↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

昭和奇談 中洲剣豪伝

作者: 妖狐
掲載日:2026/08/15

昔中州一帯をなわばりにしていた不動組の孫、玉川満はかつての組員の更生と生活の為必死で頑張っていた。ヤクザのフロント企業だと言われないための努力がある。

中洲剣豪伝

昭和五十年五月その夜は雨が降っていた。中洲のクラブ月光は雨で客の入りが今一つ。これにも実は大物俳優のナイトショーが翌日に組まれ、翌日は予約で満席、その前日でこうなるのも仕方がない。片隅のBOX席でホステス相手に、飲んでいる老人がいる。支配人の玉川はそっと近づいた。タイミングを見て挨拶する。「いらっしゃいませ、岩田様、本日はありがとうございます。」老人と言っても70代半ばかくしゃくとした男、相手をしているのは、年齢詐称も甚だしい玉鬘さん。30代だが化粧と衣装で10代か20代初めにしか見えない。本指名ではないが、和やかに話している。岩田と言われた老人は笑顔を玉川に向けた。「おお、ミツルか。」笑顔を見せる。「ありがとう。いつも世話になるな。」

クラブが引けて最後の明かりを消し、道に出る。売り上げの袋を持ち100メートルのほど先の夜間金庫に行く。カードでの支払いが多いため、現金は少ない。だがそれでも300万は下らない。横に一緒に帰る事務員の由美子と、ボディーガードの平松がいる。銀行の夜間窓口に現金を入れて、平松に由美子を送るのを頼み一人裏路地に入る。そこのだご汁屋に入ると、岩田がいた。向かいに座りだご汁を注文、待たせることなく丼が出てくる。

この一杯が豚になる。それがわかっているから家のある箱崎まで、歩くつもり。岩田が言う。「爺さんに似てきたな。」爺さんとは昔この辺りをなわばりにしていた不動組の組長だが、血のつながりはない。今は任侠道などという時代ではなく、組はとっくに解散、玉川が、あとの元組員やその家族を押し付けられ、おまけに父親の元不動会会長杉山まで背負わされ、悪戦苦闘している。この岩田は元警察のトップ、そして元は副知事をしていた食えないおやじである。

「まだ恨んでいるか。」そっと岩田が聞いた。「恨まれるようなことしたと、思っているんですか。」逆に聞く。「思うとるわきゃなかろうが。恩に着て欲しいよ。」「今日は何の用事で?」この岩田は、剣道が強く国体選手でもあった玉川の、警察への採用に反対し、結果的に不動組の後始末を押し付けた一人である。「こん男について後でおうてくれんかのう。しっとるじゃろ。」現知事鶴田久の息子鶴田隆一は高校が一緒だ。学年が違うし行った時期も違う。知らないに等しいが噂は聞いている。無類の女好きだ。親は何とか隠しているが、それでも中洲スズメは耳が早い。後日改めて会う約束をした。だご汁はうまかった。

それから歩いて箱崎の家に帰る。帰り着いたのはもう四時、風呂に入ると倒れこむように布団で寝る。翌日玉川は十時には家を出た。今日土曜日はクラブでの大イベント、俳優のショーがある。午後三時までには、不動興業が経営している事業の点検を、やらねばならない。どうして人生は忙しいんだと自然と足が速くなる。東公園を抜けて千代町を抜け、濡れ衣塚の横を通り、中洲へ向かう。その途中にある町食堂に入った。中には修一とかおりがいた。店を開けたばかりだった。朝ご飯を頼むと、奥から高校生の恵子が出てきてお膳を運んでくれた。恵子を見てふっと似てるな、と思いながら手を出す。「おっちゃん、健康のためにほうれん草大盛りよ。」恵子がそう言いながら膳を出す。ほうれん草お浸しが通常の倍もってある。かおりが何かを鍋に入れ火にかける。恵子が逃げてゆく。かおりが言う。「料理酒の煮きりよ。あの子アルコールが苦手なんよ。」

通常の倍のお浸しと味噌汁焼き魚を食べた。おっちゃんと恵子は言ってくれる。好きだった女の姪、複雑な気持ちだった。修一が玉川の顔を見て微笑む。

用事を済ませてクラブに行く。席の予約は満席、スタッフは気合が入っている。てきぱきと用意をする。ショーは圧巻だ。何日も前からの準備が効く。ショーが終わると、楽屋に挨拶をしに行く。俳優清水等は喜劇映画で鳴らしている。人気がある。特に一部の人には神様のような存在だ。芸達者でトークも一流。礼を言う玉川に「昔、不動の親分には世話になりました。」と言う。玉川が大物をひっぱってこられるのは、初代組長のおかげでもある。玉川を孫と認識している。人格と面倒見の良さが効いていたが、暴力団とのつながりなどと言われないように、細心に注意はしている。最終の新幹線で東京に戻るという。高額の出演料を払っても十分採算はとれた。最終の新幹線まで見送ってクラブに帰り事務作業をする。このころ計算機は出来ていたが、そろばん計算が主流。由美子は商業学校出でそろばん簿記が得意だ。事務室は計算の女子事務員でビッシリだった。由美子はひょんなことから息子瑛太郎とともに保護した母子である。母の民子は瑛太郎がかわいくて仕方が無くて手放さない。そのまま大家族の中にいた。そういうわけにもいかないと思うのだが、玉川も言い出せずにいる。母と姉は血のつながりはない。父と母は結婚していない。父は満を認知していない。ばらばらの家族なのだ。ちょうどいいのかもしれない。瑛太郎は小学校三年で剣道を始めた。自分と同じくらいの大きさの道具袋を背負い竹刀袋を提げて歩く姿がかわいかった。父の杉山は満が小さい時構ってやれなかったことを、反省するかのように構おうとしている。

第一水曜日はクラブが休み、解放される。とはいえこの日に掃除とか消毒が入っていて、その責任者は出てきている。経営者としては知らん顔はできないので出勤する。話しがあるという岩田が来た。奥の面接スペースで話を聞いた。

福岡県の現知事鶴田には二人の息子がいる。上の兄は家にいる。次男は大学卒業して省庁に入った。近々選挙に出るつもりらしい。「それで相談とは、実は長男だ。知っての通り大学までは剣道で国体選手までなった。その後が悪い。学校を卒業して家に引きこもった。その上夜中にふらりと出かけるそうだ。この前出かけたとき、木刀に血がついていたと母親が言う。」「で、俺になにしろと。」「鶴田の長男隆一にお灸をすえてくれ。」「簡単に言わないでください。だいたい俺よりあいつが腕は立ちますよ。」断ろうとした。「お前んとこの黒服、犬鳴峠でチンピラ狩りをしているみたいだな。」「なんで、?」「あそこで来た車を、襲おうとしていた連中が、やられてな。返り討ちにした車のナンバーが、お前んとこの黒服の菱沼らしい。もちろんだまることもできる。」菱沼は腕が立つ。黒服には剣道の有段者がいる。しかしわざと段を取らずにいるものもいる。菱沼はそれだ。腕が立つのはその雰囲気からわかる。剣道の道場にいっている。おまけに居合までやっている。武道マニアだ。面倒になるのは嫌だな。そう思う。「俺より菱沼がいいんじゃないすか。」

おそらく納得しないだろうと思うけど一応言ってみる。族狩りを菱沼は確かにしていた。

岩田の話は、玉川の頭にこびりつき離れない。水商売の黒服には、なぜか剣道をやるものが多い。一つは護身がある。何かをもって対峙するのは、素手で対峙するのと違い有利だ。ひところ剣道初段は柔道三段に匹敵するなどと言われていたが、最近はわざと段を取らないものがいる。そして得物を持つと、たとえそれがお箸でもつよい。なぜか月光にはその手の物が集まってきている。厨房でお玉を片手に剣道の型をやっているのを見て驚いたが、やがてそれは日常となると、誰も驚かなくなる。

菱沼は玉川と一緒に出勤した。不動興行の寮は松原にある。箱崎と松原は二人にとって隣のようなものでよく一緒に出勤している。頼んでいたら寮母の米田さんが作ってくれるが、今日は頼んでいない。”佐倉”に行った。肉じゃが焼き魚定食を頼む。お膳が来た。いつものようにほうれんそうのお浸しは多い。ありがたく食べ始めたが横の菱沼のお膳を見たとき、はっとした。肉じゃがの肉が多い、魚がどう見ても菱沼のが大きい。恵子の顔を見ると照れくさそうに笑った。大きくなったんだな。もうそんな年か。そんなことには気が付かず菱沼は懸命に食べている。ご飯のおかわりもしていた。菱沼は体は大きいと言うほどではない。玉川と歩いていると、背丈の違いは感じる。

玉川がやっている不動興業はもう暴力団の形はない。会社だから普通に学校卒業者が、入社してくるはずだが、そうはいかない。そこは不動組の遺産がある。不動興業としては、経営に明るい経営補助社員が欲しい。そこへ満の中学校の同級生で坊主の立花が、頼みごとをしに来た。菱沼を使ってくれという。だが条件がある。

菱沼正夫は小学生の時母親を亡くす。母親は父親の暴力から、自分と子供を守るため逃げている。40に手が届こうとする、職歴もない女に稼ぐ手段はない。春吉橋の上で立ちんぼうをして日銭を稼ぎ、子供に食べさせていた。学校へ行くこともなく過ごしていたある日、母親は春吉橋の下で刺されて死んだ。父親は正夫の引き取りを拒否、売春をしていた汚い女の息子だからというのが理由。そうなったことへの自分の責任は、微塵にも感じていない。菱沼の大学費用と、生活費を稼ぐための、夜の仕事を提供してくれという。立花は寺の副住職、歴史がある寺で、戦後は戦災孤児の受け皿にもなっている。小坊主見習いのようにして、高校までは出してやれたが、大学は無理だった。だから玉川に協力を頼んできた。面接をするといい若者で、続くならいいと言って寮に入れる。福岡市内の難関な大学にそこから通う。夜は黒服、昼は大学その間、暇を見つけて居合と剣道をする。段は取らない。腕だけ上げる。母の仇を取るために。夜帰る時は女の服を着る。なるべく暗い道を歩く。そして服の下に短い木刀を持っている。他の従業員は変には思わない。そんな趣味だと思う。何をやって「ふうんそうかー。」と流すのが中州。そうして卒業したが就職はない。面接で落ちた。家庭環境が問題になる。母子家庭、犯罪被害者、売春婦、水商売、どれを取っても不利になる。その有能さは玉川にはわかっていた。

不動興業に入る。今までも社員だったが、幹部社員として採用する。有能な男で今は、組上がりの社員の時代から、インテリヤクザの時代になっていた。為替も理解できないヤクザは、通用しなくなっていく。一皮むけば玉川も菱沼も組上がりが、束になってもかなわないだけの、危ない力は持っている。菱沼を見ると玉川は身が引き締まる。この男のボスをやれるのはあと何年だろう。菱沼は、いつからか帰りの夜道だけでなく?族が潜む夜の峠で狩りをした。手下の伊藤がお供した。高校中退の伊藤は、菱沼をあこがれの目で見ていた。伊藤は高校中退したのは、やりたいことがあったからだ。彼はジョントラボルタに、あこがれていた。何度も真似して踊った。そしてダンススクールに入った。寮に入り、昼間はダンス学校に行っていた。もう18歳ダンス学校では優秀でパートナーを探している。ウエイターとして月光にいた。

今の菱沼は、まだ27歳独身。ハンサムな好男子である。一応寮があるので、入っている寮のミカジメ役をしている。いずれ家庭は持ちたいと思う。玉川の家族を見ているとさらにそう思う。

玉川は帰りに修一のところに寄ると、牧子がいた。「ミツル今日は早かったね。」肉じゃがをほおばりながら言う。石井牧子は中洲の交番勤務の婦人警官だ。勤務明けなのか制服は着ていない。牧子は修一の店“佐倉”の常連、お膳を見ると煮魚が散々なむしられかたである。魚食い下手だ。心の中で舌打ちしてグチの煮魚定食を頼む。見てろ俺が手本を見せてやる。ご飯に魚の身を乗せて食べる。みそ汁を吸う。やがて魚の骨は標本のようになった。これぞ博多っ子の心意気、たかが魚の骨で闘志を燃やし満足する。「魚でっちゃ気持ちよく食べなければ、供養じゃなか。」母が言う。満は今も母親っ子、母が喜ぶ顔が子供のころの目標だった。そして今は、瑛太郎がそうなろうとしている。あいつの魚もこんな感じだ。全部食べて手を合わせる。牧子の食い散らかした魚の骨を横目で見ながら「ごちそうさまでした」それを恵子がかたづける。その顔を見ながら思う。「裕子好きだったよ。」声に出せない声が出る。恵子は日に日に裕子に似てくる。それを見ているのはつらくもうれしくもある。裕子は彼の心に生きている。そしてそれは理想化されていく。

それを修一は悲しく見つめていた。恵子は日に日に裕子に似てくる。

五月のある日、月がきれいな夜、菱沼と伊藤は車で犬鳴峠に行った。こんな時は狩れる族がいるはずだ。犬鳴峠はさみしいところだが、通りが無いところではない。真夜中でも三十分に一台位通る。そこがねらい目、襲う。それくらいあれば充分に女や金を手にできた。

いい場所に着いた。このあたりの背の高い草の中に何人かの族が潜んでいるだろう。通りかかった人か車を襲うつもり、出てきたら目にもの見せてくれる予定だが外れた。前を見ると自動車が止まっている。何人かの男が地面でうごめいている。赤い女がいる。いや女のようなものがいる。女は木刀を持っていた。菱沼は居合刀をもった。車から降り居合刀をもってそっと近づく。男が金髪のカツラをかぶっていた。百八十センチ以上はある。自分も黄色いドレスを着ていることも忘れて、相手の姿に驚いている。相手は黙って打ち込んできた。そのためらいもない太刀筋を見たとき、ゾ~とした。殺すための太刀筋だ。木刀ではあっても、真剣のような殺気がある。自分の模造刀で防げるか。車の中にいる伊藤は武道をしていない。彼を守れるかと思う。

ブーッと車のクラクションがなる。相手は草むらからバイクを引き出すと乗っていった。菱沼は車の中に入って震えた。伊藤が声をかける。「だいじょうぶっすか。」怖かったとは言えない。帰る。震えて寝る。

福岡県知事鶴田の長男隆一は家に帰る。母も父も知事公邸に住んでいる。家には自分以外いない。湯を沸かしてコーヒーを入れる。苦いブラックの味を確かめた。今日の黄色い男だか女だかはすごい。あの時警笛がならなかったら、自分はこの世にいなかったろう。そんな気がする。自分の一撃を避けた者は今までいない。余裕で避けた。見てきた時の殺気がある。反撃されたら危なかった。まして真剣を持ってきた。布団に入って震えが止まらない。族狩りをしていて初めて怖かった。族狩りより強い奴がいる。族狩りの俺も狩られるのか、初めて狩られるものの怖さを知る。その日は震えて寝た。

中洲のクラブや飲み屋と交番の会合が行われる。会場は月光を提供し、飲み物の提供もした。飲み物と言ってもお茶を出す。交番から来たのは石井牧子だ。警官の服で立派なスタイルをしている。まず中州は歓楽街、ここの繁栄は安全にかかっている。犯罪があったり、ぼったくりがあったりしたら、大きく売り上げに響く。防犯は大きな課題である。もう一つは反社組織の締め出し、治安の良さが繁栄につながる。警察からの話や、防犯組合の話がある。

このころは中州には大きなキャバレーがあった。戦後米軍兵を客にして発展していたが、やがて米兵は去り、日本人が客の主流になっていく。大型のキャバレーは経営難の時代になる。玉川は菱沼と将来の事業を話し合った。消費者金融などの町金貸しが増えていた。新しい形の中州と新しい事業を不動興業は模索している。

資金の余裕がある時は不動産を買う。借金操業はしたくない。不動産屋はやくざより強いと言われる。居座るやくざを追い出せる。それが不動産屋だ。不動産屋はやくざの隠れ蓑でもある。そのころはまだ板付空港のそばに田んぼがある。そんな風景がまだあった。先行投資を考えた。

その夜、由美子と一緒に家に帰る。歩いて帰る玉川に由美子は付き合ってくれた。由美子の事務能力は、玉川にとって欠かせないものになっている。田中由美子は玉川の中学の時の同級生、商業学校を出て事務員しているとき、バイク屋と結婚、瑛太郎が生まれたが亭主が問題を起こした。母子家庭で頼るものがいなかったら、玉川が保護してくれた。瑛太郎は玉川の母になつき、父の玄太は瑛太郎をかわいがった。姉の美鈴が同居している。美鈴の夫は芸術家、絵では食えないので、今は画材屋と看板屋をやっている。一人娘の茉莉子は高校にはいかずダンススクールに入った。高校は通信制の高校に入った。美鈴は日本風の美人だ。茉莉子も美人だ。茉莉子はダンスで鍛え上げた体をしていた。家の女がすべてで瑛太郎の面倒を見ていた。ばあちゃん(民子)に気に入られようと瑛太郎は頑張った。

翌日目を覚ますと、民子の大声が聞こえた。何か瑛太郎が問題を起こしたらしい。由美子が学校に呼び出された。そしてしょげ返って帰ってくる。家族関係の事でからかわれ怒って相手を殴ったらしい。瑛太郎は何も言わない。だんまりだ。満は反省する。自分と由美子には肉体関係も何もない。しかし世間はそう見ない。改めて中途半端な立場にしていたことの申し訳なさを思った。話しを聞いて、ぼそっと言う。「結婚しょうか。」由美子は驚いていたが、少しして小さく言う「お願いします。」由美子は玉川の中に、理想化された女性がいるのを知っている。山本裕子、彼女は非業の死を遂げた。守れなかった後悔が玉川をさいなんでいるのはわかっている。彼の心で裕子は理想の女性になっていったことも知っている。「おれ、由美ちゃんと瑛太郎を大切にする。約束する。」声にしている。裕子は自分の心にいる幻だと自覚した。現実を見ていかなければ生きていけない。傍に寄ってきた瑛太郎を抱き上げる。民子が寄ってきて言った。「それがよか。収まるとこに収まった。」

翌日から忙しい。結婚式は挙げないが、ひっそりと親戚だけの神前誓いをする。瑛太郎を正式に籍に入れた。あとのことを考えて裁判所に申し立て特別養子にする。これで瑛太郎は実父と縁を切れた。これを何気ない日常生活でやって行く。入籍を済ませて、出勤途中、修一の店に寄った。かおりも修一も祝ってくれた。恵子も「おっちゃん、おめでとう。」と言ってくれた。事務室に入ると営業の木下が問題を持ってくる。「貸し切り案件が来ています。」貸し切りとは珍しい。通常貸し切りはしないが大きな会社とか社会事業とかだったらある。どこからだと聞いたら筑豊、北九州の一部筑後に勢力を持つ国州会。現役やくざだ。国州会は昔のやくざではない。利権と深く結びついた組織である。汚職には表に出ないが関係していると言われる。巧妙な恐喝で利権をあさる。国州会と不動興業は、昔は同業者だった。船や鉄道の荷役をする仲仕の人寄せ周旋業者だった。博打やケンカに明け暮れる彼らに、安定した生活をさせたかった不動組と、数を頼んでごり押しや政治と結んだ利権あさり、一般人の襲撃などで金を集める国州会とでは、自然と別れて行った。杉山玄太は国州会の山村とはよく知った仲である。企業としてやっている不動興業を山村は傘下におさめたいとおもっていた。散々ちょっかいをかけてきたが、不動興業がそれに乗らない。不動興業もヤクザではないのかと言われればそこはグレーゾーンがたくさんある。一般的に迷惑はかけていない。ソープは管理売春すれすれだし、管理下にあるスナックやクラブもすれすれだ。その不動興業を国州会は狙ってきた。最初は貸し切り予約というが、幹部の排除乗っ取りと、後に続くことはわかる。断れない。断ればまたどこかのクラブに行くだろう。やくざを受け止めることができるのは、中洲でもクラブ月光しかない。

木下は大口の予約や、芸能人の手配をやっている。クラブには専属の歌手、バンド、がいる。そのほかにショーをやる芸能人を連れてこなければならない。木下は有能な営業だ。彼は一般人としてこの会社に就職する。旅行会社で営業をしていたが、玉川にスカウトされる。スカウトされた場所は剣道場、彼もまた段を取らない剣士であった。目的は護身のためだが、ほんとかどうかはわからない。筋がよかったのかめきめき上達した。菱沼のように族狩りはしない。人当たりがよく、愛妻家だ。夜が遅いのが難だがそのころは、猛烈に働かされた時代“二十四時間働けますか?”のコマーシャルもある。

その木下が国州会の事務所に呼ばれた。まあ、珍しい事ではない。彼らも旅行もすればクラブ、ソープの予約を取ることもある。人の生活があった。国州会の総長は、危ない男だ。部下に一般人の襲撃を命じることもある。部屋に行くと会長の山村の後ろに男がいる。山村が紹介した。「隆一だ。見知っておいてくれ。」隆一と言われた若い男は木下を見て少しばかり頭を下げる。「あんたも、ヤットウの腕は立つらしいな。」「御冗談を、武道には縁が無くて。」と謙遜した。山村は知っていた。玉川のクラブ月光は、腕の立つ黒服がそろっていた。不動興業はソープやスナックなども持つ歓楽産業だ。そこからやくざのミカジメ料は一銭も払われない。ベトナム戦争後国内に入ってくる銃はある。殺傷力のある銃が本格的に登場するのは、ソ連崩壊後トカレフが、入ってきてからだ。やくざは人殺しを極端に嫌っている。銃による死者が出た場合、組同士の抗争になり、手打ちに十年くらいかかる。刃物や素手ならば、ある程度で手打ちをする。

銃は当たってもケガするくらいで、今までやって来ている、殺傷力のある銃が出て、山村のような道に外れた者が出始める。ギャング化である。山村はその銃の威力で金を追及していた。利権の独り占め、ミカジメ料を払わない店にいやがらせ。そして数人が殺された。用件は襲名披露を月光でやりたいとのことだった。山村の配下の石田組の組長が亡くなり、その若頭が組長に就任する。よって山村の配下の組長が、一堂に会し披露目を行うとのことだった。時期は九月の十五日、先代組長の供養と兼ねるものだという。木下は思った。中洲の利権を狙っている。相手はトカレフもって走り回る連中だ。断れない。

廊下に出て、玄関に向かった。「見送りを。」隆一が後ろからついてきた。くるなと思ったら自然とすこし避けていた。肩にごみがと隆一が手を伸ばした。力量を見るための行動だ。冷や汗が出る。

玉川は木下の報告を聞いて、とうとう来たかと思う。木下が石田組と話し合う事になる。翌日玉川は出勤しに中洲大通りを歩き交番の前に来ると、中から牧子が出てくる。

「ちょっと、ミツル、なんば考えちょるとね。」呼び止められた。「あんた暴力団の襲名披露に店貸ちょるとかね。防犯組合のメンバーじゃろうもん。」言われると思った。人前でいっぱい怒鳴られる方がこの場合都合がいい。中洲の交番に引っ張り込まれ、文句の続きを聞いた。若い警官の君島が目を丸くして聞いている。生活安全課の課長もそこには来る。「ううんといえばやくざやなかか。」言葉を濁す。「なんでそんなこと請け負ったんか。」この中洲で、泣く子も黙ると恐れられた玉川を、遠慮なく怒鳴る牧子、課長はまあまあとなだめる。この交番に牧子を縛り付ける課長は、この交番に何かと手助けしている。玉川も牧子に頭が上がらない風をしている。長年中洲交番にいる牧子は、ここの住人から絶対の信頼を得ている。

実は牧子も事情は察していた。不動組は暴力団組織とは言えない。港湾の荷役労働者手配から始まり、そしてすさんだ戦後に寄り添っている。祖父の杉山賢三はそんな男だ。父の玄太は焼け跡で拾われた。祖父は職業柄やくざとかかわらねばならない。自然と彼らから信頼を得ていった。玉川満は中洲が好きだった。ここにはどんな過去があっても受け入れてくれた。小学校中学校そして高校、勉強は優秀だった。小学校の時から剣道をやっていた。県大会には常連だった。母親は小さな飲み屋をしていた。父親の顔は知らないはずになっている。ただ母のところに来る白い背広に黒いシャツのやくざ映画から出たような男が、父親かもしれないと思った。母親がその男に「もう来ないで。満は成績がいい、あなたが邪魔になる時がいつかくるから。」と言っているのを聞いた。母親は満に期待していた。その期待が大きかった分、父親を遠ざけようとしていた。懸命に勉強をして、難関の大学に入った。卒業したとき、これだけ剣道が強いなら、県警から声がかかると思った。どこからも採用されなかった。戸籍に父親はいなかった、母親しか記載されていない戸籍。そして自分が不動組の大幹部杉山玄太の息子と知った。のちに杉山は組長が死ぬと、後を継いで会長になっていた。玉川の母親民子は、やくざの妻になるつもりはなかった。普通の男と恋愛しているつもりだった。三十歳行き遅れと親から言われていた。恋人はいた。真面目そうな男だった。ある日彼が言った。「俺んちに来ないか?」父や母は民子を行き遅れのブスと愚痴った。自分にも惚れてくれる男がいる。ついていった。何も考えてはいなかった。あの頃のおめでたさを自分で殴りたくなる。杉山の家に行った。そこには三人の幼い女の子がいた。愛情にも食事にも飢えていた。三人は縋り付いてきた。実は杉山の妻はやくざの妻に嫌気がさし子供を置いて逃げた。やくざの女房は粗雑に扱われて当たり前、暴力亭主で当たり前、女を作って当たり前、子供を置いていったのは、杉山に愛想尽かしの意思表示だった。飢え死にさせても良かったが、そこまでやれば温厚な親分から破門される。困って民子をだましたのだ。少しまじめな演技をすると、騙された。民子はちょろい女だった。涙もろく娘たちを見捨てられない。家を出ようとすると三人に泣かれた。食事を作って食べさせた。風呂にも長く入っていない。風呂を沸かして入れた。洗濯物がたまっていた。着せる服が無い。洗濯した。見捨てられない。情けが深すぎてそのまま帰れずにいた。杉山は都合のいい女を探して、ひっかけただけだった。その人を見る目は確かだったんだろう。見捨てられない三人の子供に縋りつかれ、お母さんになっていった。そんな民子の両親はやくざの脅しに震え上がった。民子を守る気はなかった。こうしてやくざの女になった。そうこうしていると妊娠した。杉山と話し合い、三人の子供を民子が引き取り育てることを条件に、別居して、飲み屋をやることになった。満が生まれて覚悟ができた。手伝いを母がしに来た。意外だった。陰で組長がしてくれたことを知った。組長は民子の実家に挨拶に行き縁切りをしないように、頭を下げて頼んだ。縁切りはなかった。三人の娘も孫として扱った。百姓女の祖母に娘もなついた。民子の母は夏はゴーヤの味噌煮、冬はぶり大根、カボチャの煮しめ、それ以外できない。それでも感謝した。民子が出て行って一番困ったのは父親だった。飯のおかずが貧弱になった。さみしい食卓が悲しい。子供が成長すると一人で切り盛りした。家にいたときから家事一切と農業をしていたから、へでもないことだった。(たやすい事方言)四人の子供の母親になった。民子は美人ではない。それは何回お見合いしても断られた実績が証明している。杉山の先妻は美人だ。そのせいか三人の先妻の子は美人だ。そして満の顔は母親に似ていたし父親の大きな体を受け継いでいる。中学の時制服が一年で小さくなり、毎年買い替えた。「似らんちゃよかとこが似て。」毎年大きくなる満にため息をついた。

三人の姉は満をかわいがってくれた。民子の親は娘も孫として扱った。五人の家族は暖かい家庭だった。民子のやっている飲み屋はどちらかというと食堂に近かった。酒も飲める食堂だ。やくざの女がやっていると言われないように努めた。繁盛しているほどではないが、生活はできた。満を産んでも民子は入籍を拒んだ。それは父親失格を杉山に突き付けたことでもあった。いない方がましな父親だと。「おりゃあこん子の親だぞ。」杉山は一人仲間外れにされて悲しかった。ブスにはブスの生き方がある。「なんばいいよっとか。」の一言で黙らせた。そんな母だった。玉川の大学の成績は優秀でも無意味だった。就職はなかった。考える選択は一つだった。自分でのし上がるしかない。そして選んだのが中州だった。来るものを拒まない。そこには自由があった。その自由に殺される自由も自殺する自由も含まれていた。剣道は格闘技の中でも、手に竹刀やや木刀を持つだけ最強だった。中洲の黒服には、剣道有段者が多かった。強いものはケンカを売らない。ケンカを売られても、相手をたたき伏せる。それは彼の父親がしていたことだ。暴力は何も生まない。頭で勝負だ。まず手始めにつぶれかけたソープランドに入った。そこは従業員の放漫や、オーナーの経営の無知がたまっていた。玉川はオーナーを無視して経営した。従業員を鍛えなおした。1年もすると立ち直っていった。そして乗っ取った。どうせつぶれるところを立て直してやった俺のもん(物)だ。玉川がしたのは、整理しきちんと帳簿を付ける。稼げる女、稼がない女の選別と接客教育で立ち直った。金は俺の物それが玉川の哲学になった。ソープの立て直しからクラブの立て直し、いろいろ手がけていると、杉山が来て、少々ブラックな金の活用を持ち掛けられた。組員にはそれぞれの収入源がある。ある者は情婦の売春、美人局、金に色はついていない。そしてそれが玉川の専門となった。そんな時、クラブ月光の支配人にならないかと、当時の港湾を取り仕切っていた実業家の島田に言われた。クラブの支配人として経営にかかわって欲しいと頼まれた。宮部アキと会ったとき、島田の持ち駒の一つだとおもった。そして持ち駒として生きるアキに、奇妙な感覚がした。妙に擦れていない。気持ちがまっすぐなのだ。世間ずれしていないし、意外と素直な心があった。引き受けた。月光はいいクラブだった。客筋がいい。これはアキの手腕によるものだ。新人ホステスをアキは教育した。そして淘汰された。ソープや体を売るのを目的のクラブに行く者もいた。洗練されたものもいた。とはいえ最終的には男と女の世界だ。玉川は来るものを拒まない中州が好きだ。アキとは、オーナーと支配人の関係以上出なかった。そしてアキから男を骨抜きにする、女の怖さも勉強した。アキは体で男を骨抜きにした。そのアキを島田はコントロールしていた。彼女は島田に逆らえない。自分の商売のために性接待もさせた。アキには結婚した夫がいた。その男にアキを所帯じみさせないことを強要した。徹底的に紐男に徹する。怖い女がいる。それには手を触れない。アキの妹裕子には心が動いた。彼女を諦めたには、彼女が男殺しだったから。手も握ったこともない、肉体関係もない裕子をただ好きだ。今も心がうずく。どんな行動も理由がある。それを詮索してはいけない。なぜならここは中洲なのだ。玉川はアキからクラブ月光を買った。不動組のブラックな金を、普通の金に換える装置を手にいれた。アキが亡くなった後、アキが気にしていた修一と裕子を気にかけた。表だったらかえって迷惑だ。玉川は裕子に心が動く。本質的には女だが、道具ではない女に恋をした。結婚それはかなわぬ夢だ。今の玉川は、やくざのフロント企業の代表である。裕子を抱きたかった。それはかなわぬことだ。あまりにも多くのものが、彼の肩にかかっていた。

裕子の死に顔を見たとき、小雪ちゃんから怒られた。なんで守ってやらなかった。彼は知っていた。裕子はすでに殺人者だ。救えなかった。

不動組は不動会、不動興業となり、任侠組織不動組は自然消滅している。

不動組の初代は沖仲仕の手配から始まった。やがて箸にも棒にもかからない悪たれを使うようになった。人の世からあぶれる者を何とか人並みに生活できるようにしたかった。背中に不動明王の入れ墨を彫り、やがて不動組と言われた。鬼手仏心がその理念だった。杉山はその悪たれの中でも手の付けられないワルだった。戦災孤児。焼け跡をさまよい不動の親分に拾われた。ケンカは強い。見境なしの狂犬だった。その時きつく言われた。刺青と指を落とすのは絶対禁止。これを約束させられた。そして仕事を覚えた。映画の影響があるまでは任侠道に指詰めはなかった。

妻に出ていかれてどうするか見ていたら、女を拾ってきた。女はお世辞にも美人とは言いかねたが、料理を作る手際の良さと、作り慣れた様子、その味はうまかった。組長は紋付袴で民子の親に会いに行った。親戚から縁を切られるのは、女にはつらいだろう。細やかな手助けがいるときもある。畳に頭をこすりつけ許しを請う組長を見て、民子の親は恐縮した。縁切りはしないと言ってくれた。子供が小さいうちは、なにくれとなく手助けをしてくれた。

杉山に組を任せようと思ったが、単独は心もとない。頭が悪い。はっきり言ってバカだ。頭の中まで筋肉でできていた。子供が出来た。賢い子だった。母親によく似ていた。満が大学を卒業したときこいつに組を任せていいと思った。親分は引退ししばらくして亡くなった。最後の介護は民子がした。杉山は会長となった。不動興業となり、玉川が社長となった。元組員は玉川の会社の社員になった。そして杉山は民子と同居した。戸籍上の夫婦ではないのに、いい夫婦になっていた。箱崎に居を構え、玉川も同居した。大家族となる。三人の姉たちが面倒を見てくれている。二人の姉は結婚して嫁ぎ先にいた。一番上の姉美鈴が夫とともに同居していた。民子は相変わらず強烈な博多弁でまくしたてている。「あんたがろくでなしだったけん、あたしゃ苦労したつじゃろうが。なんばもんくいいよるとね。黙って食べなさいよ。オカズの文句言いなさんな。」大嫌いなニガゴリ(ゴーヤ)の味噌煮が出ると文句を言った。それに対する民子の怒鳴り声が付き物だった。民子はこれが大好きで、飲み屋の酒のつまみの定番だったからか、よく作った。美鈴も大好きだった。母の味だった。杉山玄太にとって贖罪の味だった。玄太は民子の作るしめサバやサバずし、ゴマサバ茶漬けが大好きだった。そしてその好みは、満に遺伝した。よく似た親子だ。満を見ると民子は言った。「ガネ(カニの方言)ん子はガネ、横歩きしかしよらん。」杉山は満に言った。「いいか、いろんなことがあるじゃろう。じゃがのう、絶対に人を殺したらいかん。約束しろ。人殺しは癖になる。殺しても平気になる。任侠道に背くことだ。」それは不動組長との約束でもあった。杉山は残された組員とその家族を満に押し付けた。こっちの気も知らずにのうのうと暮らす父親、その贖罪がゴーヤの味噌煮だけでは物足りない。漏斗を口に突っ込んで、その上からいっぱい押し込んでやりたいと、杉山の顔を見ると思う。博多んもんは横道もん青竹わってヘコにかく、これをやっているのは民子だ。

満は祖父からいろいろのものを相続した。一番の財産は信用だ。そして負の遺産も相続した。それが杉山玄太。母は玄太との結婚はしなかった。満の認知も拒否した。そして玄太の旧悪がばれると、ゴーヤの味噌煮を出した。この料理は民子の得意料理。瑛太郎までご飯に乗せて食べている。ただ一人玄太だけが嫌いだ。贖罪のためしぶしぶ一切れくちにするのが精いっぱい民子の復讐は恐ろしい。玉川は無能な経営者を中州から排除していった。この地にきたくてくる女はいない。目的がある。そして目的をかなえたらこの地を出ていけばいい。それが中洲。この地は去られるためにある。悲しい思い出はここに残していけばいい。

九月十五日に向けて全力で準備をする。その日が国州会の壊滅の日だ。玉川は決心する。木下に助手が必要だ。誰にする。希望を出させる。

菱沼はその日仕事が引けるとバイクで出かける。久しぶりに族狩りをしたい。北九州方面にバイクを走らせる。真夜中、国道沿いのレストランも閉まっている。木下の話を聞いて、あの男が隆一という名だと知る。玉川は有段者だ。有段者が何か起こしたら面倒なことになる。俺がやるしかないか。そう考える。一回見ておくか。山村の自宅兼組本部を見た。帰ろうとバイクの頭を福岡市に向ける。しばらく走っていると後ろからついてくるバイクに気が付いた。ハーレーだ。そっと山道に入る。あんなので山道は無理だ。草むらにバイクを隠しやり過ごした。乗っていたのはあのときのあの男だ。彼は別に菱沼を追ったわけではない。ただ家に帰るのが同じ方向だった。だが彼も見つける。あの男だ。

 店が引けると玉川は由美子をタクシーに乗せる。安全が第一だった。彼らは襲ってくるだろう。少なくとの不動興業の幹部を排除して乗っ取る気だ。まず狙われるは自分だろう。帰りに寄るだご汁屋も寄らなくなった。朝の佐倉の朝ごはんも寄るわけにはいかない。それはその人たちを危険にさらすことだからだ。そして恋に顔を赤らめた恵子も思った。菱沼も無傷でいさせたい。

濡れ衣塚に差し掛かる。そこは狭い公園のようになっている。向こうに男が立っている。大きかった。満といい勝負だ。誰かすぐわかった手には木刀があった。ビユュ空気を切る音がする。近づいた。濡れ衣塚の石の陰に行った。と同時に低い銃声がした。木刀で襲うと見せて銃で撃ち殺そうとする。銃声は小さかった。サプレッサーを使ったのか。ぐんと近づくと2発目が来た。対面するほど近づき、シャツの下から分厚い鉄板出し殴り掛かる。思わずトカレフを落とす。鉄板の攻撃を避けながら、銃を拾おうとする。拾えない。後すざりをしながら逃げた。鉄板の上から弾丸は当たった、それでも衝撃はある。トカレフを拾うと、横を流れる三笠川に投げ込んだ。相手は隆一だ。知事の息子、県警部長より上、こっちが悪者にされないとも限らない。相手にいくつ銃がある。今度は頭を狙ってくる。鉄板をシャツの下に入れ、乱れた服を整え、息を整えると歩き始めた。東公園に入り静かな公園内を歩いていると、段ボールがごそっと動く。その場所にいつもホームレスはいない。引き返して妙見の方を通る。家に帰ると風呂に入り寝ようとしたら、由美子がおきていた。不安そうな顔を見て黙って抱きしめた。不安な女に男がしてやれることをした。いつものように十時におきた。

昼のご飯を食べて家を出る。男は二十四時間働かないといけないのか。身支度をして歩いて中洲に向かう、途中濡れ衣塚のところで菱沼に出会う。昼ご飯を佐倉で食べたようだ。「佐倉は盛りが多いですね。腹いっぱいです。」そりゃあ盛はいいだろう、恵子の少し頬赤らめた顔を想像した。鈍感めが。あの経営者としての頭脳は、一かけらもも女に向いていない。この男警戒心があるのかないのかわからない。一円の為替差益にも神経とがらせ、経営にも厳しい。彼の不動産部門は好調で、このままいけば中州から離れられるかもしれない。お前だって狙われているんだよ。そう言ってやりたいが、意識させるのもどうかと思う。濡れ衣塚の石を指さした。「ここに傷がついているだろう。昨日ここで隆一に襲われた。」菱沼は「怪我無かったですか。」シャツの下から鉄板を出した。へこんだ部分がある。「トカレフを持っていた。そのへこんだ部分に銃弾が当たった。」「良かったすね。トカレフで。模造品は命中率が悪いんで。」「どこ跳んでいくかわからない弾ほど、こわいもんはないよ。」胸じゃなくて頭なら死んでいた。

クラブの前に行くと伊藤がステップを踏みつつ掃除をしている。事務室で木下の報告を受けた。まず助手にウエイターの川島を貰えないかという。これは快諾したがその理由が面白い。行動を見ていたら何となくという。川島は家出少年で今は少年ではないがそのまま月光に居ついてしまった男だ。現在23歳、「彼はね。観察眼がすごいんです。」客の持ち物、靴、着ているもので人を判断しているという。「営業をさせたらいいと思いますよ。」

石田組は昼の1時から夜の12時まで、貸し切り、席は200席、ただ先方が余興を出してくれという。余興は別料金、石田組としては大スター野原誠三を希望していた。「これなら一千万は出してもらわないと。」というと、木下が続ける。「先方は二千万を用意しているそうです。」一緒に聞いていた菱沼は険しい顔をする。木下も感じていた。無事に済むだろうか。玉川と菱沼は排除か弱みを握って抑えるか。木下は営業の前線で感じていた。菱沼は国州会も注目するインテリやくざに見えた。

鶴田隆一は午後5時ごろ佐倉に行った。菱沼が通う店に興味がある。佐倉に入ると定食を頼む。定食が出来上がったころ、娘が帰ってきた。手早く着替えると、エプロンを付けてお膳を運んでくる。いろいろ乗っていた。みそ汁お浸し焼き魚、肉ジャガ漬物ご飯、旨そうだった。娘を見た。ほうと思った。清楚な美人である。ふと菱沼はこの娘が目当てじゃないかと思う。女好きの血が騒ぐ。菱沼に一泡吹かせてやるか。女を口説き落とすのはワクワクした。いい獲物がいる。

四回目に行った時、1時過ぎ少し込み合っている。席に着きお勧めの定食を頼む。戸が開いた。菱沼と玉川が入ってきた。恵子が戸惑ったように店内を見回し、隆一のところに来た。「すみません。お客さま。相席よろしいでしょうか。」頭を下げた。「いいよ。」「ありがとうございます。こちらへどうぞ。」注文を聞き調理場に注文伝票を渡す。

隆一は顔を上げた。目の前に菱沼と、玉川がいる。驚いた。何か言いそうになるのを玉川が口に指をあてて制した。お膳が来る。隆一と菱沼に来る、そのあとに玉川に来る。「おっちゃん、いつものよ。」隆一は恵子が玉川を、おっちゃんと呼ぶのを聞いて驚いた。玉川は隆一と菱沼のお膳を見比べた。肉は、菱沼が多い、野菜のハムは、互角、と見比べているとその視線に隆一が気付く。お膳に何かあるのか。改めて見ると、玉川の少し多めの野菜、白滝が多めの肉じゃが、それらが目につく。菱沼と自分を比べると、若干菱沼に肉が多い、野菜のハムは隠れていたが菱沼が一枚多い。ああそういう事か、合点がいく。菱沼は何も考えずに食べている。女に鈍感な男だと思う。こいつからなら女を奪える。その目線に気が付いた玉川が「おい、ここ何回目だ。」「五回目すよ。」そして一呼吸おいていう。「おっちゃん。」「あん娘には手を出すな。」菱沼は何も気が付かないのか、自分の分を食べて「御馳走さま。」と手を合わせる。隆一が見ると菱沼の膳は小坊主の時の習慣で、皿茶碗は最後のお茶ですすがれきれいだった。「行っとけよ。」玉川が言うと菱沼は立ち上がる。まだ食べている玉川と隆一が残った。恵子が来て膳を下げていく。玉川は隆一に言った。「何が面白くて山村ンとこにいる。」それには答えず、目で恵子を追った。そして言った「俺はいい女が好きなんだ。」「だったら中洲に来い。いっぱいいるぞ。」隆一は代金を支払うと店を出る。思う。菱沼といい、玉川といい何であんなに食事がきれいなのだろう。今から志乃のところに行くか。性欲をぶつける自分専用の抱き人形感覚がある。抵抗もせず黙って抱かれる志乃は、恋愛対象ではない。自分の意志が無いものは、人形なのだ。

 襲名披露のため出てくれる芸能人に交渉するため、木下は東京に行く計画をしている。玉川が来たら相談をする。川島が同行して、仕事を覚えさせるつもりである。彼は若いが、人なれしていて観察眼がある。彼をどう育てるかが、自分の力量と思う。まずはグループ内の相互営業から始めた。クラブの中にはスナックの方が向きそうだとか、枕営業ばかりしているのでいっそソープに行ったらとかいろいろある。特に事務のそろばん計算職が、急にホステスやりたいと言うのもある。他に行かれるよりいいので、グループ内で調整する。

木下がホステスの夕顔の相談に乗ってやってくれという。川島は営業が終わったクラブの薄暗い席で面接した。彼女はホステスをしながら、枕営業をしていた。めぼしい客がいるとホテルで売春をする。表向きには自由恋愛などで店側からどうという事ではない。どうともいえないが、危険なのだ。夕顔はそれをわかっていて、相談と言ってきた。月に五十万は入用だと言う。今はホステスとしての給料が二十五万くらいあとを枕で稼いでいるという。亭主が借金を重ねて首が回らない。それを聞いて町金業者に確かめに行くことになった。翌日、借金がある業者に行くと借用書を確かめる。連帯保証人欄に夕顔の本名楠本麻沙子とある。「これあんたの署名かね。」「これは覚えンなか。」「これのコピーをくれ。会社の顧問弁護士と相談する。」そういう風にして五軒ほどの町金貸しを訪ねた。そうして亭主を呼び出した。店から借金の肩代わりがあるかもしれないと聞くと喜んできた。川島は麻沙子に言う。「自分の借金じゃなかつまで払わんだっちゃよか。亭主に払わせろ。」離婚がどうの、夫婦がどうのとぶつぶつ言っていたが、「お前バカか。」川島の一括にびっくりした。考え直そうとしたが、今まで考えていたこととは違うことに、考えが追い付かない。洗脳されていた。少しずつ洗脳をといていかないと、生活が破綻する。亭主が来た。数人の黒服が取り囲み抑える。町金の用心棒が来た。引き渡す。「この借金は、楠本麻沙子さんとは関係ないから、そちらで解決してくださいよ。」そう言って引き渡した。麻沙子の代わりに署名した女も、店の前で捕まえた。署名した女に借金の返却をさせろと言い、二人を連れて行かせた。彼らには厳しい制裁が待っている。麻沙子にまだソープに行くかと聞いたら、その必要はないと言う。よく考えて必要なら店から紹介すると言うと、泣いて感謝された。借金を全部妻に背負わせて、自分は女と新生活、妻は奴隷としか考えない男が多い。麻沙子も洗脳から解け切っていない。これが営業の仕事かというと違うが、そんなおせっかいも仕事ととらえた。これは簡単に行ったが、もっと複雑なものがある。顧問弁護士に任せることも多い。二十三歳とは思えない手腕だ。

伊藤の相手が決まった。練習場に開店前のフロアを貸してくれというので許可した。翌日早速相手を連れてきた。楽団が練習で演奏していた。伊藤と茉莉子がフロアでジャイブを踊っていた。ドラムがダンスに合わせてくれた。木下が通りかかる。パンチの利いた二人のダンスを見て立ち止まって見ていた。

日々の業務は待ってくれない。方針を話し合う。春吉のソープの売り上げが今一つだった。議題に出た。売却の話も出た。ホテルにとの話も出た。川島が要らぬ一言を言う。「いっそ、女を客にして男に性サービスをさせたら。」菱沼が言う「いいね。で、ソープボーイはお前だな。」傍にいた男たちに合図をすると川島は裸にされた。パンツまで取られてスポンポン。奥から玉川がいう。「お前、要らん一言が多いんだよ。でもホストクラブは考えてもいいかな。」余談だが、この後女性用のソープが出来た。川島がその支配人に充てらえようとしたが、断固拒否した。裸にむかれたときの思いが悪夢だ。男は女性と違って連続で客を取ることはできない。話題にはなった。だが五か月くらいで営業を元のソープに戻した。それでも需要はある。少し残した。若い男を募集したが、長続きはしない。無理もない。若い女の客が来るわけはない。中年ならまだしも、老年まで応対できない。それでもうわさを聞き関東からまで客が来た。有名になることと儲けがあるかは関係ない。採算率が悪かった。ソープボーイは定着しない。

ある日三十代前半の女性が来た。ソープボーイが当時三人いた。そのうち一人を指名、彼女が帰った後でそのソープボーイが辞めると言う。支配人の平松が聞いた。「俺種馬になりたくないです。」話によると彼女は中だしを要求、子供が欲しいと言う。金を貰う以上はとそうしたが、恐ろしくなったと言う。どこで自分の子が生まれるかわからない。話を聞いて全面撤退となった。

ソープの売却は、菱沼が消極的な反対をした。菱沼の不動産部門で売却先を探すことにする。開店からしばらくして曲調が変わる。パンチの利いたジャイブ、出てきたのは伊藤とパートナー、そのパートナーの顔を見て玉川は驚いた。姉美鈴の娘茉莉子だった。激しい曲調が圧倒していた。半分裸のような衣装で踊るジャイブが茉莉子を輝かせていた。木下のところに行き「おい、ありゃなんだ。聞いてない。」木下が答える。「フロアで練習していいって、許可したんでしょう。練習ですよ。」そうしてこの夜は更けていった。どうかした芸人よりうまい。頭の痛いことが増えた。今夜も波乱の営業です。

その夜伊藤に茉莉子と由美子をタクシーで送らせ、玉川と菱沼は二人夜の道を歩いていた。やがて玉川の家に着き別れる。一人になった菱沼は、松原方面に向かっていた。当時は倉庫があったものの、草の生えるさみしい道だ。この辺りは少し前まで藪に潜み、通行人をカモにする連中がいたが今はいない。不動興業の寮が出来てから、自然と無くなった。寮にはそんなのを見つけると、うれしくなる連中が多い。自然と幽霊が出るなどの噂が立ち、夜人通りはなくなる。犬鳴峠も最近行っても誰もいない。ただ幽霊話のようなのが出てくる。寺に引き取られ、小坊主になって、正式の坊主になっても良かったが、でも諦められないことがある。母のことだ。自分にとって母は菩薩の化身である。母の仇を討ちたかった。父にも怒りがある。そいつらを見返してやる。玉川にあずけられたとき、住職が言う。「お前は坊主には向かん。修羅の道を行くものだ。いつか菩薩のお力で人の道に行く。通ってこい修羅の道を。」恵子が好きだ。玉川から無神経と言われるが、とっくに気が付いていた。だが好きとは言えない。玉川がどれだけ恵子をだいじに思っているか知っている。彼女は修羅の道に降り立った菩薩、まぶしい。菱沼はいまだ修行の身である。禁欲な生活だ。女はいっぱいいるが自分の性処理の対象ではない。彼女たちは金を生み出す道具であって、手を付けてはいけない商品だ。

 先方に人影があった。近づいた。隆一だ。かまえる様子はない。「ちょっと話がしたくてな。」近づいてくる。体格差がある。足を踏み込んだ。とっさに後ろにとぶ。「さすがだな。」少し雰囲気が違う。「冗談だよ。話をしょうや。恵子のことな。お前にはもったいない。俺がもらう。いいだろう。」「本人の意思が大事だろう。お前になんかなびくか。」だいたいやり取りできる関係にない。「お前より俺がモテるぞ。」と言ってバイクで去っていった。刀もってやりあう時代ではない。銃で撃たれたらそれまでだ。「バアアカアアー」去っていった方に向かって言ってみた。隆一からの挑戦状だった。自分を好いてくれるだろうか。自信がなかった。

由美子が妊娠した。三十過ぎの高年齢出産という事で夜の事務ができない。家では民子や玄太が喜んでくれた。瑛太郎もお兄ちゃんになることを喜ぶ。由美子はあとの人に引き継ぎが出来てやめることになる。玉川はうれしかった。

その日は二人で佐倉に行く。修一もかおりも祝ってくれた。恵子は学校でいない。ご飯を食べながら由美子は思う。魚の食べ方がきれいなのだ。自分もできるだけきれいに食べるつもりだが満や瑛太郎にかなわない。多分民子の影響なのだろう。民子は市内から少し離れたところの農家の出身、玄太の先妻の子3人の娘を引き取り、満を育てた。肝っ玉の太い女である。どんな教養のある女でも、こういう風に子育てはできないと思う。頼りになる人が家にいてよかったと思う。姉の美鈴も穏やかな人柄で、ご飯の食べ方がきれいだ。顔以外はよく似た家族である。

 出演交渉のため上京していた木下から報告がある。野原誠三がもう引退をすることにしているから2日通しの公演にして、1日は一般人を入れれば、ごまかせるのではと提案があった。席の前売りで稼げる。感謝しかない。木下の交渉力に感謝する。

恵子は高校三年生、将来の志望としては栄養短大に入り病院か学校の栄養士さんになるというものがある。玉川のおっちゃんは、小さい時からそう呼んでいたので違和感がない。なんでおっちゃんなのかわからない。ただ母が少し話してくれたことによると、父の妹が好きで、彼女が亡くなってからも、自分の中にその面影を見ているのだという。高校生になってからは少しわかるようになる。おっちゃんが大好きだ。そのおっちゃんが菱沼を連れてくる。お膳を出すと、きれいな食べ方をする。最後はお茶ですすいで全部飲む。何これと思ってみていた。3回目に来た時、魚は大きい方を、肉はなるたけ多いように皿に盛っていた。そうしていたら、ほんの一瞬だけど目を合わせてくれる。他の人には解からない合図だ。うれしかった。おっちゃんは、恵子が菱沼を好きだと見抜いていたが、菱沼も好きなのには気が付いていない。鈍感だと思われている。恵子の年齢が未成年なのと、自分の思いを出したら、迷惑かける人が多いだろうとの菱沼の配慮だ。そして恵子の親、矢野新一かおりも、恵子が菱沼を好きだと知っている。だが新一は懸念している。恵子を中洲に近づけさせたくない。それは恐れでもある。

修一は妹の裕子を思った。好きでたまらない玉川を諦め、死ぬことを選んだ。その裕子に恵子は似てくる。菱沼が恵子を抱きとめてくれるか。期待はしていた。

県警本部長島田勇作は考えていた。国州会が中洲の利権を狙っている。暴力団抗争が始まるのかとも思う。頂上作戦は数年前から始まっていたが、目立つ成果が無い。彼は玉川満という男を信頼している。彼はキャリアであり玉川と同じ大学の先輩であり、同じ国体で選手として行ったこともある。彼が警察を受けて不合格になった時、当時の県警本部長の岩田に聞いた。なぜと。岩田が答える。「人には持ち分がある。あいつの持ち分は、行きどころのないものを再生させることにある。暴力団なんて壊滅させればそれでいいと思うな。構成員の生きていく場所を見つけて、普通の生活ができるようにするんだ。」それが岩田の言い分だ。岩田が副知事になり、いろいろあったが、自分が本部長になりその意味も分かった。売春しなければ生きていけないものがいる。だから安心して売春できる場所を提供する。恋愛したいが機会がないものが多い。だから疑似恋愛の場所を提供する。ヤクザから足を洗ったものを、真面目になろうがなるまいが玉川は引き受け、箒を持たせ掃除をさせた。暴力に自信があっても、それ以上の強いものが社会のルールに従う姿は、考えさせるものがある。菱沼にしてもそう、玉川のところに来た時、運命は決まった。彼は警察を希望しない。その剣道の腕は、有段者以上のものがある。そして日々腕は上がった。族狩りをやっているらしいのは聞いている。犬鳴峠も土手道も幽霊話にすり替わっている。治安は格段に上がったが、だからどうという話ではない。

危険なところは幽霊話で回避するのは、知恵である。

その日岩田の訪問を受けた。前県警部長、前副知事、そして現在防犯協会会長。一目見ただけでも腹黒さがにじみ出た老人である。と言ってもかくしゃくとしている。

岩田は努力の人である。小さいころから神童と言われた。だが神童でも家が貧しければ宝の持ち腐れ、悶々とした日々を送るしかない。彼はその当時貧乏人の東大と言われた陸軍士官学校を受験合格した。その中で諜報戦の専門家育成に選ばれ、諜報戦に従事する。戦後は警察に入り55歳で県警本部長、その後60歳で副知事となった。副知事は5年ほど前やめた。

人にはこの世でなすべき役割がある。それが持論だ。今は妻も子もいない。妻は数年前に亡くなり、子は十代で自殺した。それが自分の業だと思っている。俺の役目を果たす。それだけが生きがいだ。玉川の思い人だった裕子を犠牲にしたのは、岩田の判断だ。守ろうとしなかった玉川は裕子の気質を知って諦めた。一見殺人鬼の犠牲者だが、その殺人鬼を追い詰め、死に至らしめたのは裕子だ。彼女自身もまた殺人者。そうせざるを得ない動機を、握りつぶしたのは岩田。それを玉川は知らない。墓場まで持っていく秘密である。それ以外にもたくさんの秘密を持ち、墓場に向かう男である。

知事の長男隆一は鶴田が妻郁子と結婚して6か月で生まれる。月足らずと言っていたが、誰の目にもおかしい。郁子は当時権勢を誇っていた大臣の妾で、それを妻として鶴田はめとる。隆一は小さいころから賢かった。高校、大学で剣道をやり、大学卒業した。そのあと引きこもった。次男を次の選挙に出したい。鶴田はこの長男が邪魔だ。母親の郁子は心配する。そして持っていた木刀に血がついていたと岩田に相談した。郁子にとっては隆一も次男の辰夫も同じ息子、心配する。鶴田は岩田に頼む「山の中であいつを叩きのめしてくれる者はいないか。家の中から出られないようにしてほしい。」隆一は腕が立つ。父親の鶴田に嫌がらせをしようとしていた。誰を差し向けたものかと思ったが、一人いる。あいつならと行ってみたが断られる。まともでない家に生まれたまともな男だ。そうこうしているうち暴力団の国州会の客分となり総長の用心棒になる。鶴田は窮地に立たされる。これがマスコミに漏れないとも限らない。

福岡県知事鶴田久は上昇志向の強い男だ。若い時、代議士藤田巌の秘書をした。秘書と言っても小間使いのようなものだ。第一秘書第二秘書とあるなら順位も低い。そんなある日呼ばれる。後援会の女性を紹介される。紹介されても何の進展もない。女性は藤田と特別な関係の女性と知っている。女性郁子は、妊娠していた。お腹の子は勿論藤田の子。藤田は自分のスキャンダルを嫌ったが、自分の子が、非嫡出子で生まれるのも嫌だ。いくつかの条件が提示され、条件を鶴田がのんで、郁子と結婚した。その後県会議員を3期した後、県議会議長、そして県知事になる。国会議員が夢だったが、自分の子に託すしかない。それは、長男ではなかった。自分の息子にこだわった。

藤田は自分の跡を継ぐと決めていた息子を不慮の事故で亡くした。そのあと隆一に会いたいと言ってきた。隆一はその時初めて自分が父の本当の子ではないと知った。そこでいろいろ思い当たる。藤田の屋敷に行って真実を知って、引きこもった。昼間は寝て夜は木刀もってバイクで出かける。気は晴れない。高校大学と、剣道をやっていたのは好きだったからだ。国体に選ばれるようになると注目される。辰夫は武道が好きではない。父の辰夫を見る目はあたたかい。隆一とは冷めた関係だった。父も母もどこかよそよそしく、隆一にとって、隙間風が吹くような家のなかである。温かさを求めるように女に狂う。

藤田は政治家を引退していた。引退政治家としての活動はあったが、ひっそりと娘と暮らしていた。妻に死なれ子に死なれ、春野市の山間にその居宅はある。隆一がそこに行ったのは大学四年の夏だ。静かな空気の澄んだ屋敷である。藤田の娘が出迎えてくれる。隆一の顔を見るとはっとしていた。庭にいる藤田にあう。藤田もはっとしていた。その年齢にしては大柄な男だ。元華族藤田家の当主である。彼は戦後の混乱期に、没落することなく財産を築き国会議員になる。彼の財産は広大な山林、九州の大山林主。今は山林で収益は上がらないが戦後は大きい金になった。その資金をバックに、政界で頭角を上げる。老齢の今は静かに余生を送るのみ。隆一が呼ばれて藤田に会うと藤田は驚愕する。亡くなった長男にそっくりだ。まさに自分が捨てたものの大きさを知る。隆一は若い頃の自分にそっくりでもある。

昭和九年華族男爵藤田巌は結婚する、妻の湯島桜子は華族湯島子爵の娘、その嫁入り道具に妾が入っていた。妾は妻の代わりにいつもいた。妻が弱り年を取ったころ藤田が六十歳のころ郁子が妾になった。巌は女なしでは眠れない男だった。隆一も同じで、女なしでは眠れないのを感じた。同類だ。御しやすい。

郁子は藤田の妾になったのは十六歳だった。春吉の芸者置屋にいた。戦争が終わり進駐軍が来て女の需要は高かった。郁子は満州から引き揚げた家族から買われた。その家族は行く当てなくさまよう中、郁子を芸者置屋に売った。置屋の主人は養女という形で買った。いくつかの買い手はあった。初潮が来て娼妓として店に出されようとしたとき、藤田から妾にいい少女をさがしていると言われた。郁子を見せた。気に入った。買ったときの十倍ほどで売れた。置屋は儲けた。そのまま春野市の居宅に連れていかれ、毎晩藤山の抱き人形となった。まだ体の成熟が遅かったのか、妊娠はなかなかしなかった。主の巌には旦那様、息子の崇には崇様、妻の桜子には奥様、文子には文子様と、あくまで主家の人間とは一線を引いていた。数年して身ごもった。跡継ぎとしては崇がいた。男でも女でも余分な子だ。中絶させると言う話もあったが、崇が反対した。鶴田に条件を出して引き取らせた。女なしでは寝られない藤田巌はまた妾を持ったが、ある日逃げた。それ以来抱き人形の妾は持っていない。そういう時代ではなくなっていた。

隆一に会った時、成績優秀、剣道で国体選手、どれをとっても藤田を喜ばせる。つい口を滑らせた。隆一に衝撃を与えた。当然喜ぶと思った。違う。怒りをあらわにする。怒鳴った。藤田は自分の何が悪かったのかわからない。明治の華族の神経が、昭和に通じるわけがない。

その夜、藤田邸に泊まった。藤田文子は志乃を風呂に入れ髪を梳き、長襦袢を着せる。赤い長襦袢と緋色のお腰。藤田の命令で、隆一の寝所に志乃を上げろという。赤い長襦袢、赤いお腰は色街で男が一番興奮する色合わせ。赤いお腰からこぼれる白い肌は、女の体に男をクギズケにする。文子はいつかこの日が来るのがわかっていた。下級貴族の湯島家は子女を金持ち大名に渡して仕送りを受けた。女は売り物なのだ。この時志乃は十八だった。藤田は志乃を使って隆一を、藤田邸に帰ってこさせたいだけ。志乃の人生など取るに足りないものだ。薄く化粧をすると、ハッとする美しさがある。湯島家は美人筋と言われている。残念なことに桜子と文子は外れた。美人かそうでないかは、ほんの少しの体の部位の、位置関係で決まるのが大半だ。志乃は違った。正統な湯島家の美人筋を持っていた。言い聞かせるように言う。「よかかね志乃ちゃん。男はやさしゅうも獣にもなる。優しい男に抱かれるのがいいでしょう。すがりつきなさい。その腕の中で抱きしめてもらいなさい。」志乃は男を骨抜きにできる。傾国の美女になれる。湯島家には、そういう話はたくさんあった。志乃には、隆一を釣る餌になってもらわねばならない。「女の通る道よ。覚悟を決めなさい。」赤いバスタオルを持たせた。

初めての男体験、からだが震える。寝床に行くと隆一は風呂に入って寝ていた。布団の中に入ると、起きてしまった。静かに文子が部屋を出る。隆一はどういうことかわからなかった。赤い長襦袢が本能を刺激する。彼は女性が初めてではない。大学時代は何人もの女性との付き合いはあった。女なしでは過ごせない。肉体関係は数えきれないほどある。藤田の女好きが、遺伝したのかもしれない。この布団に入ってきた女性は、まだ十代と思う。細かく震えていた。抱いた。体をまさぐるうちにその気になった。女がすがるように抱きついた。それが勘違いをさせる。なあんだ、コールガールか。経験豊富に思えた、ウウと声を上げそうになるのを、襦袢の袖で口を押える。入れたとき小さく悲鳴を上げる。足の間から血が流れている。コールガールではない。違う処女。だから何という気持ちだった。初対面で体の関係を持つ女だ。女はいたみで苦痛の顔をした。こういう場面には慣れていない。苦痛の顔を見て少し罪悪感が出たが、性欲が勝った。そばにあった赤いバスタオルを腰の下に充てて自分の欲望のままに蹂躙する。血はバスタオルの色で気が付かない。終わると女は立ち上がろうとする。赤い長襦袢が白い肌にかかる。興奮した。また引き倒して上に乗る。長いふっさりとしたまつげを開けて、隆一を見た。出て行こうとすると引き倒した。しばらくすると女が眠ったように見えた。観念して目をつむっただけだった。朝の光で見るとまぶしい程若く美しい女だ。その女が自分の腕の中にいた。起きて風呂に行き身支度を整えた。その間に布団はかたつけられ、女はいなくなる。

朝食で藤田と顔を合わせる。女を話題に出すのも自分からは言い出せない。文子に礼を言って帰ろうとすると、藤田が言う。「あれは志乃ちゆう。抱きたかったらまた来い。抱かせちゃるけん。」品物のように言う。以来藤田邸に足は向かない。志乃は釣る餌としては、不合格なのかと藤田は思い始めた。

自分のやり場のない怒りで、狩りに行く、隆一の百八十五センチの体から出てくる木刀は、受けきれるものではなく、待ち伏せしていた族はひとたまりもない。けが人が出たが表立って訴えるものはなく、その夜も隆一は家をでる。

鶴田郁子は夜になるといつも胸騒ぎがする。夫は自分の名誉が関係なければ、隆一のことを知らん顔する。辰夫が来ていた。今年の秋に結婚する。相手は大学の同級生、久は国会議員になるのを望んでいる。辰夫は望んでいない。辰夫は兄の秘密を知らない。兄の行動は反抗期の拗らせぐらいに思っている。

辰夫は穏やかな男だ。大学を出て通産省に入る。キャリアに受かったが、父親と父親の昔の上司、藤田元大臣の力が大きい。そんな彼に縁談がある。現職国会議員の娘との縁談を持ってきたが断る。そして同級生との結婚を選んだ。早すぎると父は反対する。あきらめきれず画策している。彼はわからない。兄はスポーツ万能、学校の時の成績はいつも優秀、だがなぜか父親は、自分に期待している。兄が大学を出て、家に引きこもった原因もわからない。ただ福岡に帰った時は、なるべく兄に会うようにしていた。昔の頼りがいのある兄に戻って欲しい。

 山村は隆一を拾いもんしたと思っている。夜道で国州会の若いものが襲われた。というか襲っているところを襲われた。木刀一本でなぎ倒された。しかし彼らには武器がある。このころ安く手に入っていたトカレフだ。最後の一人を殴り倒したと思ったら、頭の後ろに銃口を突き付けられ、総長警護要員の一人がそこにいる。いつもは持っていても、役に立つとは思わないトカレフだ。引っ張って総長のところに連れて行く。総長は彼が何者かわかった。知事のバカ息子。良い持ち駒が手に入ったと思う。客分として扱う。隆一は気分がよかった。総長は隆一に寄り添うように話しかけてくる。ヤクザが仲間を集めるときの常とう手段である。それにコロッと取り込まれる。隆一の中に実父への大きな不信感と、育ての父が自分を持ち駒としか見ていない冷たさに、捨て鉢になっていた。さすがに家庭内のことは言わないが、山村には大きな家族の負担が、彼にかかっているのがわかる。トカレフを一つ渡して玉川を襲わせてみる。負けてきた。トカレフまで失って。とんだ見掛け倒し、でもない。確かに彼はケンカ慣れしていた。総長にもわからなかったのは、彼を捨て鉢にさせる原因が謎でわからない。

八月に入ると頂上作戦を厳しく実施する。組のトップに対しての締め付けが始まる。各店に暴力団お断りのステッカーが貼られた。クラブ月光では石田組と話し合う。代紋を外して客としてなら受け入れると交渉する。当日は大物俳優野原誠三。見てみたいのはやくざも同じ。福岡公演の2日目である。当日券としてボックス100席分売ることになる。お客様としてマイクを渡す時間が10分ほど確保することになった。石田組としてもいらぬまさつは避けたかった。カッターナイフを持っていても不法所持といったやくざ顔負けの因縁つけられたら、日の丸代紋の組織に勝てるわけはない。そして石田組の組長が逮捕される。事実上石田組は解散した。

隆一は8月に入って佐倉に行く。店の雰囲気が違う。調理場に知らない男がいる。かおりがいなかったら、店を間違えたと思うだろう。注文取りに来たのは、おばちゃんだった。かおりが言う。夏休み休暇で春野市の休暇村に行っているという。料理人は有名な春吉割烹の板前の一人で、「主人の後輩なんよ。」かおりはさらりと言ったが、隆一には佐倉がなぜうまかったのか、ガテンがいく。かおりが出来上がったお膳に、肉を一枚余分に入れてくれるのが見える。以前玉川と話し込んでいたので、仲がいいと誤解したらしい。ここは何かほっとする。かおりがパンフレットを持ってくる。春野市の休暇村とあった。「ここね。以前中洲のクラブをやっていた人がやっているよ。」おばちゃんが言った。「中洲の小雪ちゃんよ。かなり有名人だったから、今でも覚えている人がおるとじゃない。」パンフレットを見ると居酒屋とコテージが数棟、小さな店と近くに、ヤマメの養魚場と釣り堀がある。そして昔オカマと思しき、男おばさんがいた。

「玉川さん一家も今行っているよ。」「菱沼も?」思わず聞いた。菱沼は今大きな事業をやっていて忙しいという。女を一人にしたら奪うチャンス。お膳をなるべくきれいに食べたつもりだ。菱沼を悔し泣きさせてやる。いたずら心に火が付いた。

春野市は実父藤田がいる。休暇村はそこから谷を二つ挟んだ地区だ。行こうか。そう思った。ハーレーに乗った。バイクを走らせ山道に差し掛かる。道のわきから鳥が出てきた。バイクの前を走る。おいこら轢くぞと思うが、車体とすれすれの前を行く。スピードを上げると同じくスピードを上げる。狭いくねくね道を通り過ぎると視界が開ける。パンフレットと同じ景色がある。前にいた鳥はすごいスピードでまっすぐ進んで藪に消える。居酒屋風車はそのまま中洲でも通用しそうな内装だ。フロアがある、カウンターがある。洒落たテーブルと椅子がある。元オカマと思しき亭主が応対してくれる。宿舎を取った。コテージは家族用だから民宿にしたらと言われそうする。少し離れたところに民宿がある。以前は老夫婦がやっていたが、今は若い夫婦がやっているという。そこに泊まることにした。朝飯はついているが、昼夜は風車で食べるらしい。民宿に行くと、若い夫婦が出迎えてくれた、亭主は三十半ばの男だった。「ここのマスターの宮部と申します。」丁寧に頭を下げる。他に数人泊まっているらしい。「みんな渓流釣りと砂金ほりに、行っています。」「砂金ほり??」聞き返す。

「ここは昔金山があって、川にも砂金が出ます。今金山が再開して、夜の風車は楽しいですよ。」露天風呂に入り着替えの宿の甚平を着る。風車に行くと大きなイノシシが炉にかかっていた。回しながら豪快な焼肉をたのしむ。そばで肉を男が切り分けている。皿をもっていくと薄くはぐようにして肉を切り、皿に入れてソースをかけてくれる。ご飯は釜から直接自分でよそうらしい。飲んでいる者もいるし食べている者もいる。こんがりと焼けたヤマメの塩焼きが食欲をそそった。そばにいた労働者風の男が言う。「今のイノシシはヒラクチ(マムシ)を、食べているからうまいんじゃ。」蛇をいっぱい食べたイノシシかよ。皿の肉が蛇に見えた。食べたらうまい。牛肉とも豚肉とも違う肉だった。うまい。ヒラクチが気になる。

アルコールは飲まないが場所の雰囲気に酔う。夜の雰囲気が出て座が盛り上がったころ、フロアから人が引いた。ショータイムだ。ジャイブの強烈なリズムに乗って現れたのは茉莉子と伊藤。迫力ある踊りを見せていたが何かが足りない。伊藤の背丈が足りない。茉莉子は百七十センチくらい。伊藤は百七十?センチハイヒールを履いた女性は大きくなる。伊藤にたくましさが今一つなのだ。ひととりおり見てパターンはわかった。そばに行って伊藤の肩をたたく。茉莉子の手を取る。宿の草履でステップを踏む。大柄な隆一が相手で引き回すと見栄えが全然違う。二曲ほど踊り席に着いた。小雪ちゃんがやってきて「あんたすごいね。ダンスやっちょるとね。」「うんにや。しばらくやっていなかった。ばってんやってみた。」自然に方言が出る。少し見回すと玉川がいる。恵子と新一もいる。みんな和やかに食事をしている。伊藤がやってきた。不満そうに「茉莉子ちゃんは玉川さんの姪なんですよ。僕、負けませんから。」精一杯の宣戦布告だ。「もう少し背を伸ばしてから言え、女に振り回されてるじゃんか。」玉川が寄ってくる。「一人で来たんか。」「一緒に来たい人が先に来ていたので。」と目で恵子を見る。「変な真似したら俺が承知せんぞ。」と言う。

翌日玉川は帰った。昼に風車に行くと、伊藤がフロアでステップを踏んでいる。その横に小雪ちゃん。小雪ちゃんはプロともいえる腕前、できるだけ大きく見せる工夫をアドバイスしている。ふうんと思ってみていると昼ご飯を出してくれたおばちゃんが、ビデオ再生機に一本のビデオを入れる。再生されると小雪ちゃんと女性が映っている。タンゴであるが女性はモンペ。上手だったがなぜこれと思う。昨夜玉川と話していたかららしい。小雪ちゃんが言う。「その女はね。玉川が死ぬほど好きだった女よ。死ぬほど好きだったのに、自分で守らないから死んでしまった。男だったら自分の女は自分で守らないと。」そう言ってビデオを消す。その女は恵子に似ていた。あのオニオコゼみたいな玉川にロマンスがあるのが不思議でたまらない。嘘だろう。

帰り道、藤田邸に寄る。門前で表札を見ていると異母姉文子が出てきて中に入れてくれた。「俺のコツどげんおもうとるとかね。」姉は言う。「かわいい弟と思うちょる。それ以外なか。」部屋にいると女がお茶を持ってくる。「私のいとこの子の志乃ちゃんよ。知っているでしょう。」女はぺこりと頭を下げる。あの夜の女だ。「おい。一発やるか。」志乃に言う。恐れるような目をした。泊まるというと文子が準備をした。この前の部屋に布団が敷かれた。文子が言う「あの子麻酔が効かない体質で。」だから何。「もし中絶などという事になると、麻酔なしという事になって苦しむよ。」「俺以外の誰かに同じことをさせているのか?」「それはない。」「ほんなら問題なかろうもん。俺の子なら産ませりゃよか。」出産を彼は簡単に考えていた。

志乃がその部屋に来た。赤い襦袢に赤い腰巻、昔の妓楼のような雰囲気である。すべてをはぎ取り明かりの下でまじまじと見た。素裸をさらされて、顔をそむけた。欲望がそのまま出た。何度も上に乗った。俺の子を孕めばいい。一番妊娠させる体位を取らせる。吸い付くような肌の感触が心地よく、膣の蠕動が男を吸い込んだ。子宮口を感じて一気に射精する。足を開かせ性器を確かめる。姿勢を変えさせ娼婦のように扱った。溜まっていた男の欲望を朝まで出し続けた。その白い肌を見てむらむらとした。その肌に自分のしるしを刻みたい。そんな欲求が出てくる。肩を口に入れた。ただ歯型をつけるつもりだ。少し力を入れて噛む。短く悲鳴を上げた。赤く歯形が付いた。 朝、藤田に会う。朝食後のコーヒーを飲みながら言う。「志乃を貰えるなら何でもするよ。俺の嫁だろう。」「違うな。妾だ。正式の嫁はいい家からもらう。情けをかけるな。情を抜け。愛なんて幻だ。妊娠するようにしてきたか。逃げられないように孕ませろ。」藤田は志乃を、人間の内に入れていなかった。自分の母もそうなのか。「俺以外の誰かに抱かせよつとか。」「そげんしてもよかつか。今んとこないが必要ならそうする。」「志乃は俺のもんだ。他の奴に抱かせてみろ。そいつ殺してやる。」「だったら見張っておくんだな。また来いよ。歯形が消えないうちに。」志乃の体を検分したのだ。「歯形が消えたらほかん男にあてがうかもしれん。ええんか。あん身体はお前のもんじゃなか。おれの一存でどうにでもなる。欲しかったらここに帰ってこい。」隆一の女好きを見透かされていた。

志乃は散々もてあそばれた。心が傷ついた。というよりズタズタだった。夜具を片付け文子のところに戻ると、藤田がいた。長襦袢を脱がせ、体の検分をした。腰巻をすることも許されず丸裸で、品物のように扱う。足の間に手を入れ匂いを嗅いだ。肩の歯形に気が付くと、にやりとした。食いついた。隆一は帰ってくる。それを黙って文子は見ていた。

志乃の父は湯島家の当主だが、一文無し。戦前満州国に行った祖父は全財産を満州国に投資した。果樹園、機械化農場、それらを入れる麻袋。満州国は無人の地ではない。人がいて耕していた土地があった。それらを日本は支配した。ソ連の参戦で帰国しても、財産はなかった。元々公家出身で財産は少ないのに、無くなってしまった。志乃の父勇は困窮し藤田に援助を懇願した。当時文子がいくと骨壺と志乃がぽつりとバラックに取り残されていた。志乃と骨壺を連れて帰ってくる。連れてきた志乃を、藤田はじっと見つめていた。まだ小学校にも上がっていないボロボロ服の少女を、値踏みしていた。一応女だ。年頃になったら色気も出るだろう。使い道はある。風呂に入れ、それなりの服を着せた。育てたが、愛情を注ぐことはなかった。あくまで情を抜く扱いだ。よくよく見れば美貌なのに、それを覆い隠す陰気さと、笑顔のなさが、逃回る影猫を思わせた。教室の中でも陰気にうつむく、誰からも気にも留められなかった。学校の先生も志乃の状況はわかっていたが、藤田という権力者の前に、何も言えなかった。中学を出たころ大山一家が来た。信二や友香は、すでに家から出ていた。たまに大山夫妻のところに帰ってきて、志乃にお土産をくれた。友香は看護婦で、志乃に女の子らしい服を、買ってきてくれることもあった。金は持たせてもらえず、ただ学校と家の往復。中学を出たとき、高校は行かせてもらえないことになっていた。文子が必死で頼んでくれた。どうにか高校を出ると、就職も進学もできず飼い殺しの日々、その中で信二や友香がお土産をくれたり、話をしてくれるのが救いで、帰ってくるのを待ちわびた。

そしてある日娼婦が売りに出されるように、男の前に出された。愛撫は恐怖で緊張した。入れられると体が反応した。蠕動と吸い付くような感覚を男に与え、心地よくさせた。自分も性の喜びを感じたのを知られたくなかった。目と表情で読まれた。朝、床を去ると、藤田が体を検分した。家畜のように性器をいじられた。そして餌の役割をしたと認められた。

九月十四日中州は大騒ぎだった。今日は大スターの野原誠二の引退前興行一日目、前売りがほとんどだが、それでも人が引きも切らない、声も立つ、歌も立つ、トークもうまい。任侠映画で鳴らした男は、男たちの永遠のスターである。

最後のトークで野原は思いがけないことを言う。「戦後ここいらは焼け野原でした。私は中学生、焼け跡をさまよっていると、杉田さんという方に拾われました。それから映画会社のニューフェイスとこれまでやって参りました。」と切々と訴える。「人のためになる人生を歩めとの教え、今も身にしみております。」淡々切々、そのトークにもらい泣きの男たち。

大盛況である。二日目は満員、襲名披露は流れてしまう。階段、通路までびっしり、客に感動を与えた二日間は過ぎていく。

翌日、野原を空港まで送った時「まともになったやくざを、まともに生活できるようにしてくれ。玉川さん、あんたの爺さんだったらそういう。」はいというほかない。これから大勢出てくるだろう。

警察の頂上作戦は浸透し始めている。警察の本気度が試されていた。とともに不思議な現象が起きてきた。ヤクザがいなくなると不良少年がグループを作り始めて厄介だった。トカレフは、誰が持っているかわからない、そんな時代になっている。

山村は自分の逮捕が近い事を感じている。配下の組が一つずつつぶされる。ヤクザにも滅びの美学はある。ある男を呼んだ。大山信二である。

信二は山村の息子という事に国州会ではなっている。自衛隊レンジャーにいる現役自衛官である。

ある日山村は山村を訪ねてきた青年に会う。退屈していた日だった。青年は玄関で山村に面会したいと言う。そのまま通すわけにはいかず用件を聞くと、山村は自分の父親かもしれないという。用件を聞いてふうんと思った。そのころ山村はヤクザの抗争事件で有名になっている。相手は自衛隊員だという。所属を聞くと習志野降下隊と。誰もが知る体力エリート。面白い。会ってみようか。会うと、どこかで見た顔である。青年は自分の母の名は菊代、やくざと結婚していたことがある。亭主のところから逃げて自分を産んだが、産後の肥立ちが悪くなくなった。周りに話していたことは、この子の父親は名のあるやくざだという。

情報としたらそこまで、彼女の身元もはっきりせず、養護施設から、里親に預けられ育つ。この里親が自衛隊員で彼も自衛隊に入ったという。顔はあいつにそっくりだった。体格も、脳みそが筋肉でできているようなところも。大柄だ。この男は役に立つ。自分に覚えがある、と答えた。多分俺の子だよ。よく会いに来てくれたな。はらはらと涙まで出した。そのまま信二は信じる。山村はわかっていた。彼が誰の子か。杉山玄太、不動会の会長で今はやくざの組織とみなされていない。不動興業社長玉川満の父である。杉山の先妻は逃げたが腹に子がいた。山村は信二をだいじにして仲間に取り込む。銃の扱いもケンカもこれに勝る子分はいない。その後実父のふりをして信二に接していく。米軍との合同訓練のためよく九州には来た。日出生台で訓練があった時は会いに行った。米兵と英語でしゃべっている。それを見て頼もしさと自分もこんな子がいたらと思う。山村は子供がいる。ここまで体力のある子はいない。配下にもいない。これが本当の自分の子なら今すぐにでも跡継ぎにしたい。そんな気がする。屈強な肉体と優しさが山村をこのまま我が子にしたいと思わせた。

山村から呼び出しがあった翌日、信二は山村に会う。たとえどんなヤクザでも日の丸代紋が一番強い。数丁のトカレフを見せた。手に取ってしばらく見ていたが、言う。「全部C国製の模造品、下手に弾を詰めて発射をすると、筒身破裂で手はなくなる。」手慣れた様子で分解をし始めた。良いとこばかり取って組みなおす。八丁の銃が三丁になった。それでも筒身破裂の可能性はあるという。弾を慎重に十二発選んだ。「銃も弾もこれくらいしか使えない。使うと危険だよ。」

周りにいた手下はびっくりしてみていた。こいつ次期総長になるのか。若頭の武田は目を見張って彼を見つめた。実子のように扱うが、実子ではないと知らされていた。彼の実父は杉山だとも知っていた。しかし一般の組員は知らない。

その日の夜中、玉川が歩いて家に帰っていた。濡れ衣塚は歩道上に公園がある。少し広くなっている。そのせいかちょうどいい待ち伏せスポット。誰か襲ってくるならここだろう。そう思いながら歩いていると黒い影が出た。「玉川ちゃお前か?」背が高い。満と同じくらいある。よく見ると何か似ている。「おりゃ、大山信二ち言う。国州会の山村の息子じゃ。」そう名乗ったが違和感がある。「山村にいっちょん似とらんじゃんか。」「俺もそう思う。おやじがあんたに顔つぶされたち、はらけえちょる。お手柔らかに頼むな。」体からみなぎる殺気、少し近ずづいてきた。いきなり素早いパンチを出してくる。並の速さじゃない。スーーと避けた。後ろから菱沼が来た。それを見るとわきに止めたバイクのエンジンをかけ去っていった。後ろから来た菱沼は異常を見て走った。玉川に追いつくと「誰なんですか。」「山村ン息子らしか。似とらん親子じゃんか。」すこしかんがえて、「あんたには似ていたよ。体の形がそっくりだ。」

バイクに乗ると養親がいる春野市を目指す。実家の大山家は春野市の山間に有る。景色がいい。景色がいいところはおおむね生活が出来ないか貧しい。信二の養父登は、自衛隊を退官して藤田元大臣の屋敷の一角に住み、警備とか庭の手入れとかをしていた。妻の千恵子は、家政婦補助のようなことをしていた。以前は福岡市の自衛隊官舎にいたが退官してここに移った。もう一人、娘友香がいる。友香もまた施設からの養子だった。今は博多で看護婦をして、看護婦寮にいる。信二が帰ってくると、登と妻の千恵子は喜んだ。言わなければならない。実父にあったことを。夕食のあとノンアルビールで乾杯、実は信二も登もアルコールはからっきしダメで乾杯はいつもノンアル、千恵子はウワバミで同じ色のウイスキーで乾杯した。信二は山村とあったことを登に話す。自分の実父は国州会総長山村だったと話す。登はビールがのどに詰まりそうになる。「なして山村が、お前のとうちゃんなんだ。」「なんでって、俺の父ちゃん知りませんかと言って聞いたら、自分だと答えたからだよ。」「おい、あれもってこい。」千恵子が何かを取りに行く。一通の書類を持ってきた。「なんで俺たちに聞かなかった。お前の実父は不動会の会長杉山玄太だよ。」だって答えてくれないと思ったから、などとうじうじ言っていたら、「お前はいつも考えない。だから脳筋男と言われるんだ。」話によると信二を引き取ってしばらくして、不動組の組長が、会いたいと言ってくる。会いに行くと子供は息子玄太の子で、菊代は内縁の妻だという。子供にとっていい環境ならばそのまま育ててほしいと頭を下げる。養育費を封筒に入れて渡してきたが断る。自分の子にすると決心した以上、自分の子と言い切る。会うのをそちらが希望しても、子供の将来のため遠慮して頂きたい。登が頭を下げ頼む。解かったと返事がありそれきり絶縁となる。信二はそれを聞きわからなくなった。山村が自分は父親だと言った。それを言うと「ばかたれが、お前ぐらい腕が立つなら、やくざは手下にほしかろうもん。ばっか、騙されたったい。」今は警察とやりあっていて、頂上作戦で山村は逮捕寸前だという。ああという声とともに心が壊れた。そうだったんかい。「俺のおやじは生きとるんかい。」「生きとるよ。このまえお前の姉美鈴さんから連絡が来た。会いたいと。俺はよかち思う。」「おれ、玉川満ちゆう中洲のクラブ支配人をぼこぼこにしてこいち言われた。なんでも山村総長のめんぼくを、まるつぶしにしたとか。」「あのなあ、玉川満ち言ぅんは、お前ん弟たい。えろう腕が立つときいちょる。」頭の悪い信二も何となくわかった気がした。「おれ、自衛隊やめたがよかつかな。」「ほかに何する」「わからん。」「お前は自衛隊で任務を果たす。それが天命じゃ。迷うな。」信二を説得した。後日会う設定をしたら知らせると、約束して帰す。習志野から、大型のバイクに乗ってやってきている。高速道路に乗ると一路習志野を目指す。次に帰ってくるときは、日米合同訓練の後だ。途中のサービスエリアで、アメリカ兵と思しきライダーに出あう。自衛隊では米軍との合同訓練は英語が主流となる。言葉が通じなくて困っていたので通訳をする。頭がいいのか悪いのかわからない不思議な男である。

その後ろから隆一が一路福岡市に向かっている。自分のためにいきる。自分はこれからどの役割を果たすべきか、見つけたいと思う。さっきまで抱いていた志乃の肌がまた恋しい。ただの抱き人形のはずだ。なぜ恋しい。

由美子のお腹は大きくなる。満は瑛太郎に言った。「父ちゃんに何かあったら母ちゃんとおなかの赤ちゃんを頼むよ。守ってくれよ。」瑛太郎は真剣な顔で言う。「大丈夫、おれ絶対守るから。」小さなお兄ちゃんがいた。

山村はたくらみが失敗したことを知った。当たり前だろう。ここまで騙しおおせたのが不思議なくらい。すこし残念で気落ちした。

大山信二は自分の父親が杉山と知る。知ったが杉山に対しては、何の感情もない。無力なものを、死ぬまで追い詰めた男である。今度帰ってくるときは姉や弟に会ってみたい。そういえば玉川にはもう会っている。中洲のクラブの経営者だ。そしてそこの黒服は暴力団並みに腕が立つ。

山村は信二だけを差し向けたのではない。信二に玉川を襲うことを依頼した後、一人の男が呼ばれる。三丁の拳銃がある。トカレフだ。その傍に弾丸12発、ただこの弾丸は信頼性が今一つ。持ち帰ると作業に入る。トカレフだがC国製の模造品は信用できない。下手したら銃内部で破裂の危険がある。慎重に分解し、部品を点検、やがて一つの銃が出来る。弾は慎重に選び、弾倉装填した。薬室に一発入れた。9発が合格の弾だ。あとは運だけがたよりとなる。山瀬良太は銃を手にしてにんまりとした。拳銃マニアでいままでいくつもの銃を手にした。このトカレフは俺の傑作だ。

玉川は一人三笠川沿いの道を歩いている。家族に心配はかけたくなかったが、自分が標的になることで、他のものに被害がいくのを防ぎたい。濡れ衣塚が見えてくる。黒い服を着た男が待っていた。山瀬良太がトカレフとともに現れた。とっさに碑を盾にして身をかがめる。何も言わずに撃つ。体は大きくない。すばしっこくもない。ただ狙いすまして撃ってきた。発射音が4回を数えたとき、犯人の後ろから静かに犯人をけり倒した影がいる。銃を蹴り飛ばし、倒れたその胸に乗り飛び跳ねる。華麗なダンスを決めるように、彼の、のどと言わず顔と言わず、踏みつける。伊藤だった。近くの人が警察に通報したのか、パトカーが来た。玉川は脇腹を撃たれて瀕死。おびただしい血が流れている。胸に分厚い鉄板を入れていたが、脇腹にはなかった。救急車で病院に運ばれると手術が始まった。川辺が来て、木下が来て、入れ代わり立ち代わり来ても何もできない。ただ祈るだけ。その二日後山村は逮捕される。頂上作戦のだいたいの目的が達成する。ヤクザの時代は終わったかに見えた。

玉川の傷は急所を外れている。彼の強靭な筋肉が、弾の侵入を阻む。日ごろの鍛錬が彼を救う。山瀬はひどいありさまだった。刑事課長から過剰防衛すれすれだと言われる。ふくれっ面で刑事課長に言い返す「なして守らんじゃったつかね。あんたらのミスじゃろうもん。」

病院でICUから出ると個室になる。担当看護士が来る。「担当の大山友香です。」自己紹介をする。この世の中に三人はそっくりの人がいるらしい。この人兄にそっくりだ。

午後から由美子が来てくれた。由美子が来ない時は民子が来る。瑛太郎が学校帰りに来る。さみしくなる暇はない。そして由美子が出産した。女の子が生まれる。満はうれしい。自分も入院している身、すぐには抱けない。由美子が連れてきてくれるのを待った。

あの時なぜタイミングよく伊藤がいたかというと、茉莉子を家に送って、何となく中洲に引き返していたという。国州会の襲撃が近いのが何となく頭にこびりついて、不安な気持ちが引きかえさせた。

菱沼が中心となり、不動興業を支えてくれている。「おれ、しばらく休みたい。任せてよかかね。」菱沼は社長を引き受けてくれた。もう二十四時間働けますかの時代はなくなりつつあった。菱沼は仕事のやり方の変化を模索した。

話しは少し戻る。

朝晩が老いた体にひびく。藤田はすでに九十に手が届こうとしている。その日弁護士が呼ばれた。長く藤田家の財産管理と顧問をしている。新見弁護士は呼ばれてきた。もう五十過ぎ弁護士としては脂の乗りきった年齢、迷いがこの男にあるのかと思う表情と、威厳がある。藤田巌は男尊女卑の考え方を持っている。彼にとって女は男のためにあると思っている。妻湯島子爵令嬢桜子は輿入れの時妾を伴ってきた。妾はまだ十五歳固いつぼみだ。妾はその時代の習慣のようなもので、上流華族の嫁入り道具の一つとして連れてくる。隆一の母郁子は3人目の妾だ。桜子は二人の子を産み育てる。当然妾も子を産む。男か女かはわからないが、それは跡取りとして長男がいる以上要らない子だ。秘書の鶴田に因果を含めて押し付ける。それなのに、長男が不慮の事故で亡くなる。妻の実家湯島家は戦後に没落、妻の兄は貧困の中で死に、あとに残された孫娘、志乃を引き取る。そして妻もなくなった。残ったのは女ばかり、ふと鶴田に渡した子を思い出した。調べるといい青年になっているらしい。会ってみる。気にいる。実父は自分で郁子は妾だったと話す。立派に成長したから、この藤田家に迎いいれてもいいと話す。隆一は激怒した。訳が分からない。かしこまって感謝をするのが筋だろう。この家に引き寄せるため、志乃をあてがう。気に入ったようだ。うまくいった。

文子は覚悟していた。おそらく自分たちの今後の生活を父は考えていない。父が死ねば自分と志乃はおそらく路頭に迷う。せめて志乃に生活力を付けたい。自分も何もできずに今まで来た。自分の身の回りのことをさせるため、縁談はすべて文子の耳に入る前に断られた。高校までは志乃を行かせられたが、就職も進学もさせてもらえず飼い殺しの日々、自分が教えられる針仕事を教えたが、それだけでは心もとない。市の文化会館であるダンス教室に通わせた。藤田には舞踊と伝えた。再三の説得でやっと許してくれた。志乃には文子の思いが伝わったのだろう。真剣に取り組んだ。これだけが自分の自由への窓と思う。二十歳になった時、成人式に着物を着た。湯島家から文子の母が持ってきた振袖だ。きれいに着付けて化粧して、藤田に見せた。元々湯島家は美人筋と言われて、美男美女がその血筋に出ると言われる。まさにそれだった。普段は地味に家事をしているのに、美しく変身していた。藤田は思う。これなら女好きの隆一を、ここに引き付けられるかもしれない。いままで要らないもののように扱っていたのに、ころっと態度を変えた。文子に志乃の服装に気を配るように、指示する。服装だけでは足りないと文子が言うと、大山登の娘に連絡を取り、看護学校に入ることになった。志乃はうれしかった。一人で暮らすのは物騒なので友香と一緒に暮らすことになった。大学付属の看護学校に入学する。そのころ国家資格を取るため隆一も同じ大学に通っていた。

隆一は菱沼のところに行った。おやじに金を出してもらうのは、けったくそ悪い。仕方がない、クラブ月光に黒服で雇ってもらおうとした。菱沼は面接に来た隆一を呆れてみていた。金を出してくれる親はいる。なによりまだ若い。教育係が伊藤でいいならと採用した。そして掃除の一つからさせた。黒服もウエイターも、出勤したら自分の持ち場の掃除をする。掃除に範囲は全員に割り振りするので小さい。月に一回清掃会社を入れるので、手抜きをしてもわからない。その清掃会社も、ちゃんと不動興業の清掃会社部門、川辺という責任者がいる。不動興業のソープ、スナック、ホテルまで清掃に入っている。これもだんだん需要が増してきて、別会社にする案も出てきていた。菱沼は清掃部門に入れようかとも思ったが、学業との調整がある。クラブ月光は波乱を含んで営業する。

その日は伊藤がフロアでジャイブの練習をしていた。激しいビートの曲が流れる。茉莉子に振り回されまいとする伊藤を相手に踊っていると、飛び入りがある。隆一だった。茉莉子の傍からはじき出されて席に座った。冷静に見ると、大柄な茉莉子に、大柄な隆一は相性がいい。踊り終わると隆一にいう。「今夜踊ってみろ。」

桐谷地区の小雪ちゃんのコテージで静養している玉川は、家族ごと住んでいた。瑛太郎も一緒にいる。転校した小学校は遠いので、スクールバスで通う。それでも全校生徒は三十人そこそこ、小さな学校である。瑛太郎はうれしい。森の小さな学校はおとぎ話の学校だった。クワガタやカブトムシ、鳥のひな、狸やキツネの訪問。瑛太郎はうれしくてたまらない。

家族だけで住むのは結婚以来初めてで、夜は小雪ちゃんの居酒屋、居酒屋に連れて行ってもらうためには、宿題をしないといけない。だんだんとお兄ちゃんに、なっていく。このままここに居つきたいそう考えることが多い。時々かかる電話で、菱沼から怒鳴られる。「いつまで療養しているんですか。もういい加減切り上げて下さいよ。」

秋になって友香と志乃はコテージを借り休暇村にやってくる。

久しぶりの小雪ちゃんとの再会で、志乃は弾んだ。以前ダンス教室で小雪ちゃんからダンスの手ほどきを受けた。久しぶりに小雪ちゃんを相手にジャイブを踊る。そこへもう一組入ってきた。大柄な二人、隆一と茉莉子の二人。そこで小雪ちゃんが伊藤を呼び、自分と代わる。少し離れて二組の様子を見る。志乃の大きさなら、伊藤はのびのびとダンスが出来た。一方隆一茉莉子は豪快なターン、ステップ、で動作の大きさがある。曲が終わると志乃は、お辞儀をして席に戻る。隆一は志乃を見てびっくりした。あの影猫のように陰気で気配を殺すような女が今輝いている。ボーっと見とれていると鬼コーチの伊藤が「もう一度。」と声をかけた。隆一と茉莉子はダンス競技の福岡大会に出る予定だ。不動興業としても協賛金や選手の出場を求められたし、それが会社のCM効果につながる。「せめて三位には、はいってほしいな。」菱沼から発破もかけられ、がんばっている。くたくたになるまで練習すると、相手を恋愛対象には見えない。隆一は伊藤の狙いを知る。チャッカリ一番いいポジションのコーチになっていた。疲れた茉莉子に声をかけ体をふいてやる。茉莉子の目に恋愛の灯がともった。「志乃ちゃん。」隆一が言う。志乃は目を伏せた。小刻みに震えた。隆一の声は志乃の潜在意識が反応する。あらがえない強制力に震える。志乃は、いま大学付属の看護学校に行っているという。それは文子から聞いていた。隆一にも恋愛の灯がともりそうになったが、志乃には、ともらなかった。志乃には秘めた恋があった。

大山信二である。関東から帰ってくると、必ずきれいなものをお土産にくれた。いつしか彼は、厳しい境遇から連れ出してくれる王子様になっている。今度いつ帰ってくると思うと期待と嬉しさがこみあげてくる。その夜、帰ってきた信二と志乃と友香は小雪ちゃんの風車で食事した。友香はわかっていた、志乃は信二が好きだと。その夜信二と志乃はコテージの外にいた。手をつないだ。志乃はうれしかった。信二もまた志乃が好きだ。彼女の環境は知らなかった。ただ養母の千恵子が忠告する。「信二。志乃ちゃんは手が届かない花だよ。あきらめなさい。」

藤田は老獪な政治家だ。身の回りにある者は何でも利用する。志乃の心は関係ない。その体は藤田のものだから。藤田は自分が失ったものを取り返そうとしていた。人の迷惑顧みずに。はた迷惑な老人である。

藤田の長男昭一郎が政界に出てこれからというとき、自動車事故にあう。長い絶望と悲しみの時間がある。妻の実家の湯島家は当主が戦前、満州国に入れ込みすぎて、敗戦と同時にその財力の全部を失った。残ったのは孫娘一人、隆一がここに帰ってこなければ、自分の人生に意味はない。なんとしても隆一をとりもどしたい。老いの妄執だった。

その日は庭に出ていた。昼食を庭に運ばせた。庭の手入れをしていた大山は藤田の様子を見ていた。少し違和感があった。そばによると顔つきが違う。急いで救急車を呼んだ。脳梗塞を起こしていた。処置が早く一命はとりとめたが、何せ高齢、普通なら老人ホームや入院だろうが拒否された。介護人に志乃を望んだ。志乃は藤田屋敷に帰りたくなかった。そこは牢獄、格子に閉ざされて、自分の意志に関係なく閉じ込められる。志乃は消えることにした。外の世界の空気を吸って、志乃に変化が出てきた。選んだのは中洲、スナックに面接に行った。スナックルージュのママの久木原真子は面接で採用した。住む部屋が無いという。不動興業の寮担当の高野に連絡した。高野は寮の空き状況を調べ吉塚の寮に空きがあるのを知らせた。直ちに本籍地照会をしなければならない。若い女の場合未成年者がいるとまずい。児童福祉法に違反する。そうしたら営業停止、大変なことになる。志乃の本籍地は藤田邸、その本籍地をみてはっとした黒服がいる。隆一は本籍地照会係りの伊藤からやっとけよと仕事を擦り付けられた。本籍地照会はホステス採用時に必ずする。泊まるところが無いとのことに急ぐ。隆一は名前と本籍地を見て驚いた。志乃が逃げている。スナックルージュは月光から少し先にある。その先には同じ不動興業のソープがある。店に入ると志乃を捕まえる。その手の中にしっかりと抱え込み、耳元でささやく。「心配しなくていい。悪いようにはしない。何もしないよ。」力が抜ける。隆一の声は志乃にとってあらがえない強制力があった。彼の前では、人形のようになすがままになる。涙がぽろぽろと出た。車に乗せ月隈の鶴田の家につれていく。手の中の志乃は抱き人形ではなかった。自分の意志を持ち始めていた。ただの抱き人形の時は恋愛対象でもなく、ただの所有物、今逃げようとしているのを感じて初めて生きた人間の女だと感じられる。恋愛対象になり始めていた。

週一で家政婦が来るのできれいにしている。座らせるとコーヒーを淹れる。いい香りが広がった。まだ志乃は泣いていた。悲しさがこみあげてくる。声をあげて泣く。コーヒーを渡す。隆一は困った。泣く女を扱いなれていない。なぜ彼女が逃げようとしたのか察しはつく。自由への逃亡しかない。娼婦のように自分にあてがわれた時を思い出した。異常を感じて伊藤が来た。隆一の腕の中にいる女を見て、「志乃ちゃん。」あとは言葉にならなかった。「店のことは俺がする。」そう言って出て行った。泣き疲れてうとうとしながら志乃は抱きついた。そこには信二がいた。首に手を回し、唇を探した。それにこたえて熱い接吻が返ってくる。抱えて寝室に行く。ベッドに置いた。泣いていようが関係ない。服をはぎ取り素裸にした。なるべく深く挿入、やがて女が絶頂に達したのを感じた。膣が蠕動する。深く入れて射精する。女の表情から絶頂に達した感じが伝わる。そのまま女が寝たように感じた。寝てはいない。「信二さん。」ささやくような声で言う。隆一の声にはあらがえない。だったら女の戦い方をする。志乃は文子の言葉を思い出した「男は女を腕に抱えたら優しゆうなる。抱かれて優しゅうなった男に甘えて、女が操る。女の戦い方よ。決して腕力ではかなわないけど、体で勝つのよ。」隆一を信二と思えばいい。目をつむった。その時の志乃は夢を見ていた。信二に抱かれた夢。胸に顔を埋める。男の体を自分の中に引き入れる。その中で蠕動する肌が男をよみがえらせた。男の精気を感じる。何度でもそうした。子宮口の開きが隆一の男を吸い込む。初めて抱き人形ではない女を知った。接吻をした。長いくちづけは隆一の気持を溶かしこむ。「男はやさしゅうなる」文子の言葉は志乃の潜在意識に強く残る。隆一の胸に抱かれて眠った。志乃は信二に抱かれた夢を見ていた。眠ったのを確かめて居間に戻った。さっきの感触を思う。離れてきたばかりなのに志乃が恋しい。水をもって、またベッドに戻った。水を口に含んで口移しで飲ませた。また抱きついてくる。女が真底愛する男にする動作が、隆一の心を揺さぶる。愛しいのだ。限りなく愛しい。女に不自由しない隆一が初めて味わう女だ。抱きつかれ女の体に誘われ、体の反応をする。体の中にいる男が脈打つように精気を吐き出した。志乃は思う。ここにいるのは信二だ。真底惚れた男。放したくはない。縋りつく。隆一には志乃の変化が理解しがたい。肌を寄せる。男は女の中で快楽をむさぼる。何も考えられない。ただ肌を重ねむさぼるように男を抱き込む。顔を覗き込む。まっすぐに隆一の目を見る。嘘ではない。女は自分を愛している。体を抱き愛撫する。気が付くと自分が正気を亡くすほど女の体に没頭している。肌から匂いたつフェロモンが、彼の知性をマヒさせた。油断した。その夕暮れ隆一が志乃を抱いて寝る。志乃がその手の中からそっと出る。かかっている夜着を羽織る。家の外に出た。肌寒い秋の夜が体を冷やす。そしてその夜、志乃は消えた。隆一は探したが思い当たるところは一つしかない。

志乃の境遇を思うとそれが誰か想像はつく。大山信二が思い当たる。自衛隊習志野降下隊。体力エリート。大山さんは脳まで筋肉でできていると言っていた。脳みそで腕立て伏せをする姿が想像できない。文子に連絡した。看護学校の休学、藤田への報告がなされた。隆一と同棲に入ったという。藤田は喜んだ。隆一が餌に食いついた。介護はヘルパーと文子、千恵子がしていく。

菱沼からは説明を求められた。「俺の女が、俺んとこに来ただけですよ。」面倒なことはごめんだという。それでなくても菱沼は一日が二十四時間で足りなくなっていた。早く玉川が復帰してくれることを望んだ。のんびり魚釣りしてるんじゃねえぞ、と心で叫ぶ。経営で力になってくれる者はいたが足りない。不動興業は飛躍的にバブルとともに、伸びていった。

 ダンス大会の日が来た。不動興業から3組出た。一つは隆一茉莉子組。あとの二組はプロのダンサーのスポンサーになる。この日は博多体育館であった。超満員で中洲のみんなが来ていた。杉田、鶴田組とアナウンスがある。プロに負けないくらいの迫力はあったが、三回戦で負けた。スポンサーになっていたダンス組が優勝した。中洲から出した選手が優勝したというのでパレード、大通りの真ん中でのパフォーマンス、隆一も参加した。それが終わった後で今日も波乱の営業が始まる。

少し前の事である。信二は習志野から春日に来ていた。ほのかに恋心を寄せていた志乃が、隆一と結婚すると聞いた。少しがっかりした。雁ノ巣にあるヘリコブター基地から、春日基地に帰っていく。毎回任務が終わると、官舎のある春日基地に帰る。信二にとってちょうどいい散歩くらいの感覚である。彼女が消えた日は、月隈の住宅街を歩いていた。志乃のことが頭から離れる日はない。毎回隆一が住んでいるという月隈に差し掛かると、わざと隆一の家の前を通った。

諦めきれないものがある。もしや志乃に会えるかも。

自衛隊員は博多では堂々と、制服で外出する。月隈に差し掛かった時、日は暮れている。この辺だな、隆一の家は、と思いながら歩いていた。瀟洒な一軒家がある。何回もその前は通っている。隆一の家だ。前を通り過ぎようとしたら、その前に女がいた。通り過ぎようとしたら女が抱きついてきた。「信二さん。」志乃だった。私をここから連れ出して。女は縋り付いてくる。顔色が悪い。夜着一枚下は裸、秋の夜風は肌寒い。リックからカッパを出す。それで志乃を包んだ。背負うのは不安定、リックを最大に広げて中に座らせた。軽く口を閉め、体を安定させた。背負う。四十五キロの志乃の体は信二には軽かった。そのまま負ぶって帰りを急いだ。官舎までももう一息足を速めた。志乃は門の前に座ったのはもしや信二が見つけてくれるかもという薄い期待があった。見つけてくれなかったらそのまま低体温で死ぬ。それもいい。抱き人形には戻りたくない。その覚悟だ。

それから十分ほどして隆一は気が付く。志乃がいると思って寝ていた横を見る。いなかった。体一つでいなくなる。

官舎に帰ると志乃を布団に置いた。買ってきたスポーツドリンクを飲ませる。そこにいるのが信二だと確かめるように抱きついてくる。戸惑った。ただ抱きしめて一緒に寝た。何もできなかった。女物の下着や服が無い。信二が買いに行くわけにはいかない。女の体から男の精液の匂いがした。風呂に入れた。体を洗った。その日志乃に何があったか理解した。女ものの下着が無い。服もない。

隣の内田一尉の奥さん内田加奈子に来てもらった。買い物をお願いした。いろいろと世話をやき、時間をかけてききだしてくれた。そして言った「この人結婚はしていないそうよ。どうしても助けたいなら、明日結婚届を出して、あんたが旦那になりなさいよ。」簡単に言う。信二も単純だ。そうしようと思う。翌日隣の奥さんに志乃を頼み、結婚届をもらい、記入して出しに行った。出したらその足で事務に行き志乃を妻として保険に入れた。志乃は少しずつ元気になっていった。隣の官舎には同寮の内田一尉の一家が住んでいる。子供はもう巣立っていて退職前の昇進。奥さんは気のいい人だ。そして秘密も守ってくれる。自衛官は定年が早い。夫婦は同い年、あと一年で退官する。内田加奈子はなにくれとなく世話をやいてくれた。彼女が驚いたのは志乃の美貌だ。人目を惹く容姿なのだ。まず安物の下着や普段着を着せたが、全部高級に見える。信二がどこでこんな美人を拾ってきたのかと思う。元夫か内縁の夫かそんなところから逃げてきたらしい。家事ができるかと思った。完ぺきではないができた。針仕事もできる。普通の若い女性だが自己主張がない。ずっと信二から離れることを恐れていた。信二が志乃にメロメロなのはすぐわかる。「若いもんの邪魔をするんじゃなかぞ。」内田一尉の声がする。

しばらくすると吐き気がする。内田の奥さんは、彼女が妊娠しているのに気が付く。信二は優しく接した。自衛隊病院での毎月の検診。彼女に何が起きたのか推察はできる。腹の子は隆一の子、彼は取り返しに来るだろう。やがて臨月になった時、異常が起きた。急な下血、震え、翌日、自衛隊病院に連れて行った。医者が言った。「なんば考えちょるとか。嫁さん死ぬぞ。」検査の結果胎盤剥離、緊急手術、手術台に乗せられた。麻酔をした。効かない。数人の医師が寄ってきた。麻酔が効かない。彼女に医師が言う。お腹の子は助からないかもしれません。あなたも処置をしなければ助かりません。このまま麻酔なしで手術します。残酷ですが、旦那さんも覚悟しておいてください。志乃が信二の手を握った。私は死んでもいい、あなたが好きでたまらなかった。このまま手を握っていて。口の中を切らないように処置がされ腹が割かれた。悲鳴にならない声が上がる。しっかりと握った手に力が入る。やがて産声が上がる。輸血が間に合わない。医者の声がする。声にならないうめく声がする。医師が言う。「想像を絶する痛みでしょう。」信二は志乃の手を握った。傷の痛みがあるからうめくが、どうしょうもない。一晩中手を握った。毛布に包み抱えた。抱いて痛みを分かち合った。やがて疲れて寝息を立てた。子供は女の子、新生児室で眠っている。大きな子だ。

信二は大山千恵子に連絡した。彼が結婚したことも子供が出来たのも初耳。そして嫁が志乃。びっくりした。隆一が志乃の行方を捜しているのは知っていた。文子に連絡した。志乃が信二と結婚していたのを文子は知っていた。戸籍の変更で気が付いていた。どうしようかと迷ったが隆一に教えた。隆一は志乃が結婚していて亭主が信二と聞いても驚かなかった。予想していたこと、病室に行くと志乃は毛布にくるまれて、信二の手の中で眠っていた。びっしりと汗をかいていた。痛みによる脂汗、呻き声をあげた。隆一を見ていう。

「おまえなあ。志乃は麻酔が効かん体質だと知らんかったんか。あんなに苦しませてアホが。子供はおりが育つる。欲しかったら腕でとらんかい。追い詰めて、死ぬ目に合わせたつじゃんか。」この言葉に頭がかっとなった、志乃は俺が自由にしていい女だ。お前俺の女に何してくれる。自分の理不尽さに気が付けない。彼女は自分の所有物だ。煮て食おうが焼いて食おうが俺の勝手、俺の抱き人形。おれは結婚している。お前の嫁じゃなか。最後の一言は応えた。藤田が入籍に反対したとき、志乃が自分のところから逃げるとは考えられなかった。逃げられた。取り返してやる。

自衛隊の広い運動場に行く。草木も眠る、丑三つ時。一般人には聞こえない広さがある。隆一は車から木刀を持ってきた。信二は木銃を手に取った。その場にいた者は二人の気迫に押された。

隆一は志乃を愛しているわけではない。自分の所有物を、取られるのが嫌なのだ。面子が彼を駆り立てる。

隆一の木刀には秘密がある。リグナムバイタ、世界で一番固い木だ。隆一の振り下ろす木刀は威力がある。どうかしたら真剣に近い。それをがっちりと受け止めた信二の木銃は普通の品。信二の木銃は簡単に折れた。身をひるがえして直撃を避ける。木刀を避けるそのついでに腹にけりを入れた。普通の人間ならあばらが折れる。誰かが銃剣を、信二に投げてよこした。信二の格闘術は日ごろの鍛錬のたまものだった。隆一は違う。鋭く研ぎ澄まされた知性が操る天性の凶器だ。やがて菱沼も知らせを聞いてやってくる。怪物同士がにらみ合うような決闘に息をのんだ。あの時身を引いていて正解だったと思う。菱沼は隆一の気迫と技量にそう思う。病院長がカメラを持ってきた。千載一遇のチャンス、回し始めた。基地内の撮影班が来た。チャンスだ。ワクワクしながらカメラを回す。原因になった志乃は痛みに悶えている。誰も気が付いてくれない。看護婦が来てくれた。だが痛み止めは効かない。外の決闘が気になって行ってしまった。

かたや日ごろ鍛錬した兵士、片や驚異の身体能力を操る狂犬。怪物の様な二人が殴りあうのだ。最初の原因すらかすんでしまう。なんで戦うのか本人たちもわからなくなっている。木銃と違い鉄の銃剣は、少しは持ち堪えた。数回隆一の木刀を受けていたら、銃身部分の木が砕けた。銃剣を捨てた。ただ目の前に奴がいるから戦う。隆一の木刀が振り下ろされる。カミソリの刃一枚の距離で信二が避けた。ついでに顎を蹴り上げる。それを避ける素早さ。「木刀もたんとやれんのか。」信二の言葉に隆一が答える「何しょうが、勝ちは勝ちだ。勝った方が勝つんじゃあ。」手段を選ばないことは、この際問題ではないと隆一は思う。こういうことは、たたき伏せた方が勝つ。原始時代からやってきたこと、文句を言われる筋合いはない。こんな時はルールを作った方が負けだ。

やがて空が白み始めた。周りは自衛隊員でいっぱいになった。もうかれこれ四時間、息つく暇もない格闘が続く。春日原の体力エリート。対するは名もなき体力バカ。ここの責任者太田指令はこれを見ながら、朝のコーヒーを飲んでいた。朝食の試食が届く。大人数の食事を出すときは、まず責任者が試食をする。この三十分後が朝食だ。つまり何か食中毒があれば、彼が最初の患者となる。毒見役である。試食を食べながら外の決闘を見る。隊員が取り巻いて興奮している。みそ汁を飲む。蹴りが飛ぶ。漬物をかむ。組み合う。麦飯を一口入れる。ううん、なかなかうまい。大山のパンチがさく裂した。野菜の炊き合わせに箸がのびる。焼き魚もいい具合だ。隆一の蹴りが入る。大山三尉なら早々に勝負がつくはずだった。予定は未定だ。ふわふわ豆腐に醤油をかける。「うんうまい。」今日も食事班の見事な調理に感謝する。まあ、時間をずらすか。起床点検はこの勝負がついてからと副官に伝える。なかなか勝負がつかないなら、朝食から始める。手本のような格闘術だから、見物させなさいと言う。格闘術の授業が先になる。副官が隊員を食堂に向かわせる。菱沼が隆一にスポーツドリンクを渡した。それを見た副官が同じくスポーツドリンクを信二に渡す。互角の勝負。食事を終えた隊員が、また集まる。コーラやコーヒーを飲んでいる。ある時は思いがけない方に二人が転びこむ。何人かの隊員がとばっちりを受ける。取り巻く輪が大きくなる。又徐々に狭まってくる。また何人かがとばっちり。数回くりかえす。売店から店員が飲み物の販売に来た。百円玉が手渡され、飛ぶように売れた。毎日これがあったら売り上げは倍になる。誰かが二人を引き離す提案をしたが、当事者が大山三尉と聞いてやめる。ああ無理だ。水でもかけるか。誰かが水をかけると二人の体から湯気が立った。山笠の力水と同じ、ますますヒートアップする。日は高くなり二人はつかれた。蹴り放す、避けるスピードがだんだん遅くなる。二人ともヨレヨレだが誰も手を出さない。彼らから出される蹴りやパンチは、普通の人間には受け止められない。重いのだ。日が高く上がったころ、二人は地面に寝そべった。もう起き上がる気力はない。かれこれ十時間二人は戦った。勝負はつかない。太田指令は信二の傍に来た。「大山三尉、点呼の時間だ。」よろよろと立ち上がる。あくまでも平常心は大切である。「嫁さんどうすんだ。」病院長がカメラを止めて、追い打ちをかける。そのころ志乃は脂汗を流して痛みに耐える。二人とも志乃のことは抜け落ちていた。力なく隆一はかえった。俺の女と子供は信二に取られた。泣くに泣けない心境だ。その間も志乃は痛みに耐えていた。

志乃は回復していく。麻酔も睡眠薬も利かない体は、痛みの塊。痛みで眠れない夜、信二が抱きしめていてくれた。少し楽になり眠れた。退院すると隣の内田加奈子が面倒を見てくれた。彼女には感謝しかない。加奈子は思う。この女は何者なのだろう。男を惑わす魅力がある。しかし女の敵ではない。保護してやりたい魅力がある。

菱沼は資格を習得した隆一に不動産部門を別会社にして任せた。そのころ藤田は隆一を養子にしていた。実子だがそうするしかない。遺言で全財産を譲りそして死ぬ。ほぼ一世紀を生きた、はた迷惑な人生でした。

葬儀は隆一が喪主となる。各界の名士の肩書を持つ、老人たちが来る。その中に鶴田もいた、辰夫は嫁と来た。小さな子供を連れていた。鶴田は隆一にいう。「今度の国政選挙に出ないか。」まだまだ諦めてはいなかった。はたで聞いていた辰夫が苦笑いをする。

信二は藤田巌の葬式に参列するため春野市の藤田邸を訪れた。産後間もない志乃には、藤田邸はまだ無理だ。旅館に置いてきた。葬儀に参列し隆一に挨拶した。養親の大山夫妻が、忙しく働いている姿が見える。千恵子が寄ってくる。「文子さんが会いたがっていたよ。」別室に案内された。挨拶をする。「今日、志乃はなにしています。」文子の声が冷たく感じた。「家にいます。」答えて文子を見ると少し笑った。しばらくすると、二人の男に伴われて志乃が入ってきた。胸に柚希を抱いていた。文子がそっと赤子を取る。志乃は信二の横に座った。少し前、泊まっていた旅館に男が踏み込み、二人を連れ出した。藤田邸を見ると足がすくんだ。車を降りると隆一がいた。赤ん坊を取り上げると、「名前は?」と聞いた。「柚希」小さく答えた。「俺の子だろう。」隆一の声には逆らえない。うなずいた。部屋に入ると信二がいた。この部屋は隆一から抱き人形として扱われた部屋だ。「母乳、それともミルク。」文子が聞く。「母乳です。足りない時はミルクで。」「いつあげたつね。」「一時間くらい前。」

「それならまだ大丈夫ね。」そのまま抱えて行こうとする。「待って。」と信二が立ち上がり赤ん坊を受け取ろうとしたら「大丈夫よ。返すから。あと二時間で次のミルクでしょう。その時連れてくるから。今夜はここに泊まって。」宿に置いていたマザーバックを、もってきていた。

マザーバックの母子手帳は抜き取られていた。ミルクの時間になると文子が柚希を連れてきた。ほっとしたように志乃が受け取った、胸の乳房から母乳がしたたり落ちていた。マザーバックに入っているパックから乳拭きを取り出し乳房を赤子に含ませる。あふれるように出た。それをむさぼるようにハフハフと言いながら赤子は吸い付く。信二が文子に言う。「布団で寝かせてもらえますか。」疲れていた体を布団によこたえると少し楽になる。疲れてうとうとしていると、腕の中から赤子が取られ連れていかれる。志乃が眠ったのを確かめて、信二が部屋を出た。別室に入ると隆一と文子がいた。赤子は隆一が抱いていた。信二が取ろうとすると、もう少し抱かせていてくれという。「まだ傷が痛むのか?」隆一が訪ねる。「ほとんどないようになりました。」「この子を俺にくれないか。」隆一が懇願する。母親から子供を引き離せない。信二が拒否する。話し合った末十六歳になったら本人に決めさせることにした。柚希に関して困ったことがあったら、相談する事などが取り決められた。

信二はできるだけ育児を手伝った。訓練は必ず信二が呼び出され、月のうちの半分はいなかった。志乃はぶれなかった。いない間は一人で頑張った。医者から二年は妊娠させてはいけないと言われた。なぜか志乃に言うのではなく、信二に言われた。念を押された。禁欲はつらい。二年目妊娠した。信二は心配したが通常分娩が出来て、女の子だった。「もう一人欲しいな。男の子を。」志乃がひとりごとを言うと、信二はゾーとして志乃を見る。いつしか、か弱い女は鉄の女になっていた。気が付かなかった。あれほどの痛みを経験して、まだそれを言う。女の変わり方は恐ろしい。志乃がにっこり微笑む。

しばらくして夜、志乃から求められ、ちゃんと防衛した。コンドームを付け戦闘態勢に入る。一回戦は終わるが、防具を付けていては全部感じてはいない。雨カッパを着て風呂に入るようなもの、愛撫でごまかす。やっと寝てくれた。そう思って寝ようとしたら、抱きつかれた。2回戦の準備をしていたら、間に合わない、誘いこまれた。抱いて少し待たせようとしたら間に合わなかった。吸い付くような肌の感触、激しく蠕動する子宮口の吸引、全射精をしていた。志乃のとろりとした目を見て思い出した。今日は危険日、狙ってきていた。まあいいか二人は抱き合って眠る。甘いフェロモンが包み込む。無事に出産できるならいい。麻酔薬もいろいろ出てき始めた。信二は志乃以外の女を知らないわけではない。何人かの女と付き合いはあった。志乃を知って体の関係を持つと、ほかの女が目に入らない。志乃に魂を抜かれていた。

時は流れる。春の日、佐倉では新一とかおりが、いつものように店を開けていた。今日は娘の恵子が休みで手伝ってくれている。菱沼が佐倉に朝ご飯を食べに来る。学校を卒業した彼女は福岡市内の大きな病院の栄養士で、やりがいをもって働いている。恵子の周りには魅力的な、若い男がいっぱいいる。付き合ってくださいとも言えない。定食を注文すると恵子がお膳を持ってきた。肉が多めの肉ジャガが乗っていた。お膳を下ろした恵子が、じっと立っている。上から声がする「何かいう事があるんじゃない。」見下ろされていてはしゃべりにくい。前の椅子を手でさし示す。恵子が座る。目の前のお膳に顔を付けるようにいう。「私と付き合ってください。お願いします。」恵子がニコリとする。「よろしくお願いします。」そして調理場の新一とかおりに向かって言う。「やったー。やったー。お父さんお母さん、私えらいでしょう。」それを聞いて苦笑する。まだ俺も捨てたものじゃないのか。新一とかおりが拍手してくれる。隆一から携帯電話がかかってきた。「不動産部門の経営報告について日時の調整をしたい」とのことだ。恵子と結婚を前提に付き合うと言うと、「そうですか残念、結婚していてもチャンスはありますから。」「おまえな、また決闘したいのか。こんどは俺が相手するぞ。」恵子がそばで笑っていた。隆一は相変わらず女が好きだ。女がいないと眠れない。そうはいっても徐々に好色は消えていった。それは仕事が忙しくてか、年齢がそうさせるのかわからない。

その日菱沼は立花寺の住職の訪問を受けた。開店前だったので店のBOX席に座った。住職の立花宗純は玉川と同じ年齢。数年前先代の後を継いで住職になる。その手の中に一通の手紙があった。手紙には表に“正夫へ”とある。裏を見ると吉川拓海とある。それの名は菱沼の父の物だった。見ることなく宗純に押し返した。母に暴力をふるい、逃げた母を食い詰めさせて、春吉橋で殺される事態を招いた男である。自分を売春していた汚い女の子と見下し、引き取ろうともしなかった。ただ父親が刑務所にいるのではないかと感じた。見る必要があるのだろうか。戸籍が離れたからお互いに知ることもなかった。静かに宗純は語り始めた。「許してやれとは言いません。許さなくてもいいんです。ただこうして手紙を送ってきたのは覚えておいて欲しい。この手紙は菱沼さんがその気になるまで預かっておきます。」頭を下げて帰ろうとした。「父は今生きていますか。」菱沼が尋ねた。「それを尋ねるなら、これを読んでください。私には答えかねます。」手紙とそれから封筒を出した。手紙に手が伸びた。受け取ると黒服の内ポケットに入れたそしてポケットの口ボタンをかけた。その日の営業が終わると、売り上げを夜間金庫に入れて、少し先のホテルに行く。そのロビーで恵子が待っていた。部屋を取ると恵子はびっくりした。いままでそんなそぶりはなかった菱沼が、ホテルに誘った。初体験か?胸がどきどきしたが覚悟を決めた。なるたけ普通にしょう。明日は休み、泊まったとしてもいいだろう。部屋に行くとベッドが目についた。菱沼はソファーに恵子を座らせた。しっかり抱きしめた。それをセックスの開始と誤解した。菱沼の唇にキスをしようとした。慌てて止めた。真剣な目で恵子を見つめいう。「一緒に見てもらいたいものがある。」それを言うのがやっとだ。ダスターコートの下の黒服から封筒を取り出した。「俺の父親の手紙を一緒に見て欲しい。中身が気に入らないなら婚約破棄で。」封筒を恵子に渡した。寒くはないはずなのに、がくがく震えた。恵子が優しく言う。「既成事実から先に、作っちゃいましょうよ。」緊張でがくがく震える菱沼からズボンをはぎ取り、シャツをはぎ取り、ブリーフをはぎ取った。自分の下着を脱いで下半身を押し付けてきた。菱沼の男が興奮する。そして理性がストップをかける。ダメダメと言いながら菱沼の男が、恵子の体に入っていく。二人でベッドに入り愛撫しあいやがて興奮が最高になった時入れた何かから熱いものが入ってくる。菱沼は必死に考えていた。自分の人生から恵子を奪われたら生きていけない。興奮が収まり、じっと恵子を見る。「後悔しない?」恵子は微笑みながら言う。「何を。」

じっくりと手紙を見る。父からの手紙には、すまなかったと一言、もう一つの封筒には新聞記事があった。福岡刑務所で獄中死があった。誤って人を死なせ、刑務所に入っていた。吉川拓海受刑者が死んだとあった。恵子がいつかお線香あげに行こうと言うと、涙があふれた。恵子に抱き着き子供のように泣いた。何かが心の中から消えていくものがある。父への恨み、母への思い、ないまぜになった。それでも性欲はまさる。一晩中ベッドの上は騒がしい。抱き合いそして愛撫、菱沼は今までの禁欲から、はじき出されたように恵子を抱いた。自分の中にたまっていた何かを吐き出すように、恵子にぶつけた。そして思う。絶対に恵子を守る。俺の女だ。

翌日二人は遅くまで寝ていた。ホテルから追い出される寸前に身支度をして出た。「おれマンションを買うよ。二人で住もう。反対するかなお父さん。」「既成事実があるから大丈夫よ。」「まさかと思うけど子供ができたかも。」「そしたらなおさら、いいじゃない。」もはや二人は怖いものが無かった。

開店してすぐの佐倉に行く。菱沼は修一の顔がまともに見ることができない。恵子は堂々としているように見えた。朝帰りして、恋人と帰ってきた。親は気が付く。だが知らん顔をする。朝の定食を持ってきた修一は菱沼の向いに座った。「で、いつ結婚式だ。」隠しておきたくはなかった。獄死した父親を持つ自分を認めてくれるだろうか。手紙と封筒を差し出した。「恵子さんを僕に下さい。こんな僕ですが。」封筒と手紙を見せた。「ダメでも盗んでいきます。」宣戦布告。

「ばーか、こんなの、とっくに知ってるよ。盗まなくてもやるよ。」ガチガチに緊張したのが一瞬で解けた。あっそうか、たいしたことではなかったんだ。安心した。調理場に行った修一が言う「俺演技うまいだろう。」かおりが小さく拍手した。菱沼に小さく縮んで欲しくはない。恵子がエプロンつけて店に出る。玉川が入ってきた。恵子が注文を取りに来た。定食を頼む。菱沼に向かって小声で言う。「おい、恵子を抱いたんだろう。不幸にしたら承知せんからな。」「なんでわかるんです。」「顔に書いてあるよ。」慌てて掌で顔をこすった。あまりにも正直でおかしかった。玉川には解かった。恵子の雰囲気と匂いが昨日までと違った。女になっている。菱沼は女に囲まれた生活の中で、目や耳から入り情報が多すぎ、いつか自分が経験豊富と錯覚し、童貞なのを忘れていた。女性初体験だ。改めて恵子は自分の初めての女と気が付く。恵子は菱沼にとって菩薩。修羅の道に降り立った菩薩の化身だ。先代住職の言葉を思い返す。

玉川は思う。そしてこれは序章に過ぎない。子供が出来たら間違いなく鉄の女に変身する。恵子もまた男を食う女だろう。あの裕子の姪だ。菱沼がどれだけ振り回されるか楽しみでもある。尻に敷かれてペシャンコになる菱沼が楽しみだ。その時はざまあみろと笑ってやる。

川辺の清掃部門が分社化し、少しは菱沼の負担が軽くなる。玉川も復帰した。バブルの時代は終わり、厳しい冬の時代が始まり、スナックやクラブが減りソープに代わる。そして春吉橋に立つ女が出始める。政府は当てにできない。この時代の渡り方を模索する。

木下の元で営業の修行をしていた川島は、連れてくる芸人の交渉から、ソープの団体さま予約、スナックを流す流しの選定、めぼしい女のスカウト。なんでもした。ある日通勤時呉服町で美人を見た。スカウトを決めた。不動興業の芸能部門の名刺を渡す。二日後、川島のもとに名刺が帰ってくる。美人は菱沼の妻恵子。「いい度胸だな。」と言われて名刺を渡されたが、「ケンカならこっちも負けませんよ。と言って受け取った。「だいたい自分の妻をパートにも出せない職場の、CEOが何言ってんですか。」「で、どこにスカウトだ。」「もちろんストリップ部門です。観客一人はもったいない。」しれっと答える。殴りまねをする菱沼に、受けの真似をする川島。そういえばストリップへの希望者も増えてきた。ソープの従業員も若くなりつつある。世の中が不況になりつつあるのが、肌で感じる。

川島は高校一年の時家出した。争いの絶えない家で父親は家の中で小さくなっているような立場。祖母はいつも怒鳴っている。たまらず家を出て中洲に来た。ウエイターから始まる中洲人生。家を出たからと言って、誰も探してくれない。それはそれで悲しい。採用してくれた玉川は寮に入れてくれた。ウエイターから始まった中洲だ。彼は不思議なほど指名手配犯を見つける。新しい客が来るとフロントが指名かセットかを聞く。セットと答える客が大半だがたまにそうしないのがいる。ナンバーワンを呼んでくれとか、一番年上とか、一番若いのとか。変な注文を付ける。そうしたら川島の出番。セットの飲み物を持っていき、客の訛りやしぐさに注目する。だいたいの職業の目安を付けると交番の指名手配犯の顔写真を思い起こす。指名手配の写真と実際の顔とは違いが大きい。それを頭の中でスーパーインポーズみたいなことをする。そして何か決まれば、交番へ。何もないのが大半だが、一年にすると結構なだけ指名手配を見つけた。クラブの支払いの後に逮捕されるように、逮捕は道に出てからにしてもらう。初めのうちは表彰された、金一封も出た。何回も重なると「もういいだろう。」と表彰も金一封も無視される。駐車違反したら罰金、牧子のところに行って報奨金との相殺にならないかと言いに行った。ダメだった。母親のような年齢の牧子から報奨金と罰金は別だと説教を食らうのを、同じ年齢の巡査君島が笑いながら見ていた。歩いて月光の方に行っているとスナックムーランのママ久木原真子が寄ってきた。ムーランは不動興業の傘下の店、なんでも相談を持ってこられる。真子は中洲でも古株のママで、年を取ってきて細かい法律経理届け出が面倒になり、それをやってくれる不動興業に、最初に傘下に入ったスナックだ。それから徐々に入る小さな店が増えた。今は裏路地のおでん屋まで入っている。川島はムーランで話を聞くことにした。従業員募集で応募してきた女がいると言う。京都出身らしいが田舎臭い。それと何となくの不安がある。どこだとは言えないが、今日一時間後の面接なので、同席を頼まれた。少し後女が来た。中野香苗三十五歳と名乗った。ホステスにするには少し年が行き過ぎている。この規模のスナックがいいのかもしれない。名前と姿にしっくりしないものを感じた。帰りに牧子のところに寄った。気になることへの情報を探す。まず指名手配犯、何もない。それ以上を調べなかったのを、後悔することになる。

三か月ほどしたころ一人の客が消えた。スナックで週に一回、一人酒を飲んでおしゃべりをして帰る。そんな老人だった。お金に不自由しているわけでなく、ただ妻に死なれ老いの寂しさが、そのまま出ているような八十五歳の老人一木修造が消えた。彼の預金から三百万消えていた。本人が引き出したものだが、何に使ったのか家の中に残ってもいなかった。山深い三瀬の谷川で、溺死して見つかった。知らせを聞いて川島は、自分の勘が正しかったと思う。

しばらくしたら香苗はやめた。そして近郊の春日市の傘下のスナック水車に、中野という女性が、従業員募集に応募してきたと言う。ムーランの中野香苗なのかと思うが、少し違う。中野涼子と名乗っていた。一応採用すると連絡があった。なにか黒いものを感じる。石井牧子の交番に行った。指名手配犯はおよそ五百五十人。しかし指名手配犯まではいかないが、濃厚な被疑者もいる。限りなく黒に近いグレー。そんな情報を探した。普通はそんなのを、川島が調べるのは困難だが牧子が調べてくれた。年齢三十歳から四十五歳。女の年齢はわからない。川島は写真を見せた。すると牧子は、一枚の書類を出してきた。指名手配にするには証拠が弱いが、危険人物である。その中に中野香苗がいた。いくつもの偽名はあるが、本名志賀奈央子、彼女の周りで実に四件の不審な死があった。最初は北海道、千葉、京都、広島。そしてムーランの一木老人。「とうとうここに来たのかね。」牧子はそういう。一木老人の預金から三百万下ろされ、その金は見つかっていない。一人であんなところに行くとは考えられない。「私おとりになろうか。」牧子が言う。牧子がおとりになってどうなるものでもない。「不動清掃の川辺さん、彼に協力してもらって一芝居打つか。」

川辺は清掃部門の責任者、七十少し前の男だ。杉山玄太の時からの古参である。三年ほど前妻を亡くした独身、子供はみんな独立している。昔の組員を使ってこれまで会社を大きくしたのは彼の人間性と努力が大きい。彼らに箒を渡し、デッキブラシを使わせて、会社を大きくした。仕事終わりにスナック水車に寄ってもらい、香苗に近づいてもらうことにした。訳は話している。彼も興味を持った。玉川も菱沼も彼にかかれば小僧にしか見えないが、ちゃんと彼らを立ててくれた。彼の家は春日の旧市街にある。ちょうどよかった。

翌日川辺は会社が引けると水車に行く。スナック水車ママのキャシー田中は、昔進駐軍周りをしていた歌手、美貌の片りんはあるがもう七十に手が届く齢。不動興業の傘下に入っているから、バーテンダーもホステスの採用も、特別な場合を除いて不動興業に任せていた。バーテンダーをしているのは昔の川辺の同僚だ。ホステスは40代が二人と中野涼子と名乗る奈央子の三人。こじんまりとした雰囲気のいい店、ピアノが置いてある。中は二十人ほど座れるスペースがある。ママのキャシーがピアノを弾くと涼子が歌う。美声、あの顔であのスタイルで、気をそらさせない美声が出る。小さなスナックはコンサート会場にかわる。川辺をキャシーは社長と呼び、持ち上げた。涼子も川辺に関心を持つ。ホステスのツバキさんは元月光のホステス、もう一人のサツキさんも元月光のホステスだ。色気を欲していない老人に寄り添った話ができるタイプの女性。静かに上質のウイスキーを楽しむ老人の話し相手をしている。月に一回の楽しみにする老人も多い。浅山和夫そんな老人の一人らしい。新顔の川辺と話が合う。川辺はこの雰囲気が好きになった。問わず語りに浅山はさみしさを川辺に語る。妻が亡くなってさみしい気持ちは川辺にも分かった。浅山はこの辺りの地主、知られてはいない隠れ地主。米軍に接収されたその後返還されたがそのまま国が使っている土地の地主で、国から決まった額の使用料が払われる。これはあまりしられていない。身内は遠くに住む息子一家。たまに帰ってくるらしい。さみしい。その気持ち齢とともに強くなっていた。妻は先に死んで、一人残された感が強い。川辺には痛いほどわかった。今自分は浅山より少し若い。もう少し齢がいったら心細くなるだろうか。浅山は水車に来る回数が増えて行った。涼子はそんな浅山の話し相手もしていた。浅山は週一回のヘルパー派遣をしてもらっていたが、ある日川辺に、家事をしに来てくれる人が出来たからもう必要なくなったと言う。川辺は危険を察知した。牧子に連絡する。国の借地料が払い込まれた翌日、浅山は銀行に行った。三百万円の引き出しをして、現金を家に持ち帰った。浅山はそれを家において外出した。涼子は浅山からもらった家のカギで入る。家探しをして金を見つける。見つけてもそのまま家事をし始めた。料理を作りお膳を用意する。ちゃぶ台に料理を広げ、帰りを待った。しばらくすると浅山が帰ってきた。喜んでお膳につく。煮豆、最高にうまい。白和え、ゴマの風味がたまらない。やがて少しづつ眠くなる。みそ汁を飲んだ後、すっかり眠ってしまった。この辺りは都市ガスを使う。都市ガスの漏れる匂いがする。それを誰かが止めた。部屋を開け浅山の体を助け起こし救急車に乗せた。そして部屋の隅に、偽装されたておかれた小型カメラを、取り出した。カメラは3台。台所と居間と玄関。全てのカメラが回収された。

そこへ岩田が来る。この灰汁で固めたこんにゃく爺のような岩田は浅山のところに行った。浅山は上着の下のシャツに仕込んだビニール袋にお膳の料理を食べると見せかけて入れていた。すこしふらりとしたのは、大好物の煮豆を我慢できずに飲み込んだためだ。差し出されビニール袋を警察官が受け取った。「札束は上下だけが本物だよ。」岩田が警察官に言う。川島は駆け付けていた。「おい坊主ご苦労じゃったな。」

中野涼子こと志賀奈央子は、二日後熊本市内で逮捕された。またスナックに就職しょうとしていた。連続殺人として有名にはなったが、川島の名前が出てくることはなかった

浅山は少し入院したが家に帰った。水車に行くと、そこに岩田が来た。

浅山が狙われるのではと相談しに来たのはキャシーだ。浅山は岩田の後輩、そこで三人で相談した。岩田の防犯知識で、カメラを取り付けた。浅山は服に隠したビニール袋に食べたふりして落とすのを練習した。かなり難しかった。三人はゲーム感覚でしていた。浅山にしろ岩田にしろ、充分暇を持て余している。岩田はかつて浅山とキャシーを取り合いした仲、久しぶりのスリル、三匹の老人は興奮していた。その中に志賀奈央子が飛び込んでくる。肉体関係を持ってみようかとスケベ心満載の浅山に、岩田が、自分の命を釣りの餌にするのかと笑った。浅山だって岩田が一番スケベだったころを知っている。危ない冒険をするのはお前ほどじゃねえよ。キャシーは若いころ美人で二人で取り合っていた。キャシーは思う。連れ合いに死なれてどうのこうのとは言いなさんな。そんなに愛妻家だったものは、ここにはいない。この浮気者たちの末路は水車での無駄話の種でしかない。水車は老人たちの自慢話と残念話に花が咲く。この日は相談があると言うので川島が水車に来ていた。開店前に話をしょうという事になり昼ごろに行く。キャシーは小さなおにぎりや、ソーセージを焼いて昼ごはん代わりに出してくれた。その匂いを嗅ぎつけたように岩田が来た。川島は岩田が話に立ち会うのかと思った。キャシーはこの店の売却を考えていた。別に隠すほどの事ではない為、岩田も交えて話を聞いた。寄る年波にはあらがえない。店をたたみたいと言う。一人息子は遠方だし、ホステスも年だし跡を継ぐ者もいない。まあありそうな話だ。ここは春日市の中でも一等地だが問題がある。このスナックの敷地は袋小路なのだ。前の民生プラザが公立なので通らせてもらっている。売る時は優先的に県か市に売らなければならない。その場合値段は半額以下となる。客筋は悪くないのでこのまま営業するならそのまま譲渡できるが買う人がいるかどうかわからない。不動産部で買い取ってもらえないかという。不動興業の不動産部門は藤田隆一が取り仕切っている。名前も藤田不動産と変えている。不動不動産では、みんな戸惑うだろう。菱沼も厳しい経営者だが、隆一も負けないくらい経営には厳しい。菱沼が一円を気にするなら、隆一は小数点以下三桁までの数字を気にする。この二人がだめだとすると、県か市にしかないが、一千万円で売れたとしても、建物取り壊し費用をそれから引かれる。手元に残るのは数百万。老後資金としては心もとない。隆一の弱みを握って責めるしかないかもしれないが、そこまでの義理がキャシーにない。そんなことを考えていると、それを見透かすように岩田が口を開いた。「まあ人には弱みがある。」キャシーは微笑んだ。「あなたにもね。」灰汁で固めたこんにゃく爺にも長く生きていれば弱みの一つや二つある。藤田社長の弱みってなんですか。「好きな女がお前にいるか?」「まあいいなというほどのはいますが。」「菱沼はどうだ。」「今の嫁さんにメロメロです。パートにどうかと言ったらカンカンでした。」「玉川はどうだ。」「奥さんは知っていますよ。玉川さんも奥さんも普通にいい人です。」「昔な。あの玉川にもメロメロになっていた女がいたんだよ。今でも触れられると、傷ついて激高する。」「知りませんでした。」

「なんでも一番がいいんじゃない。二番目がいいこともある。玉川は一番好きな女が手に負えない女と分かったから手を引いた。だから二番目の女をもって安定しているんだ。菱沼はそのうち女の尻に敷かれてペシャンコになるから。」「あの奥さんなら尻に敷かれたいですよ。ペシャンコになりたい。」「お前、大志というもんはないんか。真夜中の犬鳴峠に行ってみろ。いつもというわけではないので、大山信二一尉の在宅日に行ってみろよ。面白いもんが見れるから。」「幽霊ですか。いやですよ。幽霊話は苦手なんです。」「大の男が夜中の犬鳴峠に行けないとは情けない。」「で、何かメリットがあるんですね。」早速大山一尉の官舎を見張った。二日後訓練から帰ってきたらしい。玄関ドアを開けると、奥さんが出てきた。一日中見張るわけにはいかないので、三時から六時までの時間見張ってみた。子供たちが帰ってきて家に入る。その子供の中に背の高い美少女がいた。セーラー服を着ていたから中学生か高校生。母親が出てくるのも見た。おばさんだろうと見ていたら、全然違う。安物の服に身を包み買い物に行く。その安物が高級品に見える。髪飾りもつけてはいないが、ナチュラルな薄化粧が、はっとする美貌を見せる。「奥さん、えらい美人じゃないですか。」一日目で岩田に報告した。「だろう。あれが隆一の泣き所だよ。娘も美人だろう。あれで中学生なんだ。スカウトに行ってみろ、父親のいるときに。」「いいんですか。」

翌日信二のいるときに行ってみた。不動興業の芸能部門スカウトの名刺をもって。行くと近くの公園に誘われた。名刺を出すと「隆一ンとこだろう。あいつは知っているのか。」と言われた。「多分、知りません。」それじゃ全部だめだよという。隆一は大柄でイケメン。でこの大山という男は印象が違う。全体的に優しさがある。「隆一に頼みごとがあるんか。だからこうしてきたのだろ。岩田の差し金で。時々あの人やるんだよな。」水車のことを話すと、「あそこのキャシーさんは岩田さんの泣き所だからね。」お互い泣き所を知っている。

川島は信二と隆一の関係を一応知っていた。信二の長女柚希は隆一の子供かもしれないことなどである。そして噂を聞いていた。美人の族狩りが出ると言う。場所は犬鳴峠。菱沼が散々やっていたところである。かられる族はその噂で多くなった。その娘について調べる。元習志野降下隊の大山一尉の長女。近所でも評判の美少女だったが中学生、しかも身長が高い。そして趣味は武道、剣道を習っている。ある日異種武道の模範試合があった。剣道と薙刀である。薙刀は長い。剣道の腕のいい柚希に指名があった。薙刀の女子中学生と中学生の柚希。防具を付けにらみ合っていた。薙刀が払い腰をかけてきた。すかさず薙刀が体に触れる前に相手の子に飛び蹴りをかませた。相手は床にたたきつけられ泣きだした。師範が怒ると、「だってケンカでいいと言ったじゃない。」竹刀では無理だ。長さが違うと言ったが、ケンカと思っていいからと言われ試合に臨んでいた。強い柚希をたたき伏せて、少しおとなしくさせようとしたのである。ケンカのセンスは抜群だ。

その信二の娘の事の相談に乗ることにした。隆一に連絡を取らねばならない。信二の娘をケガが無いようにねじ伏せるただ一人の人物だろう。怪我でもさせたら隆一が怖い。

その日は月夜だった。季節は肌寒い秋。不動興業の伝統が。まだ息づいていた。川島は犬鳴峠にいた。そこかしこに族が潜んでいる。気配は読めている。適当なところで車を止め木刀もって歩く。しばらく行くと後ろに車が止まる。助手席のドアから女が出てくる。木刀を持っている。こんな夜中にすることは一つ。川島がいないものようにそばを通る。すれ違う時「こんばんは。」とあいさつした。こんばんはと言ってみてみると、体は大きいが中学生の女の子。隠れている気配の草むらに進んでいく。ガサゴソと音がして何人かが飛び出してくる。川島は見ている。危なくなったら助けようぐらいには思っている。違った。木刀を振り下ろすと、悲鳴が上がってばらばらと、髪の色がいろいろの男たちが逃げていく。女の子は一人の男と対峙していた。大きい。その男も木刀を持っていたが色がグリーン。リグナムバイタの木刀だ。女の子は木刀を大きく振りかぶる。振り下ろすと女の子の木刀が砕ける。「遠慮なくやらせてもらうか。」木刀を振り下ろそうとした。素早く後ろに飛び下がる。ぎりぎりで避ける。だが何かおかしい。体すれすれに切っ先が通るが傷はつかないようにしている。追い詰められて、女の子は、のど元に木刀を突き付けられる。その木刀を後ろに逆立ちして。靴で受け止める。天性のケンカ上手。だがおかしい。この木刀ならスニーカーなど通り越して力が伝わる。男は寸止めをしていた。切っ先が通ったところの、服が切れていて垂れ下がった。元に戻る瞬間、服を脱ぎ棄てると、男に投げつけ目くらましを図る。男が体を抱きとめる。男は木刀を地面に刺して女の子に対峙した。スポーツブラ一つになった女の子は、何倍もケンカ上手の男に翻弄され、そして後ろからガッツリと、つかまれる。後ろの男に微笑みかけ、甘えるようなしぐさをする。思わず手が緩むと手の中からすり抜けて、蹴りを入れた。又捕まえる。その手からすり抜けようとして、後ろから万力のような力で腹を締め付けられる。締め付ける男に少女の腹筋が抵抗する。少女の腹筋は割れていた。男はそれでも締め付ける。苦しげな声を上げると、手を緩めた。緩んだのを見逃さずすり抜けようとする。男を惑わして攻撃をする。その手は食わない。逃がさないように締め上げた。護身術の抜け出し法は効かない。力の差がありすぎる。少女も逃げればいいのに逃げ無い。対峙しようとする。この状況を楽しんでいる。相手が手加減しているのも、わかってきている。なぜか知らないがこのおっちゃんは手加減をしている。締め上げる手が力を入れたとき、力を抜いた。後ろから体臭を嗅ぐように息をする。そし体を回して向かい合う。少し力を入れて抱きしめた。その耳元で少女がささやく「おっちゃん、うちの父ちゃんなん?。」慌てて地面に放り出す。すぐさま受け身を取り転がりながら立ち上がる。受け身が取れるくらいの余裕を持った放り出し方だ。気を失ったふりをしただけでだましたつもり。後ろの車から男が出てきた。前の男に負けないくらい大きい。「俺の娘だよ。」木刀の男が女の子の顔を覗き込んだ。面影がある。「おまいな。女の子になんちゅう育て方してくれる。これじゃ鬼娘だろうが。寄り付く男なんていないぞ。」女の子が蹴り上げようとしたらスーと避け蹴り上げた足をつかんだ。後ろに転びそうなのを抱きとめて言う「顔に傷はつけるなよ。」その時股間に手が少し触った。「キャー、エッチ。」大声で騒ぐ。慌てて手を引っ込める。これを言われると大人は弱い。「行くぞ。お母さんが心配するよ。柚希。」信二が言う。柚希と言われた少女は車の方に行く。「あいつ、お父さんより強いかも。いつかうちがやっつけちゃる。」そう言いながら抱えられるように、引っ張られていった。連れていかれながら振り返り小さく手を振った。そして父親の手の中に飛び込むようにして、抱かれていく。小憎たらしい娘を見て隆一はあの子を取り戻したいと思う。かわいすぎる。愛しい。

信二の車が行ってしまい、隆一と川島が二人になった。「ありがとな。顔が志乃にそっくりじゃった。」「性格があんたそっくりで、族狩りを一人でするから危なくてと、大山さんが言ってました。美人でしょう。スカウトしに行ったら夜中に族狩りに行くのをどうにかしたいと言うので、あなたに連絡しました。」「何にスカウトだ。」「中学生とは知らんかったんです。背が高いし、美人だし、芸能部門でもいいし、、。」と言いかかると「スカウトは許さん。俺も親だから。」「そんなこと言われたら、俺の商売はあがったりですよ。」柚希は志乃と同じ匂いがした。あの夜仕込んだ俺の子だ。とどめの言葉を川島が言う。「あの子あの齢で、大山さんが抱いていてやらないと寝ないんですって。これって男好きになるんですよね。たのしみだなあー。俺、あの子を抱いて寝てみたい。」何か一言多い。自分の女好きを棚に上げて、隆一は力が抜けた。「キャシーさんの店の事お願いします。」「あの辺りはごちゃごちゃしすぎている。再開発があるかもな。考えるよ。悪いようにはしない。」「安心しました。キャシーさんに報告いいですね。」「どんな形になるかわからないけど。」川島は乗ってきた車にいき、隆一はハーレーに乗って別れた。隆一は思う。今ならわかる。信二のところに逃げるため、志乃は女の戦いを仕掛けてきた。

俺は完敗だ。魂を抜かれた。今も後遺症に苦しむ。あの夜以上のものを求めて、女をあさる。どの女もあれ以上の快楽をもたらさない。彼は志乃を思うと身を焼かれる。そして信二は毎晩あの夜がある。俺の女を返せ。あの夜が恋しい。あの唇の感触、あの吸い込むような肌の感触、どれをとっても忘れがたい。信二から志乃を取り返す方法は金と社会的地位だ。毎月の損益計算書が、道標だ。だが彼は知らない。志乃は彼との戦いから変化した。昔のように思い通りにはならない。それを隆一は、まだ知らない。

翌日岩田に報告した。思った「あれ、俺は何もない。ただいいように岩田に使われた。」川島は損した気分だ。キャシーからおにぎりを出された。熱いお茶も。岩田と食べながら言う。「俺って一言多い男なんですかね。」岩田が言う「そんなもんもおらにゃ世の中回らん。」「俺、結婚できるかなあ。」「女はより取り見取りいるやんか。」「俺にいないんです。不公平です。」「しょんなかたい。よんなか公平ならおもしろなか。不公平だからおもしろかっちゃなか。」

まだ二十三歳の川島は人生が始まったばかり、岩田にはまぶしかった。

信二はほっとした。隆一が柚希を止めてくれた。小さい時から、怖い者のない子だった。下の二人は志乃が一人で関われたが、柚希だけは体力が有り余るのか、信二が連れていないと、どこへ行くかわからない、手のかかる子だ。わかるようになると、それはそれで気にかかる。とうとう中学二年生くらいから、暗い夜道に行き、族狩りみたいなことをやり始めた。信二がいない時は、家族を守るように言いつけられて、夜中の外出はしない。信二が帰ってくると、夜中にケンカ相手を求めて散歩する。自分が付いていくしかない。相手がけがをしないようにタイミングを計る。歯の根も合わないようにガタガタ震える不良は何人も見た。いつしかこの辺りにも、女の幽霊が出るとうわさが広がった。仕方がない。いつしか犬鳴峠に行くようになる。心配だから車で送っていく。自転車で行くと言い張ったが、それでは夜が明けてしまう。送迎を受け入れた。信二も付き合うようになる。美人の族狩りが出ると評判で、いっぱい待ち構えているが、柚希の相手ではない。でも今度から、夜道には怖いおじさんがいるよと、教えられる。怖がってくれるならいいが。無理かな。


これは失敗作です。中の人物が勝手に動き回り、ハッピーエンドになってしまいました。私としては後味の悪いバットエンドが目標でした。最後まで読んで下さりありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。