4‐2 「それ」に顔を与えること
さて、ミラちゃんは中休みが終わり校内も静かになったところへ現れた。
担任から指導が入ったのか、今日はランドセルに漢字と計算のドリル、それから算数の教科書を入れてきたが、筆箱の他に二十八色の色鉛筆が入っていて、自由帳も二冊に増えていた。
「ミラちゃん、今日も佳苗先生から課題を預かってるよ」
予め言うと、彼女は頷き、囁くような声で言った。
「課題が終わったら、絵を見せてもいいですか」
「私に?」
彼女は熱心に頷く。
「いいよ。やることがちゃんと終わったらね」
ミラちゃんが隣に座り、支度をして、課題に取り掛かる間も、奏音ちゃんはまったく気を散らさずに自習に取り組み続けた。今朝の私からのアプローチを引きずっているのかどうかは、傍目にはわからなかった。
佳苗先生がミラちゃんに用意した課題は、五年の漢字ドリルを進めることと、五年の算数の教科書を参照しながら計算ドリルを進めることだった。一学期がまるまる抜けてしまっていると、そうせざるを得ないのだろうか。彼女は家で引き籠っていた間、学習には取り組んでいなかったようだった。ずっと絵ばかり描いていたのかもしれない。昼夜逆転というならば、あるいは、夜通しネットなんかも見たりして。
「どこまでって、メモに書いてない。三時間目に漢字、四時間目に算数でいいですか」
七瀬先生の個別指導が細やかなのと比較してはかわいそうかもしれないが、確かに佳苗先生の課題指示のメモはひどくざっくりとしていた。その結果、彼女はドリルに取り組むには取り組むが、疲れたり飽きたりすれば自主的かつ頻繁に「休憩」を取った。私の許可を得ていないからさすがに見せには来なかったが、隠れて自由帳を開いては絵を描いていた。
「先生、ここまで進みました」
三時間目が残り十分になると、彼女は漢字ドリルと自由帳を抱えて私の所へ報告に来た。漢字ドリルは見開き三ページほど。漢字練習帳などに反復練習しているわけではないので、ドリルだけにもし集中したなら少なすぎる進み具合だが、彼女としては頑張ったのだろう。
もとより、この出来具合をどう評価してどうしていくのか、考えるのは担任の責任である。
「こっちが先生に見てほしいノート」
私はそちらに驚いた。彼女が開いて見せた自由帳には、意外にも人魚や魔女の女の子など、普通で無難なモチーフが描かれていたのだが、これがえらく上手なのである。五年生の頃の私より遥かに上手い。そのまま童話の挿絵にでもなりそうな、あまりにも完成された美しい絵なので、つい、何か見て描いたのかと訊こうとしてしまった。
その時、彼女が嬉しそうに言った。
「何も見てないです。トレスでもないですよ」
ん? と思う間に、彼女は次から次へとページをめくって見せた。
「先生、擬人化ってわかりますか? この辺は星をモチーフにしたシリーズ……一番気に入っているのがこれなんです、スピカ」
どこかミュシャを思わせる、麦を巻いたような髪型の美少女が描かれていた。
「スピカは乙女座の主星で、〈麦の穂〉という名前だから」
「すごいね……これ、絵ハガキとかにしたら欲しい」
不覚にも感心してしまい、私はそんな賛辞まで口にしていた。
「これ、あとで奏音ちゃんにも見せてあげて。奏音ちゃんも星が好きだから」
ミラちゃんの顔にきらきらとした笑顔が広がった。
あとで、と言ったのに、すぐさま彼女の方へ見せに行く。
「奏音ちゃん。私の絵を見て」
奏音ちゃんは驚いたように、私と時計とを交互に見た。まだ授業時間中だといいたいのだ。
するとまた、ミラちゃんが言った。
「じゃあ、休み時間にね。ごめんね」
先程と同じ違和感が胸を掠めた。単に察しがいいだけだろうか?
さっきは、まるで心の中を見透かされたように感じた。
業間休み、奏音ちゃんはミラちゃんの絵を見てあげていた。もちろん無言だが、一通り見終わると、今朝方見せたいといっていた星のプリントをミラちゃんに差し出した。
ミラちゃんは、自分と同じ名前のその星を知っていたようだった。
「〈ミラ〉はまだ描いてない」
そう言って、始業のチャイムが鳴ったところなのに、さっそく新しいページに描きはじめようとする。私が咳払いをすると、彼女は首をすくめ、約束通り算数に取り組んだ。
しかしその学習方法は、明らかに彼女には向いていなかった。まあ、教科書を読むだけで単元が理解できるなら、誰も苦労はしない。彼女は頻繁に算数の質問をしに来た。はじめのうちは教えてやったが、そのうちに私は思い直して職員室に助けを求めた。後で佳苗先生には相談しなければなるまいと思いながら。
その時間はとりあえず、クラスを専科に出していて職員室にいた他学年の担任の男の先生が、彼女の個人教師をしてくれた。
――どうも、その横で職員室の給食の配膳が行われたらしい。
四時間目が終わると、彼女は給食のお盆とともに保健室に戻って来た。今日だけ例外的に、職員室の予備食をもらうことにしたという。教室の給食は毒入りだと信用できないが、職員室ならいいのだろうか。
私が奏音ちゃんと給食をもらいに四階へ行って帰ってくる間に、彼女は「ミラ」の絵をほとんど描き上げていた。線は細く繊細なのに、ものすごい筆の速さで描くのだった。
「奏音ちゃんがくれた写真からイメージして描いてたんだけど」
色鉛筆の缶を開けながら、ミラちゃんは首を傾げた。
「ちょっと〈ミラ〉と違っちゃった。この子の髪は満月の色。瞳はすみれ色。服は赤」
呟きながら、髪の短い少女像に彩色していく。その顔は青白く、紫の瞳は夢見るように虚ろだった。奏音ちゃんの顔色を窺うと、表情を強ばらせていた。驚愕したように目を見張っている。
「ミラじゃない。でもちょっと似ている。この子の名前も〈不思議な星〉。――キセ」