揺らす。
あの黒いノートは、ループが起きるたびに記憶がリセットされてしまう彼女が、毎朝目覚めた瞬間に『過去のボクの行動パターン』を確認し、記憶の忘却を補うために書き留めてきたただの日記に過ぎない。それ以上でもそれ以下でもないのか。
カチ、カチ、カチ。
ボクはシャープペンシルの芯をリズミカルに押し出す。黒板に向かって数式を読み上げる教師の声が、どこか遠くに感じられた。彼女の正体が見えれば見えるほど、脳内がクリアになって気持ちがいい。
第一に再現性の罠。彼女の仕掛けてくる惨劇は、いつだって過去にボクが取った行動の延長線上にしか存在しなかった。ボクが同じ時間に同じ道を通り、同じ感情で動き、同じ失敗をするからこそ、彼女の予知は完璧に見えていたのだ。
第二に無効化の矛盾。昨日の琴音の死亡と、今日の琴音の行き帰りについて、これは世界の改ざんに見えるが、実態は逆だ。桐生は記憶が残らない一般人だからこそ、ボクの死によって世界が巻き戻った際、自分が過去に犯した罪の記憶すら綺麗さっぱり失っている。ただ、手元に残された日記を読んで行動しているに過ぎない。
不意に、桐生がまた振り返った。
今度は逃げるような視線ではない。すがるような狂気の瞳と真っ向から視線がぶつかる。
ボクは逃げずに、彼女の目をじっと見つめ返し──口を吊り上げてみせた。
桐生の顔から、血の気が引いていく。
彼女は神などではなかった。
本当の記憶を100年分保持し、未知の未来を選択できるボク。
過去の書き置きに縋らなければ、ボクの行動一つすら予測できない彼女。
結論から言おう。
ボクはこの周回、桐生五木を完全に詰ませることができる。
放課後の中庭、ぬるい風がボクたちの頬を撫でる。琴音は首を少しだけ傾けて、不思議そうにボクの顔を覗き込んできた。
「蓮くん、二人きりで中庭?」
ボクは桐生にアレを見せないように、背後に気をつけながら、注意深く校舎一階の影になった暗い廊下へと、強く視線を向けた。
「ボクが君をここに連れてきた理由。それは、ボクのクラスメイトにあるんだ」
「どういうことクラスメイトって?」
ボクはもっと強くアイツを見る。
「もう出てきたらどうだ。そこに隠れてコソコソ見てないで……桐生五木」
「桐生、さん?」
琴音の表情が強張る。ボクは彼女の前にスッと立ち、守るように庇い立った。
「そう、ボクの『予知能力』に関わる最大のキーパーソンだ。……驚かないで聞いてほしい。ボクはこの『一年間』を、もう100回以上タイムリープしている。まるでフィクションみたいな話だけど、本当なんだ。ボクが今日まで学校で起こることや、みんなの行動をすべて完璧に的中させてきたのが、その何よりの証拠だ」
「……」
「頭がおかしくなったと思うなら、信じてくれなくても──」
「信じるよ!!」
琴音はボクの言葉を力強く遮り、両手でボクの制服をギュッと掴んできた。まっすぐな目で見つめ返してくる。
「蓮くんが言ったことだもん! 蓮くんが嘘なんてつくはずない! だって私、分かってるもん。蓮くんが私のためにどれだけ苦しんでくれたか! だから信じるよ。私、蓮くんの味方だもん!」
胸が、熱い。熱くて熱くて、変な気持ちだ。こんな気持ちになったとこ無いのに。だがそれより今はまず、目の前の壁を乗り越えなくてはならない。
「信じてくれてありがとう、琴音。でも、桐生はあいつはボクの敵なんだ。ボクを何度も殺し、君の命まで奪ってきた、救いようのない悪魔なんだよ」
その瞬間だった。
「うわ、ハハハハハハハハハハハハッッッ!!!」
狂った高笑いが中庭に響き渡った。
1階の教室の窓枠に、桐生五木が乗っかっていた。制服のネクタイを緩め、髪を乱雑に散らし、両手を叩いてお腹を抱えながら笑っている。
「なーにそれえぇぇっ、女の子連れてきて守ってもらう気!? 『蓮くんの味方』だってさ。キャハハハ! 冗談おもしろー! ヒーローごっこ? ねえそれヒーローごっこのつもりなわけぇ!?」
「……」
でも今のボクには一切の隙も、恐怖もない。脳内は冴えきっている。勝利までの道筋もある。
「桐生ッ!! お前はもう詰んでんだよ!」
桐生の高笑いが、ピタリと止まった。
「詰んでる? 詰み? 詰みってなに? 私がいつ詰んだの? え? ねえ一谷くん……あんた、本気で言ってるの? あの授業のあれだけのことで? もしそうだとしたら、ほんと頭イカれちゃったわけぇ?」
桐生はヒラリと1階の窓枠から飛び降りた。中庭に着地し、血走った目でボクたちを睨みつける。
「一谷蓮。詰んでんのは、あんたでしょ」
桐生が背中に隠していた右腕を、ゆっくりと前に突き出した。
彼女が握っていたのは──カッターナイフなどではなかった。
ズシリと重い、長い赤塗りの金属製バール。そして先端の部分からは、ドロリとした赤い液体がポタポタと垂れていた。
「血!? それ、誰の血なの桐生さんッ!?」
琴音は悲鳴をあげ、怯えてボクの背中にしがみつきながらも、必死に怒号を飛ばした。
「あーもう、説明なんてお構いなし! だって今日は『サンノヒ』なんだからさッ!」
サン、ノヒ……?
桐生が狂気そのものの速度でバールを振りかざし、突撃した。
「させないッ!」
ボクだって、策はある。まさかバールだとは思わなかったけど……
ボクはあらかじめ授業後に部室から持ち出し、背中で隠し持っていた金属製の野球バットを両手で固く握り締め、フルスイングで迎え撃つ。
激しい金属打撃音。
「っっッ!」
手に伝わる強烈な痺れ。桐生の手にしていた重いバールが弾き飛ばされ、回転しながら遠くの芝生へ転がっていく。
武器を失い、体制を崩した桐生。すかさず琴音がバールを遠くにと察し、バールを拾おうと駆け出そうとした。
「琴音、ダメだ!」
ボクの制止も虚しく、琴音が手を伸ばした瞬間に、体勢を立て直した桐生が飛びかかった。
桐生の容赦ない拳が、琴音の顔に叩き込まれた。琴音は芝生の上に無造作に倒れ込む。
「琴音ぇぇぇっ!」
ボクの頭の中で、何かがぶちりと弾け飛んだ。
琴音に……唯一の理解者に……よくも、よくも傷を負わせたなッ!!
「許さない。許さない許さない許さない許さない許さないッ」
血管が浮き出るほど両手でバットを握り直し、バールを拾おうとする桐生の頭部へ向かって、全身の体重を乗せてフルスイング。
ドバキッッ……
鈍く、重く、生々しい破壊音が響き渡った。
桐生の頭部から鮮血が吹き出す。彼女は足からすぐに崩れ落ちた。桐生はボソりとつぶやいた。
「……バカめ、私が死んだら……世界ごと……」
芝生が赤く染まっていく。ピクピクと痙攣していた彼女の手足が、数秒ののち、完全に動きを止めた。
風の音だけが、中庭を吹き抜けていく。
桐生の頭部から流れ出る血の海。脈拍、ゼロ。呼吸、ゼロ。生きている気配、ゼロ。
死んだ。死んだんだ!
「は、はは……ハハハハハハッ!」
胸の底から溢れ出す感情を抑えきれなくなった。笑いが止まらない。涙が出るほど、腹の底から笑いが込み上げてくる。
「勝った。ボクの勝ちだ! ボクの勝ちだぁぁぁッ! 見たか桐生。ボクは運命には勝ったんだ! 」
ボクは両手を広げて高らかに勝利を宣言した。
ふと横を見ると、倒れていた琴音が、頬を真っ赤に腫らしながら体を起こしていた。彼女は激しく肩を揺らし、心底おぞましいものを見るような、怯えた瞳でボクを見つめていた。
な、なんだよその目。その顔……。
彼女の、人を殺したボクに対する強烈な拒絶。
いや、違う! ボクは知っている。あの顔はボクに魅了され、激しく恋に落ちて戸惑っている可愛らしい乙女の顔だ!
「あぁ、琴音!」
ボクはバットを投げ捨て、彼女のもとへ駆け寄った。
膝をつき、彼女の腫れた頬に優しく手を添える。冷たかった表皮がボクのおかげで温かい。
「大丈夫かい、琴音? もう怖がらなくていいんだよ! ボクが、ボクが君を守ったんだ! あの悪魔を倒したんだよ!」
「蓮、くん……君は……なにを……」
「琴音……好きだ。好きだ好きだ好きだ! 愛してるよ琴音! 君がボクの味方でいてくれたから、ボクは勝てたんだ! 今日の放課後デートは大成功だね!」
「え……で、デート……? 一体なにを……」
「決まりだ! 高校を卒業したら、すぐに結婚しよう! そうだ、大学なんて行かなくていい。ボクが君を一生遊んで暮らせるくらい幸せにしてあげる! 子供は男の子と女の子、一人ずつにしようか! 家は海が見える場所がいいな! 君は毎日、ボクのためにイチゴジャムパンを作ってくれればいい! あはは! 幸せすぎてどうにかなりそうだ! ボクたちのハッピーエンドだね、琴音ぇぇぇッ」
「ひっ……! や、やめて……来ないで……ッ!」
琴音は恐怖のあまり涙を流し、後ずさろうとした。
恋だ。これが恋なんだ! ボクたちは今、世界で一番幸せなカップルなんだ!
「あ、そうだ。念には念を入れておかなきゃね」
ボクは立ち上がり、倒れている桐生の死体へ歩み寄った。
そして、転がっていたバットを再び拾い上げる。
「お前だけは許さねえよ、桐生」
どす黒く低い声と、濁った目が桐生を捉える。
「ひいぃぃぃっっ!!」
琴音が悲鳴をあげて目を背ける中、ボクは桐生の頭部をさらに二度、三度とバットで叩き潰した。鮮血が飛び散り、ボクの制服と顔を汚したが、そんなものは今はどうでもいい。
「ふぅ。よし! これで完璧だ! あとはあいつの持っていたノートを回収して、破り捨てれば完全にボクたちの勝ちだ!」
ボクは血まみれの手で、桐生の死体のポケットを探った。
ブレザーのポケット。スカートのポケット。鞄の中。スカートの中。制服の中。ブラウスの中。
あれ?
ない。
ノートがない。
「おかしいな、どこに置いてきたんだ? 教室か? チッ、めんどくさいな。まあいいや、あいつ自身が死んだんだから──」
そう言って、琴音の方へ振り向こうとした、その瞬間だった。
「……え?」
突然、世界の軸が狂ったかのように、足元が激しく揺れ始めた。
地震?
ボクの視界、空間そのものに、まるでガラスにヒビが入るような亀裂が走り始めた。
「な、なに!? 何が起きてるの!!」
芝生の上に座り込んでいた琴音が、悲鳴をあげる。
空や校舎、中庭の木々がバリバリと音を立てて鏡のように割れていく。
「琴音ッ!!」
パニックになりながら、彼女のもとへ手を伸ばした!
大丈夫だ、ボクが抱きしめて守ってあげる!
あと数センチ。あと少しで、彼女の柔らかい手に触れられる──!
パリーンッ!!
空間の巨大な亀裂が、ボクと琴音の間に割り込んだ。
「あ……」
ボクの手は空を切った。
琴音の身体が、割れた世界の欠片とともに、暗黒の亀裂の中へと吸い込まれていく。
「助けて!」
「琴音ぇぇぇぇッッッ!!!?」
なぜだ!?
桐生は死んだ! ボクが殺した! 完璧に攻略したはずだ!
なのに、なぜ世界が巻き戻る!? なぜ崩壊する!?
ノートはどこに行った!? ボクのハッピーエンドは!? ボクの琴音との幸せな結婚生活はどこへ行ったんだぁぁぁぁぁぁッ!?
「なんでなんでなんでなんでなんでぇぇぇぇ!」
ボクの絶叫も空しく、暗黒の亀裂はボクの全身を飲み込む。
チク、タク、チク、タク。
『102周目:一谷蓮——桐生を殺し、ループ崩壊の狭間に飲み込まれて死亡』
──チク、タク、チク、タク。
「……あ」
午前6時40分32秒。
目覚ましが鳴った後に、ボクは再び目を覚ました。




