河鏡
集落を発ってから早一週間。
ニスヴェールへの道のりは思ったよりも長い。
山道も無くなり、ほぼ獣道だろうというところを
俺は今突き進んでいる。
お世辞にも発展しているとは言えない村落を
いくつも通過してきたが、
一昨日訪れたその場所で俺は少し面白い話を聞いた。
…………………………
「河鏡の口伝承…ですか?」
「そう、古くからこの辺りでは
よく伝えられてきたお話なの」
そう言うばあさんは、とても齢七十を越しているとは
思えないほど元気なご老体だった。
…………………………
―二日前―
じいさんのいた集落を発ってから五日。
二十年前のものだというここら一体の地図を
じいさんから受け取っていた俺は、
およそ何年も人が歩いていないであろう
自然に戻りかけの山道を進んでいた。
朝早くということもあり、中々に寒い。
北東の冬の厳しさを改めて思い知ったが
ステューの朝鳴きは耳に心地よかった。
気ままに昼頃までは水脈を探そうと思った矢先、
辺りの音がふっと消えた。
「…………」
……気付くのが遅れた。高精度の隠匿魔法…
何者だ?帝国魔法使い並みだぞ…
この辺りにマーミッドは生息していないはずだが…
その時前方から何かが歩く音がした。
人間か?
「あらあら、久方振りの来客ね
冒険者の方?」
正面の林の中から俺ほどではないにしろ
中々に背の高いばあさんが歩いて出てきた。
沢山の肉を持っている。
「いえ、しがない旅人ですよ」
魔獣の術中に嵌められたわけではない。
その事に一瞬俺は安堵した。
「あらそう、ここに入ってくるなんて
あなたやるじゃない。少し寄っていきなさい。
人と喋るのなんて久しぶりだわ」
温かな雰囲気だが、こりゃあまた…相当の手練だな。
敵にまわしたら本当に終わるタイプだ。
にしても最近あまりに普通に接してくる人が多い。
己の風貌を勘違いしそうになるなこれじゃあ…
「はい、ありがとうございます」
――――――――――
ばあさんが住んでいるという木造の家に着くまで
しばらくの間会話を楽しんだが、
あまりに驚くことが多すぎて道中の時間は
とても短く感じられた。
二十年前から
彼女·ゼーレさんはここで暮らしているらしい。
周囲二百メートルにも及ぶ隠匿魔法の領域。
自分と同じほどの強さをもつ生物のみが
入ることの許される空間。
よく見れば周りの林もこの地域では考えられない
ファラやフエルの木々ばかり。
なぜこの段階の魔法使いがこんな僻地に住んでいるのか。
「共生よ、自然との共生!」
おちゃめに彼女はそう言うが…
いやいやこいつらと共生は出来るもんじゃないだろう…
俺の理由とは別に…これは普通定住できん。
聞いたことの無い鳴き声も聞こえる。鳥か?
木々には一口食べれば、身体全体が痺れる
ファラやフエル特有の実が赤々と実っていた。
俺の驚きはまだ続く。
家の前にまるで番犬の如く
空の番人·エルグレイが鎮座していた。
五百年前、戦乱の世を生き抜いた三鳥の一種。
黒々とした体躯に鋭い眼光。
足の大きな鉤爪に日光が反射している。
まだ成体ではないようだが、
優に四メートルはあるな。
久々に身体が震える。
生で見たのは当たり前だが初めてだ。
迫力と圧は帝国伝承のそれとほとんど変わらない。
「いやほんとにどうなってるんだか…」
思わず心の声が口から洩れた。
まあこれはしょうがないだろう。
驚かない方がおかしい。
「ふふ、一緒にいるとグレイも
ステューみたいに可愛いものよ」
ゼーレさんにグレイと名付けられたらしい空の番人は
今彼女に撫でられながら声高に鳴いている。
まあ、こう見てみると可愛い…か。
さっき聞こえた鳴き声はエルグレイのものだったんだな。
そりゃ聞いたことのないわけだ。
ばあさんの寵愛も終わり、俺が家の中へと連れられる時
グレイは俺をとてつもなく牽制してきた。
いや怖いな。可愛くない。
さっきの甘えた鳴き声はどこへやら。
空の番人はやはり空の番人であった。
――――――――――
家の中はまあ過ごしやすかった。
全員が想像する婆さんの家という感じだろう。
棚の上にある沢山の記念の盾や、
壁に飾られている想像することもできない
魔獣の剥製を除けば…
「あらあなた帝国から来たの?
私も前まで帝国で働いていたのよ」
やっぱりだ。
これほどの人材をこんな辺境で放っておく訳がない。
「そうだったんですか。
私は放浪中なのであれですが…
どうしてゼーレさんはこの地に?」
「まあ、帝国での生活も悪くはないんだけどね
便利だし生活も保障されてた。
でもね…実はここ私の故郷なの」
なるほどそういうことか。
「最初は特にそう思ってなかったんだけどね。
遠くに行って仕事するうちに段々ね…
ああ、生まれたところで土に還りたいって」
そう話す彼女の顔はとても優しく見えた。
「四十年くらい前まではここ村だったのよ
三十世帯くらい住んでたかしら。
今は私とグレイくらいだけど…
せめてこの場所を、
私が生きている間は守りたいのよね」
生まれ育った場所で死にたい。
そう考える時が俺にも来るんだろうか。
少なくとも、平穏には余生を送れないだろうな。
「まあそんな話も終わり!
旅人さんについて詳しくは聞かないけど、
お腹は空いてるかい?」
「いや…」
長居するつもりはなかったので、否定しようとしたが
ぐ~、っと腹は正直だった。
「あはは、いいのよいいのよ。
私一人じゃ食べきれないし。
まあグレイはよく食べるけど」
少し顔を赤くした俺を笑いながら、
彼女は慣れた手つきで
先ほど運んでいた肉を調理し始める。
今まで嗅いだことの無い、
とても食欲をそそる香りがした。
――――――――――
「はい、おまちど」コトッ
提供されたそれを見て、俺の腹はまたも叫んだ。
ハーブと赤い葡萄酒が香る分厚いステーキ。
お金を払わずしてこの料理を食べて良いのか?
そんな俺の視線に彼女はすぐ様気付いたのか…
「良いんだよ、食べな食べな!
人に振る舞うのなんざ久々で
腕をかけて作ったんだよ?
あ、味は保証する!」
そういうと彼女は左手の親指を立てた。
躊躇する必要はない。
俺はそう理解した。
いただきます。
――――――――――
「………」
あまりの美味しさに言葉を失った。
美味しいと言うのも忘れるほど。
今まで食べた飯の中で一番旨かった。
一キロはあったであろうそれを
俺はもう平らげてしまった。
「あはは、もう食べ終わったのかい
沢山食べるのは良いことだよ!」
彼女は腹を抱えて笑っていた。
「あんたも大変だったんだね」
「…………」
何も言えなかった。
ただ無心に人と関わらなければならない。
執行人とはそういう存在だ。
しかしなぜだろう。彼女の前では…
「ごちそうさまでした」
――――――――――
「あー、ニスヴェールに向かってるのか
ちと遠いね」
「あと一週間はかかりますかね」
「そうだねえ。あ、この道だと…
河鏡の口伝承の場所を通るね」
そろそろお暇させてもらおうと、
彼女にこれからの行き先を伝えると
中々に面白そうな話が出てきた。
「河鏡の口伝承…ですか?」
「そう、古くからこの辺りでは
よく伝えられてきたお話なの」
「ここからニスヴェールまでの半分くらいに
差し掛かったとき、そこに河があるはずよ。
その河は、夜水面を覗いた人の歩んできた
人生を映すと言われている」
正直あまりオカルトに興味があるわけではないが…
自分の人生を映す河か、
「行ってみます」
――――――――――
青かった空は今、もう橙に染まり始めていた。
そんなに長居してしまったか。
危ない危ない。
「一泊ぐらいしていったら良いのに」
ゼーレさんはそう言ってくれたが
流石にそこまでしてもらうわけにはいかない。
「ありがとうございました」
「いいのよ。気を付けてね。
何かあったらまた来なさい」
さっきはあんなに牽制していたが、
俺の出発にグレイは何も言わない。
そりゃそうだ。出ていくんだもんな。
軽く彼女とグレイに会釈をすると、
俺はまた深い林の中へと足を踏み入れた。
「…………」
「執行人か…難儀な道を歩むねえあの青年は…
ねえグレイ?」
…………………………
今日もだいぶ歩いたと思うが、
中継地点だというその河にもまだ辿り着かない。
南へと渡らなかったステューたちは
木の上で冬を越す準備をし始めた。
たしかにステューには愛嬌がある…
いやいや、エルグレイにはないだろばあさん。
ゼーレさんの少し変わった感覚を再確認しつつ、
俺は夜を越すため焚火の準備を始めた。
――――――――――
煙草のストックはだいぶ増えた。
今日は二本くらい吸ってしまおうか…
あ、もしかしてエルグレイもこの匂い嫌いなのか?
動物はこの匂いあんま好きじゃないしな。
俺への牽制も案外そのせいだったのかもしれない…
……悪いことしたな。
ぼんやりと暗い夜。
すっかり色が変わった空を見ながらそんなことを考えた。
今日は星が綺麗だなあ。
イール湖辺りにでも行きゃあ……
「……!」
水音。
ここから近いな。
夜は執行人の時間だ。
影の魔法が躊躇いなく使える。
自身の影から松明を取り出す。
俺は少し楽しみだった。
自分の人生を映す河
俺の人生は何が映る?
一分ほど歩いたところで林は開けた。
「はは、こりゃあ壮観だな」
空の星々が河面に映る。
予想よりも大きかった河は星の光を吸収し
そして放出していく。
世界が、俺が、星に包まれていく。
これは伝承されていくわけだ。
――――――――――
しばらく煙を入れながら考え、空を眺めていたが…
うん、流石に眠くなってきた。
「…見るか」
ずっとこのままでもしょうがない。
少しの緊張と共に俺は水面を覗き込む。
瞬間
――暗闇――
……
さっきまでの河面はどこへ?
星たちは俺の暗闇に引きずり込まれた。
彼らは輝くことをやめた。
俺は今どんな顔をしている?
「…まあ、過去なだけましか。はは…」
顔を上げた俺は、しばらく森の静寂の中にいた。
焚火場所に戻ったのはいつだったか。
その日は寝るのに少し時間がかかった。
数ある作品の中から選んでいただき、
読んでいただいてありがとうございます。
これからの為に、どんなに低い点でも良いので
評価していただけるとありがたいです。