LOVE AFFAIR
明るい話ではないので、お嫌いな方はご注意ください。
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誤字、脱字、誤用のご指摘ありがとうございました。修正しました。
愛とは、相手のためにすべてを捧げることだとわたくしは思いますの。
ええ、ですからわたくしの愛こそが、真実の愛ではないのか、そう思いますの。
◇
「私はここに、クリスティアーナ・ベネット嬢の悪事を断罪する!」
陛下主催の夜会、多くの貴族が出席する華やかな場にて、高らかと響き渡るように告げたのはこの国の第三王子レオナルド・バーナーである。
「断罪」という物騒な言葉に加え、その相手がクリスティアーナ・ベネット公爵令嬢――レオナルドの婚約者とくれば周囲は騒然とした。
談笑していたクリスティアーナは突然名指しされ、零れ落ちんばかりに目を見開いた。
当然である。このような場でこのような暴挙に出るなど誰が思いつくだろうか。それでもレオナルドは実行した。ベネット公爵家は前国王の弟君の血筋であり強い権力を持つ。その令嬢の悪事ならば王子である自分の訴えであっても揉み消されるかもしれないと危惧し、すべてを白日の下に晒すのが狙いだ。多くの貴族を証人にしてしまえば、いくら公爵家といえど罰さないわけにはいかないだろう。
レオナルドからクリスティアーナまで人の波が引け、一本の道ができる。
人々の好奇な目にさらされて、クリスティアーナの陶器のように美しい白い肌が、恐怖からか青ざめている。
「殿下、いったいどういうことでしょうか」
クリスティアーナはそれでもレオナルドの前に進み出て、震える声で問いかけた。まずは事情を聴かなければ――蒼白な中で毅然に振舞おうとする姿は見ているだけで同情を誘う。
「とぼける気か」
しかし、レオナルドは冷たく突き放した。
レオナルドの後ろから、そろそろと一人の令嬢が近寄ってくる。
近頃、領地からダイヤモンドが採掘され随分と羽振りがよくなったことで有名なヒギンズ男爵の娘、エルメナ嬢である。
大広間は一層に騒がしくなる。
「お前は、エルメナ嬢にさんざんな嫌がらせをしていたな」
それはここしばらく社交界でも噂になっていた話である。
公爵家の娘が男爵家の娘にわざわざ嫌がらせをするなど通常では考えられない。身分が違いすぎるし関わりになることさえ難しいはずだ。ならば何故、このような噂になったのか。ひとえに色恋沙汰。レオナルドとエルメナが好い仲になり、それに嫉妬したクリスティアーナがエルメナを目の敵にして虐めていると。女の嫉妬は女に向かう。
「わ、わたくしは、そのようなこと覚えがありませんわ」
「嘘を申すな。自らの身分を笠に着て男爵の娘風情が王族に近づくなと罵倒したと聞いているぞ」
「それは……」
クリスティアーナは口籠った。確かにエルメナに苦言を呈したからである。
もし二人がひっそりと秘密の恋を楽しんでいるだけならクリスティアーナとて目を瞑ることもできたが、そうでなかったのだ。故にクリスティアーナは、婚約者である自分を差し置いて、別の女と浮名を流すなどレオナルドのためにならないから控えるように、と告げねばならなかった。
その際もあくまでも冷静に、もっとレオナルドの立場を慮るようにと述べた。エルメナだけではなくレオナルド自身にも進言した。だが両者とも聞き入れてはくれず、そればかりか罵倒するなど、ずいぶん悪く解釈してくれたものである。
元を正せばレオナルドの不誠実にこそ非があるのに――しかし、そんなことを言えば火に油、レオナルドは言い訳としかとらないだろう。か弱いエルメナを守るナイト気分が増幅するばかり。クリスティアーナは唇を噛み沈黙する。
「それだけでは飽き足らず賊を使いエルメナを襲わせた。このような非道が許されるはずない」
「!!」
黙るクリスティアーナに追い打ちをかけるようにレオナルドは告げた。
「襲わせる? お待ちください。それはどういうことでしょうか?」
流石にこれには黙ってはいられなかった。
「またとぼける気か! ならばいい」
レオナルドはふんっと鼻息荒く背後に控えていた近衛兵に指示を出した。
ほどなくしてこの場には到底相応しくない襤褸服の男――一人は右足を引きずった髭面を、もう一人は片目が潰れている――が連れられてきた。その手には縄が掛けられている。
二人は兵士に押さえられ、膝立ちになり首を垂れた。
「この者どもはエルメナを襲おうとした犯人だ。たまたま私が一緒の時であったからことなきを得て、逮捕できた。……おい、お前たち、エルメナの襲撃について聞く。あれは誰に命じられてしたのかその名を言うてみよ」
レオナルドが問うと、片目が潰れた男が言った。
「クリスティアーナ・ベネット様です」
大広間にどよめきが起きた。
クリスティアーナに同情的であった空気がみるみる変化し、一挙に旗色が悪くなる。嫌味くらいならばまだしも、未遂とはいえ襲撃を企てたとなれば話は別だ。やりすぎ、行き過ぎた行為である。
「そ、そんなの嘘ですわ! わたくしはそのようなこと頼んだ覚えはございません!」
「お前は、まだ嘘をつくのか! 犯人が自供しているのだぞ」
クリスティアーナの訴えをレオナルドは見苦しいとばかりに鼻で笑った。
確固たる証拠がある以上は、言い逃れなどできようはずがない。犯人の自供があるからこそ、レオナルドもまたこのような行動に出られたのだ。
レオナルドは冷え冷えとクリスティアーナを一瞥したあと、ゆっくりと隣に立つエルメナへ視線を向ける。
「もう大丈夫だぞ、エルメナ。そなたを誰にも傷つけさせたりしない」
「殿下……私には殿下だけが頼りです。これまでの仕打ちに耐えてこられたのも殿下がいてくださったからこそ」
エルメナはうっすらと涙を浮かべ、レオナルドに寄り添った。
身分違いの恋に落ちた二人の仲を裂く悪女を裁き、幸せに微笑み合う――さながら芝居役者のようである。事実、そのような感傷に浸っているのだろう。
特にエルメナは夢見心地だった。
彼女の家は元々商人で、とある没落貴族の借金のカタに爵位と屋敷、その領地を手にし貴族となった身である。その後、領地からダイヤモンドが採掘されるようになったのは幸運というほかない。純度の高いそれは高値で売り買いがされ、あれよあれよという間に財が満ちた。爵位こそ男爵であるが、保有資産だけなら伯爵にだって負けはしない。
だが、貴族の社会では成金と馬鹿にされ、ちょっとした作法の誤りを品がないと侮蔑された。そんなエルメナを救ってくれたのがレオナルドである。第三王子といえど王族のレオナルドは雲の上の人物。そんな人に見初められ、優しくされれば舞い上がらないはずがない。このまま結ばれるのではないか――最初はほんの少し夢に見ていた程度だったが、それがどんどん現実味を帯びていった。レオナルドはエルメナこそ愛すべき乙女であると言ってくれたのだ。夢は夢ではなく手を伸ばせば届くところにある――そして、ついに自分は選ばれた人間なのだと勘違いするにまで至った。クリスティアーナはもはや彼女の幸せを邪魔する悪女でしかなかった。少なからずエルメナにとってそれは真実となった。
一方で、レオナルドもまたずっと不満を抱えて生きてきた。
クロスアナ国、第三王子として生まれたが、上二人の兄たちに比べレオナルドは容姿も能力も見劣りする。幼いうちからレオナルドはそれを肌で感じていた。だが陛下も王妃も兄たちも彼を可愛がった。年が離れていたというのもあり、庇護すべき存在として大事にされた。彼らの愛情を素直に受け取り、己の身の丈を知る謙虚さがあれば、或いは幸福に生きていかれたのだろう。しかし、残念ながら、そのような気質はレオナルドにはなかった。彼は、兄への羨望を妬みに変え、与えられた愛情を同情と解釈し、心を、性格を、歪めた。
癇癪王子などという不名誉な呼び名までつき、家臣や侍者からも疎まれはじめたレオナルドを、それでも父である陛下は見捨てることができない。出来の悪い子ほど可愛いというが、少しでもレオナルドの後ろ盾になってくれる者をと考えた末に、ベネット公爵家との縁談を結んだ。
陛下は安堵したが、肝心のレオナルドはこの婚約も気に食わなかった。ベネット公爵家といえば名門の家柄、本来ならば、第一王子ないし第二王子である兄と婚約していてもおかしくはない。それが第三王子である自分にお鉢が回ってきた。ベネット家に娘が生まれたとき、すでに兄たちには別の婚約者がいたからである。つまりは、兄たちのおこぼれなのだ、役立たずの自分に少しは貢献しろと宛がわれた政略結婚、レオナルドはそう考えた。王族に、貴族に生まれたからには珍しくはない、というよりも当然のことだが、レオナルドは自分だけが不幸であるように思った。
クリスティアーナ・ベネット嬢は大人しく無口な少女だった。闇夜に浮かぶ月のごとき銀色の目は限りなく静かで、見つめられるとすべてを見透かされたような気になる。レオナルドは彼女のその目が苦手だった。自身の醜い虚栄心や、傲慢さを責められている気がしたからだが、その気持ちの正体に辿り着くための内省をすることもなく、レオナルドはただ不快さを拭う算段ばかりに集中した。結果、彼女を嫌い、遠ざけた。
レオナルドは孤独だった。
すべては自分の蒔いた種であったが、とにかく孤独だったのである。
そんなとき出会ったのがエルメナ・ヒギンス嬢だった。エルメナは孤独だったレオナルドの心に寄り添ってくれた。彼女の素朴さが癒しになり、愛というものを、レオナルドは初めて知ったのである。真の愛、真の恋。それを邪魔立てする者がいる。さしてレオナルドに興味なさそうであったクリスティアーナが二人の仲を裂こうとしてくる。障害はますます恋を燃え上がらせた。やがてレオナルドは婚約を破棄し、エルメナと結ばれたいと考えるまでになっていた。
もし、二人が冷静であれば、地に足の着いた恋であれば、成就するために何か堅実な方法はないかと頭を巡らせていただろうが、残念なことに二人は浮足立っていた。物語の登場人物になったような、自身に特別な魔法が掛けられたような、ロマンチックに浸ったのである。
そこへ巡って来たのがエルメナの襲撃事件。
これは好機、とレオナルドは二人を引き離す悪魔を打ち負かすため、今回の断罪を決行することにした。
それが見事にうまくいき、まさに終幕を迎えようとしている。盛り上がる二人、最高潮の瞬間、皆に祝福される未来――そのはずが、ここで誤算が生じはじめていた。憚りなく睦まじさを見せつける態度は、味方につきつつあった周囲の者たちを白けさせるに十分だった。
たとえクリスティアーナが本当に襲撃を命じたにせよ、最初の引き金を引いたのは紛れもなくレオナルドとエルメナである。そうであるのに自分たちに何ら非のないような振る舞い、もっと言えばこのような公の場で、婚約者のクリスティアーナの前で、「貴方だけが頼り」などと言いレオナルドにしなだれかかるエルメナは眉を顰められて当然である。原因が何を言うか、厚かましいと呆れ果てる。元よりクリスティアーナは家柄も人柄も評判の娘である。あまりいい噂を聞かない成り上がりの男爵家の娘なぞに寝取られたかと思えば、怒りのままに排除しようと思う気持ちも理解できなくはないとまで思う者もいた。
だが、すっかり逆上せ上がり二人の世界に浸っているレオナルドとエルメナは微妙な空気の変化に気づけない。それどころか、レオナルドの目には愛する乙女を守り抜いた誇らしさと同時に高揚感が見えた。
「このような愚か者と婚儀など、王家の沽券にも関わる。よって、クリスティアーナ嬢との婚約は破棄させていただく」
レオナルドはエルメナの腰を抱き、再び高らかに宣言する。
自分を馬鹿にしてきた者たちが良縁として選んだ婚約相手が、実はとんでもない女であったと暴くのは気持ちがいい。化けの皮を剥いでやったと愉快そうに告げた。
しかし――――――
「お待ちください」
レオナルドの糾弾を制したのは、アリソン・ベネット――クリスティアーナの兄でありベネット公爵家の跡取りである。
「我が妹が襲撃を企てたというお話ですが、信憑性に欠ける。どうぞ、もう一度お調べを」
「信憑性に欠けるだと? 往生際が悪い。犯人がクリスティアーナ嬢に頼まれたと自白しているのだぞ。これ以上の証拠がどこにある」
「ええ、ですからおかしいのです」
アリソンの目がすぅっと細められた。
それはクリスティアーナに似た、何事も見透かしてくるような嫌な眼差しである。レオナルドは一瞬怯んだが、
「何がおかしいというのだ! 難癖をつけて誤魔化す気だな。そんなことはさせない」
とすぐに我に返り続けた。
「構わん、申してみよ」
だが、レオナルドの言葉はあっけなく否定された。
それまで状況を見守っていた国王陛下である。
「父上!」
「……お前の一方的な断罪では真実は到底明らかにはできまい」
「一方的などでは……」
「ならば、話を聞けるな。お前の訴えが真実ならば何も恐れることはないだろう」
「ええ、もちろんです。真実が明るみになった暁には、父上には適切なご判断をしていただきたい」
レオナルドは暗に公爵家だからと手を抜くなと釘をさす。
陛下は、いくら親子といえ公式の場で婚約者でもない女を抱き寄せたまま発言をするのか、と呆れながらも話を進めるため頷いて見せた。それから、アリソンに先を促す。
「発言を許可していただきありがとうございます」
アリソンは陛下に礼を述べると、まずはクリスティアーナの傍へ行き、その震える肩をそっと撫でた。
「辛い思いをしたね。あとは私に任せなさい」
「お兄様……」
クリスティアーナの青白かった顔が、安堵からかほんのりと色を取り戻す。
アリソンは彼の妻であるリリー・ベネット夫人を呼び、クリスティアーナを引き渡した。
気丈に振舞っていても年若い娘、婚約者からこのような仕打ちを受けて平気でいられるはずがない。リリーもまた政略結婚としてアリソンに嫁いだが、睦まじく過ごしている。始まりはどうであれ愛は生まれるのだと身をもって経験した。だからこそ、リリーは義妹が可哀想でたまらなかった。何よりこの可憐な義妹がそのような恐ろしい計画を企てるはずがない。きっとその潔白は夫であり彼女の兄であるアリソンが証明してくれる。リリーはクリスティアーナの手をしっかりと握り、大丈夫ですわよ、と小さな、だが力強い声で励ました。
その間、アリソンはレオナルドが連れてきたという襲撃犯へ向かい、
「まず、どのような経緯で襲撃を依頼されたのか、話してもらおうか」
冷ややかな声で命じれば、髭面の男が話し始めた。
「一月ほど前になります。クリスティアーナ・ベネット様の使いだという男が来て、明日の夕刻に森から出てくる馬車があるから、それに乗っている女性を襲うよう命じられました」
「ほぅ、その使いの者はクリスティアーナ・ベネットという名を確かに申したのだな」
「はい、間違いありません。確かに」
髭面の男は何度も頷いた。
レオナルドはほらみたことか、と嗤う。
「なるほど、やはりおかしいですね」アリソンはレオナルドには構わずに両腕を組んだ、かと思えばそのまま右手で顎を撫でる。「何故、その使いはわざわざクリスティアーナの名を告げたのでしょうか」
「どういう意味だ」
レオナルドが不機嫌に言った。
「そのままの意味です。このような案件を依頼するのに、わざわざ自分の名を告げるような者がいるでしょうか?」
金銭でのみ繋がった関係。今回のように依頼が失敗に終われば保身から依頼者の名を告げる可能性があるし、或いは無事依頼が済んだとしても今度はそれをネタに脅迫してくる可能性もある。だから依頼者は素性を隠し、一度きりの関係にしたいはず。不用意に名乗るなどありえない。アリソンが言いたいのはそういうことである。
「それは……そんなものは詭弁だ。短慮であっただけだろう」
レオナルドのクリスティアーナを短慮と罵る行為に、アリソンは微笑んだ。怒りはすぎれば笑いにさえ姿を変える。
「不可解なことはまだあります。この辺りで森といえば王家の領地である『コルトコの森』しかありません。神聖視されているあの森へ近づくなど信仰心のない者は滅多といない。そう、たとえばレオナルド殿下とエルメナ嬢くらいです。あなた方があの森で逢瀬を重ねられているのは今や公然の秘密。それ故、ますます人々は近寄らない」
自分たちの逢瀬を公然の秘密と告げられてレオナルドの顔色が変わった。その時になってようやく周囲が自分たちを如何な目で見ているか気づいた様子で、エルメナの腰から手を離す。
「おや、あれだけおおっぴらな真似をされて知られていないとでもお思いか? 殿下がエルメナ嬢のご自宅近くまで迎えにいく姿もたびたび目撃されているのに? ……せめてそれぞれの馬車で向かうぐらいの配慮があればもう少し噂も控えられたかもしれませんが、わずかの時間も待てないと見える」
「う、うるさい。今はそんなこと関係ないだろう!」
「関係大有りですよ、殿下。繰り返しますが、これは公然の秘密。社交界で知らぬ者はいない。ええ、もちろん、可哀想に我が妹クリスティアーナも婚約者の浮気の場所まで知っているのです」
「だから! それで嫉妬して、エルメナを襲わせた」
「もしそうであるなら尚のこと奇妙だと思いませんか? 何故森から出てくる馬車を狙わせたのか。その馬車にはエルメナ嬢の他に殿下も同乗されているのです。いくらお忍びとはいえ、最低限の護衛はついている。そんな馬車を襲えば、どうなるか。本気でエルメナ嬢を亡き者にしようと考えるならば、そんな危険な状況ではなく彼女が一人きりの時を狙うでしょう。それなのにわざわざ森から出てくる馬車と指定した。あまりにも不自然です」
そこでアリソンは一度言葉を切った。
そしてぐるりと周囲を見回して、続けた。
「――――――まるで、襲撃が失敗し逮捕されるのを望んでいるかのようだ」
ざわり、と大広間が揺れた。
「……はっ、何を言うのかと思えば馬鹿馬鹿しい」
レオナルドが吐き捨てた。
「そうでしょうか? しかし、彼らは使いの男から依頼者の名を告げられただけで、実際にクリスティアーナの顔を見たわけではない。我が妹、延いては我がベネット家を陥れようとする者が計画した卑劣な罠だと考えるのはそれほど飛躍した話ではないでしょう」
「お前たちを陥れるために、逮捕されてこいなどという依頼を引き受ける者などいるか。下手をすれば死罪だぞ」
「殿下、この世には自らの命を投げうってでも守りたいものがある人間がいるのですよ」
アリソンはゆったりとした動きで男たちを眺めた。二人とも顔色が悪い。襲撃犯として逮捕されているのだからやつれていても不思議はないが、そうではなくもっと根本的な貧しさが身体中から漂っている。一人は片目が潰れているし、もう一人は入って来た時足を引きずっていた。肉体の損傷。働き口を見つけるにも難儀しそうである。アリソンはそのまま襲撃犯へ歩み寄り、まるで愛でもささやくような柔らかな声で告げた。
「今一度尋ねよう。お前たちが受けた依頼はどのようなものか正直に話せ。その内容が真実かどうか、公爵家の威信にかけ徹底的に調べよう。そして、万が一にもお前たちが述べた内容と真実が相違していた時は、お前たちのみならず、お前たちの家族ともども、私自らが討ち、その血で我が家の汚名を雪がせてもらう。たとえそれでこの身が罰されようとも」
言っている内容と声音がちぐはぐで、その分、含まれる狂気の色。生まれながらに人の上に立つ者の圧倒的な威光を目の当たりにし、男たちの肌はびりびりと痺れ、心臓が早鐘を打ち、額に汗が浮かんだ。
「お、お待ちください。家族は何も関係ない……」
「家族」という言葉に男たちは明らかに動揺している。
「公爵家に泥を塗ったのだ。一族郎党の命を差し出してもらってもまだ足りないぐらいだろう。……ふふっ、何も心配はいらないさ。供述に嘘がなければ問題ないのだから」
「……っ…………」
それが脅しではないことは明白である。
男たちは互いに様子を窺うように顔を見合わせた。その動作だけで語るに落ちるというもの。
「もし、真実を話すならば、家族を守るためというお前たちの事情を鑑み、罪が軽くなるように私からも嘆願書を出そう。お前たち家族の身の保証と、援助も約束しよう」
鞭と飴――自らの命を捨てる覚悟だったがそれも助かるかもしれないとなれば、もはや嘘偽りを述べる利がない。慈悲に縋りつくように片目が潰れた男が口を開いた。
「……お、おっしゃる通り、我らは森から出てくる馬車を襲撃し、逮捕されよと。その後、尋問を受けるだろうがその際にはクリスティアーナ・ベネット様に頼まれたのだと自白するよう頼まれました」
「間違いありません。そうすれば今後の家族の生活を保障してやると……」
髭面の男も同意した。
「なっ! 嘘を言うな! 父上これは何かの間違い。アリソンが、そうだ、今、アリソンが告げたことこそ脅迫ではないか。この者たちの家族を殺害するなど脅迫をしたから仕方なく供述を変えたに過ぎない。お前たち、本当のことを申せ! クリスティアーナにそそのかされたのだろう!」
「黙りなさい」
レオナルドの追撃を、陛下が厳しい声で制した。
「これ以上、この件についてこの場で続けることは許さん」
「しかし!」
「まだ恥をさらすか。……供述を変えられてそれを否定できる証拠をお前は持ち合わせていないのだろう。つまりお前の調べは不十分だったと言わざるを得ない。襲撃の件に関して調べなおしが必要なのは誰の目にも明らかではないか。……レオナルドよ、私はお前を甘やかしすぎたようだな。己の婚約者であり、公爵家の令嬢を糾弾するためにわざわざこの夜会を選んだことがそもそも愚かであった。もっと慎重に事を運ぶべき事案だ。何故、私や兄たちに話さなかった。我らを信用に足らぬと判断し、独走した結果がこれとは……情けない」
「わ、私は、」
「もう話すな」
陛下はそういうとクリスティアーナに視線を向けた。
「クリスティアーナよ、愚息がしでかしたこと詫びて許されるものではないが申し訳なかった。この件に関しては必ずや真実を詳らかにすると誓おう」
「陛下。もったいないお言葉でございます」
クリスティアーナは、支えてくれていたリリーから身体を離すと、胸の前で指を組み、教会で祈りを捧げるように膝を曲げた姿勢をとった。
陛下からの謝罪に身の竦む思いがする。これが一国の王としてどれほどの恥辱であるか。だが、それでも感謝ばかりではなく言わなければならないことがある。
「真実が明らかになることを、わたくしの身の潔白、我がベネット家の潔白が証明されることを望みます」
陛下は頷くと、次に他の貴族たちに今宵の不手際の詫びと、夜会の終わりを告げた。
◇
◆
◇
のどかな田園風景を眺めながら、クリスティアーナ・ベネット嬢はテラスにてティータイムをとっていた。
ここは王都から随分離れたベネット公爵家所有の領地だ。毎年避暑に訪れるのだが、今年はクリスティアーナだけが一足先にきていた。
「失礼いたします」
執事が冷めてしまった紅茶を新しい物へ換えてくれる。
「ありがとう」
礼を述べれば、一礼して古いカップを持ち下がる。
クリスティアーナはその背を見送り、姿が見えなくなると息を吐く。少し緊張していた。
元々この屋敷の管理は老夫婦が住み込みでしてくれていたが、幾分年であり手が回らなくなり、その穴を埋めるために新しく雇い入れたのが彼だ。以前、別の貴族の屋敷で仕えていた経験があり、王都本宅でなら少しばかり足りないところはあるが、この土地ではもてなしをするような機会も滅多とないし、給仕から屋敷の修繕まで何でもこなしてくれるので田舎暮らしをするには実に頼もしい。何より兄であるアリソンが手配してくれた人物であるのだから、不満などいえば罰があたる。クリスティアーナとて理解はしているがどうしても緊張してしまうのだ。
紅茶に口をつける。甘い香りを飲み込むとほっとする。
空は青く、雲がゆっくりと流れて行く。それを見ていれば、ここ数ヶ月の出来事がまるで幻であるかのような気さえしてくる。――だがあれは紛れもない現実だ。
国王陛下主催の夜会にて、第三王子レオナルド・バーナーから断罪されるという前代未聞の事件。
あれから、陛下は宣言した通りエルメナ・ヒギンズ嬢襲撃事件について調べなおしてくれたが、捜査はすぐに行き詰った。
アリソンが指摘した通り、”真の依頼者”は襲撃犯たちにその素性を一切明かしておらず八方塞り。このまま事件がお蔵入りし真犯人が捕まらなければ、再びクリスティアーナがやったのではないかと口さがない者が噂するだろう。
なんとしても事件の解決を――落ち着かない状況のまま一月が経過した頃、ようやく動きがあった。
その日、事件の捜査にと騎士団兵長のヒューイ・ジョースターは何度目かになる襲撃犯家族の元を訪れていた。直接依頼人に会ったのは夫だけで、妻は何も知らないというのは承知しているが、他に手掛かりもないので仕方ない。捜査をしているという上層部への報告のためだけの無駄足だ。案の定、事情聴取はこれまでと何ら変わらず、新しい発見もないままで、家を出たところで、子どもたちが土に絵を描いて遊んでいる姿が目に入る。
「あれは」
気づいたのはヒューイの部下であるハリー・ブラウンだ。彼は子どもの一人が手にしている石に注目した。小さな手で握れる程度の小石。ハリーは子どもに近寄り、石を見せてくれと頼んだ。一見すると何の変哲もなさそうな石だが、角がわずかに光沢を帯びている。地面に落書きをするために擦りつけているうちに摩擦で磨かれたのだ。
「やはりこれはダイヤモンドの原石だと思います」
ハリーは先々月に婚約したばかりで、指輪を購入するために宝石商に出向いた。その際に磨き上げられる前の原石を見せてもらったのだという。
何故、そんな高価なものを子どもが持っているのか、尋ねても要領を得ない。そのうち騒ぎに気付いたのか家の中から妻が出てきた。騎士団に囲まれている我が子に悲鳴を上げ、何か非礼をしたのかと許しを請うのをどうにか宥め、妻にも石の詳細を尋ねた。
「……これは、おそらくですが、金貨の袋に入っていたものではないかと思います」
襲撃の報酬として受け取った金貨が入っていた袋のことである。
話を総合するとこうだ。
夫が足を悪くしてから、働き口も失い、家は貧窮するばかり。そんな時、突然夫から渡された見たこともない大金。どう考えてもまともな金ではない。不安になってどういうことか尋ねても夫は答えてはくれず、これで幸せに暮らせと出て行った。――その供述は繰り返し聞いていたが、報酬袋の中身を改めたとき、中にこの石が入っていた。嵩増しするために入れていたのだろう、せこい真似をすると夫が悪態をついて家の外に捨てたがそれを子どもが拾っていたらしい。あの石に価値があるなど夢にも思わず、すっかり忘れ、聴取でも誰も話さなかった。
貧しい平民にとって宝石など手の届かない代物。磨き上げられたダイヤモンドの美しさならば高価な品と理解しただろうが、磨きあげられる前の原石などただの石と思っても仕方ない。これは金貨以上の価値があると知り、妻は卒倒しそうになった。
ヒューイは、もう一人の襲撃犯の家を急いで訪ね、同じように原石が入っていなかったかと尋ねた。そこでもやはり重さを出すために入っていた石だと思い捨てたとの返答があった。慌てて周囲を探し回り、原石を見つけ出した。
ダイヤモンドの原石など簡単に手に入るものではない。クロスアナ国では宝飾品となるような鉱石がほとんど採掘されず、加工された品を他国から輸入している状態である。ただし、近頃ある貴族の領地からダイヤモンドが採掘され国内品も出回るようになった。その貴族とは――ヒギンズ男爵家。襲撃された被害者、エルメナ・ヒギンズ嬢の家である。
これはどういうことを指し示すのか。つまり――ヒギンズ男爵が黒幕? 公爵家の令嬢に罪を擦り付ければ婚約破棄は間違いない。空席となった婚約者の席に寵愛を受けているエルメナが収まれば男爵家の未来は明るいと画策した?
いくらなんでもそれは杜撰すぎる計画だ。仮にその通りに事が運び、クリスティアーナが罪人となりレオナルドとの婚約が解消されても、男爵家の娘が第三王子とはいえ王位継承権のある男の婚約者になるには身分が足らなすぎる。
しかし、物証が出た以上は、ヒギンズ男爵家を調べる必要がある。
捜査を進めるうちに、ヒギンズ家の隠し財産と裏帳簿が発見された。家宅捜索の際に隠し部屋が見つかりそこから出てきたのだ。裏帳簿によれば、ちょうど襲撃犯に支払われた金額と同額の金貨が使途不明金としてなくなっている。他にも、あくどい行為をした数々の証拠が芋づる式に――たとえばヒギンズ家が爵位を手に入れた経緯は、表立ってはある貴族へ貸付けたが返済が滞ったために仕方なく爵位と二束三文にしかならない土地で手を打ったとのことだったが、実はその前よりあの土地からダイヤモンドが採掘されるという情報を掴んだ上で、借金漬けにして騙し取っていたことなど――判明した。
卑劣極まりない余罪が次々と露見すると、一大スキャンダルとして毎日醜悪な見出しと共に彼らのことが新聞の一面を飾った。裁判が始まるとますます過熱し、大変な注目を集めた。その中でジャック・ヒギンズ男爵はエルメナ襲撃の件だけは違う、自らの娘を襲うような真似をするはずがない、と主張したが、誰も彼も信じなかった。この男ならやりかねない。帳簿に記載もある。王族をも手玉に取ろうとしたとなれば罪は重くなる。それを回避するための言い訳でしかないと判断された。
その後、裁判は異例の速さで結審した。王族が絡んでいることもあり、これ以上の騒ぎにならぬようにという忖度もあったのだろう。判決は爵位剥奪の上、死刑という重いものだった。見せしめである。また彼の妻と娘・エルメナは修道院送りとなることが決まった。
レオナルド・バーナー第三王子についても、クリスティアーナとの婚約は当然に解消、王家から廃嫡が決定し王都を追放、僻地へと送られることになった。
男爵令嬢襲撃事件に端を発した一連の出来事は、こうして幕引きがなされたのである。
これでクリスティアーナの無実は証明された。
ベネット家の名誉も守られた――――――
しかし、クリスティアーナを取り巻く環境に劇的な変化はなかった。彼女に非はないとわかっても婚約破棄という事実は不名誉なものとしてついて回る。それが社交界というものである。
クリスティアーナは疲れ果てていた。ろくに眠ることもできずに、貧血に倒れることもある。
少しばかり王都を離れてのんびりしたい。
それはレオナルドとエルメナの噂が出始めた頃から兄に願い出ていたことでもあった。残念なことに、実行するより前に件の騒動が起きてしまい、容疑が完全に晴れていない状態では逃げたのではないか、とまたつまらない噂を立てられると延期にせざるをえなかった。晴れて潔白の身となった今ならば――義姉であるリリーの後押しもあってようやく旅立てたのだ。
こちらにきて一週間。
旅の疲れも癒え、クリスティアーナは久しぶりに満たされた気持ちになっていた。
この屋敷は、幼い頃に何度もきた場所。兄と共に駆け回り遊んだ、大切な場所。今一度、この地に来て、誰にも気兼ねすることなく、テラスでのんびりとお茶を飲める幸せ。このような時間を持てたこと、こんな風に穏やかな時間を過ごせたことの、なんという幸福か!
だから、後悔はなかった。いや、元より後悔などないのだ。
クリスティアーナはテーブルに置いていたレターセットを広げる。
「親愛なる お父様、お母様、そしてアリソンお兄様へ――――」
万年筆を手に取り、まっさらな便箋にそう書きながら、思いを巡らせる。
これから、クリスティアーナは最後の役割を果たさなければならない。
(最後――)
そう呟いてみると、少しだけ心がざわついた。
後悔はない。クリスティアーナのその気持ちに嘘はない。だが、ほんの少しだけ思うのだ。
もし、クリスティアーナの忠告をレオナルドとエルメナが聞き入れてくれていたら。
あの二人が、クリスティアーナの立場を慮ってくれていたら。
そうすれば、もっと別の未来があっただろうに――――――
だが、現実は無慈悲だった。二人はクリスティアーナを侮辱した。婚約者の気持ちを引き留めることもできない哀れな女と噂される立場に追いやった。それはベネット家にも泥を塗る行為である。絶対に許すわけにはいかない。この恥辱に見合う対価を支払ってもらわなければならない。
どうすれば? 考えた末、一つの方法を思いつく。それはとてもいい案に思えたが、実行してくれる協力者が必要だ。口が堅く、信頼できる者を雇わねばならない。クリスティアーナにそのような伝手はない。兄であるアリソンに相談することにした。もちろん、全容は告げるつもりはない。万に一つでも失敗した時を考え、あくまでもクリスティアーナが一人で行ったという体裁をとる必要があった。聡明な兄ならばきっとその辺のことも察して立ち回ってくれる。
「お兄様、わたくし、避暑地に行きたいと思っておりますの。けれども、あの屋敷の夫婦はお年でしょう? 困らないように、なんでもこなせる執事が一人必要ですの。向こうについてから役に立たないとわかっても困りますから、できればこちらでいくつかお仕事を頼んで様子をみたいと思っております。わたくしの代わりにいろいろしていただきたいの」
「そうだね。任せなさい」
クリスティアーナが告げると、アリソンはうっとりとするほど優しい顔で、可愛い妹の頼みならばと引き受けてくれた。期待した通りの反応に、クリスティアーナも笑顔を返した。
ほどなくして、一人の男を紹介された。
男は祖父の代からある貴族に仕えていた。爵位は高くはないが人柄の良い人物で、男は旦那様をたいそう尊敬していた。祖父や父と同じように、屋敷で執事長の職を継いで生涯お仕えするのだと心に決めていた。だが不幸は突然襲ってくる。あれほど堅実であった旦那様が悪い男に騙され、身ぐるみを剥がされ、一家は離散。絶望した旦那様は人知れず自害したのだという。
申し分ない人物である。流石お兄様だとクリスティアーナは感嘆した。
クリスティアーナは試しに男に頼みごとをした。男は快く引き受けてくれた。
これで計画を実行に移すことができるが――まだ最大の問題が残っている。クリスティアーナは、これまでに両親や兄、祖父母から送られた宝飾品など金銭に換金できるものをかき集めて男に渡した。しかし、これがいくらほどになるのかわからない。少しも足りないかもしれない。
「いいえ、お嬢様、これらは必要ありません。アリソン様より、お嬢様の願いはすべて叶えるように申し付かっております。必要なものはこちらで用意するのでお任せください」
「まぁ」
今度こそ、クリスティアーナは感動で打ち震えた。やはり兄はクリスティアーナの一番の理解者であるのだと。これで、最大の気がかりも消えてしまった。
男はすぐに行動を開始した。
あの屋敷の造りは今の持ち主よりも熟知している。隠し部屋の場所までもすべて把握している。忍び込み帳簿に細工をし、小さな石の欠片をいくつか持ち出すなど造作もなかった。準備を整えて三日後、いよいよクリスティアーナの願いを実行に移した。
クリスティアーナは喜んで兄に告げた。
「お兄様。避暑地へのお供ですが、あの方にお願いしますわ。……わたくしがつく前にあちらの屋敷の準備を整えていただきたいので、明朝には王都を出てもらってよろしいかしら?」
兄はそれも快諾してくれた。
有能な男が顔を見られるような過ちは犯していないだろうが、念には念を、王都を離れてもらう方がいい。それに避暑地の屋敷の新たな管理人を探していたのも本当である。
計画はとても順調だった。
あとはレオナルドがクリスティアーナを糾弾しにくるのを待つばかり。
けれど、翌日になっても、翌々日になっても、レオナルドの訪問はなかった。クリスティアーナにとってそれは大いなる誤算。あの恋に溺れたレオナルドならば、すぐさま乗り込んでくると思っていたのだ。
不安になったクリスティアーナを支えてくれたのは、やはり兄だった。
「浮かない顔をしているね。そうだ、夜会に着ていくドレスを新調するといい。きっと皆の注目を浴びるよ」
クリスティアーナはそれどころではないのに、と不満を抱いたが他ならぬ兄が言うならばとその通りにした。今にして思えば、レオナルドが英雄になろうとして立てたその愚かな計画の何もかもを、アリソンはお見通しだったのだろう。
知っていたならば教えてくれたら気を揉まずに済んだのに、とクリスティアーナは少しばかり恨めしく思ったが、アリソンは何も知らないはずなので言えるはずがなかったのだ。それに、もし知らされてしまっていたらあの場であのように蒼白な顔はできなかった。夜会で糾弾されるなど想像もしていなかったからこそ、本当に強い衝撃を受けて血の気が引いたのだ。おかげで婚約者に裏切られ、いわれのない非難を受ける哀れな女として十分同情をされた。芝居だったらもっと嘘くさくぎこちなくなっていたにちがいない。
夜会以降は、クリスティアーナが思う以上に物事は上手く進んだ。
ヒギンズ家は、爵位を奪われ一家離散。当主であったジャック・ヒギンズは死刑となった。かつて彼が騙して爵位と屋敷、土地を奪った貴族の末路と似ている。自殺か他殺の違いはあるけれど。
そして、クリスティアーナの最大の目的だったヒギンズ家の領地は、ベネット家を貶めようとした慰謝料として見事にもらい受けることができた。ダイヤモンドが採掘できる鉱山を手にできたなら、ベネット家の威光はますます高まるだろう。婚約者を寝取られた娘という不名誉の対価としてはまずまずではないだろうか。
クリスティアーナは、万年筆を置いた。
書き終えた便箋を袋に詰め、丁寧に封をする。
それからハンカチーフに包んでいた薬の包み紙を出して、紅茶に溶かした。
これは王都を出る時、眠れないクリスティアーナのためにとアリソンが用意してくれたものである。
「これを飲めば、ゆっくりと休める。すぅっと眠りに落ちるから心配することは何もないよ」
そう言ったアリソンの顔はこれまで見た中で一番美しく、クリスティアーナのことを案じてくれているのが痛いほど伝わり涙が出そうだった。
最後はどういう方法を取ろうか、それは悩ましいことであったから。苦痛がないのならそれがいい。
そう、この計画を考えた時から、クリスティアーナは覚悟をしていた。
この計画の終わりには、悲劇がどうしても必要だ。そうでなければ、きっと気づく者がいる。結局この騒動で一番得をしたのは誰か。それに気づかれれば、次は疑念を抱く者も出てくるだろう。ジャック・ヒギンズは最後まで襲撃事件のことは否定していたし、ヒギンズ家に捜査の手が伸びるに至った最大のきっかけ、ダイヤモンドの原石を報酬袋に入れるなど普通に考えればありえない。あれは本当に、ジャック・ヒギンズがしたことなのか。その疑問を抱かせないために、より衝撃的な出来事を起こせばいい。
婚約者に裏切られ、いわれなき罪を着せられ、罵られても、それでもレオナルド・バーナー殿下を愛していたクリスティアーナ・ベネット嬢はついに悲しみに耐えられなくなって自殺した。
きっと世間は喜んでこの悲劇を受け入れてくれるだろう。愚かで可哀想な令嬢とさぞや同情してくれるだろう。この死を以て、あとは聡明なアリソン・ベネットが、ベネット家に疑いを向ける者がないようしてくれる。
クリスティアーナはカップを手にする。
もうすっかり冷めてしまった紅茶が、この世で最後に口にするものというのは少し寂しい気もするが、一息に飲み干すにはこれくらいが丁度いい。
ゆっくりと口を付ける。甘い。とても、甘い。紅茶がとくとくと喉を満たし、胃の腑に落ちて行くと、ふらりと目の前が暗くなっていく。
後悔はしていない。
薄れゆく記憶の中でクリスティアーナは強く思う。
後悔などあるはずがない。
この身も、心も、命さえも、愛する人に差し出せる幸福。
――――――――――――アリソン
愛とは、相手のためにすべてを捧げることだとわたくしは思いますの。
ええ、ですからわたくしの愛こそが、真実の愛であったと、そう思いますの。
読んでくださりありがとうございました。
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