第5章 悟得
しばしの沈黙が続いた
確かに、俺は教師ではない
この学校の清掃業務と、放課後に行われる生徒たちの清掃を監督する権限を少し与えられているだけだ
だが、そんなことは大した問題ではない
俺は落ち着いた口調で言った
「肩書きなんかどうでもいい。俺は一度教壇に立った人間だ。生徒たちを正しい道に導く使命があった。それを理解できないクズ共に邪魔されただけさ」
「元...教師だったんですか?」
「そうだ。君の得意な化学の教師だったよ。だが、俺の指導法を『体罰だ』『行き過ぎだ』と騒ぐ奴らにその地位を奪われた。分かるか?奴らもまた『非常識』だったんだよ。『非常識』の味方をする奴らも『非常識』だ。そういう人間はな、表では善人ヅラをしているから余計にタチが悪い。そこで俺は学んだ。『非常識』を浄化し続けるには、正攻法じゃ実現できないことをね。だから俺は、こうして清掃員として学校に携わることにしたんだ」
彼女の顔からは先ほどの怯えが消え、代わりに怒りの表情が浮かんでいた
「そんな理由で...西村さんを...!」
「彼女は浄化されるべき存在だった」
「死んだとしても構わないと思ってたんですか!?」
「どうでもいい。その人間から『非常識』が浄化されさえすれば、後は死のうが生きようが、俺にとっては大した問題じゃない。俺をイジメていた奴や西村は、きっと死ぬ事でしか浄化できない格段に『非常識』な存在だったんだよ」
「そんな事...許されるはずない!」
「君の方こそ、何をそんなにムキになっている?昨日も伝えたはずだ。君は彼女らを恨んでいた。殺したいとさえ思っていたはずだ。それが叶ったんだ。善良で『常識』のある君の行く道を阻むものは、もう何もない」
彼女の目には、再び涙が浮かんでいる
風に煽られた彼女の頬に、夜の闇へ溶け込むように一粒の涙が伝い落ち、屋上の床に小さな染みを作った
「あなたは...何も分かってない」
「何だって?」
「私は、西村さんや鴨田さんを殺したいと思ったことなんかない!彼女たちは...私の大事な...かけがえのない友達だった!」
「友達?金を取られ、蹴られ、万引きを強要されるのが友達か?」
「確かに...私は彼女たちからイジメに遭ってた。けどそれは...私の責任でもあるの!私が...西村さんを...裏切ったから...」
「裏切った...?」
「そうです...1年生の時、私たちは3人組でいつも一緒にいた。入学後すぐに意気投合したんです。そしたらある日、西村さんが相談してきたんです。好きな人ができたって。告白したいから協力して欲しいってお願いしてきました。だから私と鴨田さんは、彼女の意中の男子に近づきました。仲人的な役割を担うために」
俺は視線を落とし、彼女の話を浴びた
「でも...そうしている内に、私も...好きになっちゃったんです...その彼の事が。いけない事だって分かってました。分かってたけど、気持ちを抑えきれなくて..気付いたら先に告白していました。そしたら彼もOKしてくれて...しばらくこっそり付き合ってて...。でもそれが鴨田さんにバレました。内緒にしてて欲しいって頼んだけど、彼女は西村さんに伝えてしまった。それ以来、彼女たちは私をイジメの標的にするようになりました。彼にも相談しましたが、そんな面倒な事に巻き込むなと言われて...その後すぐ振られました。私もそれから塞ぎ込むようになって、コンタクトからメガネに変えて、髪もショートにして、自分を必死に隠そうとして...だから...私が悪いんです。私の責任なんです...」
彼女の言葉が途切れると、屋上に何度目かの沈黙が広がった
俺はこれから正田をどうするべきだろうか?
浄化の手口を知られてしまった以上、選択肢は限られているように思える
再びゆっくりと、俺は口を開く
「正田さん、どんな理由があろうとイジメはイジメだ。俺はイジメられている生徒を見過ごすことなんて出来ない」
俺は間髪を入れずに捲し立てる
「君は、俺と同種だ。善良で『常識』のある人間だ。現に一昨日、俺にちゃんとお礼を言いに来たじゃないか!君からの感謝をもらって俺は感動した!俺が『非常識』を浄化したお陰で、『常識』のある人間の人生が救われたんだって!これこそが俺が目指す世界なんだって!だが、この世はまだまだ『非常識』で溢れかえってる。君なら理解できるだろ!?感じるだろ!?だから正田さん、一緒にやらないか?俺と君で、世界を変えるんだ。まずはこの学校から、『非常識』のクズ共を駆除しよう!」
俺は興奮を抑えきれず、早口になっていった
「君には全てを話そう。この学校にはな、生徒に知られていない、かつ今は使われていない地下教室があるんだ。昔の理科室だった場所さ。俺は西村たちにそこを清掃させた。清掃員には学校中の鍵が渡される。その教室は使われてないから掃除する必要はないが、鍵はまだ残ってたんだよ。俺はそこに目をつけた。その教室には生徒も教師も寄り付かない。まさに『非常識』を浄化するための場所だ!完璧じゃないか?嘘じゃない。今から連れて行って見せてやろう。明日から二人で、この学校を変えていくんだ!俺たちならできるさ!なぁ、一緒にやろう!」
彼女は、俯いたままどこか虚な目をしていた
まるで俺の言葉など、何も響いていないかのように
彼女は俺の目に視線を移して言った
「本当にあなたは...何も分かってないですよ」
彼女が一歩前へ踏み出し、俺に訴えかける
「西村さんの好きな人を奪った私だって...あなたの言う『非常識』なんじゃないんですか...?自分の利益のために、私は一度西村さんを傷つけました。であれば...私も浄化されるべき対象ですよね?そうなれば...あなただって同じです」
「...何が言いたい?」
「あなたは、『非常識』を抹殺したいという自分の勝手な欲望を満たすために、多くの生徒を傷付けた。そして今日、人を殺したんです。それが世の中のためだなんて言わせませんよ!だって...だって私は...」
彼女は真っ直ぐな視線を俺に向けている
その目には、ハッキリとした敵意を感じずにはいられなかった
「私は...西村さんと、鴨田さんと、仲直りしたかったんです。ちゃんと謝って...また出会った頃にように...3人で笑い合って...」
彼女の目が涙でいっぱいになり、滝のように流れ落ちる
月明かりに照らされた涙の輝きは、夕日に照らされたものとはまた違って見えた
「でも...それももう出来ない!もう二度と!謝ることだって...西村さんとは...理沙とは...もう話すことさえ出来ない...!」
そう言うと、彼女は泣きながら両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた
屋上で響く、彼女の泣き声
俺はその声がだんだん遠くなっていくのを感じるのと同時に、次第に自分の思考の渦に飲まれていく感覚を覚えた
正田優子は...「非常識」?
そして俺も...この俺も、「非常識」?
誰よりも「常識」を愛し、誰よりも「非常識」を憎んでいた俺が?
俺は道を間違えたのか?
いつ?
どこで?
…いや...違う
そうか...そういう事だったのか!
俺は...間違っていた
「常識」な人間と「非常識」な人間が交錯していると思っていたこの世界
でも、そうじゃない
この世は全て...「非常識」で満たされているのだ!
俺を理不尽にイジメ続けていた谷口
それを知っていながら黙殺したクラスメイトと教師共
周囲を気にせず電車の中で騒ぐ高田と岡本
友達の意中の異性を横取りする正田
その腹いせに複数でイジメを仕掛ける西村と鴨田
どいつもこいつも「非常識」だ!
俺という、唯一の「常識」を除いて!
そうだ...俺は...最初から、浄化し尽くすべきだったのだ
この学校を丸ごと!
この世界の全てを!
この世で唯一「常識」を持ち合わせているこの俺が!
この時、俺はそう確信した
本物の悲しみに打ちひしがれ、泣きじゃくる正田の前で、俺は一人、静かに笑っていた