咆哮
――カランカランカラン!
甲高いベルの音が鳴り響く。何度も何度もけたたましく、うねる波濤が耳の奥に押し寄せるように。
「――!」
ドーナツをもぐもぐしながら、ソウナギはベルの音のした方に意識を向ける。
あのベルは……。甲高い音の響きが耳の奥深い部分まで侵入し、嫌な気分になる。
刹那、思い出す。あの鐘の音が記憶の彼方に封印していた深淵の痛みを呼び覚ました。
――それは、『龍の咆哮』。
「あ、何の音だ?」
ドーナツになる前の粉の塊を手でこねながら、店主がつぶやく。
「聞いちゃダメ……!」
ソウナギは察し、耳を塞ぐ。
だが、間に合わない。
ガランガランガランガラン!!
それは龍の鳴き声に似ていた。
「中央広場に集まれい! 中央広場に集まれい!」
ベルの音と同時、老人のしゃがれた大声が耳朶を打つ。その声はベルの音より重く激しく繰り出され、血脈のように右後肢全体をめぐるように思えた。
ガランガランガランガラン!!
「……っ!!」
あまりの撃音に、ソウナギは耳を抑えてうずくまる。歯を食いしばり、涙が滲むほどに強くまぶたを塞ぐ。頭蓋が軋み、鼓膜の奥に激痛が走る。視界が揺さぶられ、体が椅子と共になぎ倒される。
ガランガランガランガラン!!
「……うっ……! くぅっ……!!」
三半規管やら三叉神経やらがぐちゃぐちゃになり、胃の中で混ざり合った甘い固まりが喉に圧し戻される。
「はっ……、はっ……!」
……まずい、発作が——。
ソウナギは店主を見る。
店主はベルの鳴った方をぼうっと見つめている。先ほどまで快活だった彼の目に正気はなくなり、虚空に魅せられているかのような虚無の眼差ししか持っていない。
ダメだ。ソウナギは思った。この人は龍に(・)魅せられた(・・・・・)。
「ああ、龍警団のお達しだ。いかなきゃ。いかなきゃな。」
彼はかき混ぜていたボウルをその場で手放す。ドロドロとしたドーナツ生地が龍脈の上にこぼれ、染みこむ。そして中央広場に向かって歩き出した。その際、地面にうずくまり痙攣するソウナギには一瞥もくれなかった。ただ虚空を見つめていた。
一人、ぽつんと取り残される厚着の少女。何重もの衣で覆われた細見の身体は、ドーナツの空洞に似ていた。
「ふっ……! ふぅ……!」
それでも、少女は心臓を熱く拍動させる。
「負ける……もんか……!」
吐瀉の奔流をかろうじて咽頭で留め、酸味のあるドロドロしたものを嚥下した。しかし一旦波が引いただけであり、間もなく第二波が訪れる。今
ソウナギは死に物狂いでバッグをあさる。手の先に何か感触はあるが、指先が痙攣して上手くつかめない。それでも何かつかむ。取り出してみる。これは飴玉だ。投げ捨てる。再びバッグをあさる。何かつかむ。予備のぽんぽんしてるやつだ。投げ捨てる。いらないものを色々つめこんだ自分を恨んだ。それでもなんとか指先の感覚を頼りに、バッグの底にしまっていた小箱を取り出すことができた。
だが、タイムリミットだ。第二派が押し寄せる。この燃費の悪い小さな体は、取り込んだカロリーを適切に消化できないだけで命に関わる。
それでも。
ソウナギは千切れんばかりに手を噛み、必死に逆流をこらえる。
もう一方の手で、必死に箱を開けようとする。上手く開かない。手が震える。痛い。苦しい。思考がまとまらない。
隙間に爪をねじこみ、なんとか箱を開ける。
中にはカプセル型の錠剤が入っている。ウミヒコが作ってくれたソウナギ、専用の鎮痛薬だ。なんでも、昔小説で薬について扱ったから作り方を知っていたらしい。
震える手つきで何とか白い錠剤を口元まで寄せ、一口に飲み込む。しかし慌てて飲んだため、喉裏に張り付いてしまった。最後の力を振り絞り、吐瀉物ごと流し込む。ダメ押しに、目の前で倒れている抹茶ラテをつかみ、流し込む。いくらか口からこぼれ、唇を金属の錆のような色で汚したが、ごくんと喉を鳴らす。鼻腔内で膨れ上がった吐瀉の酸味が、抹茶の苦味とドーナツの甘味と混ざって胃の淵へと突き抜けた。それも、龍脈を踏む気持ち悪さに比べたらどうってことはないと自分に言い聞かせる。
こひゅぅー……、かひゅー……。
……じわじわと全身の感覚が蘇る。こわばっていた筋肉の緊張が解ける。痰の絡んだ吐息を吐き出すとそこで意識は平常に戻った。
方々から中央広場に向かう足音が聞こえる。リュウジュの民は龍脈をその身に宿す限り、『龍の咆哮』に抗えない。ただ一人、龍脈の流れない少女を除いて。
「……ふざけん……な……」
それは、店主に対する怒りではない。町の人々に対する怒りでもない。『龍脈』の力によって人民を統制する、『リュウジュの心臓』の支配者に対する怒りでもない。
圧倒的な力に対してなすすべのない、自分の無力さに対しての怒りだ。
ソウナギはふらふらと立ち上がり、中央広場へと向かうことにした。『龍の咆哮』が放たれたということは、きっと「奴」がここにきていると考えたからだ。
「ウミヒコ、ごめんなさい」
貴方の原稿、届けられないかもしれない。
そんな一抹の懺悔は、嬉々として中央広場に向かう者どもの足音にかき消された。




