政務官
私の両親は、左心房で暮らす「普通の人」だった。温厚で、幸福で、無自覚なリュウジュの養分だった。
父は生真面目な人で、仕事のことばっか気にかけて、良くも悪くも私のことは無関心だった。ずっと命の大切さとは無縁の世界にいたから、命の育て方がわからなかったんだと思う。
母は父の分まで私の親である権利を行使するかのように、過干渉だった。うざったく思うこともあったけど、世界の仕組みのすべてに弾かれている私にとって、唯一の世界との繋がりでもあった。命の育て方がわかないのは父と同じだったが、私の幸福のために努力する向上心があるだけましだった。
だけど、私は一般的なリュウジュの民が想定する『普通』の育て方では不都合が生じた。
夏は暑く、冬は寒い。背は低く、髪は物心つく頃には色素を失って白く染まっていた。運動はてんでダメで、手先も不器用、物を覚えることも苦手。顔も今でこそマシになったものの、一時期は泡のようなそばかすとヒビのようなあかぎれによってひどいものだった。
そんな体だったから、私はしょっちゅう風邪を引いた。だけど、風邪、というのは、リュウジュの民には存在しない概念だった。彼らは体内に侵入した細菌など、器官内の先住民である『龍脈』が駆逐してくれるのだから。
しかし、私はそうはいかない。
細菌はいとも簡単に私の身体を蝕み、全身を熱気と寒気という、二種の相反する苦痛で傷つけた。頭痛がした。吐き気を覚えた。幻聴を聞いた。幻覚を見た。息ができなくなった。
母は自分の体では決して経験したことのない未知の症状にうろたえたが、わからないなりに手を尽くしてくれた。だが、病気という概念に無知であるばかりに、私の体は対して休まらなかった。頭にネギを巻いても何もならなかった。
死ぬ、と思った。
不安定な私の意識が最期に幻聴ではない人間の声を拾った。
「それはバルバイの身にかかる異常状態だ。政務局からのお達しにより、この娘を処刑する」と。
「私の命はどうなっても構いませんから、どうか娘を助けてください。まだこの子は、自分の足で世界を歩く喜びを知らないのです」と。
翌日、私は命を吹き返した。母は私の横で死んでいた。満足そうな顔だと思った。
それがひどく苛立たしかった。
――母の死後、世界のすべてが私に牙を向いた。元からずっと狙われていて、私が弱った隙を見て食いついてきただけのことだが。
父は母の生前に私のことを出生局に問い合わせていたようで、政務局から引き渡しの連絡が来た。しかし、いざ引き渡しの段になると、父は私の引き渡しを拒んだ。意味が分からなかった。
父の固辞も無意味で、政務局は強引な手段で私の身柄を迫った。だから私は逃げた。左心房に暮らす者の特権としてある程度の教育は受けられたため、リュウジュの肉体の地図は頭にあった。寒い冬の晩、私は左心房から消えた。
それからしばらく政務局の追手から逃亡する日々が続いた。左心室に入り、大動脈に乗った。そのまま龍脈の流れに沿って肉体を下降した。何度死にかけたがわからないが、無力な自分を変えようとする意志が私を生き長らえさせた。右後肢までたどり着いたところで、追手は消えた。1年に及ぶ逃亡劇だった。
しかし、右後肢にたどり着いたころにはもう限界だった。風邪を引いたときに感じた物理的な苦しみとは異なる、世界から突き放されたような、冷たい孤独による苦しみが襲った。
たどり着いた場所は『龍の腔』と呼ばれるゴミ捨て場だった。エネルギー循環で不要になった不純物を排泄するリュウジュの掃き溜め、そこでゴミと一緒にうずもれるように私は倒れた。
汚臭。
寒気。
疼痛。
飢餓。
孤独。
死に感触があるとしたら、こんな感じなんだろうと思った。幸福の最も遠いところに位置する、絶望という概念の総体。
だが私は死ななかった。
――おい、こんなところで寝てると風邪ひくぞ。
そんな幻聴が聞こえた。
――住むところがない? じゃあ、見つけられるまで俺のとこにいろよ。あ? ああ、別に一人分の食費くれぇ何とかなんだろ。
……対価? あー、そーだな。俺の小説のモデルになるってのでどうだ。お前めちゃくちゃ濃厚な人生送ってそうだからたぶん面白いのが書けるぜ。
それが幻聴ではないと知ったのは、柔らかいベッドの上で温かいスープを飲んでいる自分の姿に気づいたときだ。私を助けたのがウミヒコだった。
彼はしがない三文小説家で、元は左心房の生まれだが、執筆に専念するために龍脈の少ない右後肢に移り住んだという。私と似ているようで似ていないと思った。口調は乱暴だけど、リュウジュの民らしく性根は真っ直ぐで、一般的なリュウジュの民が望むような幸福を求める心はまったく持っていなかった。ただ「良い作品を残すこと」、それだけが彼の生きる目的で、そのためなら生活の苦労も惜しまないと言った。
……驚いたのは、彼は政務官でもなければ知りえるはずのないリュウジュの内外の知識、それも使いようによってはリュウジュを内側から破壊させられる極秘情報を持っていたことと、それを知っていることを執筆のネタ程度にしか思っていないことだ――。
――
政務官及び龍警団一門は、右後肢に唯一存在する龍駅の駅長室をバルバイ捜索の拠点と定めた。龍駅とはリュウジュの心臓の血管に流れる『龍血球』を人間用の乗り物として開拓した施設で、リュウジュの民なら誰でもリュウジュの全身を駆け巡ることができる。
「よし、これでバルバイも一網打尽だな。いくら奴らが逃げることだけは一丁前な卑怯者集団でも、人海戦術にかかられては逃げられる道理もない」
政務官代表ナルロスはどっかと駅長用のソファに座り、タバコを口にくわえる。しかし、自分で火をおこすでもなく、とんとんと机を爪で叩く。
「おい」
「はっ、はい!! 了解しました政務官殿!」
居心地悪そうに部屋の端に突っ立っていた駅長が慌ててひざまずき、政務官のためにライターを着火する。金属の容器に龍の鱗を粉状にしたものが入っており、フリントと呼ばれる部品を回すと摩擦により生じる龍脈エネルギーによって火がおこる仕組みだ。左心房の技術局が開発した。
ナルロスは一回灰色の息を吐いただけでタバコを灰皿の表面ですり潰し、いつの間にか用意されていた熱々のコーヒーを口にする。駅長がもったいない……と呟いたが、普通に無視した。
「しかしバルバイめ、こんなリュウジュの末端に潜むなど……それで我々の目を欺いたつもりだったのか? ま、こそこそと逃げ回るネズミの最期に相応しい場所ではあるな」
彼は既にバルバイの掃討を確信し、勝ち誇った笑みを浮かべている。年月を刻んだ老齢の腰は既に曲がっているが、皺を刻んだ顔つきには未来を志向する者特有の若々しさが残っている。
「ん? このコーヒーはなかなか美味いじゃないか。こんな辺地にもコーヒーの味が分かるやつがいるのか」
ナルロスは駅長の方を見た。事の成り行きからして、彼が注いだのだと思ったからだ。しかし、駅長は首を振った。
「あ、いえ。これは新人に淹れさせたものです」
「ふん、そこは正直に答えんでいいものを」
ナルロスは興味なさげに呟き、コーヒーを飲みほした。駅長はほっと胸をなでおろす。
それからナルロスは、部下の政務官たちとバルバイに関することや、政務局の敵対勢力の動向など、取るに足らないことを話し合う。
「……」
そんな中、筆頭龍警団のアメノは駅長室の角端に佇み、一人何か考えふけっている様子を見せた。それをナルロスは見逃さず、声をかける。あるいは単純に暇つぶしの一環として話しかけているのだろう。
「どうしたアメノ。此度の任務に参加してからずっと表情が優れないようだが」
「いえ、問題ありません」
感情のない、事務的な答え。ナルロスはそれが面白くないようで、再びタバコを摘んだ。今度は駅長が颯爽とライターで着火した。
「それともなんだ? まさかバルバイに情でも湧いたか?」
「ご冗談を」
アメノはおもむろに立ち上がると、駅長室内を軽く見渡した。すると、ココア(・・・)の入った瓶詰を見つけた。
「あ、もしかして筆頭殿はココアの方がよろしかったでしょうか」
駅長が尋ねたが、アメノはその問いを無視して勝手に瓶詰を手にとる。
「筆頭殿、私が淹れますよ」
「自分でやる」
「はいぃ……」
もはや給仕係と化した駅長の申し出を断り、自分でココアを淹れはじめるアメノ。ナルロスはつまらなそうにその光景を見つめ、今度は二息だけ吸ったタバコを机にすり潰した。
「あの、私の机……」
「ま、情だのなんだの、貴様に限ってそんな心配は無用だな。何せ、貴様はこれまで数十のバルバイと、バルバイに協力している疑いがある者を数百と殺してきたのだからな。此度も自らの手で忌々しき野蛮人どもの首を刎ねようと精神を研ぎ澄ませていることだろう」
「……」
アメノは何も答えず、静かにココアを啜る。灰色の煙と白い湯気が狭い駅長室に充満する。
「あのー、政務官殿。お願いですからタバコは灰皿に捨ててください……」
「……」
「……」
駅長について特に触れられることはなかった。
この時、外で別行動をしていた一人の政務官が駅長室に駆けつけた。
「長官、報告が入りました。バルバイと思しき人物を第五間接丘で見つけたと」
「……」
ナルロスは返答代わりに、タバコに火をつけた。自分でやるんだ……と駅長は呟いたが、ナルロスの醸すヘドロのような緊張感のために誰も聞いていなかった。
「奴らはその市民の通報に勘づいているか?」
「いえ、現状動きを見せてはいないそうです。恐らく人の目から隠れるよう動けなくなっているのだと思われます」
「では、龍警団を向かわせる。アメノ、奴らを狩場に誘い込む部隊と実際に狩りを行う部隊とに分け、陽動の方は貴様が組織しろ。本軍は私が率いる」
「それですと、ナルロス長官の身に危険が及ぶ可能性も――」
「おい、アメノ」
小さく放たれたナルロスの声は、凍てついていた。
「は」
「私を舐めるな」
「……ご容赦を」
アメノは静かに瞑目し、跪いてナルロスを仰いだ。
「うむ。ではアメノ、頼んだぞ」
「御意。――お前たち、規定通りに」
アメノが指示をだすと、これまでアメノを除いて部屋の縁で石像のように固まっていた龍警団の集団が一糸乱れぬ動きで動き出す。言葉を交わす間もなく集団は二分され、一方は筆頭龍警団アメノの傍らに、もう一方はおもむろにソファから腰を上げたナルロス政務官代表の傍らに着いた。
ナルロス政務官代表はほとんど吸っていないタバコを床に落とし、革靴で踏み潰した。
「さ、ネズミ狩りの時間だ」
「ふー、やれやれ……あの人たち怖かったなぁ……。結局タバコ灰皿に入れてくれないし……。僕もリュウジュの民としてお手伝いしたかったのにお茶みしかさせてもらえなかった……」
駅長室から一部屋隔てた所にある給湯室で、駅長は静かに独りごちる。リュウジュの民にとって、左心房の人間とは会話ができるだけで一生の幸せ足りえる。
「まあ、黙ってれば出世に繋がるかもしれないし……ここは耐え忍ぼう」
「お疲れ様だみゃ、駅長~」
「おわっ!」
政務官代表の使ったカップを洗っていると、突然肩を揺さぶられた。慌てて振り返ると、猫のような目つきの少女が、体をゆらゆらさせて立っていた。駅長ははじめ突然のことで驚いたが、それが自分の見知った人物であることを認めると、すぐに穏やかさを取り戻す。
「ああ、マオ君か。今日で初出勤から一週間経つと思うけど、もうこの仕事には慣れたかい?……」
「みゃみゃみゃ、おかげさまで何とかなってるミャ。それより駅長、本日でこの仕事辞めさせてもらうミャ」
「そうかい。あ、君が淹れたコーヒー、政務官代表様に好評だったよ」
「それはよかったミャ~」
猫目の少女はくすりと笑う。
「まったく、あんなドブ色の飲み物をどうしたら美味しくできるのか僕にはさっぱりわからなえぇっ!? やめるってぇ!?」
「……反応がワンテンポどころかスリーテンポくらい遅いみゃあ」
「なぜ急に辞めるなんて言うんだ! 何か待遇に不満でも? うちはフレックスタイム制導入の完全週休二日制で残業なしの有給取得率100%、産休も男女問わず認可率100%なのに……」
「むしろ怖いくらいにホワイトだミャ」
少女は苦笑しつつ、唇に指をあてる。
「そうみゃね~、別に今の働きに不満はみゃいけど、新しくやりたいことが見つかったんだミャ」
「そ、それならしょうがないな……でもそういうのはできるだけ早く言ってね。送別会とかやりたいし」
「理想の職場過ぎて怖いみゃ~。みゃ、そういうわけでさよならだみゃ」
「うん、その行動力があれば次の職場でもうまくいくだろうね。頑張って」
「そっちこそ、その適応力がみゃれば人生楽しいだろうみゃね。みゃあ……」
この馬鹿みたいな優しさも、龍脈に人格矯正されたおかげみゃあね。
「ん? 何か言ったか?」
駅長は彼女の声がよく聞き取れなかった。
「今までお世話にみゃりましたって言ったんだみゃ」
「うん。短い間だったけどこっちこそ……あ、そうだ。今すぐ出ていくなら退職金渡すよ。来月貰うはずだったボーナスも追加で」
「……どうもだみゃ」
その時、給湯室に向かってドタドタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「駅長、大変です! 駅長室で待機していた政務官の方々が一斉に泡を吹いて倒れました!」
「何だってっ!?」
狼狽する駅長とは対照的に、珍奇な少女は毛づくろいをしている猫のように目を細める。
「えっ、政務官様が倒れた!」
「バルバイにやられたの!?」
騒ぎはすぐに伝播し、構内は軽いパニック状態に陥る。
「それじゃあ駅長、お世話になったみゃ~」
「え? あ、うん……?」
猫目の少女は龍駅の喧噪から離れ、宿願のために歩き出した。
「しっかし、ここは寒いとこだみゃ。暖房くらいつけみゃいいものを……」