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~Prologue~

7月の空は清々しいほどに澄んでいた

カーテンの隙間から日光が差し込み、窓から見える街路樹から蝉の音色が響き渡る


いよいよ夏本番がやってくるのだと否応なしに感じさせる温度


四畳半の部屋の片隅に置かれたベッドに半分足を投げ飛ばしながら、俯せに男は眠っている


太過ぎず、細過ぎない中肉中背の体格と何ヶ月も散髪をしていないと容易に推測できるボサボサの黒髪

オーディオラックの上には、つけっぱなしのテレビが置かれて、泥沼の恋愛模様を描いた…

俗に言う「昼ドラ」を誰も見てないが、静かに映し出していた



男の部屋は、都内から少し離れた住宅街の一戸建ての家の2階に『門を構えている』


門を構えている、というのは間違った言い回しではない

部屋にはベッドをはじめ、テレビ、小型冷蔵庫、簡易コンロ、そして「パソコン」がある

生きていくのになんら不便はないが、それ以上に彼の生活内容が「門を構えている」という意味合いを強くさせていた


彼は、日中は死んだように眠っている

夕方頃に起き出して、下の冷蔵庫もしくは徒歩2分でいける向かいのコンビニまで食料を調達

その後、テレビを流しながら読書に没頭するか、机に置かれたパソコンを起動して、ネットの波に揺られる

そして睡魔が襲えば、決まった時間もなくまた死んだようにベッドに横たわる


コンピュータ関係の専門学校を卒業し、職も就かず約2年もこんな生活が続いている


「ニート」や「引きこもり」と言う言葉の意味のままに人生を送る彼の名は


七海 透也


齢22で社会から外れた生活を送る不健康な青年である



ちょうど時計の短針が「2」を指した頃、トン・トンっと階段を登る音が透也の部屋(厳密には、家)に近づく

部屋の前で足音が一旦止まり、一拍置いて部屋を仕切る襖(これもまた厳密には玄関)が勢いよく開く


透也はまだ俯せのまま寝ている

まだ昼の2時過ぎの時間帯は、彼にとって熟睡の最中であるからそう易々と目は覚めない



「もう…。テレビつけっぱなし!」



ちょうど、昼ドラから通販番組に変わったテレビに、華奢な腕を伸ばして主電源を落とす

手をテレビから離すと、手慣れた動作でテレビの後ろにある、部屋にしては少し大きめの窓、そこに付けられた「開かずの」カーテンをこれもまた勢いよく開く


梅雨も明けて、燦燦さんさんと輝く夏の日差しが、鬱陶しいほど対照的な部屋に入り込み、部屋自体が深呼吸するようにジメジメした空気を外に吐き出す



「これでよしっと…透也、生存確認。」


美しい、それでいてどこか力強さも感じさせる女性の声が、その声に不釣り合いな場所に響く

透也はまだ俯せのまま横たわっている



「ほらほら、いい加減に実社会に戻ってきなさい。」



すらりと長く細く、透き通るような白い足が、丈もほとんどない短パンのせいもあって強調される


その足は、ただいま透也の頭の上に置かれている…否、めりこんでいるといった表現が正しい



「姉ちゃん。いつ帰って来たの。」



透也の第一声は、ベッドに顔を沈めたまま放たれた


相手の顔を見ようにも後頭部から圧力がかかって振り向けないのだから、致し方ない



「今日の朝よ。母さんに透也がちゃんと生きてるか調べてくれって。ま、用事はそれだけじゃないんだけど。」



透也の姉、沙夜子は結婚後、実家の東京から離れて京都に夫と二人で暮らしている

わざわざ京都から来たのだから、透也の様子見だけに東京まで、しかも朝早くから来るはずはない


何の用事があるのだろうかと、まだベッドとヘッドが一体化している透也は考えなかった


今はまだ本能にしたがい、瞼を閉じて意識を現実から遠ざけていく



「こらこら、せっかく美人な姉が遠い所から起こしにきてあげてるんだから、起きなさい。」



透也の後頭部から圧力が無くなり、頭がふわっと軽くなる


沙夜子は弟の頭に乗せていた足をどかせて、クーラーのリモコンを手に取り電源を切る


ほとんど、休みなしで動いていたクーラーは熱を帯ながら不快音を上げていたが


役目を終えたように静かに口を閉じていく


「暑い。」


透也のささいな反抗はこの一言に集約されて放たれたが、言葉の受取人は踵を返して階段を降りていった


「ご飯作ったから下に降りてきてね。」と言い残して



やれやれ、と身体を起こす

クーラーで直接冷やしていた身体は、凄く重い…

しかし、『この部屋から出る』という意識の方が、さらに身体の重量を増やしていることを彼は知っているが、それについての思考はやめた


姉に逆らうことは出来ないと、幼少時代の経験からの判断を下したからだ


◇◆◇◆◇◆◇◆


階段を降りて、

リビングの隣に置かれた食卓へ向かう


卵焼き、豚肉の生姜焼き、味噌汁が机に並べられていた


ゴクリ、と透也の喉が鳴る


最近口にしているご飯といえば、コンビニの出来合いや母がラップをして置いている冷たいもの


電子レンジで温めているから、物理的な冷たさは感じないのだが、それでも味はやはり『冷たい』


それに比べて、目の前に置かれた料理達は、豪華とは言い難い質素なメンバーだけど

湯気の登る作り立てのそれらは、視覚だけでも彼の舌を頷かせる



視覚からの刺激に耐えられくなった透也は、急ぐように椅子を引いて腰深く座り込み、箸を持って合掌


まずは、生姜焼きから堪能しようと掴んだ所で


彼は、異変に気付く


その異変は、彼にとって受け入れ難いものだったらしく

箸から味付けされた豚肉が滑り落ちていき

生姜と豚肉の見事なハーモニーを今かと待ち構えるように開いた口は、閉じることを忘れている



食卓に置かれた料理達に意識を取られすぎて、透也は彼の向かいに座る存在に気づかなかった


その存在を確かめるように、彼とそれの間にあるお茶ポットを静かに左へ滑らせる



彼の向かいに座るそれは、お茶ポットの移動に合わせて右からひょこと顔を出して、透也に眩しいほどの満面の笑みを向ける



「誰だ、お前は。」



向かいに座る隣人の笑みを透也はこの言葉で返す


それを聞いた、沙夜子はすかさず隣のダイニングキッチンから飛び出して、透也の頭頂部に手刀をいれる


まともに喰らって悶絶する透也を見て、言葉にならない言葉を発しながら笑いを上げ、足をばたつかせる…赤ちゃん



「私の息子!ねぇ~?達也くぅ~ん。」


座っていた、というより椅子に取り付けていたベビーシートに『座らされていた』赤ちゃん…改めて達也を抱き上げながら、沙夜子は声の音色を変えてそう告げる



透也はすかさず、両手で頭を抱える


自分の殻に閉じこもっていた所為で、姉の出産を知らなかったことに対して、苦しんでいる…のではない、決して


何故、姉がわざわざ京都からしかも、朝早くから実家に帰ってきた理由が分かりはじめたからである



◇◆◇◆◇◆◇◆



目の前に沙夜子が腕を机に預けて前のめりに、透也の向かいに座っていた


長い黒髪をアップで団子状に止めている

もみあげとうなじは白い肌を引き立てながら艶やかさを増す

沙夜子は、この辺では少し…というかかなり有名な美少女として知られていた


透也と歳は一つ違いで、高校も違う所へ通っていたのだが


それでも、嫌というほど、姉に好意を寄せる男達の噂が、透也の耳に入ってきた


酷いときには、姉に近付きたいが為に弟である透也と仲良くなろうという輩もたくさんいた



そんな美少女だった姉が、結婚して子供も産んで、衰えることを知らずさらに輝きを増して「絶世の美女」となって目の前に座っている



まるで透也の人生で貰えるはずの正エネルギーが、彼女の所に行っているかと錯覚させられるほど


それほど、負のエネルギーに囲まれている透也と不釣り合いなほど、沙夜子は輝いていた



「透也にお願いがあるんだけど…。」


「断る。」



姉の言うことには、逆らえない、がさすがにこれだけは断らないといけない気がした


用件を聞くまでもなく



「まだ用件を言ってないんだけど。」


「彼の姿と荷物の量から推測するに容易に用件は分かる。」



と透也は達也を指指し答える

「じゃあ話は、早い!達也を3日間預かって。」


「身内とは言え、俺に赤ちゃんを預けるなんぞ正気の沙汰とは思えない。」


「透也しかいないの。お母さん仕事休めないし…ね?ベビーシッター・トウヤ!」



沙夜子は今日の夜から3日間、急用の仕事で沖縄に行かなければならない


お義兄さんは相変わらず海外出張で家を空けているらしいし


母さんも仕事が忙しくて休みを取れず


身内で一番暇な透也に白羽の矢が立ったわけである



否応なしに預かることを了承している前提に、沙夜子は話を進めていく


オムツの取り替えだのミルクの作り方だの、ゲップのさせ方まで丁寧に透也にレクチャーする


その姿はもう立派な母親の姿だった


一通りレクチャーを終えると、時間はもう空港に向かう時間になっていた


せっせと、弟の目の前でタンクトップと短パンを脱いでスーツに着替え


化粧はある程度していたので、コンパクトを見ながら軽く直して準備を整える



「何かわからないことはある?私電話にほとんど出れないかも知れないから今の内に聞いて。」


ハイヒールを履きながら、沙夜子は透也に問う


「あぁ、今までの流れが全て解らない。」


細い腕が透也の腹部に突き刺さり、彼のボディに鈍痛が走る


しかし、倒れようにも彼の腕には赤ん坊がいるので何とか踏ん張って耐えた


沙夜子は、達也を抱き抱えて額にキスをする



「ママはすぐに帰ってくるから、透也おじちゃんと良い子に待っててね~。」


二度三度、キスをして透也に再び預けた



「じゃあ行ってくるね。わからないことがあれば、母さんに聞きなさい。それが嫌なら『お友達』で調べなさい。」



手を振りながら、玄関から出ていく


『お友達』とは、パソコンのことであり、そんな皮肉も言い返す言葉がない透也は、抱き抱える達也の顔を見てため息を一つ漏らす



「そうそう。言い忘れてたけど、自分の部屋に閉じこもるのは辞めなさい。透也が純情なのは、この美人な姉がよぉ~くわかってるから、あの娘の事は忘れて、次の恋を探しなさい。…まぁこの話は帰ってからゆっくりね。では、行って参る!」



急に玄関扉を開けて戻ってきたと思ったら、お別れの台詞にしては詰め込み過ぎて今ひとつ、理解に苦しんだが、沙夜子の勢いに任されるまま、後ろ姿を見送った

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