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7月。夏休みを間近に控えた週末の新宿駅は、文字通り、芋を洗うような混雑だった。
ノイズキャンセリングイヤホンでも相殺しきれない喧騒が耳に障り、思わず顔をしかめる。
東京ではここのところ突発的な雷雨が頻発していて、吐いた息をそのまま吸い込んでいるのかのように空気が熱く、重い。立っているだけで吹き出してくる汗が肌にまとわりつき、窒息しそうだ。
派手な格好をした若い女性が、ガードレールに腰を預けて携帯の画面を叩いている。
外国人観光者は、体の前後に巨大なバックパックを抱えてバスターミナルへ向かっていく。
誰も彼もがアスファルトの上で蒸し上がっていた。
甲州街道に沿って歩く人波は、募金の呼びかけをする若い男性を避けて、川の中洲のように割れている。
私の歩く先の道もあくようにと念じつつ、人の流れに乗って駅を離れる。
◆
「どうぞ」
面談室の扉をノックすると、女性の声で返事が返ってくる。ドアを開けると、人の良い丸顔をニコニコさせた胡桃坂に出迎えられた。
二ヶ月に一度、私は彼女に会いに来る。
駅から程近いクリニックビルの三階、メンタルケアを専門にした医院で、彼女はカウンセラーとして働いている。私はクライアントだ。
「暑かったでしょう」
八畳ほどの室内は空調が効いていて、冗談みたいに快適だ。
「暑いなんてレベルじゃない」
入り口横の荷物入れにカバンを入れる。中央に置かれたローテーブルを挟んで、白い布張りのソファが向かい合って置かれている。
私は左手に回るついでに、窓の外を眺めた。
大通りに面したはめ殺しのガラス越しに、喘ぎながら下界を流れる人の群が見下ろせる。
「何か面白いもの、見える?」朗らかに胡桃坂が覗き込む。
「面白いもの?」
窓の下には私よりも苦しそうな人が大勢見えます。可笑しいですよね。
そう答えようか少し迷って、結局、首を振って視線を外す。
空は急激に雲がかかり始めていた。ひと雨来そうだ。
私がソファに座ると、胡桃坂は斜向かいに腰を下ろした。
「さて。調子はどう?」
世間話のように胡桃坂が始める。
「別にどうも。普通です」
「つぐみちゃんの高校も、もうすぐ夏休みだよね」
「そう」
「どこかへ出かけたりするの?」
「どうかな。通学以外で私が外に出るの、親は嫌がるから」
胡桃坂の表情が曇る。
「そっか」
「だから、積極的に外出したいとは思ってるけど」
返答に困ったようで、軽く頷くと胡桃坂は話題を変えた。
「学校はどう? クラスメイトとはどんなお話をするの?」
「お話は知らないけど。ぶつかりおじさん探しが流行ってる」
「ぶつかりおじさん?」
「駅でわざとぶつかってくる、おじさん」
「ああ」
ぶつかりおじさんは、最近問題になっている迷惑行為者だ。
駅構内で若い女性をターゲットにして、後ろから体当たりしそのまま逃げていく。
抑圧されたストレスの吐け口にしているのか、とにかく自分より弱そうな相手を選んで加害する卑怯さが大衆の嫌悪感を誘い、世を騒がせている存在だ。
我が校の生徒たちは、学業の鬱憤を晴らすかのように、そういった、社会的に明確に悪と見做される輩を探し、動画を撮り、SNSに晒し上げては、点数を付けあって遊んでいた。
「それはまた、ずいぶん危ない遊びだね?」感心しないな、と胡桃坂は呟く。
「かもね」
「SNSに上げるのも、よくないし」
「でも、こういうの、どっちもどっちっていうんじゃないの」
分かりやすい弱者は標的にしやすいし、わかりやすい悪行は袋叩きにしやすい。
ぶつかりおじさんも学生も、やっていることは同じ。フェアと言えなくもない。
「まさか、つぐみちゃん」
「SNSには興味ないので」
胡桃坂がほっと息をつく。
「私より、先生の方が気をつけた方がいいんじゃないですか。こういうのは、私には関係ありませんけどねって顔してるやつからターゲットにされる」
ニュースで見ただけでも、新宿駅では今月二回は発生していた。「私ならそうする」
「そうね」あまりピンと来ていないのか、胡桃坂は続けて言う。「あまり危ないことしちゃ、だめよ。あなた自身を守るために」
「危ないことなんてしなくても、被害者は巻き込まれてる」
「それはそうだけどね。藪をつついて蛇を出すっていうでしょう」
「攻撃は最大の防御とも言うよね」
そこで少し沈黙が流れる。
少し前に降り出した雨が、シャワー放水のように窓を洗っていた。
稲光と雷鳴がほぼ同時にやってきて、これは近いぞ、と嬉しくなる。
「それはそうと」気を取り直した胡桃坂が口を開く。「今でも見えている?」
「何がですか」私はわざととぼけて言った。
(◉Θ◉)oO ( 長くなってしまったので前後編に分けます。後半は本日中にUP予定です。




