あの日、桜の木の下で
【鈴の音に促され】
今日は、山で遭難したゼミ生5人に加え、漆原先輩も来ている。そこで丹波から聞いた話は俺たちに、津田が生存しているという、淡い期待を抱かせた。
津田と同じく祓い屋で、津田の実の伯父である渡会教授にも前に確認したが、
「消滅はしていないが、確実に、この世にはいない」
という答えで、結局、生死不明とのことだった。
だから、僕たちは正直、諦めていた。その死を確認できなかっただけで、実のところはもう……。
「津田と出会って、たった2年っつーか、まだ1年半くらいなのに、なんか、すっげー長いこと一緒にいた気するんだよな」
ふとそんな呟きをこぼしたのは、意外なことに八戸だった。うんうんと肯く僕たちに、丹波がきゃんきゃん喚く。
「あ、良いな、皆さんは津田さんとそんな長く一緒にいて!」
「丹波は今年の5月からだもんなぁ」
自分だけ津田との思い出が少ないとぐずる丹波が可愛くて、僕たちが密かに心を慰められているときだった。
ちりーん、ちりん、りぃん。
僕の鞄の、貝守りの鈴が突然鳴った。
「今鳴ったのって、十郷さんのお守りですか?」と丹波が驚いたように訊く。
あぁ、これはね、……
【あの日、桜の木の下で】
あの日は◎◎大学院の合格発表の日だった。大学と院が併設された広いキャンパスを横切り、合格発表の掲示板を探す。まだ来慣れない構内で何度か迷ってしまい、そのたびに人に道を尋ねた。ようやく合格者番号の掲示が見えた時、「え、合格者……たったあれだけ?」と僕は不安になった。
僕の受験番号は39051。この受験票が手元に届いた時、桁の大きいことに驚いた。3が修士課程3月入試を表す接頭だとして、院試で9000番代なんていう数字が割り振られるとは。この大学院の、佐倉ゼミを含むおよそ半分の研究室では、教授との事前面接を経てからでなければ出願できないのにそれでもこんなに受験者がいるのか。研究科、さらに研究室の数が多い大学院なだけあるなと感嘆した。ただ、事前面接を通って出願した場合は筆記試験でよっぽど低成績を取らない限り落とされないと聞いていたので僕はまぁ、どうにか合格できているだろうと思っていた。だから合格発表の掲示に載っている受験番号があまりに少なくてドキドキしたのを覚えている。
こわごわ掲示板に近付いてよくよく確認すれば、ゼミ番号28、ゼミ番号90などとブロックに分かれて掲示され、ブロック内の番号もかなりバラついている。あの5桁の受験番号は、院試の受験生の通し番号の頭に、2桁のゼミ番号がついているだけのようだ。そうなると僕の受験番号は実質、51番。院全体の出願者そのものもそんなに多くないのかもしれない。なんだ、紛らわしい。でも、それなら合格の可能性はまだある。ほっと安堵のため息をついて、僕は気を取り直し、自分の番号を探した。
39は佐倉教授のゼミで、そのブロックに載っている番号は受験番号39051を含めた5名分。……良かった、受かっていた。その隣に、何故か1つだけ901という3桁のゼミ番号が掲示されていた。そこに載っている受験番号は90132の1名分のみ。いったい何の研究室だろう。少し気になる。
事務室へ行って諸々の手続きを済ませた僕は、裏門へ向かった。人の多い正門を避け、ひっそりと帰ろうとした。
僕は地元の大学院を修了した後、専門の資格を取得してから就職しようと考えていた。でも、修士論文を書いている折に偶然知り合った◎◎大学の教授から、専門とは別に僕が興味をもっている事柄が勉強できそうだと、佐倉ゼミを紹介された。幸い、学資を頼る先である父も了解してくれ、新たな地でもう2年間の学生生活を送ることになった。実家から通えない距離ではないものの、僕は今春、母と共に、母の生家へ越してきた。祖父母も他界した後の、住人のいない小さな2階建てに、二人暮らしだ。転居に至った理由は、1つは母の通院の利便のため。もう1つは、僕が地元を離れたかったからだ。
◎◎大学の裏門は、バス通りと細い道の交わる十字路に面して開かれている。その門柱の脇に植わった桜の古木はまだ花こそ咲いていないけれど、色づいて膨らんだ蕾に枝先が淡く赤みを帯びていて、きれいだ。思わず足を止め、桜を眺めていた、その時。
「リューク!」
僕を呼ぶ女の声にぞわりとした。桜の木陰からひょいと無邪気に顔を出し、僕を見つめる女。此奴こそが、僕が地元を離れる元凶、母の病の元凶だ。
「どうして、ここが」
問う声が震えてしまう。
「だって、私、リュークのことなら全部わかるもん。小さい頃から一緒だもの」
幼馴染といえば聞こえはいいかもしれないが、これはただのストーカーだ。
「リュークを守るために、同じ大学にしたのに。一緒に働こうと思って、学部も選んだのに」
言いながら、じわじわと彼女は近付いて来る。
「◎◎大学より、前いた大学の方が知名度も偏差値も上なのに、就職にも強いのに、どうして?どうしてリュークは、自分の価値を下げるの? お母さんのため?」
僕に問うているのではない。こうやって一方的に決めつけて、僕が肯定するのを待ち続けるのだ。
私、こんなにリュークのために頑張ってるのに。どうしてリュークは、私のために、もっと頑張ってくれないの。
過日にこの女の口から放たれた言葉が耳に蘇る。息が苦しい。動悸、吐き気、めまいが襲ってくる。
「頼むよ、チエリ。もう、僕に関わらないでくれ」
僕の言葉に、チエリが怒りに顔を赤くして叫んだ。
「今まで、こんなに、ずっと一緒だったのに!」
そう、一緒だった。幼稚園から大学まで、ずっと。高校と大学は彼女が僕を追ってきた。僕より2歳年下の、妹のような存在。僕の後をついてくる彼女に情が移り、愛おしく思っていた。異性として惹かれた時期も確かにあり、男女の交際をしたのが悔やまれる。この女は、その時から僕と将来を約束したと思いこんでいるのだ。
「大学出たら一緒になるって思ってたのに」
でも、僕が大学を卒業する年度の冬頃から、彼女は狂い始めた。院進を決めた僕の女友だちに嫌がらせをして、僕から他の女性を遠ざけようとした。昨年からは、僕の母にまで付きまとうようになった。
僕の母の外出先に突然現れ、言うのだ。
「どうして、私のリュークを苦しめるの。リュークは私のもの。あんたを許さない」
日常の買い物で使うスーパー、パート先、久しぶりに友人と出かけた店……。
そうして母はチエリに似た娘を見るだけで怯えるようになり、とうとう昨年の秋。チエリ、チエリがいる!と泣き叫びながら、駅の階段から自ら飛び降りた。
今も母が通院しているのは、その時の骨折の経過観察と精神科受診のためだ。
「私のリューク、私のリュークなのに、なんで'$$(++%$@!!なの、'"=_どうして-{];'%リューク!!!!」
聞き取れないほど早口に喚き散らし続けるチエリに、僕ははっきりと言い渡した。
「僕は、君と一緒には、いられない」
途端、チエリの目が、かっと見開かれ、見たこともないような鬼気迫る表情になる。
「私を騙したの。私から離れようなんて。許さない」
チエリの全身から、ゆらゆらと、何か黒いものが立ち昇る。
「許さない。私からリュークを奪う人は、許さない」
許さない許さない許さない……
炎のように揺らめく黒いものに覆われたチエリは、一歩、また一歩と僕に近づいてくる。
その時、りん、と鋭い鈴の音が聴こえた。チエリの足がその場に縫い留められる。瞠目するチエリの面に驚愕の色が浮かぶ。
モロモロノアシキモノトクイネトノル
僕の真後ろから声がする。振り返ると、黒いトレンチコートの人影。緩やかに巻く長めの黒髪が、春の風にあおられている。彼は、無骨な黒い丸ぶち眼鏡の奥から、僕をちらりと見た。前髪が風に揺れて垣間見えたその瞳の色に僕は息を呑んだ。その目は、茶色よりもまだ色素が薄く、美しい金色に輝いていた。
突然現れた彼は、僕を指してチエリに言う。
「彼は、もう、大丈夫」
チエリが不安そうに僕と、彼を交互に見る。
「しばらくは、僕が、守る。だから」
彼は僕を指しながら、チエリに告げる。
「在るべきところへ還り給え」
優しい声。
僕は、チエリにそんな風に話しかけてやることなど、一度たりともなかった。
さぁと、嫌に冷たい風が吹き過ぎる。肌を刺す冷たさに、僕は思わず目を瞑った。
風が止んで目を開けた。そこにチエリは居ない。代わりに、
「……桜が、」
満開の桜。僕が茫然として呟くのへ、
「彼女の念を、桜が吸い上げ、花にかえた」
彼が返事をした。
「これを、持っておいで」
僕の手に何か握らせると、彼は桜の木へ歩み寄った。その幹に片手を当て、
「ミニオイシケガレノスベテヲスミヤカニチラシ、キヨメタマエ」
それから2回、清々しい柏手。続けて、軽やかに鈴を鳴らす。
さぁさぁと、風もないのに桜の花が散っていく。
「あ、あの……君は、」
声をかけたけれど、彼は何も言わず、その目が僕を見ることもなかった。
黒ずくめの姿が霞むほどの桜吹雪。彼が見上げているのは、散り急ぐ桜花。
それにつられて僕も桜を仰ぎ見て、視線を戻した時には、彼の姿は消えていた。
僕が慌てて周囲を見渡しても、長身痩躯の黒尽くめの姿は、どこにもなかった。
鞄の奥から、スマホの着信音がした。
鞄を開けようとして、チャックにぶら下げていた鈴守が無くなっているのに気がついた。桜の花の描かれた金色の鈴だった。いつからか振っても鳴らなくなったけれど、手放せずにいた。鞄のどこを探しても見つからなかった。
そうか。
僕はようやく思い当たった。
電話は母からで、今日この日に、何の報告もしない僕を案じてかけてくれたようだ。
合格を伝え、そうして、
「母さん、あのさ」
あるところへ寄ってから帰ると告げた。
チエリ。
別れ話に泣き喚く君を放って僕は去り、君からの電話を無視し続けた。あの日、電話に出ていたら、君は今も生きて僕に付きまとっていただろうね。
チエリ。
ここへ来るのに2年かかった。すまない。
線香の傍らで、見覚えのある古びた鈴守が風に揺れ、ちりちりと鳴った。
こんな軽やかな音色だったか、この鈴は。
だけど僕はそれを拾わなかった。
僕の元に残ったのは、鈴のついた小さな貝守り。
それを鞄に結わえる。
喪ったものの代わりに。手放したものの代わりに。
僕は走り出す。
僕の鞄で、貝守りの鈴が、ちりんと鳴った。