2‐4 希望的観測と過大評価
翌週は月曜日が祝日だったこともあり、彼女は水曜日に初めて登校したが、その日の中休みに七瀬先生に自ら《給食をもらいに、モモ先生と教室へ行ってもいいですか》と申し出て、皆を驚かせた。
実際、彼女は時間になると私と共に四階まで階段を上がり、配膳の列に並んで自分の分の給食を受け取ることができた。食べるのは保健室で、下膳は今までのように職員室への返却としたが。
思えば、初めがうまくゆき過ぎたことが、後々のすべてを招いたのだ。彼女が私と筆談でもコミュニケーションを取り、一度でも教室まで足を運んだ事実は、七瀬先生に留まらず、これまで彼女に関与してきた先生方を大いに驚かせ、私に過剰な期待と信頼を抱かせた。声を発しないのは相変わらずでも、奏音ちゃんの問題は事実上解決に向かっているかのようにみなされた。でも、それはあまりにも早すぎる大人たちの希望的観測だった。
翌日木曜日、佐野ミラさんのお母さんが重い腰を上げてカウンセラー面談にやって来た日の放課後に、臨時の校内支援委員会が開かれた。発達障害児等を対象とした特別支援に限らず、学校生活への適応や家庭に困難のある「気になる児童」に対しての対応を協議する会議である。出席者は校長・副校長両管理職、コーディネーターの七瀬先生、対象児童の学年の担任全員、教務主任、専科、養護、いればスクールカウンセラー等々、児童に直接関与する職員全員である。職員室の隣にくっついている小さな会議室はほぼ満席で、私はなるべく末席に小さく収まった。
「今日は主に堤奏音さんと、佐野ミラさんに対する今学期の対応を協議したいと思います。まずどっちにしましょう、校長先生」
司会進行は七瀬先生なのだった。
「奏音さんの報告からでいいんじゃない」
校長も先週からの経過を過大評価していて、口ぶりは軽かった。
「はい、では担任の私から簡単に。奏音さんについては引き続き保健室登校の対応を養護の酒井先生にお願いしています。皆さんの耳にも既に入っていると思いますが、酒井先生がすごく上手に対応して下さっていて、初日から筆談でやりとり、先週は二度登校、そして昨日は《本当は自分で給食をもらいに行きたい。持ってきてもらうのはお友達に迷惑がかかるから》といい出し、酒井先生と一緒に四階へ上がり、教室に入り、給食の列に並ぶことができました」
七瀬先生の早口の報告に、学年主任が「すげぇ」と小声で漏らした。黒田という、体育会系のいかつい男の先生である。歳は三十代前半だろうか。
「彼女によれば《とりあえず今日だけ、やってみたい》とのことで、今後も継続するかはわかりませんが、これは大きな進歩で、ほとんど信じられないことです。この調子で今学期は保健室登校が続けられるのではないかと期待しています。酒井先生、何か補足事項はありますか」
「……いえ、特にありません」
――私は特に何もしていません。
そう断っておけばよかった。ことさらに私の手柄であるかのように報告されることに違和感と不安を覚えながら、私は小声で答え、なるべく小さくなっていた。
「いいですね。では今日の本題というか、佐野ミラさんについてですが。雨宮先生、今朝お母さんと面談されたんですよね。どうでしたか?」
担任を差し置いて自分からでいいのだろうか、というような間をおいて、光里先生は口を開いた。今日も黒のニットドレスという、いつもの黒ずくめの出立ちである。
「そうですね。担任の飯野先生からお聞きしていた通り、お母様からはミラさんの現状に対して、正直、危機感のようなものが感じられませんでした。私からは、どのように思われていますか、と投げかけたのですが、はっきりとしたお返事もなく。様子を見ています、という感じですね。お母様ご自身ご病気も抱えられているそうで、教育相談や児童精神科にかかることも私からも改めて勧めてみましたが、ご自身余裕もないし、あまり必要性も感じていないというご様子でした」
先生方の表情がいっきに険しくなり、会議室の空気も重くなる。
「親として子どもを登校させないといけない、って自覚はないんですかね」
黒田先生が険しい声で尋ねた。光里先生がそれに答える。
「登校させる義務がありますよ、というお話もしたのですが。どうにも暖簾に腕押しというか、お母様ご自身がどこか上の空の方で」
「本当にそう。そうなんです」
ミラさんの担任であるという飯野佳苗先生が、困ったように口を挟んだ。教員生活三年目くらいだろうか、毎日スカートで睫バシバシの、お人形さんのような先生である。
「私も毎週、家庭訪問をしているのですが、課題の提出もないですし、相変わらず、ミラちゃんとも会えず。どうしていますか? と尋ねても、お母様は、さあ、部屋から出てこないので、というようなお返事で……」
「それはちょっと、ネグレクトの方面でも注意していかないといけないなあ。コカセンにはまだ繋いでなかったんだっけ?」
校長の指摘に、佳苗先生は首をすくめた。
「子どもと家庭支援センターとも、一学期から連絡は取り合っていて、一度訪問もしていただいたんですけど、お玄関先でご挨拶だけで、上がってお話とかはできなかったみたいで」
「そもそもどうして引き籠ったんだろう。それがわからないと」
副校長がぽつりと呟く。
「今のお話だと、適応指導教室やフリースクールを検討しているどころか、母親に問題意識がなく、それ以前の状態がずっと続いてるってことなんですね?」
副校長の発言を半ば無視して話を戻すように、七瀬先生が言った。
「それじゃどうでしょう、ミラちゃんにも保健室登校を勧めるだけ勧めてみるというのは? よその機関へ連れて行くには、お母さんが気乗りしないってことですよね」
「お部屋からも出てこられないのに、来ますかね……」
担任がか細い声で言う。それで来ようものなら自分が嫌われていたのかと落ち込んでしまいそうな人である。
「酒井先生は、どう? もう一人」
顎をさすりながら、校長が軽い口調で尋ねた。嫌ですとは言えないが、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「ええと。ミラさんと奏音さんは、これまでに関わりとかはあったんですか?」
どう? と先生方は顔を見合わせた。
「一年生の時に同じクラスだったかもしれない。でも奏音ちゃんは最初から喋らないから、特に仲がいいとか悪いとかいうことはないですよね」
七瀬先生が発言すると、先生方は口々に「そう思う」と仰る。
そんな調子で、結局、二人は保健室で引き合わされることになった。
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