膨るる胃の腑に足らぬもの
佐倉教授が、執務机でお昼ごはんを食べている。珍しく、手作りのお弁当のようだ。
プラスチックの大きな弁当箱は、赤漆色の網代編みを模したデザイン。ぎっしりと詰まった惣菜は彩りも良い。
雑穀ご飯に、紅生姜を添えた卵焼き。一口サイズの焼き鮭。青菜のお浸し、人参と蓮根のきんぴら。煮しめは椎茸とじゃが芋、結び蒟蒻。そして、わさびをちょんと乗っけた、牛のカットステーキ。
「教授、美味しそうなお弁当ですね」
僕が言うと、曖昧に佐倉教授は笑った。そこへ、
「十一月二十二日……津田の言うところの、毎年恒例の津田弁当の日ですね」
と、二木が口を挟んだ。毎年恒例の津田弁当の日ってなんだろう。
というか、津田の手作りなのか、この弁当。
「あぁ、まぁ、そう」と結び蒟蒻を齧りながら歯切れ悪く答える佐倉教授に、
「あ、こちら、缶コーヒー、差し入れです」
二木は加糖コーヒーの缶を差し出し、続けて言った。
「お誕生日おめでとうございまぁす、佐倉教授ぅ」
「止せやい、なんで俺の誕生日知ってるんだよ気色悪い」
ふざける二木を嫌がりながら、甘いコーヒーを素直に受け取り、さっそく飲んでいる。毎年恒例って、そういうことか。教授と津田は、津田が大学院に入る前からの知り合いで、家も同じ団地だと聞いている。公私にわたり、何かと近しい仲なのだろう。
それこそ、誕生日を祝い合うような。……確かに二木は何で教授の誕生日知ってるんだ?
「……今はお茶のほうが合うと思いますけど」
二木が、あまり箸の進んでいない弁当を指して言う。
「良いんだ。……そりゃ、津田の弁当は旨いし、腹いっぱいになるよ、でも」
あいつの、この弁当に、俺の誕生日を祝おうという意図は無いんだよ。
と吐き捨てた。
「何か、あったんですか」
僕が訊ねると、
「いい歳こいて恥ずかしい話だがな」
教授はご飯をもぐもぐ食べつつ答えた。
「……明日さ、祝日で休みだろ? まぁ、俺の誕生日にかこつけてな、みっ君といい店に食事に行こうと思ったんだよ、俺は。それで昨日、あいつの帰り際に声かけたらよ、“僕は行かない。一人で食べに行けば良いでしょう。僕には貴方の外食に同伴する理由が無い”って言いやがった。そのくせ今朝、弁当渡してくるんだぜ。何のつもりだって訊きゃぁ、“毎年、作ってるじゃないですか”って」
教授が声色を変えてまで津田の口真似をする。あんまり似てなくて逆に面白いんだけど、笑える状況じゃない。
「あ、俺は昨日、津田とデパートに行きました」
ん? 二木のやつ、突然何を言い出したんだ?
「彼奴、肉売り場ですごく時間がかかってた」
二木が笑う。
「いや、どういうことだよ」
教授が頭の上に?マークを大量に浮かべている。僕の頭の中も、?でいっぱいだ。
「津田も、そういう事実しか言わない。……それじゃ何も伝わらないっすよね」
「二木、頼む。分かるように言ってくれ」
「津田は昨日……二十一日の夕方、俺の最寄り駅近くのTMデパートに行きました。津田の家の近所には、○○激安スーパーも△△格安スーパーもあるのに」
「……わざわざ、このステーキ肉を買いに?」
二木は教授に肯いた。
「そうですよ」
「……それで?」
ステーキ肉は確かに今日の佐倉教授の弁当のために選び抜いたものだということは分かった。というか、それしか分からん。
「端折りつつ普通に説明すると、そのまま津田に家に招かれたんで、そのまま津田ん家行きました。俺も気になることだらけだったので。それで色々聞き出して、二十二日が教授の誕生日で、弁当を作って渡すのがもう何年も恒例になっていること。わざわざ外食して祝ったことがないのに、二十一日の下校時に、突然それらしき誘いを受けて戸惑ったこと……自分は二十二日の朝から数日、用事で居ないことなど、答えてくれました」
いや、津田からそこまで聞き出すまで、相当骨が折れただろうな。
「……そして、今朝、津田から相談を受けました」
とトークアプリの画面を見せてきた。
“昨晩はありがとう。弁当は無事に作れた。ただ、気になることがあるんだ。できたら相談に乗ってもらえないか? 朝早くからすまない。”
二木が、時間は気にしなくていい、話を聞くよと返信した後、
“ありがとう。今朝、弁当を千萱の家に届けたら、「何のつもりだ」と訊かれたんだ。寝起きの不機嫌さとは明らかに違う。当日の朝、弁当を届けるのも毎年のことだから、家を訪れたことは彼の態度とは無関係と思う。彼の機嫌を損ねたのは僕の言動だろう。君が昨晩教えてくれた通り、食事の誘いを断った際の僕の返答のせいだ。
僕はどうしたらいいんだろう。”
誘いの断り様については、二木が説教したようだ。
二木は、津田が今朝、佐倉教授に何と返事をしたか確認した上で、丁寧に返信してやっている。
食事の誘い断っといて、毎年のことだから弁当作ったって言っちゃったわけでしょ?
それじゃお前、佐倉教授の誕生日を祝うという気持ちもないまま、決まった日付に豪華な弁当を拵えているようにしか見えないよ。まるで機械作業みたいだ。そんなもの貰っても素直に喜べないよ。
二木の返信から数分の間があって、津田が答えている。
“そういうことか。それではあの弁当は、彼にとっては不快な代物だろう。何か飲み物、例えば、彼が仕事中に好んで飲む◇◇の加糖珈琲を、差し入れてあげてくれないか? たぶん彼は、それがあれば弁当を流し込んでくれるから。重ね重ね、面倒をかけて申し訳ない”
佐倉教授は、複雑な面持ちで、缶コーヒーを眺めている。
「確かに好きだけどよ、このメーカーの甘いコーヒー」
佐倉教授の呟きに、二木がため息をついている。
……ガキの喧嘩かよ。津田光研二と佐倉千萱め。
「津田は、今まで千萱とは……あ、失礼。佐倉教授とは祝い事で共に外食をしたことがない。そう言っていました。だから彼奴は、佐倉教授がご自身の誕生日に、まさか自分と食事を楽しもうとしてるなんて思わなかったみたいですね。自分の誕生日に美味しいものを食べるのは、まぁ、彼でも有り得るだろうが、なぜ僕を誘う? 高級レストランに一人で行くのがそんなに躊躇われることか? って本気で首傾げてたんで。……」
「え、じゃぁ、むしろ、津田の誕生日ってどうしてたんですか」
僕が訊くと、佐倉教授は、甘い珈琲を呷って、ものすごく苦々しい顔をした。
「みっ君と初めて会ったのは、奴が小学生の時でな。俺の友人……奴の父親に頼まれてちょっとの間、預かって面倒見てたんだわ。自己紹介ついでに奴の誕生日を訊いたら、“誕生日? それは、生年月日だね? なんで訊くの? 何に使うの?”って答えたぜ。誕生日には、皆で祝うだろ普通。そう言ったら、“いわうためって、どうして? 必要ないよ”だとよ。びっくりだよな。まぁ、昔っから、そういう奴なんだわ」
軽く笑い飛ばそうとする佐倉教授に、二木が珍しく怒ったような顔をした。
「津田は親戚の家で育ち、中学からは寮で暮らしていたと、本人から聞きました。誕生日にケーキもプレゼントももらったことは無く……世の中に、そういう習慣があることを知ったのは中学生になってからだとか。……何かのお祝いで形のある品物を贈られたのは、大学入学の時が初めてだと」
「……大学入学の時?」
そう言って、佐倉教授が席を立った。向かったのは本棚の裏側、津田の寝床だ。教授は、本棚の天板に引っ掛けたフックを見つめている。そこに吊るしてあるのは、津田が時々着ている、少しくたびれたジャケット。緑がかった濃い灰色とでも言おうか、珍しい色味の一着だ。着る場面は限られそうだが、津田によく似合うんだ、これが。
「これが、人生で初めて貰ったプレゼント……」
「そう。だから大事に着ているんだと言っていましたよ、教授」
と二木が呆れたように言った。そしてスマホを取り出し、とんとんと素早くメッセージを送った。
「みっ君に、なんか言ったのか」
ぼそぼそと呟くように、佐倉教授が二木に尋ねた。
「一応、コーヒーは買って渡しておいたから安心してって送っときました」
それを聞いて、佐倉教授はほっと息をついて机に戻った。
弁当に向き直り、もそもそとステーキを口に運び始める。
スマホを眺めていた二木が、
「佐倉教授。……その弁当、心してお召し上がり下さい」
と不意に言った。そして、佐倉教授にスマホ画面を突きつけた。
“珈琲、ありがとう。
ところで、僕なりに想像したんだが、彼が食事に行こうと思ったのは、自分の節目の日ぐらい、ちゃんとした店で、質のいいものを堪能したいということではないだろうか。それなら彼は、弁当などもう望んでいまい。これを機に、僕も、千萱の誕生日に弁当を調えるのは卒業しよう。もっとも、他の手段は思い浮かばないがね。”
佐倉教授が外食を望んだ訳を……あまりにも曲解してないか? 津田の奴。
「津田ったら」と二木が呆れ、とととと、とんとメッセージを打っている。……それにしても二木、入力速いな。
それからややあって、二木はどこかに電話をかけた。
「よぉ、あのコーヒー、俺も買ったけどさぁ、絶対甘すぎるって」
電話の相手は津田のようだ。
「いやいやいや、昨日の高野豆腐の吸い物も旨かったし。あれは、薄味、上品な味って奴だよ。味はあるの。大丈夫」
どういう会話なんだ。津田となんの話してるんだ。とても気になる。
そして、二木は、通話中のスマホをスピーカーにして、佐倉教授の机に置いた。そして、身振りで、佐倉教授に、電話に応じろと示している。
[ん、二木?……あれ、電話遠くなったかな]
と津田が向こうで困っている。
「あー、みっ君」
[え……ちが、や、何で]
「えーっと」
[二木ったら……あー……うん。千萱、ごめんなさい]
状況を察したようで、津田が言った。
「あ、いや、みっ君、あのな」
[食事の件は、えっと……貴方が……いや、なぜ僕を………そうじゃないですね。えーっと。僕は月曜の朝まで不在なので、行けません。すみません。お誕生日は今日だけど、あすの休日くらい、美味しい食事を楽しんで、ゆっくり過ごして下さい]
「みっ君、あの、俺」
[……貴方が、この先、健やかで存えるよう祈る。この歳、その先幾年も、幸多かれと祈る。今日のめでたき日にかく言祝ぐ……お誕生日おめでとう、千萱]
滔々と紡がれた、不思議な祝いの言葉。電話の向こうから、りんりんと可愛らしい鈴の音も切れ切れに聴こえてくる。
目頭を押さえて泣きながら、佐倉教授が答える。
「みっ君、……ありがとう。あの、美味しかったよ」
[珈琲?]
と聞き返す津田の声が笑っている。
「はぁ⁉」
思わず立ち上がって叫ぶ教授。ちりちりちり、と賑やかな鈴の音を残し、あっさり通話が切られた。
「ぁんの野郎ぉ……」
佐倉教授は照れ隠しに弁当を掻き込み、盛大に噎せている。二木がそっと、甘すぎる缶コーヒーと緑茶の入った湯呑みを並べて差し出し、佐倉教授は緑茶を受け取った。