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ソウナギ


 私には、人間になる前の記憶がある。リュウジュの民がリュウジュの民として産み落とされる前、リュウジュの胎内の記憶だ。

 光はなく、目を開けても閉じても常に暗いところだったが、小波のような静かな水音と、肌に染みこむ生暖かい心地よさがあった。自分が深い海の中をたゆたう千切れた海藻のように思えた。

 リュウジュは私に声をかけた。

「お前は私と同じ、白銀の鱗を持つ。私と同じく、熱さを知り、寒さを知り、痛みを知り、悲しみを知り、苦しみを知る。

だが、案ずることはない。熱さを知るから快さを知り、寒さを知るから温もりを知り、痛みを知るから安らぎを知り、悲しみを知るから楽しさを知り、苦しみを知るから喜びを知る。お前は、リュウジュで唯一の、本当の幸福を手にいれられる子に育つ。

 しかし本当の幸福とは一体何なのか、お前にはわからないかもしれない。あるいはそれを求めて一生迷い続けるかもしれない。

だが、それでよい。悩み、迷い、傷つき、苦しみ、それでも探し求め、問いつづけるのだ。私も、人間が求める答えとは何かを問いつづけよう。問いつづけるのが生きるという行為だろうからな」

 実は、この事を「覚えている」という記憶はほとんど忘れていた。それ以上に立ち向かうべき現実の問題が山積みだったからだ。

 だが、この立ち向かうべき現実の問題こそ、リュウジュが求めつづける答えなのかもしれない。あるいは、答えとは求めようとする時点で見失ってしまうものなのかもしれない。

 あの時の私は胎児だった。だからリュウジュの言葉には何も答えていない。ただ、この時こう思ったことだけは覚えている。

「リュウジュ、きらい」




――




「……ん」

 それは昼にうたた寝をした後のような目覚めだった。

「お、目ぇさめたか」

 まだ機能していない私の意識に潜りこんでくるのは、聞きなれたぶっきらぼうな声だった。

 ウミヒコ。私を頭上から覗きこむ彼は、さんざ眠ったはずなのに、まだ目にクマが残っている。たぶん一生とれないのだろう。

 思えばこの冴えない三文小説家のために、随分を無茶をしたもんだ。ドーナツ食べて、バルバイ騒ぎに巻き込まれて、嫌な過去を思い出して、友達になれるかもしれない人ができて、久しぶりに父と会話をして、やっぱり父は嫌いだと思って。

「なんか俺の昔のダチが俺ん家まで来たんだよ。そしたら『娘を頼む』ってよ。龍警団なんて物騒なモンが抜け殻みたいなてめぇを引っ提げてきたからてっきり殺されたもんだと思ってたが……よく生きてたな」

 送り届けてくれたのはありがたいけど、家の位置まで知ってるのは普通にきもいな、と私は思った。

今思うと、父が筆頭龍警団なんて大層な役柄まで昇りつめたのは、政務局の追手から私を守るためだったのかもしれない。そうだとしても許してやらないけど。

「あとなんかサインも求められたけど流石にそれは断った」

「へぇ」

リュウジュの民が尊敬してやまない筆頭龍警団。それでいて私の父。ウミヒコはそれを知らない。『龍の咆哮』が聞こえない程、深く寝ていたのだろう。

 あるいは……いや、私には関係ない。もうすべては過ぎた事。

 息を吸って、吐く。冷たい空気を取り入れる。

「ウミヒコ」

「あ?」

「これで、2回目」

「なにが」

「私を死の淵から助けてくれた回数」

「ああ……んなもん、まともな人間なら普通助けんだろ。それがたまたま俺だっただけだ。こうして居候されてんのは奇妙な巡りあわせだと思うけどな」

 人間。

「あとな、件の原稿だけどよ。そのお前を運んできてくれた俺んダチが、出版局に持って行ってくれるって言ってたぜ。まじでどういう風の吹きまわしなんだろうな」

「さあ、その人がウミヒコの小説のファンなんじゃない?」

「はー、アイツが俺の小説読んでとは思えねぇが――いや逆に読むのか? 何だかんだ左心房生まれだから教養人なのは間違いねぇし」

「元はと言えば、ウミヒコがもっと余裕を持って終われしぇていればそんにゃことにはならなかったと思うんけど」

「うるせえおかゆやんねぇぞ」

「参りました」

「素直でよろしい」

 ウミヒコは無駄に器用なので、美味しいおかゆを作るくらいわけなかった。ウミヒコがスプーンですくい、まだ湯気の残るそれを息で冷まし、私の口にあてがう。私はそれを食べる。

うん、美味しあちゅぁっ!?

「あー? 病人の舌には熱いか」

「あちゅひのと病人なのは関係にゃひ」

「舌バグってね?」

 本当は普通に起きれるし何ならおかゆじゃなくていいけど、黙っておこう。

 びゅうう。

 家の外から風が吹く。

「あ、そうだ」

 とウミヒコは言い、窓を閉める。風が止んだ。

「二度と外出んなよ」

「……はい」

 それは当然のことだ。彼が倒れ伏している間に勝手に外に出て、その結果私は何度か死にかけるほどの大変な目にあった。ウミヒコにしてみれば、私は一人で家の外に出てはいけないことが改めて実証された出来事だったに違いない。

「う、さむ……」

 本日もリュウジュの右後肢は寒波の極み。コートだけでは塞ぎきれない裸の首から全身に氷のような痛みが走る。結局マフラーは父に破かれたっきりだ。ああまた許せなくなってきた。

「それとよ、ほい」

「え?」

 ウミヒコが私に向かって乱暴に何かを投げ渡す。ふわりとした挙動を描いたそれは、綺麗に私の手元に落ちてきた。

「これ……」

 それは、新しいマフラーだった。ウミヒコが編んでくれた、深紅のマフラー。

 ウミヒコが顎をしゃくった。巻いていい、と言っている。言われた通りに首に巻く。首の周りに熱が灯って、冷たい風を弾き返す。

「これで貸しは返したぞ」

「貸し?」

 私はわざとらしく首を傾けた。ウミヒコはあーあーと言葉にならない言葉を発しながら、面映ゆそうに頭を掻いた。

「みなまで言わせんなよ。その……原稿、届けようとしてくれてありがとな。それがお礼ってことにしといてくれ」

 そのこっぱずかしそうに誤魔化すような所作がかわいく見えて、何とも言えない征服感のようなものを感じた。

(わらひ)頑張(ぎゃんば)りをもっと称えろ」

「ああ、その滑舌がどうにかなったらな」

「うるひゃいばーかばーか」

 ぽかぽか。

「おまっ、殴るなって!」

「ごめん」

「急に正気になるな。……別に、悪いとは言ってねぇだろ。どうせ小生意気な態度は何一つ変わらねーだろうし、その方が最初の頃よりはいいと思うからな」

「それじゃあ私の勝ちってことで」

「何と争ってたんだ……ほら、口開けろ」

「あ~ん」

「そっちが言うな」

 こんななんでもない会話をすることで、私は私の日常がこの手にあるとようやく信じられる。私はこの世界の輪郭に弾かれているのだから、せめて私が指でなぞれる輪郭の内側だけは私のものであってほしい。

 そうして私はぎゅ、とマフラーを硬く巻いた。耳まで隠すように、深く厚く。

 耳が熱い。赤く染まっている。頬まで熱い。

 これはきっと、寒さのせいだ。


 ……。


 こうして、私のはじめてのおつかいは終わった。

 私の冬は、まだ、始まったばかり。

 でも、いつもと変わらないはずのこの小さな箱庭に、何か足りないような気がする。その正体は――


 ――カランカラン。


 来訪を告げるベルが鳴った。

「あ? こんな時間に誰だ?」

「出版局の人じゃないれひょうか」

 ウミヒコが離れたので、私は一人でおかゆを食べる。

「ああ、売り上げの報告とかか。そんなん龍話ですりゃいいだろ……お前普通に一人で食ってんな」

「食べれないとは言ってみゃへんから」

「ったく……」

ウミヒコは乱暴にドアを蹴っ飛ばす。

「あぁ? てめぇ誰だ?」

 なんで喧嘩腰なんだろう。

 すると。

「いえ、みゃあは決して怪しいもんでは……あ!」

 そこには。

「ナギナギ~~~、大丈夫だったかみゃあ~~~」

 そこには、見覚えのある独特な喋り方の猫目少女がいた


――『リュウジュの心臓』第一章、完。


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