3‐3 ミラちゃん
翌朝、奏音ちゃんは木曜日であるにもかかわらず現れた。なんとなく、一日おきが彼女の登校ペースだと感じていたので、私も学校も驚いた。ミラちゃんの顔を見ようと思ったのだろうか。
そのミラちゃんは、三時間目も終わる頃に母親に伴われてやって来た。
母子は空きだったらしい教務主任に出迎えられ、やはり昇降口ではなく職員玄関から上がり、保健室へ連れられて来た。このツンとした印象の女性の先生は、
「カウンセラーさんとの面談が確か十一時半からなので、それまでお願いします」
と短く私に申し送り、職員室へ戻っていった。時刻は十一時十五分を指している。佳苗先生から一応課題を預かったが、ほんの十五分ほどしかない。
「はじめまして、養護の酒井桃です。――今日この後の面談は、お母様もご一緒に?」
噂のお母様は、独特なぽやんとした雰囲気を身にまとった人だった。
「いいえ、今日は娘だけだと思います」
確かに、どこか上の空の声音であった。
「なので私はこれで帰ってもいいですか」
「――はい。お預かりいたします」
私が応えると、彼女はそのまま娘のそばを離れ、のろのろとした足取りで帰っていった。
娘に声をかけるでもなく、娘も、母親にすがりつくでもなく。
ミラちゃんは、ごくオーソドックスな赤いランドセルの肩ベルトを握りしめ、伸びすぎた前髪の陰から私を見上げていた。
四月に引き籠って以来一度も髪を切っていないのではなかろうか。日頃櫛を通している様子もなく、ぼさぼさの伸び放題になっている。服装も、ひどく古い型で傷みの激しいポロシャツとキュロットという風体だった。身長はざっと見て百四十くらい、体型は痩せ気味だが許容範囲内ではある。
「よく来たね、ミラちゃん」
私はそうした諸々の所感を気取られないように、なるべく明るい声で彼女を招き入れた。
「佳苗先生から聞いているかもしれないけど、もう一人の子も今日は来てるんだ。堤奏音ちゃんって、覚えてるかな」
「覚えてる。一年の時、同じクラスだった」
小さな声が返って来た。
「喋らない子」
「そうだね」
私は奥のカーテンに仕切られたスペースに誘導し、奏音ちゃんに声をかけた。当然返事はない。そっと中を覗くと、彼女は黙々と理科の課題に取り組んでいた。顔は上げないが、明らかにこちらを意識している。私は彼女の気もちを尊重し、七瀬先生のように構わない素振りでミラちゃんに向き直った。
「こっちがミラちゃんの席だよ。ランドセル置こうか」
奏音ちゃんの学習机の横に並べたもう一組の学習机を指してそう指示したが、彼女は閉め切られている校庭側のカーテンの向こうを気にしていた。
この時間は高学年のクラスが出て体育の授業をしていた。奏音ちゃんが外から見られるのを嫌うので、いつもその校庭側のカーテンも閉め切っている。
「外で体育やっているけど、気にしなくていいよ。見えないから」
カーテンの向こうを見つめるミラちゃんは、小刻みに震えていた。
「ちょっと、向こうのソファの方がいい」
そう言って、例の茶色の長椅子の方へ退避した。奏音ちゃんと私が最初に筆談でやりとりした長椅子である。ランドセルは脇に置き、震えながら縮こまっている。
「久しぶりで、緊張するかな」
私も横に座り、そっと背中を撫でてやると、彼女はふーっと深く息を吐いた。
「先生は、ちょっと変わってる」
ふいに、彼女が小声で言った。急に気もちが切り替わったように顔を上げ、首を振って前髪を分けると、その間から私を見てにこりとした。
「本当に学校の先生?」
ぐさりときて、私は取り繕うように微笑んだ。
「そうだね、ここに来る前は看護師だったんだよ。でも、保健室の先生の免許もちゃんと持ってるよ」
ミラちゃんは口元に笑みを浮かべたまま、首を振った。
「そういうんじゃないの。魔女か、昔からここに棲んでる妖精みたい」
私は完全に言葉に詰まってしまった。
妖精に喩えられたことなど、今まで生きてきた人生で一度もない。魔女ならどちらかといえば光里先生だろう。何が彼女にそう感じさせたのか、皆目見当もつかなかった。
「そしたら、ミラちゃん、時間までどうしようか。佳苗先生から預かったプリントもあるんだけど。何か持って来た?」
彼女が蓋を開けて見せたランドセルの中には、自由帳が一冊と、筆箱が入っているだけだった。ドリルも教科書もない。担任が指示をしなかったのだろうか。
「絵を描いてもいいですか?」
「そうね……とりあえずプリントをやろうか」
彼女はちょっと口を尖らせたが、ちょうど業間休みになりケガの子どもが一人入って来ると、さっと自分の席に逃げ帰り、素直にプリントにとりかかった。
一学期の初めから来ていなかったからだろうか、渡されているのは四年生の内容の復習プリントである。
私は体育の擦り傷の処置をしながら、頭の隅では観察した限りのミラちゃんの状態について考えていた。
爪が伸びて、複数の指にささくれができている。栄養状態が気になる。部屋には引き籠っていても、三食きちんと食べているのだろうか。風呂には毎日入っているのだろうか。お母さんは身繕いについても、口出しもしないのだろうか――。
間もなく保健室のドアをノックして、光里先生が迎えに来た。ミラちゃんが出て行くと、奏音ちゃんが筆談したそうに私を見ている。
「ミラちゃんのこと、少し思い出した?」
《前と変わった》
彼女は続けて、何か謎めいたことを書いた。
《キセみたい》
……「キセ」
キセ? なんだろう、最近のアニメか何かのキャラクターだろうか?
《キセって、誰?》
《私の心の中にいる、秘密の友達》