第1章
「……いや、違う。断じて違う」
深夜のコンビニ。俺、佐々木淳は、ずらりと並んだ歯ブラシの前で腕を組み、誰に言うでもなく呟く。
蛍光灯の白い光が、色とりどりのパッケージを無機質に照らし出している。
外は静まり返り、店内に流れる気の抜けたBGMだけがやけに耳につく。
「毛の硬さ『やわらかめ』は、歯茎への優しさを謳うあまり、肝心のプラーク除去能力において著しく劣る。これはまやかしだ。真の口腔衛生は、時に非情なまでの決断を必要とする」
手に取った歯ブラシを棚に戻し、今度は隣の列に視線を移す。
理想の一本を求める旅は、いつだって真剣勝負だ。
ちなみに『かため』は論外。
歯のエナメル質を傷つけ、知覚過敏を誘発する悪魔の所業。許されるべきではない。
そう、答えは常に一つ。
「やっぱり『ふつう』。これこそが、プラークコントロールと歯周ポケットへのアプローチを両立させた、黄金比……!」
これだ。これしかない。
俺は完璧なフォルムを持つ一本を手に取り、満足げに頷く。
メーカー推奨の交換時期は一ヶ月だが、俺は三週間で替える。
毛先が開く前に替えるのが、デキる男のジャスティスだ。
完璧な一本を手に入れた満足感に浸りながら、レジへと向かう。
店員は眠そうな目でバーコードをスキャンしている。
彼の歯茎は少し後退気味に見える。
おそらくブラッシング圧が強すぎるのだろう。
教えてあげたい衝動をぐっと堪える。
大きなお世話以外の何物でもないからな。
「お会計、248円になりまーす」
「はい」
ポケットから財布を取り出そうと、腰を屈めた、その瞬間だった。
ツルッ。
え?
まるでコントみたいに、俺の足はコンビニの磨き上げられた床の上を滑った。
体勢を立て直そうと必死に腕を振るが、無情にも俺の身体は重力に従う。
スローモーションのように世界が傾き、手から滑り落ちた『ふつう』の歯ブラシが宙を舞うのが見えた。
ガッシャーン!
派手な音を立てて、俺はレジ前のガムやミントが並んだ陳列棚に突っ込んだ。
棚から崩れ落ちてくる大量の商品。
ミント、イチゴ、ソーダ味……様々なフレーバーのプラスチックケースが、無慈悲に俺の頭や背中に降り注ぐ。
床に散らばるのは、無数の歯ブラシ、歯ブラシ、歯ブラシ。
どうやら俺は、転んだ拍子に歯ブラシコーナーの棚までなぎ倒してしまったらしい。
店員の悲鳴が遠くに聞こえる。
後頭部を強打したのか、視界がぐにゃりと歪み、急速に暗転していく。
(やばい……弁償、いくらになるんだ……?)
それが、俺の最後の思考だった。
◇
……ひんやりとする。
意識がゆっくりと浮上してくる。
最初に感じたのは、背中に伝わる石の冷たさだった。
コンクリートとは違う、もっと古めかしい、硬質な感触。
次に、鼻腔をくすぐる独特の匂い。
少し黴っぽくて、乾燥した草のような、そして何かの油が燃えるような匂い。
パチ、パチ……。
耳元で、何かが爆ぜる音が断続的に響いている。
ゆっくりと目を開けると、そこはコンビニではなかった。
薄暗い、石造りの部屋。壁には松明がいくつも掲げられ、頼りないオレンジ色の光が、俺の知らない空間をぼんやりと照らしている。
天井はドーム状に高く、床には複雑で巨大な魔法陣のようなものが描かれていた。
状況がまったく理解できない。
ドッキリか? にしてはセットが本格的すぎる。
床の石畳のひび割れ一つ一つに、本物としか思えない年季が感じられる。
何より、あのコンビニの店員はどこへ行った?
「一体、どうなって……」
俺が混乱しながらも半身を起こすと、部屋の奥の影から、ゆったりとした足音が近づいてきた。
現れたのは、映画でしか見たことのないような人物。
床まで届きそうな長いローブ。
白く豊かな髭をたくわえ、手には先端に水晶玉が埋め込まれた杖。
典型的な、絵に描いたような「魔法使い」スタイルのご老人だ。
「おお……!」
老人は、俺の姿を認めると、カッと目を見開き、感動に打ち震えるような声を上げた。
その手にある杖が、微かに光を放っている。
「 なんということじゃ! ついに、ついに召喚は成功した! この日をどれほど待ちわびたことか!」
老人は杖を天に突き上げ、歓喜の声を張り上げる。
その興奮っぷりに、俺は完全に置いてけぼりだ。
「あの、すみません。ちょっと状況が飲み込めないんですけど……」
「ワシはこのブラッシュ王国にて宮廷魔道士長を務める者! そして、あなた様こそが、我が国を、いや、この世界を『虫歯魔王カリエス』の脅威から救うために召喚されし、伝説の勇者様に相違ない!」
「はあ、勇者……?」
あまりにも非現実的な単語のオンパレードに、もはやツッコむ気力も湧いてこない。
虫歯魔王? ブラッシュ王国? なんだそれ。歯磨き粉の新しいブランド名か?
「人違いだと思いますけど」
「いや、人違いなどでは断じてない! その澄んだ瞳……いかなる偽りも見抜く、純粋な魂の輝き! その凛々しき立ち姿! あなた様こそ、300年の時を経て我らの祈りに応えてくださった、正真正銘の勇者殿じゃ!」
澄んだ瞳ねえ。ただのドライアイ気味なだけなんだが。
それに凛々しき立ち姿って、さっきまで床にぶっ倒れてましたけど。
このじいさん、相当目が悪いか、もしくは都合のいいフィルターでもかかっているらしい。
「まあ、そういうことにしておきましょう。で、勇者である俺は、これからどうすれば?」
とりあえず、話を進めることにした。
この非現実的な状況、下手に抵抗するより、流れに乗ってしまった方が早そうだ。
俺の几帳面な性格が、目の前のカオスをいち早く整理したがっている。
「おお、話が早くて助かる! さすがは勇者殿!」
老魔道士は満面の笑みで頷くと、俺に手を差し伸べてきた。
「まずは、あなた様に授けるべきものがある。ささ、こちらへ。伝説の武器が、あなた様を待っておりますぞ」
「武器、ですか」
言われて立ち上がると、ポケットに何か硬くて四角い感触があるのに気づいた。
まあ、なんだっていい。
今は、このじいさんの言う「伝説の武器」とやらを拝ませてもらう方が先決だ。
どうせ「炎の剣」とか「雷の槍」とか、そういう中二病全開のやつに決まってる。
俺がそんなものを使いこなせるわけないんだが。
「では、案内していただきましょうか。魔道士さん」
俺は内心でため息をつきながら、この胡散臭い魔法使いの後に続くことにした。