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爆ぜたピアノ

作者: 三來



「ママ、ピアノ習いたい」


 娘のその一言が、私の心の奥底にしまい込んでいた古い箱を、ゆっくりとこじ開けた。


 埃をかぶったその箱の中には、かつての私が大切にしていた夢と、それと同じくらい大きな挫折が眠っている。


「ピアノ、やりたいの?」


 できるだけ平静を装って聞き返すと、娘はこくりと頷いた。その瞳は、キラキラと輝いていて、昔の自分を見ているようだった。


 その日の夜には、庭の物置から古いアップライトピアノを引っ張り出した。


 黒光りするその姿は、昔と少しも変わっていない。


 そっと鍵盤の蓋を開けると、懐かしい木の匂いと、微かなカビの匂いが混じり合って鼻をくすぐった。


 鍵盤は黄ばみ、ところどころに小さな傷がついている。それは、私がピアノに情熱を注いでいた日々の勲章であり、同時に、逃げ出した過去の証でもあった。


 逃げ出しても、捨てられずに残しておいたこれが、娘の役に立つのなら少しは報われる。


 整備していないピアノが果たして鳴るだろうかと、おそるおそる、鍵盤に指を置いてみる。


 ド、レ、ミ、ファ、ソ。


 頭の中では軽やかに音が鳴り響くのに、実際の指はまるで他人のもののようにぎこちなく、重々しい。


 音が鳴ることに安堵したが、それよりも以前とは比較にならないほど動かない指にため息がでた。



 昔は、この指先から溢れ出す音色が私の世界のすべてだった。


 コンクールのための練習、来る日も来る日もピアノに向かい、指が痛くなるまで鍵盤を叩き続けた。音大に入って、ピアニストになる。それが、私の揺るぎない夢だった。


 その夢は、あるコンクールでの決定的な失敗によって、崩れ去った。


 将来を嘱望され、誰もが私の成功を疑わなかったコンクール。

 その大舞台で、私はプレッシャーに押しつぶされ、頭が真っ白になった。


 指は震え、鍵盤の上を彷徨う。練習では完璧だったはずの曲が、無惨にも途切れ途切れになる。


 屈辱と絶望に、目の前が真っ暗になった。あれだけ情熱を注いだピアノが、急に恐怖の対象になった私は、それ以来、ピアノの蓋を固く閉ざし、二度と開けることはなかったのだ。


 

 ◇


 

 娘がピアノ教室に通い始めてから、私の日常にピアノの音が戻ってきた。


 最初はぎこちなかった娘の指使いも、少しずつ滑らかになっていく。

 楽しそうに練習する娘の姿を見ていると、私の心の中に、ちいさな火が灯るのを感じた。


「もう一度、弾いてみたい」


 その気持ちは日増しに強くなるのに、どうしても一歩を踏み出せないでいた。


「今更やったって、何になるの?」

「主婦の私には、そんな時間ないわ」


 言い訳ばかりが頭をよぎり、行動に移す勇気が出なかった。


 そんな日々を過ごした一年後、娘の初めてのピアノの発表会が開かれた。

 小さな舞台の上で、緊張しながらも一生懸命に鍵盤に向かう娘。

 その姿は、あまりにも眩しかった。演奏が終わると、会場からは温かい拍手が送られる。


 娘は、はにかみながらも、誇らしげに一礼した。



 その瞬間、私の心に閉じ込めていた何かが、堰を切ったように溢れ出していた。


 私も、最初はただ純粋にピアノを楽しんでいたはずなのに。いつから、ピアノは私を縛り付ける鎖になってしまったのだろう。


 帰り道、偶然にも、昔お世話になったピアノの先生に再会した。先生は、少しも変わらない優しい笑顔で私に話しかけてくれた。


 私がピアノから離れてしまったことを話すと、先生は少し私の顔を見つめた後、静かに言った。


「ピアノはね、いつでも誰でも自由に弾けるの。弾きたくなったのなら、いつでもいいのよ」


 その言葉は、私の心に、じんわりと染み渡っていった。



 家に帰ると、私は吸い寄せられるようにピアノの前に座った。そして、ゆっくりと鍵盤に指を置いた。


 やはり指が思うように動かない。もどかしくて、何度もため息をついた。


 それでも、諦めなかった。


 毎日、娘が学校に行っている間の短い時間、家事の合間を縫って、少しずつ練習を重ねた。

 一日十分でも、鍵盤に触れる時間を作った。すると、固くこわばっていた指が、少しずつ昔の感覚を取り戻していくのがわかった。


 忘れていたメロディーが、指先から蘇ってくる。それが何よりも嬉しかった。



 数ヶ月後、地域の小さな音楽会が開かれることになり、私は思い切って参加を申し込んだ。

 

 人前で演奏するのは、何年ぶりだろう。心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張する。

 それでも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


 舞台に上がり、ピアノの前に座る。深呼吸を一つして、鍵盤に指を置いた。


 

 弾き始めると、もう周りの音は何も聞こえなかった。

 ただ、自分の指先から生まれる音色と、その響きだけが身体に入ってくる。


 完璧な演奏ではなかったかもしれない。いくつかミスもした。

 でも、そんなことはどうでもよかった。一音一音に心を込めて、ただひたすらに、ピアノを弾く喜びを噛み締めていた。


 演奏が終わると、一瞬の静寂の後、会場から温かい拍手が沸き起こった。

 その音は、まるで祝福のシャワーのように、私の全身に降り注いだ。私は、深く、深く、頭を下げた。


 舞台を降りても、涙が溢れて、止まらなかった。



 ピアノはもう、私にとって「やらなきゃいけないもの」ではなくなった。



 頭の中で、あの日のピアノの音色が、まるで打ち上げ花火のように、爆ぜるように、私の心をときめかせた。


 そう、これからは、このときめきを道しるべに、私は私のための音を奏でていくのだ。

30分ドローイング

テーマ『爆ぜたピアノ』


企画に参加させていただき、書かせていただきました。

楽しいお題をありがとうございました!!

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