グリーンマンの秘密
時刻は二十一時半。
いつも通りの同じ地下鉄。いつもと変わらぬ、何の変哲もない、気だるい会社帰りだ。東西線の大通駅から乗り、南郷七丁目駅で降りる。毎日が同じサイクルだ。しかし、朝の通勤とは違って、帰りは何処か憂鬱だが、開放感があって、それでいて、頭は妙に冴えている。
ふと、白石駅に止まったときに、緑色の何かが車両に乗ったような気がした。目を擦ったり、瞬きしてもそれは、相変わらずに存在している。全身緑色で人型だ。それは器用にも、腕らしきものを出して、手すりに掴まっている。緑人間。グリーンマン。それだけでも驚きだが、なぜかそのグリーンマンは、僕だけにしか見えていないようだった。周囲の若者や、サラリーマンは、全く気にもかけていない。
僕がまじまじと見つめていると、流石にグリーンマンは気づいたのか、片手を挙げ、一礼した。僕も一礼した。それが悪かった。合ってはいけない周波数が合ったような気がした。グリーンマンは僕の方へと歩み寄り、話かけてきたのだ。
それ以来、彼は必ず白石駅で乗り、僕が南郷七丁目駅で降りるまでの短い間、僕に話かけてくる。どういうわけか、必ず僕の乗っている車両に乗ってくるのだ。僕が出勤していない土日以外、毎日だ。奇妙なことに、彼と何を話しをしたかは、一切憶えていない。地下鉄を降りてしまうと忘れてしまうのだ。それでも、彼の口調や雰囲気は覚えている。知的で紳士的、優しい声に豊富な話題と知識。これが彼の印象だ。
ある日、彼と会話していると、妙に盛り上がった。僕は降りるべき駅で降り忘れてしまったのだ。
「どうだい。よかったら、私の家にこないかい?」
グリーンマンは言う。
「いいのかい?」
「勿論だとも」
それから、いくつ駅を通り過ぎたのか忘れてしまったが、見知らぬ駅まできた。ここだよ。というので、一緒に降りると、一人も人間は歩いていなかった。ただ、縞模様の猫だけが、一匹、呑気に徘徊していた。通路はしだいに機械の通路に変わり、大掛かりなボイラー室のような雰囲気になった。何やら、蒸気の出るパイプや、大きなハンドルが何箇所も設置されていた。
「ここだよ」
通路の壁を指差すが、そこは変わらずただの壁だ。
「こうするんだ」
グリーンマンが、壁に手を置くと、その壁は綺麗に消失した。振動の作った波紋が、水面で広がるような感覚だった。
部屋の中は、部屋というよりは一軒家の広さだった。居間があり、キッチンがあり、トレイやバスルームがあり、暖炉まであった。奥にはさらに、何個も部屋がありそうだった。気がつくと、グリーンマンは赤いソファに腰をおろし、ワインを飲んでいる。暖炉の炎は、部屋を優しく包みこみ、間接照明は、より一層、空間をマイルドにしていた。
「上質なピノ・ノワールは軽やかで、爽やかな草原のようだ」
グリーンマンは、ワインの入ったグラスを回す。
「ああ。そうだね。ワインのことは、よくわからないけれど」
さきほど地下鉄の構内にいた、縞模様の猫も別の赤いソファでくつろいでいる。
「グリーンマン、一ついいかい」
「なんだい」
「どうして、いつも君の記憶がないのだろう」
「さぁね。知らない方がいいこともあるさ。それより、ワインはどう?」
僕は、首を振り断る。酒は二年前から止めている。
「私はね、私の秘密を君に話しているんだ。毎日、毎日、一つずつ……」
「そんなに、秘密があるものかい?」
「あるさ。君にもあるだろう」
グリーンマンは間髪入れずに言う。僕は少し考えてみる。
「そうかもね。でも、きっと誰にだって秘密はあるさ」
僕は言った。
「あるとも。誰もが、語りきれないほど。それを私は代弁しているんだ」
グリーンマンは今日は調子がいいので、ワインをもう一本空けるという。ニメートルくらいある真っ黒なワインセラーを開け、ラベルを見比べて選んでいる。
「ほどほどにね」
僕は、軽くお礼を言い、静かにこの秘密基地を後にする。
明日もまた、グリーンマンに出会うだろう。そして、また彼の秘密を聞かされるのだ。一つ、また一つ。聞いては忘れの繰り返し。忘却の彼方に消え去るのだ。記憶の彼方に……。
2016年