03.はじめての登校
今日も心地よい日和でしたね。そういった男に、彼女は肩をすくめた。
「ご丁寧にノックをどうも。鍵は持っていらっしゃるでしょう?」
「いえいえ。仮に抵当権があっても私はあなた方を信頼しておりますし、それに紳士ですので」
「毎日大変ですね」
「これも仕事ですよ。おや?」
ポットパイとフォークを手にソファから立ち上がっていたおれに、男が気づいたようだった。
「もしや、このお方が大会のバディ?」
「……なるほどその手が」
男の素性もはっきりとしないままなのに、なにやらおれ抜きで話が一つ進んでしまった気がする。しかしおれはそこまで鈍感ではない。話を合わせろといわんばかりに目線を送ってくる彼女に、おれは素直に従うことにした。
「ええ、そうです。おれも大会に。名前はなんていいましたっけ」
「学内魔法喧嘩組手のこと?」
「これ自動翻訳がおかしいんだよな?」
「どうかした?」
「いや、こっちの事情。ところでお嬢さま、この方は?」
「お、お嬢さま?」
眉をひそめた彼女におれは目線でメッセージを送った。いま初めて出会った仲ではないように見えるほうがよいだろうというメッセージだ。たぶん二割ほどは伝わったと思う。
「これは失礼。最近は名刺を使う機会もなく」
男が名刺を差し出した。文字は読めないが、名刺の材質は上等だ。
「私、ライトホップ金融のトリタテ・カネダイスーキでございます。ドレッドノート家の債務回収担当。以後、お見知りおきを」
笑うな。悪いのは確実に翻訳魔法だ。それにこれは人名なのだから、鍛冶屋がスミスさんなのと同じ原理だ。失礼だから堪えろ。
いや、それよりも。
「利息って?」
「おや、もしやバディ契約時になにも聞かされていない?」
「問題ないから安心して」
おれとカネダイスーキさんの会話に、すぐさま彼女が割って入った。
「前に話した通りです。来週から始まる学内の魔法大会で優勝して、賞金と副賞の学費免除分、そして優勝に伴う優良就職先でのお給料。それでちゃんと借金は返します」
「そうなってくれればこちらとしても嬉しい限りですな。ドレッドノート家の再興は、私としても心から望むところです」
彼女がカネダイスーキさんに紙袋を渡した。中身を確かめることなく、彼はおれと彼女に会釈し、そのまま出ていってしまった。
「優しい取り立てでしたね。異世界だからもっとこう、剣とか魔法とか振り回して脅してくるのかと。どうしました?」
おれをじっと見つめていた彼女に、首を傾げて問う。
「急なことだったのに、その……」
「気にしないでください。でも変なときに召喚されちゃったな」
「週一のことだから、いずれ会うことになったと思う。この服のことも説明する必要なくなっちゃったかな」
「この広い豪邸に妙にものが少ないわけか。別に事情を詳しく聞こうとは思いません。あ、でも一つだけ」
問う必要のないことがあれば、その逆もある。
「その魔法なんとかっての、おれになにか協力できるんですか?」
「ああ、それこそ気にしないで。あなたはもとの世界に戻らなきゃ」
「そりゃあ、戻れるチャンスがあれば戻るけど、話からするにすぐに戻れるかどうかはわからないんでしょう? ならお嬢……あなた方に恩を売るのは正しいと思いませんか」
彼女はおれの言葉に笑みを返してくれた。それから目を伏せ、なにかを考えるかのように沈黙したあと、一変して真剣な表情で、丁寧に頭を下げてきた。
「お願いします」
声のトーンも真面目だった。思わずおれも姿勢を正すほどだった。
「わたしに力を貸してください。もちろん、タダでとはいいません」
「もちろん。タダで手伝う義理はありません」
爺やさんのポットパイをきれいに完食してから、おれは食器をテーブルに置いた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせていい、彼女へと向き直る。
「この世界の金はあいにく持ってないけど、いただいたおいしいご飯分は働きますよ」
※
夢じゃなかったのか。
昨夜の出来事を思い出しつつ、おれは目を覚ました。
あれからすぐに寝たわけではない。爺やが用意してくれた夕食をいただき、使用人用とはいえそれなりの広さがある浴室で汗を流し、これまた使用人用のベッドで一夜を明かした。なにもかもを差し押さえられたわけではないらしい。
眠れないかと思ったが身体と精神はともに素直で、疲労困憊していたらしいおれは、気絶するように意識を遠のかせていたようだ。
起きて、身支度をする。旅行先の宿ですぐに慣れてしまうように、この状況にもすぐに慣れてしまった。言葉が通じて食事も合うなら、なにを恐れることがあるのだろうか。
どうせロクな人生じゃなかったしな。
心のなかで毒づいて自嘲する。なぜ昨日、あんなに彼女の話に乗り気だったのか。おれは本当にもとの世界に戻りたいのか、自分自身によく問いかけてみる必要がありそうだった。
「今朝も戻ってきておらぬようですな」
「召喚は明後日っていってたもんね。あら、おはよう」
二階廊下奥の使用人室からロビーへと降りると、二人はすでに起きていたようだった。二人もおれと同じく、昨夜と服が変わっていない。いや、よくみれば彼女のパッチワークが多少違う気がする。別の服か。
「よく眠れましたかな? 申し訳ない。あのような粗末な布団で」
「アレよりせんべいな布団で暮らしていましたから」
「昨日はお疲れのようでしたゆえ、もう少し寝ていてもこちらとしては一向に構いませぬが?」
「いや、今日は学園でしょう」
一階へと降りきったところで、正面に彼女が立った。
「本当に協力してくれるの?」
「もちろん。その代わり、もとの世界に戻れる方法を探すのにも協力をお願いしたいです」
ふと思考が逆流する。おれは本当に今すぐ帰りたいのか。観光はいいが定住は勘弁してほしいと心のなかで思っているのか。自分でもわからないから、ひとまず選択肢は広げておく。
彼女はおれの言葉に頷いた。それから、ソファに置いていた小さな革製の学生鞄を手に取った。
「なら行きましょうか。爺や、いつも通りの留守と、それから陽明が帰れる方法もお願いね」
かしこまりました。爺やはそういっておれたちを見送ってくれた。
屋敷の外は快晴で、青空で、一つの太陽が東の空にあった。吸う空気に味はなく、草木は緑色で、玄関から少し歩いた先にある門を開けると、油の足りない金属音がした。
おれはまた一つ安心を手に入れたが、心はそこまで晴れなかった。まるで現実逃避のためにもとの世界から嫌なものだけを切り取ったかのように都合のよい世界で、おれは勝手にバツを悪くした。
※
今朝のスムーズなやり取りは、昨夜に情報共有をおこなった成果といえる。目的地への道は住宅街のようで、なかにはいくつかの商店も立ち並んでいた。おれは徒歩での登校時間を使って、昨夜の話を少し確認してみることにした。
「じゃあ魔法の学園に通うお嬢さまたちは、別に魔法を使って世界を救おうとか、そういう話にはならないんですね」
「それ、昨日も訊いてなかった? 陽明の世界では、魔法使いが世界を救うの?」
「創作ではそれなりに?」
ふーん、とは彼女の反応だ。興味があるのかないのか、いま一つわかりかねる返事だった。
ヴォドニーク魔法学園。生徒数は二百七十人。三年に一度入学試験をおこなう学園には十六歳から十八歳の女生徒が集い、十八歳から二十歳となって卒業していく。三年間の学園生活のなかで多くのことを学び、一流の人間として巣立っていくのだとか。
そしてその『多くのこと』の筆頭が魔法というわけだ。
「魔法はあるとして、魔物はいないんですか」
「魔物って?」
「動物とは違う、化け物みたいなやつ。人間と敵対してて、魔法を使ったり?」
「さぁ、どうだろ? 未開拓の地域でも歩けばいるかもしれないけど、少なくとも人間以外の動物が魔法を使うって話は聞いたことないかな」
「安心しました」
別にビビっているわけではないが、世界が喫緊の危機に瀕しているわけではないというのは安心材料の一つだった。登校中に魔物に出くわして最悪食われるような世界なら、さすがに残るという選択肢には勇気がいる。
「魔法ってのは魔力プラス息の流れだから、声真似する動物も詠唱まではできない。これはどこかの論文にあったと思う」
「その魔法なんだけど、おれは覚えられないんですか? 魔法を唱えればいいんですよね?」
「基本的な魔法はそう。だけど陽明って、魔力を感じないんだよねぇ……」
彼女がおれの顔を覗き込んできた。それから正面に向き直って、右手の人差し指を立てる。
「きたれ一握の炎よ」
彼女がそういい終わると同時に、彼女の人差し指に青い炎が灯った。初めて見たときほどの驚きはもうなかった。
「これが魔法。体内の魔力と、適切な息の流れ。とりあえず息があれば魔法は使えるから……」
彼女が左手で自分の口を塞いだ。もごもごと、おそらくは同じ言葉を発すると、まったく同じように青い炎が出現した。
「一応これでも魔法は使える。でも発声で魔力と息をコントロールしてるから、あんまり強いのは出ないかな」
「ふーん。じゃあ、きたれ一握の炎よ」
静寂。
なにも起こらない。顔に発火したレベルで汗が流れてきた。なんだその哀れんだ顔は。きたれってなんだよ。
「こないんだが」
「詠唱する文は同じでも、魔力の流れとかは人それぞれだから。だから魔法の発動までの理論やプロセスや、あとは個人のクセを学ぶってこと」
「……それは先にいってほしかったな」
「いう前に唱えたじゃん」
ぐうの音も出なかった。
せめてなんとかいい訳の一つでも口に出してやろうとしたのだが、そこに響いた声はおれのものではなかった。
「おや、これはこれは!」
背後から届く声。なんというか、一声でわかってしまうほどのお嬢さまボイスだった。そして振り返ってみればなんというか、一目でわかってしまうほどの金髪お嬢さまだった。同じ鞄に、違うドレス。いやこれドレスか? 落ち着いた色合いにセパレートの衣服は、もしかすると制服なのかもしれない。隣に執事らしき女性を従えていて、それもまたわかりやすい記号の一つだった。
「通学中に出会うとは珍しいですわね! まったく今日も貧相な身なりですこと。朝食はしっかりとお召し上がりになられまして?」
これ、自動翻訳に笑うところか? ここまでステレオタイプな嫌味だと演技かなにかかと思いそうになる。
しかしそういえば朝食はなかったな。おれが起きる前に食べたのか、学園に食堂があるのか、それとも――。
「あらあら、いつもの使用人ではございませんのね。この貧相な方は身内かなにかかしら?」
ステレオタイプがおれを見て笑った。貧相とはなんだ。サボりがちだけどそれなりに自重で鍛えているんだぞ。
「えーっと、この方は友だち?」
「まさか。朝からよく吠える犬をペットならばいざ知らず友人などとは……面白いことをいいますのね、陽明?」
「は?」
なんだ、急にどうしたその口調。
「よく吠えるのはお互いさまではありませんこと? もっともあなたの声は痩せた子犬の意味なき威嚇程度が関の山。張り合おうなどという馬鹿げたお考えは早急に捨てたほうが賢くてよ?」
「まさか! 天下のエフィリリウス家と張り合おうだなんて。わざわざ子犬の目線にまで降りてきていただいて、恐悦至極でございます。しかし地面に這いつくばるのならば敷物の一つでも引いたほうがよくなくって? その汚らしいお召し物がさらに台無しになってしまいますわ」
「服が汚らしいのはあなたのほうでしょう!」
声を荒げたステレオタイプを制するように、隣に立っていた女性が咳払いした。
「お嬢さま」
「なに? 私になにかいいたいことでも?」
首を振る横の女性。もしかして彼女のバディというやつだろうか。
「まったく。無駄な時間を過ごして不愉快ですわね。そちらとは違って忙しい身だというのに」
「魔術書召喚の準備は進んでいらして? 大会は近いですわよ?」
「重要な準備には相応の時間と資金をかけるもの。それに今年はまだ一年目で、他の者たちが召喚に成功したという話も聞きません。魔術書などなくても、決勝への進出など余裕ですわ。あなたと違ってね」
「ええ、その通りでございますわね」
ステレオタイプの怪訝な目。しかしそれもすぐに彼女自身が目を逸らしたことで解消された。
「今日はあまりよくない一日になりそうですわね。では失礼。あなたも」
「ええ、どうも」
なぜかしばらくじっとこちらを見てきたステレオタイプに、おれは少し不安になった。半ば反射で返したが、いまのはおれへの挨拶でよかったんだよな? もう恥ずかしいのはごめんだ。
立ち止まったおれたちの前を行く彼女たちに聞こえないように、おれは少し声を潜めていった。
「なんで口調を変える必要があるんです?」
「これから行くのはお嬢さまの園。舐められたら終わりなの」
「家でもその言葉遣いにしないといつかボロが出ますよ」
「あいつですら家ではこんな言葉遣いしてないって。堅苦しすぎるでしょ」
「舐められたらダメなら、服もどうにかしたほうがいいんじゃないんですか」
「どうにかできるならしてるっての……」
明らかにおれはまずい方向に口を滑らせた。話題を変えようか。
「バディってのは大会に一緒に出るんですか?」
「それは自由だけど基本はそうかな。なにせ魔法合戦だから……」
「前衛がいる?」
「それか後衛で弓を射るか」
「弓? 弓は危ない。最悪、命に関わる」
「それはどんな競技だってそうでしょう。それとも陽明の世界では違ったりする?」
「そういうのはずるいな」
ふっと彼女が笑った。少しは先ほどのやり取りの緊張も解けただろうか。
「大丈夫。審判も先生もいるし、回復魔法だってある。いまのところ大会中の死者はゼロだったはず」
「おれのせいで大会が中止にならないように気をつけます」
楽観で軽率に首を突っ込んでしまって不安になってきたなどとは口が裂けてもいえなかった。男の子だって舐められたら終わりなのだと、大の大人が心のなかで呟いた。
それから少し歩くと、住宅街がきれいに消えた。区画が変わったのだ。街路樹の間を抜けた道の先に見える、巨大な校門とその奥の建造物。
「ここか。大きいな」
学園とだけ聞いていたが予想以上に広い。現代日本にあっても遜色ない規模の、近代的で立派な学校機関だ。
「それじゃあ、放課後またここに集合ってことで」
「は?」
「どうしたの?」
「バディって相棒って意味ですよね?」
「魔法大会のね。でもバディではあっても普段の学園生活では部外者でしょ。大丈夫、使っていい建物があっちにあるから。はいこれ」
彼女からもらったのは名刺サイズのカードだった。
「それ、入館証。見せれば昼食も支給されるから、適当にぶらついといて。この世界にきてまだ二日目なんだから、慣れる練習ってことで」
「はぁ。まぁ、わかりました」
「ねぇ、それとさ」
「まだなにか?」
「その丁寧語と呼び方、次に会うときまでに直すのが宿題ね。前みたいにさ」
おれ、いつタメ口使ったっけ。まぁいいや。
非常に釈然としないが、いわれれば従うほかない。もとの世界とほとんど変わらないた
めに実感がいま一つ湧かないが、まだこの世界の仕組みや理をおれはなにも知らないのだ。
だったら不安になるから一緒にいてくれよと思う。思うだけだ。
彼女は振り返ることなく校舎へと消えていった。このツッコミは心の奥に留めておこう。周囲には先ほどのステレオタイプと同じ服を着た女生徒たちが登校中だ。やはりこれは制服かと思いながら、おれは怪しまれないように校門前から移動した。