第7章
昨夜、フィリアさんとはそれ以上会話が弾むことはなかった。
彼女は心を閉ざした貝のように、俺の言葉をことごとく跳ね返し、俺たちは気まずい夕食を終え、それぞれの部屋に戻った。
そして、一夜明けた今も、その雰囲気は続いている。
宿屋を出て、再び街道を歩き始めた俺たちの間には、相変わらず分厚い氷の壁が存在していた。
どうしたものか。このままじゃ、ただの気まずい二人旅だ。護衛する側もされる側も、これじゃあ精神がもたない。
俺がそんなことを考えていると、道の先から、何やら騒がしい一団がこちらへ向かってくるのが見えた。
荷物を満載した荷車を、痩せた馬が引き、その周りを疲れ果てた表情の人々がとぼとぼと歩いている。
老人、女、そして小さな子どもたち。誰もが、その顔に絶望の色を浮かべていた。
避難民、か。
俺たちの横を通り過ぎようとする一団に、フィリアが声をかけた。
「失礼ですが、何かあったのですか? 皆さん、どちらへ?」
その声には、騎士としての責任感が滲んでいる。
荷車を引いていた、農夫らしい日焼けした老人が、力なく顔を上げた。
「……騎士様かい。見ての通り、村を捨ててきたところさ。もう、あそこには住めねえ」
「村が? いったい何者に?」
「『虫歯軍団』に、やられちまったんだ。畑も、家も、何もかも……。作物はみんな黒く腐っちまって、甘ったるい嫌な匂いが立ち込めてる。あれじゃ、もう一年は何も育たんだろう」
老人の言葉に、フィリアの顔が険しくなる。
俺も、事態の深刻さを改めて認識する。
虫歯兵というのは、ただ人を襲うだけの怪物じゃない。
土地そのものを腐らせ、生活の基盤を根こそぎ破壊する、まさに災厄そのものなんだ。
「他の場所も、同じような状況だと聞いています」
別の女性が、やつれた顔で口を挟んだ。
「なんでも、『虫歯魔王カリエス』の右腕だとかいう『四天将』とかいう奴らが、各地で一斉に暴れ回ってるらしくて……。このままじゃ、王国全体が奴らに食い尽くされちまうよ」
虫歯魔王カリエス。四天将。
ベタな設定てんこ盛りだが、状況は笑い事じゃない。
この世界は、俺が思っている以上に、深刻な危機に瀕している。
「何とかしなければ……」
フィリアは、騎士としての使命感に燃え、拳を握りしめる。
だが、その瞳の奥に、すぐに不安の影がよぎった。
「でも、あの力がなければ……」
そう呟く彼女に、避難民の老人が心配そうな目を向けた。
「騎士様も、無理はしなさるな。あんたたちも、早く街へ逃げなさい。奴らは、本当に手に負えねえ」
その時だった。
「うえーん、いたいよぉ、いたいよぉ……」
荷車の上に乗っていた小さな男の子が、頬を押さえて泣きじゃくっている。
「どうしたの、坊や」
「歯が、歯が痛くて眠れないんだ……」
母親らしき女性が、困り果てた顔で息子の頭を撫でている。
その光景を見た瞬間、俺の身体は無意識に反応していた。
「あ、それ虫歯ですね。どれ、ちょっと見せてごらん。応急処置なら……」
俺は子どものそばに駆け寄り、その口の中を覗き込もうとして、ハタと動きを止めた。
……そうか。
そうだった。
俺は、目の前の人々の顔を改めて見渡す。
誰も彼も、歯の色が少し黄ばんでいたり、歯茎が腫れぼったかったりする。あの老魔道士も、このフィリアさんも、そうだ。
この世界には、ないんだ。
歯ブラシが。歯磨き粉が。デンタルフロスが。フッ素が。
そもそも、「歯を手入れする」という概念そのものが、存在しないんだ。
俺にとっては当たり前の、毎日欠かさず行う口腔ケアが、ここでは奇跡か魔法の類に等しい。
衝撃の事実に、俺は愕然とした。
「……この世界の人たちは、歯の手入れの仕方を知らないんだ」
俺の口から、呆然とした呟きが漏れる。
その言葉に、隣にいたフィリアが、不思議そうな顔でこちらを見た。
「歯? それが、何か関係あるんですか?」
彼女の純粋な疑問が、雷のように俺の頭を撃ち抜いた。
関係あるに決まってるだろ。
大ありだ。
虫歯魔王。虫歯軍団。そして、歯磨きの概念がない世界。
点と点が、今、ようやく一つの線で繋がった。
俺がこの世界に呼ばれた、本当の意味が、少しだけ分かった気がした。




