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出発

 甲高いラッパの音色が龍の鼓動を呼び覚ます。惰眠をむさぼっていた我らの白龍に、いよいよ目覚めの時がきた。血塗られた赤黒いまなこは、彼女のために捧げられてきた数多の人柱の血を吸って以前より肥大化している。

 ――白銀の龍の目覚める時、私は永遠の眠りにつく。

 それが、心臓のない私の運命だった。白竜を目覚めさせるためにあれだけのことをやってのけたのだ。少しばかり休んだって文句は言われないだろう。

「……私を縛ってきた不死の龍とも、これでお別れか」

 誰にあてるでもなく呟きながら、私は断崖を見下ろした。山麓の薄い空気が私の呼吸を妨げる。

私を幾度も苦しめてきた龍の傀儡も、霊峰の頂きから見下ろせば豆粒のように小さくて、私の手の平でも充分ひねり潰せそうに思える。彼らは機能性を度外視した造りの軒下で、冷えることも熱するもない退屈な日常を繰り返している。長い間機能を停止していた白竜の心臓が氷解し始めていることを彼らは知らない。ゆえに、彼らは白竜の復活という最悪の厄災から逃れられない。

ざまあみろ、と私は思った。

 吹きすさぶ風は流氷のよう。直接的な冷気が耳を赤く晴らし、膜を張ったような音の響は鼓膜を貫いて鼻の奥をツンと刺す。私の長く下ろした髪が揺れて、首筋が冷えていく。白い指先は使い古した手袋の効能を無意味にさせるほどにひどくかじかんでいる。

それと、鳴りやまない頭痛。頭痛。頭痛。頭の中が凍っていく。まだやり残したことがあるんじゃないか、そんなわけないことを告げるような痛みの感触。

 痛みがあるということは、私はまだ生きている。心臓はなくとも、生きることはできた。生きること、それが私の唯一の希望。

「見てろ、不死の龍。私は冬を超える」

 私はぎゅ、とマフラーを硬く巻いた。もう二度と、風を通さないように。




――『心臓のない少女』第五巻、完。




「ふぅ……」

 ウミヒコは最後の一文を書き終えると、インクの乾きかけた筆ペンを置いて、細長い背筋をぐっと伸ばした。背中からこきりとひ弱な音が鳴る。長いデスク仕事と常日頃の運動不足のおかげで、背中は油を差していない機械のようにこわばっている。まだ26年しか時を刻んでいないウミヒコの体は、『龍脈』による支えを加味しても、肉体の衰えを感じずにはいられないほどだった。

 しかし、いくら肉体が衰えようとも、思考力や想像力が闊達に発揮できれば職業柄問題ない。

自己を省み、他人を見通し、この世のあらゆる事象を外側から俯瞰し、内側から観察する。ここまでくれば、あと必要なのは無限の集中力だけだ。それ以外の何ものも必要ではないが、それ以外の何一つ役に立ちはしない。

それが作家という職業。

ウミヒコはたった今、脱稿した。それも、締め切りまで一日の猶予を残して。

およそ1週間、ウミヒコは人間が快く生活する機能を可能な限り排除し、ただ原稿を埋めるという作業のみに集中するため、自宅の地下室に幽閉されていた。それも、自発的に。締め切りまでに作品を完成させるための手段だ。その間の食事等の雑事はすべてあの小さな居候(・・)に任せ、己はただ物語を描くための思考する機械となり、40×40の原稿用紙を隙間なく汚していた。

 書き終えた原稿を一束にまとめ、今一度ページ番号を確認した後、ウミヒコは椅子から立ち上がる。あとは寄稿だ。

「……っ!!」

途端、頭の中に痺れるような感覚がはじけ、ひどい立ちくらみを感じた。達成感と同時にアドレナリンが切れ、莫大な疲労感に包まれる。胃がキリリと痛むのを感じる。

「あー……腹減った……ねみぃな……クソが」

 彼の口から、つい先ほどまで繊細で情緒的な世界を書いていたとは思えない乱暴なつぶやきが漏れた。

彼は心身の回復手段を求めて、とっくのとうに飲み切ったコーヒーに目を向ける。かれこれ十何時間も固形物を口にしていない。このコーヒーですら、あの居候が淹れてくれたものだったが、それも何時間前だったかわからない。デフォルメされた犬のイラストが描かれたカップの底に、飲み残したベージュ色の液体がわずかに沈殿している。カップの中が明るく赤らんで見えるが、それは低い天井から差し込まれる照明の光度のためだ。地下の天井は、家全体の基盤となる1階の床と同じ機能を果たしている。

ウミヒコは上を向いて、白い光を放っているアンティーク調の照明の眩しさに目を細める。龍脈エネルギーを原動力として光を放つそれが、瞳の中をオーブンで焼かれているような痛みに代わる。

……さっさと寝たい。それこそ自分の描いていた小説の主人公のように。

だが、最後の仕事が残っている。目の隈をこすって肺の奥から息を吐き、ウミヒコは封に閉じこめた原稿用紙と、犬の描かれたカップを持って地下室を出る。


リビングに続く地上への階段を昇るも、たった数段で息が切れた。自分で思っている以上に自分は疲れているのかもしれない、とウミヒコは思う。あるいは、龍脈の力を長時間使っていた反動か。自分の身体に龍脈がほとんど残っていないのかもしれない。

 荒い息を吐きつくしてようやっと階段を登り終えると、地下室の照明とは別の、淡い光に網膜を焼かれた。

「おぉ……」

 ウミヒコはほとんど反射的に声をあげた。

 執筆は、自分の手で一つの世界を創りあげる行為。

 世界を創りあげた後に迎える冬の朝の空気は、圧倒的な透明で塗りつぶされていた。それは青い透明のようでもあるし、黄色い透明のようでもある。彼の住居はログハウス調の一軒家で、特に冬という季節と外観がマッチしている。

 雪が降っているらしいが、ちょうど降りやんだところのようだ。この透明な空気の正体は、地面に山積した真っ白な新雪を真っ直ぐな朝日が反射しているからだと気づく。

まぶたが重たい。この世の理のすべてを明らかにするような透明な朝空と、辛うじて残されている意識をへどろのような暗闇の中に落とそうとする肉体の感覚とがあまりにもちくはぐで、それがおかしかった。

 そこに、

「おはよう、ウミヒコ。生きてたんだ」

 彼を呼ぶ少女の声があった。

「……あぁ。残念ながらな。おはようソウナギ」

彼女はソウナギ。彼の家の居候(・・)だ。新雪に負けず劣らずな純白の長髪をふさりと揺らし、リビングでマグカップをちびちびと飲んでいる。顔立ちは端正だが、いかんせん目つきが悪い。特に寝起きはなおさらだ。カップにはデフォルメされた猫のイラストが描かれている。ウミヒコが犬で、ソウナギが猫を使うように決めているので、どっちがどっちのだかわからなくなることはない。

「今何時だ?」

 ウミヒコはがさつに頭を掻き、テーブルの上に封筒とカップを置いた。

「朝7時。ほんっとうに長い時間引きこもってたね」

 彼女の飲んでいるカップからココアの甘ったるい香りがする。溶け切れない程の砂糖が入っているのだろう。彼女はひどい甘党だ。

ソウナギは全身すっぽりと収まる白のセーターを羽織り、マフラーに加えてニット帽も装着して、冬の朝をばっちり対策している。それでも完璧には寒さを拭えないようで、ぶるりと震えたかと思うと、へくちとくしゃみをした。

「もしかして、寝ずに待っていたのか? 普段は小生意気なくせに、意外とかわいいところがあるじゃないか」

 ウミヒコがそんな軽口を飛ばすと、ソウナギはただでさえ悪い目つきをますます細くする。

「いや、普通に今起きたとこ。なんでわたしがウミヒコを待たなきゃいけないの」

「あ、そう」

そんなことを言いながら、ソウナギは食器棚から新たな犬のカップを手に取り、ココアを淹れる。

「それで? 地下から出てきたってことは、完成したんれすか、原稿?」

 そして彼女は舌足らずである。

「ああ、完成したんれすよ、原稿」

「……」

ウミヒコがそんな風にからかうので、ソウナギは犬のカップに注いだココアを自分のカップに移そうとする。

「待て、許せ。死ぬほど疲れてる俺に一口の癒しを……」

「死ぬほど疲れてるのと、私のかつれつを馬鹿にすりゅのは関係ないれしょ」

「悪化してるぞ」

「朝だからいいんれすよぉ……」

 ソウナギはふわぁと隙だらけなあくびをした。

「じゃあ、昼になればまともになるのか?」

「んん……血圧が高まれば、少しは」

「じゃあラーメンでも食うか。カップのやつが戸棚に入ってただろ」

「朝からそんなもの食べたら血管が破裂する」

「めんっどくせぇなお前の身体……その砂糖いっぱいのココアも同じようなもんだろ」

「甘いのはおーけー」

「都合いいなお前の身体……」

 こんなやり取りは彼らの日常である。

結局、ソウナギはたっぷりと砂糖の入ったココアをウミヒコに渡した。ソウナギが普段自分で飲んでいる基準で入れたのか、ウミヒコにとっては甘すぎるほどに砂糖が入っていたが、構わずウミヒコは一口で飲み切った。体の芯から温まったところで、改めて抗いがたい眠気が押し寄せてくる。

「眠そうだね、ウミヒコ」

「ま、徹夜だからな……。とにかく、俺は寝る。締め切りは明日までだから、寝て起きたら龍車に乗って出版局まで行くよ。ったく、何日ぶりのベッドだか……」

「え?」

 その一言に、ソウナギは紅い目をしばたたいた。

ウミヒコは彼女の反応を怪訝に思い、ベッドめがけてゾンビのようにふらつく足を止めて彼女をにらむ。あるいは今にも落ちようとするまぶたをかろうじて開こうとしているからにらみつけたように見えただけかもしれない。

「え、てソウナギおめぇ」

「締め切りは今日までじゃないの? この前、ウミヒコが自分で言ったよね、今度の締め切りは13日の午後5時までだって……」

「あ……? だから今日が12日だろ? 俺にしては珍しく締め切り前日に完成したんだが」

 ソウナギはやっぱり、と言いたげにため息をついた。

「今日がその13日だよ」

「はぁ……? いやだって、俺が地下に潜ったのが8日前で、それから俺は7回カレンダーをめくったはずだが……」

 ウミヒコは言いながら、察してしまった。彼女の怪訝な反応の意味を。

「ずっと地下にいたから、時間間隔ぶっ壊れたんれしょう。ウミヒコは7日じゃなく、8日間地下にいた」

「まじか……」

 ウミヒコは今にも溶けてなくなりそうな脳をフルに動かして、勘案する。

「今日中だと……速達便でも間に合わないな。なんせここは『左心房』から一番遠い『右後肢』だもんな」

「なんでこんな不便なとこ住んでんの」

「お前のせいだろ」

「ごめんさい」

 ソウナギは素直に謝った。

「でも、龍車なら間に合うんじゃないの? まだ朝だし」

「今の俺がこれ以上動いたら、白線の内側に身を乗り出して龍車に轢かれる自信がある」

「これだからおじさんは」

「間違ってもおじさんと呼ばれる年じゃないだろ俺は……いや呼ばれるのか?……あー、だからってお前一人に行かせるわけにも行かないし、だから……そしたら……」

「……ちょっと、ほんとに大丈夫?」

 とはいえ、ソウナギの目にもウミヒコが疲労困憊なのは一目でわかる。消費した龍脈が多すぎるのと、その消費したエネルギーを補うための栄養補給をほとんど行わなかったからだ。ソウナギにとってもこれだけの彼の疲労は想定外であり、執筆に集中する彼の身を案じなかった自分にも多少の責任はあると感じはじめていた。

「でも……うん……」

 ウミヒコは卓上に頭を打ち付けたままぶつくさと何か喋っていたが、まもなく何も言わなくなった。

「……ウミヒコ?」

 ソウナギは心配そうに彼の顔をのぞく。惚けたように閉じ切らない唇と、目の下のひどいクマと、寿命を前借りしたかのようにやつれた頬が痛ましく見えた。

 まもなく、ぐがあとうるさい寝息を立て始めた。

「……寝ちゃった」

 ソウナギはウミヒコの頬をつつき、向こう数時間は起きないであろうことを確信した。1日中起きないことも想定される。

「これ、私が運ばなきゃいけないやつか」

 とはいえ、流石に卓上に突っ伏したまま放置するわけにはいかない。ソウナギは彼の身体を抱えてソファまで運ぶ。

 非力な彼女では、枯れ木同然のウミヒコの身体ですら運ぶのに難儀する。それは彼女が齢17の少女という理由も勿論あるが、それ以上に、彼女の身体には龍脈が流れていないため、リュウジュのエネルギーが使えないという理由がある。

「……んしょ」

 何とかソファにウミヒコの体を置き、布団をかぶせた。

「あー、朝から一苦労……」

 乱れた吐息を抑えながら、彼女はテーブルを見る。テーブルには、ウミヒコとソウナギが使用した計三つのカップと、原稿用紙を収めた封筒が残されている。このインクで文字を刻まれた紙切れの束のために、ウミヒコは寿命を削るような真似をしていたのだ。

 彼女は真剣に考える。

出版局は『リュウジュの心臓』の中枢に位置する巨大都市『左心房』にある政府直轄の組織だが、そこで働く連中は、時間や規律に対して馬鹿みたいにうるさい。それは彼女も良く知っている。ゆえにウミヒコのような一般市民が作品を寄稿するとなれば、1秒の遅刻も許されない。

そのため、彼女自身がこの原稿を出版局まで持っていくのが、締め切りに間に合わせる唯一の手段だ。

「ええ……」

 考えただけで、背筋が震える。

 やりたくない理由はいくらでも出てくる。第一にクソ寒い。ウミヒコも含めたリュウジュに住む人間と違って、自分の身体には龍脈による暖房機能(正式名称は知らない)が備わっていない。第二に、ウミヒコの家で居候を始めてから、一人で外に出たことがない。第三に、二度寝したい。そして何より、ソウナギは——。

「はぁ……もう!」

 ぱんぱんと頬を叩いて、彼女は決意した。水瓶をすくって顔を洗う。冷たすぎて悲鳴が漏れる。

 何ウミヒコがこの小説を編集局に届けられなければ、彼は小説家としての信頼を失ってしまう。最悪、今後の仕事がなくなる可能性すらある。

そうなるとソウナギも困る。彼女はウミヒコの家に居候させてもらっている身だ。彼が食っていけなくなると、自動的に自分も食えなくなる。

「私が行くしかないか……」

小さな居候の、初めての一人旅が始まった。


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