4‐1 イマジナリーフレンド
ミラの保健室登校が始まり、奏音は彼女を見て《キセに似ている》という。
しかし「キセ」は触れてはならない秘密だった。
学校が二人の登校を喜ぶ一方で、現実と非現実の境界が歪み始める。
「先生、奏音ちゃんが三連続で、ミラちゃんも二連続なんですか。すごいっすね」
翌朝、職員朝会の後のドタバタの中で、五年の学年主任の黒田先生に声をかけられた。そう、誰も予期しなかった珍事が起きたのである。それぞれの家から電話が入り、今日も登校してくるという。九月の最後の金曜日だった。
横から七瀬先生が黒田先生に興奮した様子で言った。
「本当に! 私たちなんか今までどう接していいかわからなくて腫物扱いにしてたのに、モモ先生はとにかく自然体なのよ。さすが看護師さんというか、あなたってきっとああいう子たちと波長が合うのね!」
「……どうでしょう」
そのとき私は、集団に馴染めなかったことも精神を病んだこともない先生方とは住む世界が決定的に違うのだということを突き付けられたように感じた。
奏音ちゃんの登校時刻は次第に早まり、朝の会の時間くらいには来るようになっていた。
《今日ミラちゃんは来ますか》
彼女は登校一番にそのことを尋ねた。来る、と答えると、空色のランドセルの中からクリアファイルを取り出して見せた。ぼんやりとした赤い星の印刷された紙が挟んである。
《これをミラちゃんに見せたい》
どうやらそれがミラという星の画像であるらしかった。ミラちゃんの名前について、奏音ちゃんは一昨日強い関心を示した。それと昨日、そういえば一つ気になることをいっていたのを私は思い出した。
この隔離された自分の席から遠目に観察した感想として、彼女はミラちゃんを《キセみたい》と評したのだった。いわゆるイマジナリーフレンド、空想の友達のような存在がいることを、彼女は示唆していた。
《ねえ、昨日教えてくれた、キセって、どんな子なの?》
私は、彼女は話したいつもりがあってその「友達」の名を出したのだと思っていた。
だから書いた途端、彼女が警戒心を顕に身構えたことには戸惑った。
《キセのことには先生から触れないで》
「ごめんなさい」
声に出して、私は謝った。彼女の反応に困惑している自分がいた。
《キセは他の人に自分の存在を知られたくないと思ってる。昨日は私が口を滑らせたんです。ミラちゃんのちょっと変わっているところが、似ていると思ったから》
《キセは怒ったの?》
《あまりよくは思わなかった》
ふと、昨日の退勤時の光里先生とのやりとりを思い出した。来週は奏音ちゃんのお母さんと面談予約が入っていると。
もしお母さんの方でもキセについて気にしているなら、後で先生から情報提供があるかもしれない。そんな考えが頭をよぎっていった。
《でも今、キセは少し話してもいいといっている。私たちは毎晩寝る前にお話をする……それだけ》
《どんなお話とかは、きいたらいけないのかな》
《それは秘密》
《わかった》
一時間目が始まっていた。彼女が学習に取り組み始めたので、私は側を離れた。ミラちゃんはきっと、今日も遅く目覚めてゆっくりと来るのだろう。私は来週水曜日午後の職員会議に向けて、就学時健診の計画書の最終稿を仕上げないといけない。
就学時健診とは、来年度入学予定の未就学児たちを集めて、一通りの健康診断(内科、耳鼻科、眼科、計測等々)と簡単な知能テスト、集団での行動観察を行うもので、校舎全体を会場とし、学校の全職員を動員して行う大掛かりな行事である。
在校生は全員午前授業で下校させ、職員たちで慌ただしく会場設営をして、午後一時半から受付を開始する。各科の校医の先生方を召集するだけでなく、本校の先生方にはテストの監督の他、各ポイントでの子どもたちの誘導や管理、親たちへの説明や控室の監督などもお願いしなくてはならない。昨年の反省から人手不足だった場所が何箇所か上がっており、非常勤さんやボランティアさんにも手伝いをお願いする必要があった。
十月十五日が当日で、その日は連休明けの火曜日だが光里先生も都合をつけて来て下さることになっている。一次面接に引っ掛かった子どもたちの二次面接での見取りをお願いするためだ(私にはこの学校での「見取り」という表現がどうにも馴染まない。「みとり」というとどうしてもご臨終の「看取り」を連想してしまう。だが先生方は「見立て」とはいわずに「見取り」というのだった)。昨年度に倣って、特別支援コーディネーターである七瀬先生と、養護教諭の私と、スクールカウンセラーの光里先生の三人でその二次面接をすることになっている。
そしてその日の周辺が、恵の出産予定日でもあった。
周囲からは淡々として落ち着いているといわれてしまうのだが、私はとても予期不安が強い。職員会議と健診と恵の出産とで、いよいよ緊張が募ってきていた。病院勤務ではそんな、初年度に自分が大勢の職員を統率する役割なんて任されない。二年目だって、まだまだ先輩や上司に叱られ患者さんに呆れられながら、あたふたしているレベルである……(もっと優秀で新卒からバリバリ動けている同期もいるにはいたが)。放デイだって、非常勤であったし。今までに経験したことのない大役に、私は押し潰されそうだった。
だからむしろ、奏音ちゃんの存在に私は救われていたかもしれない。