07.強引な女
大変情けない話なのだが、おれはエフェリリウスお嬢さまに力で組み伏せられている。仮にも成人男性だというのに、持ち上げようとしている両腕がピクリとも動かない。
おれの腹の上に馬乗りになっているとはいえ、そこまでの筋力差はさすがになにかがおかしい。華奢な彼女の肉体のどこにこんな腕力が眠っているのかと考える。これが魔法によるものならば、いよいよおれは危機の真っ只中にいることになるな。
「強引な女ッ……」
「混乱しておりますのね。ご安心なさって」
混乱させてるのはどっちだ。百歩譲って顔を近づけるその動作は許せてもおれの腕を圧し千切ろうとしているそのパワーは危なすぎる。
先ほど半ば意識せずに部屋を見回したときのことを思い出す。この部屋の出口は二つ。正面に見える扉か、いまおれの頭の方角にある窓だ。窓は締め切られた上に上等なカーテンがかかっていて、それよりも厚い遮光カーテンは巻かれているとはいっても出口としてはあまり考えたくはない。窓ガラスを突き破る映画さながらのシチュエーションをここでやれるほどの度胸はないし、ここが何階なのかすらわかっていないからだ。
部屋に響いた音におれと彼女がピタリと動きを止めたのは、そう思考を巡らせていたときだった。
実物の小さなベルと電子音のちょうど中間。おそらくは呼び出しチャイム。躊躇する時間は一瞬たりともなかった。力が緩んだ機会を逃さずにおれは彼女を跳ね除け、拘束を抜け出し、ベッドと床の段差に足を取られそうになりながらも、扉に向かって駆け出した。扉に特別な装飾はない。ドアノブレバー、覗き穴、そしてドアチェーンだけだ。チェーンとレバー上部の鍵を解除すれば外に出られる。
自分が走っているのか転んでいるのかがわからない。前のめりになり、獣のように手を前足のように使い、四十ヤードの十分の一すらない超短距離を逃げる。
あと一歩、あと一手。
ドアノブのレバーにかかろうとした手が、一気に遠ざかっていく。扉が逃げていくのではない。おれが後方から引き擦られているのだ。みるみる遠ざかっていく扉が、次の瞬間遥か下へと沈んでいった。いや、またしても違う。扉が沈んでいったのではなく。
おれが打ち上げられていた。
天井に背中から思い切り叩きつけられたおれは、もといたベッドの上に落下した。落ちた衝撃はそれほどでもない。背のダメージもそれほどだ。それよりもおれは彼女に軽々と投げ飛ばされたことに恐怖を覚えていた。外へ助けを求めようにも声が出ないほどだった。
扉を叩く音がおれの耳に届いた。先ほどのチャイムとは違うが、叩く音は軽快で、外側に緊急性は感じられない。
「ちょっと静かにしててくださる? 動いではいけませんよ?」
そして信じられないことに、彼女はおれに毛布を被せ、扉へと向かっていったのだった。確認してみる。毛布は快適な柔らかさで重くなく、肉体も拘束されていない。先ほどとはまったく違う様子におれは戸惑った。これでは逃げようと思えばいくらでも逃げ出せてしまう。なぜだ?
彼女は扉の上部にある覗き穴を見てから、扉のチェーンを確認し、ゆっくりとレバーへ手をかけた。
必死に思考を巡らせる。考えられるのはなんだ。静かにしていてくれという願いをおれが聞かなければならない理由があるのか。それとも扉の先にはおれが助けを求めたくないような人物でもいるのか。
あ。
ベッドの上から降りようと体を動かしたとき、疑問は嫌な方向に氷解した。
ベッドに張り付いたように、自分の肉体が動かない。ベッド上では不自由なく自由に動いてしまうから気がつかなかったのだ。そして予想通り、声も出ない。
先ほどの彼女の言葉は、警告ではなく魔法だ。
「先生」
「こんにちは。プリント、持ってきたわよ」
扉の先から聞こえる声に覚えがある。先ほど奢ってもらったあの先生だ。しかし助けを求める手段はない。ベッドの上にある毛布を投げても扉まではとても届かず、枕はエフェリリウスの背に当たったがそれだけだった。
「具合が悪いんですって? 調子はどう?」
「たぶん、これからよくなりますわ」
「そう。明日休むようなら早めに寮長さんに伝えておいてね」
「わかりました。ところでここに来るまで、誰かとすれ違ったりはいたしました?」
「さぁ。上がってきた階段では誰とも会わなかったけど?」
希望は潰えた。扉は閉まり、先生は帰ってしまった。またしてもおれは彼女の怪力と勝ち目のない戦いをしなければならない。
しかしなぜか、邪魔者がいなくなったはずの彼女の顔は深刻だった。表情に笑みの要素はなく、眉をひそめ、唇を湿らせている。
「なにかあったのか?」
冗談交じりにいってみたのだが普通に声が出てしまった。彼女がいった「ちょっと」のリミットが過ぎたということか。ならばベッドからも降りられるかもしれないと足を降ろす。ベッドを越してカーペットの上に着地した足におれは安堵し、立ち上がって正面に彼女を見すえた。
こうなりゃとことん抵抗してやる。近づいてくる彼女におれは覚悟を決め、
弱々しい力で抱き締めてきた彼女に困惑した。
「どうしたよ」
彼女が震えているのがわかると、ますます混乱度は増した。部屋に少し冷たい風が吹き抜けた。
「ハルア。最近わたくし、家にいるときに何者かの視線を感じますの」
体の震えだけではない。弱々しい声も少し震えている。
「いきなりだな」
「ボディガードには一応伝えておりますが、残念ながら四六時中わたくしを守ってくれるわけではありませんの」
「それ、ボディガードっていえるのか?」
「ふふ、いえませんわよね。わかっております。本当に情けない話ですわ」
「別にそっちの事情は知らんけどな。それで、そのストーカー被害を寮長とやらには伝えたのか」
「一応。しかし忙しい身ですし、この寮は許可なしでは入れない厳重な警備体制。対処は充分だと思われていますの」
「でも、視線は感じるし、なんなら尾行されていたりする?」
彼女は答えなかった。沈黙が肯定か否定かはわからなかったが。
「まぁ、とりあえずそういうことなら窓は閉めよう。そっちのほうが安心するでしょ」
おれとしては彼女を安心させるつもりでいったのだが、いったあとでおれはそれに気づいた。彼女も同じようで、おれから離れて窓を見つめた。
緩やかになびくカーテンに、おれたちの視線が注がれる。
「いつ開けた?」
おれの言葉と、背後からの物音がほぼ同時。おれは彼女を庇える位置に素早く立ちながら振り返り、そこに立つ人物に驚いた。
「……爺やさん?」
「ええ。驚かせたならば申し訳ございません」
お嬢の家の執事。爺やさんがご丁寧にも靴を脱いでそこに立っていた。右手にぶら下がった革靴に目を取られていたおれの横で、エフェリリウスがぺたんと床に座り込んだ。
「ウィルバートさん……驚きましたわ。なぜここに」
「いえ、こちらにお嬢さまのバディが運び込まれたという情報が入りましてな。体調を崩されたのかと思い慌ててここに参上した次第」
「ちょっと待ってください!」
おれは慌てて開いた窓と爺やさんを交互に見た。
「ウィルバートというかっこいいお名前なんですか」
「そこですの」
そこじゃなかった。
「もしかして窓から入られました?」
「呼び鈴を鳴らしましたが返事がなかったゆえ」
おう、堂々と答えられてしまった。鉄パイプで割られていないだけマシなのか。
「しかし想像以上に驚かせてしまいましたな。申し訳ない」
差し伸べられた爺やさんの手に掴まり、エフェリリウスさんが立ち上がる。
「いえ、これは事情がありまして」
「腰砕けというやつですかな」
「待て」
思わず丁寧語を忘れてしまったが。
「そういうんじゃないです」
「そういうのではないそうですぞ、エフェリリウス殿」
「なっ、なんの話ですの」
「いえいえ。それよりも助かりました。この方はまだこちらに来られたばかりで調子を悪くされることがありましてな。保護してくださり、感謝の極み」
爺やさんがどこまでわかっているのかは、おれにもわからない。しかし先ほどまでとはまた違う緊張に包まれている彼女の様子は、決して誤魔化しきれるものではなさそうだった。
「そ、そうですわね。なんでもここを異世界と称されるほど」
「ヴォドニークは気候が安定しすぎておりますからな。ここに来られた際には暖かな格好をされておりましたから、まだ体が慣れきっておらぬのでしょう」
爺やさんは一足先に外へと出ていってしまった。おれも状況が変わらないうちにこの部屋を出るべきなのだろうが、その前にいくつか。ベッドに座り込んでしまった彼女に、そういえばと切り出してみる。
「無理やりキスして成立する魔法とかあったりするのか?」
「キ、キキキキキス!?」
ここにきてステレオタイプの反応を見せるな。
「魔力の迅速な補充は呼気でのやり取り! 常識でしょう!」
「ああ、人工呼吸ね」
一つ目の疑問が解決した。たしかに魔法の基本は呼吸だとかなんとかいってたな。一応理屈は通したおこないってわけだ。
「あとさ、決闘前に賞品に手を出すのは反則なんじゃないのか」
「賞品とは違いますわ。決闘はミリア・ドレッドノートとの誇りをかけた聖なる戦い。これは誰の命令でもなく、自分の為したいことを為すための戦い。あなたはいわばそれを周囲にわかりやすく示すための副賞に過ぎません……という体なのです」
「最後で台無しだよ」
疑問は解決したようなしてないような。
「最後にもう一つだけいいか? なんでおれなんだ?」
「それは……」
逡巡している様子の彼女の答えを、おれはじっと待った。下で待たせている爺やさんには申し訳ないが、なにか事情があるのならば聞いておきたい。
「一目惚れ、ではダメでしょうか」
「急にしおらしくなるな。力にはなれないけど、鍵とカーテン、ちゃんと締めとけよ」
※
仁王立ちで正門の前に立つお嬢に、おれは少し気圧されてしまった。
「遅い! っていうかなんで外から? 敷地内で待機してっていってなかったっけ?」
「いろいろあったんだよ。本当はもっと早い予定だったんだけど迷ってさ」
エフェリリウスの部屋を出るとそこは巨大で豪華な施設で、話通りならばその豪邸のような建物は彼女たちの寮であるらしかった。家まで送るという爺やさんにお嬢との約束を話し、こうして一人で無事に学園まで到着したのはよかった。
しかし目の前の怒れるお嬢さまはおれの都合など知るわけもなし。
「もういい。とりあえず罰としてバッグ持ってね」
「おれは召使いじゃなくてバディだぞ」
強引な女。そう心のなかで悪態を吐いてしまったが赦してほしい。こちらの事情を鑑みてくれる大人の方々はやはり大人なのだなぁと思いました。以上。