第8章
避難民たちと別れた俺たちは、彼らが捨ててきたという村の入り口に立っていた。
夕暮れの赤い光が、荒廃した村を不気味に照らし出している。
家々は半壊し、畑は黒く変色して、あの甘ったるい腐敗臭が風に乗って鼻をつく。
まるで、村全体が巨大な虫歯になってしまったかのようだ。
「……ひどい」
フィリアが、唇を噛みしめて呟く。
彼女の瞳には、騎士としての怒りと、無力な自分への憤りが渦巻いていた。
その時だ。村の奥から、無数のうめき声と共に、奴らが姿を現した。
虫歯兵。一体や二体じゃない。
ざっと見て、百は下らない大群だ。
奴らは、俺たちの存在に気づくと、一斉にこちらへと向き直った。
「くっ……!」
フィリアの顔から、血の気が引いていくのがわかる。
「佐々木さん! お願いします、また磨いてください!」
その声は、懇願に満ちていた。
今の彼女にとって、俺の歯磨きが唯一の希望なのだ。
「わかってます!」
俺は頷き、懐から『浄化の歯ブラシ』を取り出す。
迫りくる虫歯兵の大群を前に、俺たちは再び、あの奇妙な儀式を行った。
シャコ、シャコ……。
フィリアの口内で、歯ブラシを動かす。
だが、今回は何かが違った。
彼女の身体を包む光が、明らかに弱い。
前回のような、弾けるような輝きがない。
まるで、電池の切れかかった懐中電灯のようだ。
「あれ? おかしいな……」
パワーアップはした。薄荷色のオーラも、かろうじて立ち上ってはいる。
だが、その輝きは以前の半分にも満たないように見えた。
「なんか……体が、重い……」
フィリア自身も、その変化に困惑している。
それでも、彼女は剣を構え、覚悟を決めたように敵の群れへと突っ込んでいった。
戦いは、熾烈を極めた。
フィリアは確かに強い。だが、前回の無双っぷりは影を潜め、一匹一匹を倒すのに、かなりの手間取っている。
虫歯兵の攻撃を、紙一重でかわす場面も一度や二度じゃない。
見ている俺の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。
「はあっ、はあっ……!」
フィリアの息が上がっていく。
オーラの輝きが、さらに弱まっていくのが見えた。
まずい、このままじゃジリ貧だ。
「どうして……? なんで、力が出ないの!?」
彼女の悲痛な叫びが、戦場に響く。
その隙を、敵は見逃さなかった。
一体の虫歯兵が、フィリアの背後に回り込む。
「危ない!」
俺の声に、フィリアはかろうじて反応し、攻撃を避ける。
だが、体勢は完全に崩れていた。
「フィリアさん、一旦こっちへ!」
俺は叫び、彼女を下がらせる。
そして、再度の歯磨きを試みた。
しかし。
歯ブラシは、かすかにチカっと光っただけだった。
フィリアの身体を包むオーラは、ほとんど現れない。
パワーアップなど、していないに等しい。
「……そんな」
フィリアの顔が、絶望に染まる。
その間にも、虫歯兵の包囲網は、確実に俺たちを閉じ込めていく。もう、逃げ場はない。
「もう……だめなんですね」
彼女は力なく、その場に膝をつきそうになる。
「やっぱり私は……役に、立てない……」
「そんなことない!」
俺は、思わず叫んでいた。
「大丈夫です! きっと、何か方法があります!」
俺の言葉に、フィリアは虚ろな瞳を向けた。
「どうやって……? もう、あの力は使えないのに……」
そうだ。もう、あの力は使えない。
でも、だからなんだ?
「一人でダメなら、二人で考えればいいじゃないですか!」
俺は、フィリアの前に立つ。
武器も持たない、ただの一般人だ。
足はガクガク震えている。
だけど、ここで引くわけにはいかない。
「俺は歯磨きしかできません。でも、それなら誰にも負けない。フィリアさんは、王国一の騎士なんですよね? だったら、俺の知らない戦い方を知っているはずだ。二人で、一緒に解決策を見つけましょう」
俺の言葉に、フィリアの瞳が、わずかに揺れた。
絶望に閉ざされていた彼女の心に、小さな光が灯ったように見えた。
「……本当に、一緒に?」
か細い声が、俺に問いかける。
「はい、必ず」
俺が力強く頷き返した、その時だった。
四方から、虫歯兵たちが最後の距離を詰めようと、一斉に動き出す。
万事休すか。
そう思った瞬間――。
チカッ。
俺のズボンのポケットの中が、微かに、しかし確かな光を放った。
ポケットの中が、まるで俺たちの覚悟に応えるかのように、淡い輝きを放っていた――。