プロローグ(上)
「貴様を聖女と信じた俺が馬鹿だった。稀代の悪女め。婚約は白紙だ。出て行け」
宮廷の大広間に、野太い声が響き渡った。
ロズワルド帝国第三皇子のダニエル・ロズワルドが顔を真っ赤にして、握った紙を床に投げつけた。
「どういうことでしょうか」
彼の前に立つ少女は、耳をふさいだ手を放しながら、穏やかに返答した。
肩で揺れる艶のある青い髪と白磁の肌。大きな瞳は透き通った水晶のようだ。やや小柄で童顔はあるが、確かに聖女と呼ばれてもおかしくないほど美貌を有したこの少女は、有力貴族フェンダー家の次女、レフィア・フェンダーである。
彼女は第三皇子の婚約者だった。
ついさっきまでは。
「それを読んでみるがいい」
ダニエルは鼻息を荒くしながら、自らが投げ捨てた紙片を指さした。
レフィアは拾いあげて一瞥する。
「帝国転覆計画……? これがどうしたのですか」
「どうしたもこうしたもあるかっ。我らが帝国を転覆させんとする恐ろしい計画だ。それが貴様の部屋から出てきたのだ」
「私の部屋から?」
小首を傾げるレフィアに、ダニエルは口角から唾を飛ばしながら続けた。
「聞いたところによると、貴様は花嫁修業もろくにせず、学術院に出入りしては怪しげな勉強をしているようだな。貴様ごときの奸計に引っかかる俺だと思ったか」
周囲から、くすくす、と抑えた笑い声が耳に届く。
今日はレフィアとダニエルの婚前パーティー。
宮殿の大広間には多くの上流階級の子女が集まっていた。
――なるほど、そういうことですか。
レフィアは小さく溜め息をついた。
パーティで一度会っただけで、皇家の三男に求婚されたレフィアを誰かが妬んだのだ。
そして、その何者かが帝国転覆計画なる偽の書面を作りあげ、反逆者の汚名を着せようとした。
「帝都の聖女とか言われて調子に乗るからよ。あんな子にお妃が務まるわけがないわ」
ひそひそと陰口が叩かれる。
変に目立つとろくなことがないのよね――かつて救国の聖女と呼ばれながら、さっさと引退して家に入った母の言葉をレフィアは思い出していた。それから流行り病で亡くなるまで、没落しかかっていた父を陰から支え、フェンダー家を有力貴族に押し上げた母を、レフィアは尊敬していたし、その教えは一つの指針だった。
だから、幼い頃から母譲りの高位の魔術が使えることも黙っていたし、寝物語に聞かされた興国の英雄譚に憧れて軍事や内政の勉強をしていたことも誰にも言わなかったし、窮屈なドレスやアクセサリで身を飾ることも極力しなかった。
それでも父に頼まれて、仕方なくドレスアップして出向いた舞踏会で、運悪く第三皇子に目をつけられてしまった。レフィアは望んでもいないのに、いつしか帝都の聖女と呼ばれるようになっていた。
「ダニエル様。これは私が書いたものではありません」
「言い逃れをする気か。貴様に貸し与えた居室から出てきたのぞ。貴様のものに相違なかろう」
そんな単純な論理で犯人扱いされているのか。
「筆跡を調べてもらえば私の無罪は証明できるかと」
「ふんっ、そんなものはどうとでも偽造できる」
どうにもできないのが筆跡だというのに。そんなこともわかっていないらしい。
レフィアはふぅと溜め息をつき、手にした国家転覆計画書をひらひらと振った。
「よいですか、ダニエル様。もし、私だったらこんな杜撰な計画を立てたりしません。やるならもっと確実にこのろくでもない帝国を転覆させてみせます」
「き、、貴様っ!」
しまった。つい本音が。
「お、お待ちくださいっ。娘がとんでもないことをっ、大変申し訳ございません」
腰のサーベルに手をかけたダニエルの前に、父が飛び出し、平身低頭謝罪を口にする。
有力貴族の長に何度も頭を下げられ、ダニエルは幾らか落ち着きを取り戻した様子だ。
「……ふ、ふん、女ごときの戯言に動揺する私ではない」
思いきり動揺していたはずだが、皇家の三男は真っ赤なマントを翻しながら言い捨てた。
「貴様のような悪女に、内助の功が務まるはずもない。帝都から出て行けっ」
こうしてレフィアは、一方的に婚約を破棄されてしまった。
婚約の破棄とともに、この国は全てを手放した。
後の歴史にそう刻まれることを、勿論この時は誰も知る由もなかった。




