『断罪予定の悪役令息、なぜか公爵令嬢と取り巻きに囲まれています』──「悪役」と呼ばれる彼が一番まともでした
断罪とは、正義の名を借りた感情が、一人に押し付けられる儀式のようなものだと思っていました。けれど本当は、その場に立つ人間の「器」が露わになる、もっと冷たい審判なのかもしれません。
これは、悪役と呼ばれた侯爵令息が、最後まで勝者の顔をできないまま、ただ困りながら責任を引き受けていく話です。
そして、彼を「救う」のではなく「選ぶ」ことで、自分の人生と国の形を取り戻す公爵令嬢と、その側近たちの話でもあります。
派手な復讐も、痛快な嘲笑もありません。
代わりに、事実と手続きと意思が、静かに空気を塗り替えていきます。
どうぞ最後まで、お付き合いください。
王都の冬は、石畳の冷たさまで律儀だった。空気が澄むほど、城の廊下は音を拾い、誰かの足音や紙の擦れる気配が、過剰なほどにはっきり届く。
ルシアン・アルヴェールは、その廊下の角で立ち尽くしていた。片腕いっぱいに抱えた書類の束が、重さよりも扱いづらさで彼を困らせている。薄い羊皮紙の端が指先からずれて、ふわりと空気を含むたび、心臓が小さく跳ねた。
「……執務室は、こっちだったはずなんだけど……」
独り言は、ほとんど息の形で消えた。宰相の息子、侯爵家の嫡男。その肩書きに似合わない迷子の顔をしているのに、本人だけは深刻だった。ここで紙を落とせば、拾うために屈む。その一瞬が、誰かの歩みを止め、動線を乱す。小さな迷惑を積み上げるのが、彼はどうにも苦手だった。
ちょうどそこへ、雑務係の少年が桶を抱えて曲がってきた。目が合った瞬間、少年の動きが固まる。敬礼の仕方を思い出せず、息を呑むような顔で立ちすくむ。
ルシアンは咄嗟に、書類を抱え直しながら微笑んだ。
「ごめんね。通る? 僕が寄るよ」
少年は慌てて首を振った。「い、いえ、その……、ではなく……」
「いいよ。君の仕事が先だ。桶、重いでしょう」
そう言って壁際へ身を寄せ、通路を空ける。少年が通り抜けるとき、桶の縁がルシアンの袖に触れた。少年は蒼白になって謝りかけたが、ルシアンは小さく首を振った。
「大丈夫。服は洗えるから」
少年が去ったあと、ルシアンは袖を見下ろして、ほんの少し息を吐いた。袖ではなく、少年の表情が気になった。怯えの癖は、王宮という場所が作る。自分のせいではない、と理屈では分かっているのに、心は勝手に責任を背負いたがる。
「……怖がらせちゃったかな」
そのまま数歩進んだところで、別の足音が柔らかく近づいてきた。香の薄い匂い、裾が揺れる気配。ルシアンが振り向くと、公爵令嬢アリシア・ルヴェルディが、いつもの端正な姿勢で立っていた。目が合うだけで場の空気が整う。王宮の中心で育った人間が持つ、静かな重みだった。
「アルヴェール卿。お困りですか」
困っていると言えば困っている。ただ、声に出すほどのことではない、と彼はいつも思ってしまう。
「ええと……執務室に行くつもりで……少し、道を間違えたかもしれません」
アリシアは一度、彼の腕いっぱいの書類に目を落とした。軽く眉が寄る。咎めるのではなく、見落としを許さない人の表情だ。
「その量を一人で運ぶのは不合理です。誰かを呼びましょう」
「呼ぶほどでは……」
「呼びます」
有無を言わせないのに、冷たさがない。アリシアが視線を送ると、遠くの侍従がすぐに駆け寄ってきた。指示は短く、明確で、相手の手間を増やさない。ルシアンはそれを見て、胸の内側が少しだけ軽くなるのを感じた。
「助かります。ありがとうございます」
「礼は不要です。むしろ、こちらが」
アリシアは言葉を切り、ほんのわずかに目を伏せた。
「……最近、王宮内の空気が荒れています。あなたが不用意に傷つかないように、私は気を配りたい」
ルシアンは返すべき言葉を探した。傷つく、という概念が、自分の中ではいつも後回しになる。誰かが傷つかないように動くことは慣れているのに、自分が矢面に立つ可能性には鈍感だった。
「僕は、大丈夫だと思います。ただ……」
ただ、と言いかけて、彼は止めた。自分が「大丈夫」と言うほど、相手の負担が増えると知っている。けれど、アリシアは彼のために負担を背負う覚悟がある。その覚悟を否定するのも、彼は好きではなかった。
「……ありがとうございます。気をつけます」
それだけ言うと、アリシアは小さく頷き、去っていった。残された廊下に、また冷たい静けさが戻る。ルシアンは書類の束を抱え直し、執務室の方向へ歩き出した。迷子にならないように、ではなく、余計な波風を立てないように。
けれど、王宮の波風は、本人が立てずとも立つ。
───
その日から、噂が変質し始めた。最初は些細な囁きだった。
宰相の息子は、丁寧すぎる。 柔らかい物腰は、裏がある。 公爵令嬢に近づくのは、宰相派の影響を王家に及ぼすためだ。
ルシアン自身は、噂というものを処理する術を持たない。書類なら、誤記を見つけて直せる。人員配置なら、詰まりの原因を取り除ける。だが、言葉の毒は形がなく、どこに溜まるのかも分からない。
一方、皇太子レオンハルト・レーヴァインは、噂に形を与える側だった。いや、与えられた形に乗る側と言った方が近い。
「アリシアが、宰相の息子と妙に親しい」
不機嫌は、彼の中でいつも正義の仮面を被る。自分は王家だ。自分が気に入らないことは、国家の不利益に繋がるに違いない。そう思い込むことで、感情は「公」の顔をする。
その感情を支えたのが、反宰相派の若い子息たちだった。
筆頭はカイル・フォン・リーヴェルト。侯爵家の嫡男で、弁が立つ。言葉の組み立てが巧みで、論を立てる姿は若き政治家そのものだった。彼の周囲には、伯爵家のユリウス・メルヴェインが滑らかに立ち回り、同じく伯爵家のロベルト・クラウゼンが強硬な熱を加える。
三人は皇太子の執務室に集い、王都の空気を吸うように言った。
「殿下。宰相家の影響が、王権に及び始めています」
カイルの声は冷静で、だからこそ危険だった。前提が一つ置かれると、そこから先の結論はどれも正しく見える。
「宰相アルフォンスの子が、公爵令嬢に近づく。偶然ではありません。王家の正統に楔を打つ意図がある」
皇太子は机を叩きたかった。だが叩けば子供じみる。代わりに唇を噛む。
「アリシアは……俺の婚約者だ」
ユリウスが、柔らかい笑みで頷いた。
「ゆえに、殿下の不安は国の不安です。殿下が感じた違和感は、政治の嗅覚として尊重されるべきでしょう」
尊重されるべき。そんな言葉は甘い蜜だ。皇太子の胸に沈む不快感が、一瞬で「正当な直感」に変わる。
ロベルトが熱を乗せる。
「今が好機です。宰相派は強い。ならばこそ、旗印が必要だ。殿下が正義を示せば、貴族は従います」
正義。旗印。好機。
皇太子は自分が中心で世界が動く感覚に、少しだけ酔った。幼い心は、責任よりも承認を欲しがる。彼は頷き、言った。
「断罪の場を設ける。宰相の息子を――侯爵令息ルシアンを、王宮の広間で裁く」
カイルの目が細くなる。ユリウスはため息ほどの満足を吐き、ロベルトは勝ち誇ったように口角を上げた。
その決定が下りた夜、王宮の別の場所でも、同じく決定が下りていた。
アリシアの私室に集まったのは、彼女の側近たち。伯爵令嬢マリエル・フロスト、伯爵令嬢ソフィア・カレン、そして子爵令嬢ノア・ベルリーヌ。
「断罪は、来ます」
アリシアの言葉は感情を乗せない。恐れがないわけではない。恐れを「処理」しているのだ。
マリエルは即座に問いを立てた。
「罪状は何です。推測か、事実か。彼らはどちらで殿下を動かしたのです」
ソフィアは手元の帳簿を開いた。数字が整列している。
「現場の混乱は、すべて彼が吸収しています。調整の記録も残っています。証拠として提出可能です」
ノアは、窓の外の暗闇を見つめたまま言った。
「彼は、誰かを踏み台にしません。だから踏み台にされます。……それを止められるのは、私たちです」
アリシアは三人を見渡し、短く頷いた。
「断罪の場で、私たちは感情で戦いません。事実で戦います。王宮の空気を、空気のままにしてはいけない」
その夜、四人は静かに準備を整えた。怒りも、復讐心も、勝利欲もない。ただ、国が壊れない方向へ、物事を戻すために。
そして、当のルシアンは、その準備の渦中にいながら、気づかないまま翌朝も執務を続けていた。
「この書類、ここの数字が一つずれている」
担当官が青くなる前に、ルシアンは続ける。
「大丈夫。たぶん、写し取りのときに一桁落ちただけだ。君が悪いんじゃない。ここを直せば、誰も困らない」
それは優しさではなく、最短距離の実務だった。誰かを責めることは、時間を浪費する。責められた人間は萎縮し、次のミスを生む。なら、直して、流す。その判断が、彼にとっては当たり前だった。
ただ、その当たり前は、政治の世界では「狡猾」に見える。
───
断罪の日、王宮の広間は、冬の光を床に落としていた。高い天井、石の壁、並ぶ貴族たちの衣擦れ。空気の密度が増すほど、言葉は刃になる。
玉座の前に立った皇太子レオンハルトは、胸を張った。ここは自分の舞台だ。正義を示し、国に秩序を取り戻す。取り巻きの視線が背を支える。
ルシアンは呼び出され、定められた位置に立った。視線が刺さる。悪意というより、期待に近い。誰かが「悪」を演じることで、他の誰かが「善」を演じられる。王宮の空気は、その役割分担で回っている。
皇太子が声を響かせた。
「侯爵令息ルシアン・アルヴェール。そなたは宰相の子として、王宮において不穏な影響を及ぼした。公爵令嬢アリシアに不当な接近を試み、王家の正統を揺るがそうとした疑いがある」
疑い。言葉の中に逃げ道がある。その逃げ道を、皇太子は意識していない。逃げ道こそが、未熟さの証拠になるのに。
カイル・フォン・リーヴェルトが一歩前に出た。
「殿下のご懸念は当然です。宰相家は強い。強い者が柔らかい顔をして近づくとき、そこには必ず意図がある。王権を宰相家の影に置くための布石でありましょう」
ロベルトが続く。
「侯爵家は国政の中枢です。その嫡男が、王家の婚約に口を挟むなど前代未聞。看過すれば王権は宰相の傀儡となる!」
ユリウスは穏やかに、しかし逃げ道を塞ぐように言った。
「政治とは、見えない意図が形になる前に摘むものです。殿下の直感が告げた以上、放置は不可能でしょう」
皇太子は満足げに頷き、ルシアンを見下ろした。
「弁明はあるか」
ルシアンは一拍置いた。弁明という言葉が、喉に重い。自分が何かしたのか。何をしたことになっているのか。話が大きすぎて、視界が狭くなる。頭の中に浮かぶのは、執務室の書類の山と、廊下で怯えた少年の顔だけだった。
「……殿下。僕は、アリシア様に不当な接近をしたつもりはありません。ただ、必要なときに必要な話をしただけで……」
皇太子が笑う。
「必要? 誰のための必要だ。宰相家のためか」
ルシアンは否定したい。だが否定すれば、言葉が増える。言葉が増えれば、誰かがさらに興奮し、場が荒れる。彼はそれが怖かった。誰かが傷つくのが怖かった。
「……国のため、です。結果的にそうなるようにと思って」
その言葉が、逆に火に油を注いだ。
「ほら見ろ!」ロベルトが叫ぶ。「国のため、だと? 誰がその判断を許した!」
皇太子は大きく息を吸い、勝利を確信した顔で宣言しようとした。
「よって――」
その瞬間、広間の端から、静かな声が届いた。
「お待ちください」
公爵令嬢アリシアが、一歩前に出ていた。美しいが、飾りではない歩み。背筋が真っ直ぐで、視線が揺れない。王宮の空気が一瞬、彼女に引き寄せられる。
「殿下。そのお話は、どこまでが推測で、どこからが事実ですか」
皇太子の眉が跳ねる。
「アリシア、そなたは――」
「私は、婚約者としてここにおります。しかし同時に、公爵家の娘として、国の秩序に責任を持ちます」
アリシアは視線を皇太子から外さず、淡々と言葉を続けた。
「罪状の提示を求めます。具体的に、いつ、どこで、何が行われましたか」
マリエル・フロストが、アリシアの隣に並んだ。伯爵家の令嬢として、声に躊躇がない。
「殿下。『疑い』という言葉で断罪を進めるのは法にも慣習にも反します。証拠の提出を」
皇太子は言葉に詰まりかけた。カイルが助け舟を出す。
「証拠とは、政治においては状況証拠が――」
「状況証拠は、状況を説明するに過ぎません」
マリエルの声が鋭い。
「説明できない状況を、悪意で補うのは論理ではありません。殿下が示すべきは『行為』です」
ソフィア・カレンが、帳簿を手に前へ出る。伯爵家の名は、数字の重みを背負える。
「行為の話をします。侯爵令息ルシアンは、王宮の実務において、幾度も混乱を防ぎました。これは記録です。各部局の調整、納期の衝突回避、予算の修正案。宰相家の利益ではありません。王宮全体の負担を減らす行為です」
帳簿が開かれ、数字が並ぶ。誰が、いつ、どこで、何をしたか。そこには噂の入り込む隙がない。
ユリウスの顔色が変わった。彼は政治の濁りを知っている。濁りを知る者ほど、透明な事実の怖さも知っている。
ロベルトは反射的に叫ぶ。
「帳簿など、宰相派が作れる!」
ノア・ベルリーヌが、初めて視線を上げた。子爵家の娘の声は、伯爵令嬢ほど権威を持たない。だからこそ、言葉が剥き出しになる。
「宰相派が作れるなら、あなた方も作れるでしょう。作って提出してください。できないのなら、それは『事実がない』という意味です」
広間の空気が動いた。貴族たちの視線が、皇太子側から滑り落ちるのが分かる。人は「強い側」につくのではない。「説明できる側」につく。
アリシアが静かに息を吸い、核心へ踏み込んだ。
「殿下。私に対する『不当な接近』とは何ですか」
皇太子は苛立ちを隠せない。
「そなたが、宰相の息子と親しくしている。それが不当だ」
「親しくしているという言葉で断罪するのですか」
アリシアは眉一つ動かさない。
「私は、彼と必要な会話をしました。国政の話です。民の話です。予算の話です。殿下は、それを『不当』と呼ぶのですか」
皇太子は喉を鳴らした。カイルが割って入る。
「公爵令嬢。あなたは政治に――」
「政治です」
アリシアは遮った。
「政治とは、感情の居場所を確保することではありません。責任を背負うことです」
そして、言葉を落とすように続けた。
「侯爵令息は、私を所有しようとしませんでした。殿下は違います」
広間が凍った。あまりに直截で、だから逃げ道がない。
皇太子の顔が赤くなり、次に青くなる。
「そんな……そんなことは――」
「殿下」
マリエルが淡々と追い打つ。
「あなたは今、証拠ではなく『否定の感情』しか出していません。ここは断罪の場です。感情で裁くなら、あなた自身が裁かれます」
ロベルトが怒号を上げる。
「無礼だ! 殿下に向かって――」
ソフィアの声が、怒号を切った。
「無礼は、根拠なく人を罪に落とす行為です」
ユリウスが口を開こうとしたが、言葉が出ない。政治の濁りは、いつも「皆が暗黙で守る線」に支えられる。だが今、その線を公爵令嬢が公の場で言語化してしまった。濁りは、言語化に弱い。
ルシアンは、そのやり取りを見ながら、別の意味で困っていた。自分のせいで、人が争っている。自分のせいで、王宮の空気が裂けている。誰かが傷つくかもしれない。そんな恐怖が、胸の奥で冷たく膨らむ。
「……あの……」
声が漏れた。誰も聞かない。聞けないほど、場が大きい。
次の瞬間、玉座の奥から、低い声が広間を支配した。
「……もうよい」
王が、立ち上がっていた。
王の名は、テオバルト。老いはあるが、老いが薄めない威厳がある。王が動けば、空気は感情から制度へ変わる。
全員が膝を折る。さざめきが消え、呼吸の音だけが残った。
王は皇太子を見下ろし、淡々と言った。
「レオンハルト。そなたは、断罪の場において証拠を示せなかった。推測を事実のように扱い、感情を公の名で振るった。皇太子としての任に耐えぬ」
皇太子の口が震える。
「ち、父上……!」
王は揺れない。
「本日をもって、皇太子位を解く。廃嫡とする」
言葉が落ちた瞬間、広間の全員が理解した。これは処罰ではない。国家判断だ。
王は続けた。
「ならびに、公爵令嬢アリシア・ルヴェルディとの婚約を、ここに白紙とする」
アリシアの背筋が、一瞬だけ強張った。それでも崩れない。
王はさらに言葉を加える。ここが最も重要な、制度としての慈悲だった。
「公爵令嬢に非はない。婚約は王家の都合で結ばれ、王家の判断で解かれる。彼女の名誉は、王が守る」
皇太子が呻く。カイルの顔が歪む。ロベルトは唇を噛み、ユリウスは目を伏せた。彼らは理解した。皇太子を旗印に宰相派を叩く計画は、王の一言で切り捨てられた。旗印そのものが、器ではないと評価されたのだ。
王の視線が、ルシアンへ移る。
「侯爵令息ルシアン・アルヴェール」
ルシアンは立ち上がろうとしたが、足が重い。自分の名前が、国の決裁の中にあることが怖かった。背負うべきものが、いきなり巨大化する。
「……はい」
「そなたの行為について、罪を示す証拠はない。むしろ、王宮の実務が滞りなく回った背景に、そなたの調整があったことは記録が示す」
王の言葉が褒め言葉に聞こえない。褒められると、責任が増える。
「そなたが望んだのではない。だが、そなたは選ばれた。逃げるな」
ルシアンは喉が詰まった。逃げるな。逃げたことなどないつもりだった。けれど、逃げられない場所へ押し出される感覚が、初めて彼を震わせた。
「……はい」
それだけ言うのが精一杯だった。
───
廃嫡と婚約白紙が告げられた翌日から、王宮は忙しくなった。忙しさはいつも通りだ。だが、忙しさの質が変わる。誰が次の皇太子となるか。反宰相派の影響はどう再編されるか。王宮の空気は、昨日までの「感情の正義」から、今日の「制度の調整」へ戻っていった。
宰相アルフォンス・アルヴェールは、息子に余計な言葉を与えなかった。宰相の声は常に短く、仕事に必要な分しかない。
「ルシアン。しばらくは、余計な場に出るな。記録と実務だけを整えろ」
「はい、父上」
「困るだろう」
宰相は息子の顔を見ない。見れば、父として心が動く。その心の動きが、政治に漏れるのを彼は嫌う。
「困っても、国は待たない。それだけだ」
ルシアンは頷いた。困る。確かに困る。しかし困ることと、やるべきことは別だ。彼はいつもそうしてきた。
ただ、困りの中身が変わっていた。書類の誤記を直す困りではない。誰かの人生に関わる困りだ。
数日後、公爵邸から正式な招待状が届いた。宰相家ではなく、ルシアン個人宛て。手紙を開く指が、わずかに震えた。
会うべきだろう。だが会えば、何かが決まる。決まってしまえば、誰かが戻れなくなる。彼はそれが怖かった。
指定された日、ルシアンは公爵邸の応接室に通された。暖炉の火が静かに揺れ、重厚な家具が沈黙を守っている。
アリシアは、普段と変わらぬ端正さで座っていた。その背後に、マリエル、ソフィア、ノアが並ぶ。取り巻きという言葉が、今日はまるで違う意味を持つ。彼女たちは装飾ではない。決定の担い手だ。
ルシアンは椅子の前で一礼し、座った。手元に置かれた茶の香りが、現実味を与える。
アリシアが口を開いた。
「改めて、お礼を申し上げます。……いいえ、正確ではありません。あなたは何もしていないのに、私たちはあなたに救われた」
「僕は……救った覚えは……」
言いながら、ルシアンは自分の言葉の薄さに困った。覚えがない。だが現実は動いた。現実が動くのは、誰かが何かをしたからだ。自分が「何もしていない」と言うほど、彼女たちの選択を軽んじることになる。
マリエルが静かに言った。
「あなたがしたのは、当たり前の実務です。けれど、その当たり前ができない人間が、上に立とうとしました。だから私たちは、当たり前を当たり前のままにしたかった」
ソフィアが続ける。
「記録は冷たいですが、救いにもなります。あなたが積んだ記録は、私たちの盾になりました」
ノアは、視線を揺らさずに言う。
「あなたが誰かを利用しないから、利用されました。だから今度は、私たちが利用されない形で、あなたのそばに立ちます」
ルシアンは息を呑んだ。話が、大きい。人生の話だ。自分が軽く受け取ってはいけない。
アリシアが、短く結論へ進む。
「私は、あなたの隣に立ちたい」
ルシアンの胸が、冷たくなる。喜びではなく、重さだった。
「……それは、アリシア様の人生です。僕の都合で――」
「あなたの都合ではありません」
アリシアの声は柔らかいが、決めた人の声だった。
「私の都合です。私が選びます。王妃になることが正解だと、誰が決めたのでしょう。私は、国を支える人の隣に立つことを選びたい」
マリエルが淡々と補足する。
「形式としては、政略になります。けれど、意思があります。あなたが『悪役』に仕立てられる構造を、私たちはもう放置しません」
ソフィアが頷く。
「あなたが背負うなら、私たちも背負います。背負うために、私たちはここにいます」
ノアが、最後に言った。
「あなたが困るのは分かっています。でも、その困り方が、私たちがあなたを信じた理由です」
ルシアンは、言葉が出なかった。嬉しいと言うには不謹慎に感じる。拒むと言えば彼女たちの尊厳を踏みにじる。受け入れると言えば、人生を軽く扱うことになる気がする。
彼はただ、責任の形を探した。
「……本当に、これで良かったんでしょうか」
自分でも驚くほど、小さな声だった。だがアリシアは聞き逃さない。
「良いかどうかは、未来が決めます。でも、私たちは今、最も壊れない選択をしたと信じています」
ルシアンは俯き、指先を見つめた。少年の怯えた顔、王の冷たい声、皇太子の歪んだ表情、帳簿に並ぶ数字、アリシアの揺れない視線。それらが一つの線で繋がっていく。
「僕は……誰かを困らせたくないんです」
言ってしまってから、彼はさらに困った。こんな子供じみた言葉を、国の中心で生きる人間が言っていいのか。
だがアリシアは否定しない。
「それがあなたの欠点なら、私はその欠点に国を預けたい」
マリエルが小さく微笑む。
「困らせたくない人が、結局いちばん困る仕事を引き受けるのです。あなたはそれを、逃げずにやってきた」
ソフィアが静かに頷く。
「だから、私たちがいます」
ノアは短く結んだ。
「一人で困らないでください」
ルシアンは目を閉じ、息を吐いた。困りは消えない。消えるはずがない。だが、困りを抱える場所が変わった。孤独の中ではなく、選ばれた責任の中へ。
「……分かりました。受け止めます。逃げません」
その言葉を口にした瞬間、ようやく自分の足が地面に着いた気がした。勝ったわけではない。裁いたわけでもない。ただ、国の決定と、彼女たちの意思が、彼の前に現実として置かれた。それを避けない、と決めただけだ。
窓の外では冬の光が白く差し、庭の木々は静かに立っていた。世界は何も祝福していない。だからこそ、これは祝福ではなく、選択の物語だ。
悪役と呼ばれた彼は、最後まで「自分が正しい」と言わなかった。
ただ困りながら、背負った。
その姿を見て、彼女たちは言う。
あなたがいい。あなたでなければならない、と。
そして物語は、派手な歓声ではなく、暖炉の火の小さな音で終わる。
誰かを裁くための断罪は消えた。代わりに残ったのは、器を測る静かな審判と、選ばれた人間が困りながら立ち続ける日常だった。
──「悪役」と呼ばれる彼が一番まともでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、「断罪される側が正しいかどうか」ではなく、「誰が責任を引き受けられる人間なのか」という一点でした。
声が大きいこと、立場が高いこと、正義を名乗ることは、必ずしも“器”の証明にはならない。むしろ、困りながらも逃げずに立ち続ける人のほうが、ずっと重たいものを背負っているのではないか――そんな感覚から、この話は生まれています。
ルシアンは最後まで、自分を「正しい」と言いません。
勝ったとも、裁いたとも思わない。
ただ、「これで良かったのだろうか」と戸惑いながら、それでも背負うことを選びます。
その不器用さこそが、彼が“悪役”でありながら、最もまともだった理由です。
アリシアとマリエル、ソフィア、ノアも同じです。
彼女たちは誰かに守られる存在ではなく、
「誰を隣に置くか」を自分で選ぶことで、自分の人生と国の形を決めました。
恋愛でありながら、これは同時に“人事”であり“政治”の物語でもあります。
廃嫡や婚約白紙も、ざまあのためではなく、
「適性の評価」として描きたかった部分でした。
罰ではなく、判断。
感情ではなく、制度。
そこに立つ人間の在り方が、そのまま国の姿になる――
そういう断罪を、静かに描けたなら嬉しく思います。
派手な勝利も、喝采もありません。
ただ、困りながらも責任を引き受ける人がいて、
その人を選び取る人たちがいる。
それだけで、世界は少しだけ安定するのだと思っています。
ここまで読んでくださったあなたに、心から感謝を。




