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終業式が終わった午後、学生たちは持ち主を失った風船の様相を呈していた。
誰も彼もが浮かれて無軌道に騒ぎまわり、無意味に階段から飛び降りたり、廊下を駆けて教員に注意を受けている。
一ヶ月後にはしおれきって再集合することになるのだが、そんなこと、今この瞬間にはまったく構わない。
そしてご多分に漏れず、私も浮かれていた。
脱靴場でそそくさと外履きに履き替えて、校門を出る。真上から差す陽光が頭頂部を焼くが、それも気にならない。
何を隠そう本日は、かねてより計画していた美術館巡りの初日なのだ。
美術館のエントランスは冷房が効いていて、肌寒かった。最寄り駅を出たところでスコールに見舞われてしまい、到着する頃には全身びしょ濡れになっていたのだ。
流石にこれは気にならないとは言えないな、と思いながら、あらかじめ購入していたチケットをスマートフォンで提示して館内へ入る。
今期は好きな画家の企画展が開催されているので、どうしても最初に来ておきたかった。
平日の昼過ぎ。どうやら空いているようだ。
順路に従って、じっくり鑑賞していく。
最初に展示されていたのは、石畳とアスファルトの道が交差する不思議な街並みの絵だ。
夜だろうか。彩度の高い紺青の空を背景に、星明かりや雲が、明るい黄色で描かれている。
中央には寂れた石造りの塔のようなものがあり、上空の光を受けてぼんやりと黄色く浮かび上がっている。
この家を中心として、画面手前から二股に道が分かれており、左手は石畳、右手はアスファルト道路になっていた。
石畳の道は、窓に赤い光が灯る民家が並んで、暖かい雰囲気だが、右の道は無人の高速道路のように静かで、寂しい雰囲気が漂っている。
色彩とモチーフ、それぞれのコントラストがはっきりしていて、非常に美しい。
私は思わずため息をついた。
幼い頃から、私は絵が好きだった。
筆致を一つずつ辿りながら、あれこれ思いを巡らすとき、私の身体は透明になって、どこか違う時空間にいるような感覚になる。
ーーどうしてこの色を採ったんだろう。
ーーなぜこの箇所を描き直したのだろう。
ーー腹が減ったとかトイレに行きたいだとか、気を散らしながら描いたのはどこだろう。
そういうことを考えながら鑑賞していると、だんだん世界にその作品と自分だけになって、当時の作者と一体化するように思える。その時間がとても楽しい。
私の後方から、呼んでもいないのに、コイとグミが姿を現した。人が多く集まって心を動かす場所に、彼らは好んで寄っていく習性がある。
きれいだね。
私が話しかけると、ふたりは興味深そうに絵を見つめる。
グミの感覚器がどこにあるのかはわからないが、群全体がさざ波のように震えながら青や黄色に色を変えているところを見ると、彼らなりに楽しんでいるらしい。
次の絵に進む。
今度は一転して、真っ赤な三叉路の絵だ。
「赤い街」と題されたその作品は、画面全体が赤と黒の絵の具の濃淡で描かれていて、全体的に禍々しい雰囲気だ。
手前から画面奥に続いた道は、先へ進むごとに闇を深めていく。
画面中央、時代を感じる個人病院の建物が、ひときわ鮮やかな赤で浮き上がっていた。
画面右下には、肋の浮き出た犬の死体が転がり、左下にはポツンと白百合が咲いている。
恐ろしい絵だった。
しばらく眺めているうち、そういえば白の絵の具がなくなっていたことを思い出す。近いうちに買いに行かなければ。
心ゆくまで展示を堪能し、そろそろ帰ろうかという頃。私の後をついてまわっていたグミが、目の間に出てきて落ち着きなくざわめく。
どうしたの?
尋ねるそばから、聞き覚えのある声で呼びかけられた。
「あれ、つぐみちゃん?」
胡桃坂が立っていた。
◆
外へ出ると、空はすっかり晴れていた。
夕刻だというのに日差しはまだ強く、ほとんど乾ききったアスファルトが熱を放っている。ところどころに残る水たまりだけが、ここで雨が降っていたことを記憶しているようだ。
白いレースの日傘を半分こちらに差し出す胡桃坂と並んで、私たちは駅へ向かって歩き出した。
「偶然だね」から始まり、「ああいう才能がある人ってすごいよね」と、ありきたりに褒め、父の伝手で招待されたことを一方的に説明する胡桃坂に適当に相槌を打つ。
彼女のことは嫌いではないが、正直、今は放っておいて欲しかった。折角の余韻を邪魔されて、私はげんなりする。
周囲を漂いながらついてくるグミと、グミの群を泳いで蹴散らすコイとをなんとなく目で追う。
色とりどりの光の粒の中を泳ぐ銀色の巨大魚。美術館に飾れば、きっと良い展示物になるだろう。まあ、私にしか見えないのだけど。
少し歩くと、丁字路にぶつかった。奥の壁沿いにガードレールが設置されている。
おや、と思ったのは、人だかりができていたからだ。
「どうしたんだろうね」
胡桃坂と近づいてみる。
小学生と思わしき男児数人と、ゴム履きを履いた中年女性が、何かを覗き込んでいる。
どうやらそこは、深めの用水路になっているらしい。ガードレールのすぐ横から急勾配の草地になっていて、さらに一段下がって、コンクリートの溝になっているようだ。
溝の中は水が勢いよく流れている。
「帽子をね、落としちゃったんですって」
ゴム履きの女性が教えてくれる。
よく見れば、水際すれすれに、緑色のベースボールキャップが落ちているのが見えた。
草に引っかかってかろうじて流されずに済んでいるが、風が吹けば、たちどころにに落ちてしまいそうだ。
日に焼けて顔を真っ赤にした少年たちは、内輪でやいのやいのと作戦を立てていたが、一人が意を決したように柵を越えた。
両腕でバランスを取りつつ、立っていることすら難しい勾配を、重心を下げ、草を掴みながらゆっくり降りていく。
「ああ、危ない。気をつけて。ゆっくりね」
女性が気忙しげに野次を飛ばす。
「たっちゃん、もう少し横にずれて! そのままだと帽子蹴る!」
上で様子を見守る友人が、前のめりになって忠告する。
「見えないー。どこにあるー?」
「そのまま降りてったとこにある!」「降りたらぶつかるから横にずれて!」
たっちゃん少年は、自分の体の死角になって帽子の位置が確認できないらしい。
なんとか体勢を変えようと頑張っていたが、踏ん張っている位置がよくないのか、重心を移動させようとすると足が滑って体が伸びてしまう。
なんども挑戦していたが、そのうちにとうとう動けなくなってしまった。
「大丈夫ー?」少年たちが心配そうに声をかける。
「一度登ってきたらー?」見かねたゴム履き女性が、額に汗を浮かべて声をかける。
「水量が多くて危ないし、大人の男性を呼ぶか、長いもので引っ掛けて取る方がいいんじゃないかしら?」
胡桃坂が気遣わしげにアドバイスするので、私も彼女に「その日傘を貸してあげたら届くかも」とアドバイスする。
胡桃坂は面食らったような顔をする。
そうこうしている間に、少年たちは次の作戦を打ち出した。
「みなと、ガードレールに捕まって手伸ばして。俺、帽子取ってくるから」
「わかった」
「たっちゃん! 俺、帽子取るから、たっちゃんは、みなとの手を掴んで上がってきて!」
たっちゃんは「うーん」と、呻き声とも肯定ともつかない声で返事をする。
みなと少年と指揮官少年は素早くガードレールを乗り越えた。
みなと少年が、ガードレールの根本ギリギリに捕まって手を伸ばし、たっちゃんの救出を試みる。
それでも届かないとわかると「足掴んで」と、今度は腹ばいになって、たっちゃんへ足を伸ばした。
一方、指揮官の少年は、たっちゃんより身一つ分離れた場所から慎重に傾斜を下っていく。
帽子と同じ高さまでくると、細い腕をぎりぎりまで伸ばし、どうにかつばを掴むことに成功した。
「すげえ!」みなと少年が歓声をあげる。
「やったー! まじでありがとう!」たっちゃん少年が叫ぶ。
先に上がった二人が大はしゃぎで讃えるので、指揮官の少年は照れくさそうに笑うと、一気に坂を駆け上り、帽子をたっちゃんに渡した。
「三人とも、水道貸してあげるから、うちで泥落として帰んなさい」ゴム履きの女性は、こちらに軽く会釈すると、子供達に声をかけて家へ入っていく。
「傘が汚れずに済んでよかったね」
私は事実を言ってみる。胡桃坂はなんとも言えない表情をした。